13 石巻右衛門家貞 講義『北条早雲伝 壱』
申次衆:
室町幕府役職の一つで、守護等が将軍に謁見する際の取次をしていたそうです。
奉行衆:
この話で出てくる奉行衆は役職名ではないです。元は訴訟の文書作成を主な仕事としていて鎌倉幕府の頃からあったそうですが、室町八代将軍義政の頃には評定衆等に代わって、事実上の最高諮問機関を構成してたそうです。義政の時代はこの奉行衆達を政の中心に据えていたこともあって、義尚が奉公衆を取り立てていく中で権力対立が起きていった的な感じらしいです。
後書きに1456-1487年までの簡単な早雲の周辺史を載せてみました
※所々正確でないかもですので注意して下さい
出仕二日目。
治郎兵衛は昨日同様に午前中は二ノ丸の横堀を掘り、昼前になると本丸の氏康居館へ行った。侍女に案内されて昨日と同じ部屋に通される。今日は氏康も吉政もいないし、家貞もまだ来ていない。
まずは、と一人で文机や硯、筆等を準備する。実は昨日寝付いたのが遅かった。
まさか講義中に眠るわけにいかないと両頬をぱんぱんと張ってるうちに、家貞がやってきた。
「すまぬ、ちと遅れたな」
「とんでもございません。よろしくお願いします」
二人はまた文机を通して向かい合った。
「さて、今回は北条家始祖、即ち御先代早雲公の事績について話す。前回同様、現在の情勢を理解する上で土台となる知識であるから心して聞くように」
「はい」
「早雲公は桓武平氏の一族とされている伊勢氏の分家の出身だ。若き頃の御名を伊勢新九郎盛時という。ここから先は『盛時公』とお呼びする。
伊勢氏の宗家は足利義満公の御代に当主の伊勢貞継殿が幕府の政所執事に就いて以来、九代に渡ってその職を世襲してきた格式高い家柄だ。現在も十二代将軍義晴公の下、貞忠殿が政所執事を務めている。
そして分家の備中伊勢氏――貞継殿の弟盛経公の系統。こちらも将軍の近習や申次衆を務めていた――の更に庶流として盛時公の御家がある。備中国の後月郡荏原郷を本領としつつ、幕府直臣として盛時公の父盛定公も京に出仕していた。ただし盛定公は宗家当主貞親公の妹君を娶っており、宗家一族的な立場で貞親公を直に補佐していた」
「……」
「思うに、盛時公の生涯は四つの期間に区切ることができる。第一期は応仁の乱終焉後の京で幕臣として将軍家の政に携わってその統治に学びながら人脈を築いていった期間(~一四八七)。第二期は刻々と変化する京の情勢に対応しつつ活動の拠点を駿河今川家へと移していった期間(一四八七~一四九三)。第三期は今川家家臣としての立場に拠り、京将軍家の意向に沿って自家の伊豆・相模西部支配を確立していった期間(一四九四~一五〇一)。第四期は京将軍家と距離を置き、今川家からも徐々に独り立ちする中で相模東部を制圧していった期間(一五〇一~一五一八)だ。
そしてこの第一期から第三期において盛時公に深く関わっているのが伊勢宗家であり、特に盛時公の従兄である貞宗公からは一方ならぬ便宜を図って頂いたと聞いている。応仁の乱終わり頃に父を亡くされた二十歳そこそこの盛時公にとって、一回り年上の貞宗公が政権中枢(一四七一~一四八七:政所執事)に居続けてくれたことは職務、人間関係の面で、何よりも心の支えとして大きく助けられたに違いない。
応仁の乱を経て倒壊しかける室町幕府を支えた賢臣としても名高いこの貞宗公と、残念ながら乱の一因を作ったと言われる評判の悪い父、貞親公の名前は覚えておくべきだろう」
「貞親公は駄目な人だったのですか」
「伝え聞くのは良い話より悪い話の方が多いな。盛時公の父盛定公も苦労されていたらしい。
さて、本筋に入ろう。話は応仁の乱最中に遠江で斯波氏と対立していた駿河守護の今川義忠殿が討死した(一四七六)ところから始まる。この家督争いが義忠殿の従弟小鹿範満と正室の北川殿・嫡子龍王丸(氏親)殿との間で起こり、駿河への影響力拡大を狙う扇谷上杉氏と堀越公方の足利政知公がそれぞれ家宰太田道灌と重臣上杉政憲に軍勢を率いさせて小鹿側に加勢する。
この北川殿というのが盛時公の姉であり、その関係もあって盛時公が幕府の調停の意向を伝えるべく駿河に下向したらしい。もっとも、ただでさえ関東で享徳の乱を抱える幕府からすれば扇谷、堀越と組む小鹿を敵に回すことは得策でない。義忠殿の討死も元をただせばその暴走を嫌った幕府の差し金によるものだ。扇谷、堀越が駿河に影響を及ぼす事態を許すか否かは際どい判断だったのではないだろうか。ただ結果として、関東で起きた長尾景春の乱によって帰らねばならくなった太田道灌側が折れ、小鹿範満の相続は龍王丸殿元服までの監督代行に留まるという形で落着した」
やはり家貞の説明は早い。どんどん進んでいってしまう。
「ちなみに北条家中の中には、この調停に盛時公の才覚の片鱗を見てとれると言う者もいるがどうであろうな。兵も持たないニ十歳の新米役人の盛時公が太田道灌達を前にして何か出来たかと言われると難しいところだ。むしろそれよりも幕府の意向を決める段階で政所執事の貞宗公が積極的に関わってくれたのだろう。
さて。京に戻った盛時公は応仁の乱終結(一四七七)を経て、九代将軍、義尚公とその養育係かつ政所執事である貞宗公の下、申次衆の任を務め、三十歳の頃には小笠原政清殿の娘南陽院殿を娶る(一四八六)。
またこの時期に繋がりを持った備前松田、大道寺、多目、山中、在竹、荒木、荒河といった同輩、配下の者やその一族が第二期以降大いに盛時公を助けてくれることになる。また、盛時公は京の大徳寺や建仁寺といった臨済宗寺院に参禅しており、その時の縁や得た知識も後々伊勢家の政に生かされることとなる」
「……」
「他方でこの時期の幕政は不安定なものだった。多くの守護大名が乱を押さえる力の無い幕府を見限って京を去る中、義尚公は直属軍たる奉公衆(武官官僚)を中心に将軍の権威を取り戻そうとしていたが、父の前将軍義政公が政務の実権を完全に手放さない為に奉行衆(文官官僚)が義政公に忖度し、更には奉行衆と奉公衆が主導権を争い武力衝突寸前の騒ぎにまでなっている(一四八五)。
義尚公は父の影響力から離れて政を行う為、そして幕威を回復させる為、奉公衆だけでなく奉行衆も引き連れて近江守護大名六角氏の討伐に出る(鈎の陣)。言わば陣所を将軍御所としたのだ。この頃乱世の様相は深まり、領土一円化支配を進める各国の守護大名達が奉公衆の領地、寺社領、公家領を横領した為(正確には国人達による横領を守護大名が認めてその家臣とした)、奉公衆等から訴訟が幕府に持ち込まれており、その対応の手始めとして奉公衆の領地が多い京の隣国を選んだのだろう。ちなみにここには畿内の守護大名達の軍勢も参加しているが、大名本人は行かずに息子や家臣を代理で派遣していた者が多かったという。自分の領地でも六角氏と同じことをしているわけで、まあ仕方なく参加しておくかぐらいの空気だったのだろう。
さて、この鈎の陣で六角氏とは別に思わぬとばっちりを受けた者がいる。誰だと思う」
「え……、分かりませぬ」
「盛時公だ」
「盛時公が?」
「正確に言うと、貞宗公という後ろ盾を失うことになった。義尚公の養育係であった貞宗公は、つまり義政公からの信任も厚かったのだ。義政公の口出しを疎んじた義尚公は貞宗公を始めとする義政公との間を取り持つ家臣達を討伐軍から外して政務に関われないようにした。
ちなみに盛時公は六角から将軍への申次を務めていたがその役を失い、この年、奉公衆に取り立てられている。欠員が増えていた背景があるから何とも言えないが、義尚公から完全に見放されたということではなかったのだろう。
だがこの頃、盛時公に転機が訪れる。
前年から駿河で龍王丸殿が成人したにも関わらず小鹿範満が家督を返さないという状況が続いていたのだが、扇谷上杉家家宰の太田道灌が当主定正に謀殺され、それを不服とした太田資康を始めとする多くの家臣が山内上杉家へと鞍替えするという事件が起きる。それによって扇谷、山内の両上杉家に戦乱が勃発(長享の乱)する。また都鄙合体を不服とする堀越公方の足利政知公は幕府に再度の関東討伐軍を組ませるべく、室町将軍の座に実子義澄公を付けることを見据えて、義澄公を上洛させて義政公への対面を実現させたり、長男茶々丸の廃嫡を諫止しようとした上杉政憲を自害させている。
これらの状況は龍王丸殿の家督奪還が自身と我が子の生存に直結する北川殿にとっても、それを願う盛時公にとっても千載一遇の好機だった。扇谷は駿河どころではなく、政知公からも黙認(あるいは支援)の約束を取り付けて盛時公は龍王丸殿の家督奪還へと動き出していく」
「……」
「さて、今回はここまでにしておくが最後にもう一つだけ触れておこう。
守護大名達から見放されつつあった義尚公が取り組んだ六角討伐は、彼等を再び将軍家にひざまずかせるべく、頼みとする奉公衆を中心に据えた絶対に失敗できない大勝負だった。だから自家の都合を優先する盛時公を快く思っていなかった筈だ。討伐軍を組む各奉公衆や守護大名達がそれぞれの事情を言い出したら編成は立ち行かなくなるからな。また盛時公が次期将軍の座に野心を抱く政知公と結ぶことも好ましくなかったに違いない。
他方で盛時公としても、今川家の家督相続一つ満足に履行させられない、守護大名達を統制出来ていない幕府の衰退ぶりにこのまま身を預けて自家を守っていけるだろうかという迷いがあったに違いない。あるいはいつか貞宗公を本当に頼れなくなった場合のことも考えたであろうし、その貞宗公と諮った上での決断だったのではないかと思うが。
ともかくその様にして盛時公は京を離れることになる。それは直ちに将軍家を辞すということではなかったが、新たな道を模索し始めた第一歩だったと言える。
……以上だ。あまり進まなかったな」
「そ、そうでしょうか。どうも有り難うございました」
「うむ。そなたは午後からまた西曲輪での見張り番か」
「はい」
「そうか。交代の者をあまり待たせぬように行けよ」
「はっ」
家貞は来た時同様、足早に去っていった。確か御蔵奉行をしていると言っていた。忙しいのだろうか。
治郎兵衛は料紙を整理しつつ、自分で書いた人名や国名を見直していった。やはり家貞の説明は早い。この流れはどうだった、関東はこの時どうだったとぐにゃぐにゃ思い返しているうち、不覚にも睡魔が襲ってきた。
その間に、昨日櫓で治郎兵衛と伊勢を窺っていた『あの影』が殺風景な庭先へ忍び込み、縁側へ上がり、部屋の障子にぴたりと背を付けている。そうして鞘から太刀を抜いて室内へ入ると、動かない治郎兵衛の後頭部へ一閃を放った。
治郎兵衛も背後の殺気に気付いて目を覚ましたのは流石だが、その時にはもう頭上に刃が落ちていた。
早雲の家についての補足:
京の伊勢宗家の何代目かの当主伊勢盛継、その息子達のうち、兄貞継の系統が伊勢宗家を継ぎ、弟盛経の系統が備中伊勢氏となっていきました。盛経を備中伊勢氏初代として四代目盛綱がおり、その四男が早雲(盛時)の父、盛定です。分家の更に庶流です。備中荏原の高越城城主でしたが、本人は京へ出仕し、若くして留守を任された盛時も間もなく京へ上ったようです。
また盛定が称していた備中守は、宗家当主貞親が、宗家当主が名乗る伊勢守を使う前に名乗っていたもので、そういう意味でも盛定が重要な位置にいたことが窺われます。
ちなみに武蔵国の南端にも荏原郡があり、地名の由来は荏胡麻が茂る原からきてるそうです。室町時代、備中からは京都の本所へ大量の荏胡麻が年貢として納入されていたそうなので、あるいは荏原郷もそうだったのかもしれません。
●遠江国に関する前提
足利尊氏の時代に挙げた功で今川氏は遠江・駿河の守護に就任。
だが1419以降、遠江守護職は斯波氏の世襲となってしまう。
今川氏は遠江支配を巡って斯波氏との対立を深めていく。
当主今川義忠は東軍だろうが西軍だろうが斯波氏を遠江から排除したい。
●北条早雲(伊勢盛時)の周辺年表(第一期)
1452
斯波義敏が越前・尾張・遠江の守護に就任。
斯波家は管領の一家であり武衛家という。
1456
盛時、備中国荏原で生まれる。
※一説に京都生まれとも
1459
越前の義敏派と守護代甲斐氏が対立。
関東の古河公方成氏の討伐命令が義政から下るも従わずに越前で合戦する(長禄合戦)。
激怒した義政によって、義敏は廃嫡、周防大内氏の下へ追放される。
家督は義敏の子義寛が継ぐ。
1461
義政は新たな関東討伐軍を組織する為に義寛を廃嫡し
渋川義鏡の子義廉が斯波家家督を継ぐ。
扇谷上杉は相模守護の座を足利政知に奪われる。
※
渋川氏は足利一門であり、足利泰氏の子である家氏が斯波氏、兼氏が渋川氏の
系統となっていった。
1462
義鏡が関東で扇谷上杉と対立し、幕府に扇谷を讒言。
義鏡の策謀により関東執事、犬懸上杉教朝(上杉禅秀の子)、自殺。
※足利政知が義鏡にのせられたせいでもある?
子の政憲が教朝の後を継ぐ。
扇谷の重臣も謀反の噂の責任を取り軒並み隠居。
同年に?政憲が義鏡を弾劾。
義鏡失脚により義政・貞親は
再度義敏を中心に関東討伐軍を組むことを画策して義寛の廃嫡に傾き出す。
1465
斯波家家督騒動(武衛騒動)
1466
斯波義敏、赦免されて斯波家当主に復帰。
廃嫡された義廉は岳父山名宗全を頼り、これによって逆に
義敏や貞親達が追放される(文正の政変)。
義廉が再び斯波家当主に復帰。
1467
応仁の乱勃発。
義政・貞親・細川勝元が東軍。山名宗全が西軍。
今川義忠、1000騎を率いて上洛。斯波義廉が西軍に付いていたので東軍に付く。
貞親・義敏は赦されて復帰。義敏・義寛親子は東軍に付く。
※貞親は以後、実権を握れなかった模様
1468
貞親復帰に反対した義視が西軍に走る
(以前、貞親が義視暗殺を進言し、一度は義政も認めてる)
細川勝元からの要請で、義忠は帰国し斯波義廉の遠江を攪乱する目的で出陣。
1469
恐らく東軍の結束を固め西軍義廉に対抗する目的をもって
当時今川の申次をしてた備中伊勢盛定の娘北川殿が義忠に嫁ぐ。
1471
伊勢貞宗、政所執事に就任。
盛時の名で備中の法泉寺に禁制が出されている。
当主・嫡子いずれの立場によるものかは不明。
1473
貞親死去。
義忠は遠江の幕府直轄領代官に就任。
義忠(東軍)は三河守護細川氏の支援目的で三河へ出兵するが
兵糧の所領を巡り、尾張守護の斯波義寛(東軍)と対立。
更に吉良良真(東軍)配下の遠江国人も攻め滅ぼす。
1474
足利義尚、9歳で9代将軍に就任。
以後も実権は義政が握り続ける。
盛時の父盛定(出家済。法名正鎮)の活動が確認できる最後の年。
1475
義政(東軍)は斯波義廉重臣甲斐氏を寝返らせ、遠江守護代に任命。
義忠は甲斐氏(東軍)とも対立。
1476
義政は遠江在国奉公衆の勝田氏・横地氏に甲斐氏への支援を指示。
義忠はこの両勢を討伐した帰路で残党に襲われて討死する。
今川家家督を巡り、従兄弟小鹿範満と北川殿・龍王丸が対立し内紛状態に。
扇谷上杉からは家宰太田道灌が
堀越公方足利家からは重臣上杉政憲が軍を率いて駿河へ。
京からは盛時が幕府の意向をもって駿河へ(盛時は下ってないとの説もあり)。
※
幕府としては嫡子龍王丸を廃嫡するまでの考えはないと結論。
龍王丸派の今川家臣・北川殿・盛時・貞宗・義政というルートで
意思が伝わったと思われる。
関東で山内上杉家の長尾景春が謀反した為に
道灌達は帰らざるを得なくなり小鹿範満が龍王丸元服まで監督代行ということで落着。
1477
一応応仁の乱、終了。
幕府に乱を治める力がないと知り、つまり自分の家を自分で守らなければならなくなった
守護大名達は徐々に?国元へ帰っていく。
義視・義稙親子は正式な赦免を受けないまま美濃へ退去。
大内氏も日野富子に賄賂を贈り守護職を安堵されて周防へ帰国。
1478
この時点で初めて盛時が京で活動してることを示す公式文書が残っている。
関東では両上杉氏・古河公方成氏が和睦。
1479
盛時の申請により、前将軍義政から龍王丸家督継承の内書を得る(盛時24,貞宗36歳位)
足利政知は前年の和睦を不服として、京の義政・細川政元と政治的連携を強めていく
(あるいは中央進出への野心からか)
1481
盛時の下で、他の奉公衆家の、一族の者が働いてることが確認されている
1482
義政は東山山荘に退くが依然実権を握り続けた為
義尚との確執は埋まらず。
1483
都ひ合体。幕府と古河公方成氏が和睦。伊豆は政知支配になる。
盛時は義尚の申次衆に就任。
1484
幕府内で奉行衆と奉公衆の対立が激化。
1485
奉行衆の筆頭格布施英基が義尚の起居小河御所で奉公衆に殺害される。
山城国一揆。幕府は討伐はせず一定の権限を認める。
1486
太田道灌が扇谷上杉定正によって謀殺。
盛時、小笠原政清の娘(南陽院殿)と結婚。
1487
正親町三条実望と北川殿の娘が結婚(1月)。
実望の従兄弟公綱の娘がかつて義尚の妾で、現在が貞宗の嫡子貞陸の妻なので
義尚・貞宗の連携を元にしており
つまりは北川殿(龍王丸)の地位を義尚が承認したことになる?
外堀を埋めることで穏便に小鹿側から家督を譲らせようとしたか?
北条氏綱誕生。
盛時は奉公衆に就任。
関東で両上杉氏による長享の乱勃発。
堀越公方は息子義澄を上洛させ義政に対面させる(6月)。
粗暴な長男茶々丸を廃嫡し潤童子を堀越公方後継に決める。
これを諫止しようとした政憲を自害させる。
義尚は二万余の軍勢を率いて六角高頼討伐に出陣(鈎の陣)(9月)。
(近江・美濃・尾張・三河は奉公衆の土地が多い)
盛時はこれに供奉せず駿河へ下向する。
※左遷されたという説もあり。




