12 石巻右衛門家貞 講義『幕府成立・関東戦史と大義』
後書きに1506年までの簡単な年表を載せてみました
※所々正確でないかもですので注意して下さい
家貞は咳払いを一つして話し始めた。
「今回は室町幕府の成り立ち、関東の諸勢力の争いについて説明する。話の中で自身が知らなかった事柄があればその料紙に記していけ。そして最後はこれらを前提として北条家が採っている方針について話して結びとする」
「は、はい」
「なお、参考になる史書も御家に有るが、今用いるとそれに安心して集中が鈍るだろうからこの場では使わない。そこは後で料紙と照らし合わせて復習いたせ」
「かしこまり……ました」
「では始めよう」
「はい」
「周知の通り、室町幕府は南朝という敵対勢力がいる状況下で北朝を擁して打ち建てられた武家政権だ。三代義満公の御代に両朝廷が和解に至るが、その五十年以上に渡る戦乱を勝ち抜く為、北朝側は兵力として当てにした日の本各地の国人達を従わせる餌にするべく、守護達に土地の管理権限を与えた。鎌倉時代に警備・軍事(謀反人追討)の権限しか認められなかった守護からすると、その権力は格段に強くなった。以降、この守護大名達の合議制による室町幕府において、歴代の将軍はその任命権を持ってしても御しづらい彼等の権限をいかに抑制するかという問題と格闘し続けることになる」
偉い人が『国人』という者達に土地を与えて家臣にしたということだろうか?
と考えている間に家貞は先へ進む。
「もう一つ重要なのは室町将軍の実効支配地域に九州、関東は含まれておらず、九州探題と鎌倉府(一三四九年―)が分治を担っているという点だ。当初は守護大名が在京して幕政に携わるという規則通り、関東(甲斐、伊豆も含まれる)の守護大名も鎌倉府に出仕してその政を仕切っていたのだ。そして室町将軍が初代尊氏公の血筋であるのと同様、鎌倉公方も尊氏公の四男(正妻の子という意味では次男)基氏公を始祖としている。
ちなみに関東管領は鎌倉公方を補佐する任を負う。後で話す享徳の乱辺りまでは鎌倉公方に対する幕府側の目付け役という務めも負っていた。なお、現在この職は宗家たる山内上杉家の世襲であり、分家の扇谷上杉は宗家を支えるという立ち位置にある。以降、『上杉』という場合は越後守護大名の上杉氏ではないので混同せぬように」
「……」
「さて。室町の時代、関東ではこの鎌倉公方足利家と関東管領上杉家が中心となって数々の乱が起きる。二代氏満公は中央進出の野心から、三代光兼公は大内氏の謀反に与し挙兵騒動に及び、四代持氏公の代では関東管領職を巡って上杉禅秀と持氏公の弟、叔父が組んで乱を起こして討伐され、持氏公自身も室町政権奪取の野心が元で最終的に幕府から討伐され自害に至り、鎌倉府は一度滅んでいる。
更に、その遺児を担いだ下総結城氏による結城合戦、同じく遺児の五代成氏公の就任に伴う持氏公旧臣の所領回復仕置きが引き金になった山内、扇谷上杉家家宰による成氏公襲撃事件(江ノ島合戦)、成氏公による関東管領謀殺と続き、遂には成氏公側と幕府・関東管領軍による関東全土を巻き込んだ享徳の大乱が起きる。その中で成氏公は鎌倉から落ち、下総古河城を本拠として古河公方を名乗った。幕府は当然それを認めないわけで、八代室町将軍義政公は新たな鎌倉公方に据えようと異母兄の足利政知公を関東へ下向させる。だが鎌倉の軍事的情勢の不安、関東管領側との不和もあって政知公は伊豆に留まることになる(堀越公方)。また各守護大名が出仕して関東の政を仕切るという御所の機能が終了した上、頭目勢力だけでなく他の守護大名、国人衆の領土一円化支配が進んで実力主義、独立志向が一層極まった。更には山内上杉家家宰職を巡る長尾景春の乱も起こり、扇谷上杉家家宰の太田道灌によって鎮圧されることで山内が扇谷の威勢を警戒するようになっていく。しかも三十年弱続いたこの乱は反乱勢力の成氏公を処罰できず、和解という形で終結する(都鄙合体)」
「とにかく、無茶苦茶になってる感じですね……」
『領土一円化』、『都鄙合体』が分からない治郎兵衛にも事態の混沌は何となく伝わってくる。
「その後は扇谷上杉家家宰の太田道灌謀殺をきっかけとする山内上杉と扇谷上杉による長享の乱、六代政氏公の頃には足利家と山内上杉家の双方の家督争いが一因となって永正の乱が起き、その最中に足利義明公が小弓公方となって独立、そして現在は七代高基公が実子春氏公と家督争い、山内上杉家内でも同様に家督争いの真っ最中だ(享禄の乱)」
「関東の歴史はそのまま合戦の歴史ですね……」
「まあ享徳の乱辺りまでは、関東管領が負う目付け役という立場から鎌倉公方方と対立し易いという関係にあった。それに何よりも山内上杉は上野、武蔵西部、伊豆(享徳の乱後、伊豆は堀越公方支配)を、扇谷上杉氏は相模、武蔵東部を中心に支配して西関東に、鎌倉(古河)公方も主に東関東側に強い影響力を持っていたから、各家が戦の中心になることが多いのは当然なのだが、もう少し正確な原因を見極める必要がある」
「……」
「頭で述べた様に、室町将軍家が守護大名を押さえるのに難渋していたという力関係がそのまま、鎌倉(古河)公方とそれを支える諸勢力、関東管領上杉氏とその配下諸将にも当てはまっているのだ。二、三、四代鎌倉公方の中央への野心は主に個人的資質の問題だが、それ以外の乱に関しては反乱側を討伐側が戦後に厳正に処罰出来ていないことや、主君が一門、家臣達の意向に振り回されるということ等の力関係の歪さが次の乱の、もしくは乱そのものが長引く一因になっている。まあ、享徳の乱に関しては五代成氏公の気質が大きく関わっていることも否めないがな」
家貞は続ける。
「従って我等北条家が方針の一つに掲げるのは、この関東秩序の再構築である。徒に宗家と争ってきた扇谷上杉家、関東公方家と相俟って家督争いを繰り返してきた山内上杉家、この二家がしがみつく名ばかりの『関東管領』職を取り上げ、本来果たされるべき秩序維持の務めとしての『関東管領』を北条家が負う。同時にその存在が関東公方足利家の家督争いを助長させる東関東諸勢力に対する強力な抑制となり、最終的に関東全土に静謐を取り戻す。そういう道筋を描いているのだ」
「……」
治郎兵衛は書き記すのに手一杯で中々理解が追い付かなかったが、それでも今迄漠然としていた『戦をなくす』ということがどういうことなのか、朧げに輪郭を成してきたように思えた。ついでに講義の内容が与一郎が面接前に話してくれた事と大分かぶっているらしいことに気付き、改めて有り難く、十分に生かし切れなかったことを申し訳なく思った。
* * *
午後から治郎兵衛は見張り番として西曲輪に赴き、三間程ある櫓に上がっていた。前方の本曲輪に聳える館の板葺き屋根がやや邪魔するものの、講義を受けていた本丸、二ノ丸、その先に広がる城下の軒並みまでが一望できた。更にはその向こうに広がる小田原湾も僅かに確認できる。
刻限はいつの間にか夕刻を迎えている。
初日ということで張っていた気持ちが少し疲れたのか。治郎兵衛は少しの間、景色に心を奪われていた。そんな折、下からゆっくり梯子を登ってくる音がした。やがて一人の男が顔を見せる。
「どうだ、真面目にやっておるか」
何とそれは、早川沿いの桜並木で出会ったあの壮年の侍だった。
「あなた様は……」
「ふっふっふ、まさか北条家に仕官してくるとはな。少し驚いたぞ」
「あの折は、初対面といえ御無礼を致しました」
「ははは、気にするな」
侍は治郎兵衛の隣に立って腕組みをし、夕暮れの城下を眺める。
「新九郎様かどなたかに私のことを伺ったのですか?」
「まあそういったとこだ。新しく登用された者達の話は色々と広まるからな。治郎兵衛という百姓が次期当主に見出された、右衛門が特別に講義してる、という具合にな」
「そうでしたか。御期待に添えるべく、民が安心して暮らせる世の礎となれるよう、努めまする」
「礎か。そうだな……」
侍は少し考える風だったが、すぐに明るい声でからかった。
「とは言うものの右衛門の講義は楽でないだろう。付いていけそうか」
「はは……。正直、中々に厳しいです。
そういえば『二十一箇条』の家訓を頂いたのですが、何か今迄勝手に想像してた武士の姿と全く違うものを見せられた気がして……その、意外でした」
『意外』と言いつつ治郎兵衛の声には称賛の思いが込もっている。
「ふむ……。あれは今は亡き先代様が晩年に当時の家来衆と話し合って作ったものなのだ。いずれ右衛門が話すかもしれんが、先代様達が今川、京、堀越公方、扇谷上杉と関わってきたその殆どが内紛の歴史だったと聞いている。『乱世を治める』と言いながら大きく成長した自家が内輪揉めで崩壊し、それがまた新たな火種になるのでは虚し過ぎる。また、武士が何の為に力を持っているかを思えば、民の上に立つ者としてあるべき姿も見えてくる。
そういう内省に日常の生活を重んじる禅の教えを重ね合わせて、では一人一人が己を律する様な、そういう家を目指そうと、あの二十一箇条を定めたのだ」
「なるほど……。禅の教えも……」
「先代様は京にいた若い頃、大徳寺に参禅していたからな」
「そうだったのですか。それにしても己を律するとは、とても良い考え方ですね」
「うむ。勿論、先人の轍を踏まぬようにという意味で大切にすべき教えだ。
されどな。武士というものは中々それだけでは済まぬ」
「……」
「以前も話したが民を巻き込む罪は己をどれ程律しようと拭えぬ。人を殺める行いそのものに対する罪もな。それはどれ程立派な理想を掲げていたとしてもだ。
例えば戦場などで『己には大義があるから相手を殺めても何ら呵責は無い』などというのは危ういのだ。今はまだ自分が殺されては敵わんから、仕方なく相手を殺すのだぐらいに思っておればいい。先代様やそれに従った者達とて最初は、というかしばらくはそれで精一杯だった筈だ」
「……」
「まあこれから先、一つ一つの事を言葉だけではなく身をもって理解を深め、その上でも果たして北条の大義に沿うべきと思えるか否か、見極めてゆくがよい。己に偽りなく掲げられる大義をな」
考え込む治郎兵衛を見て、侍は少し笑う。
「ふふ。……さて、儂は休憩がてらちょっと出掛けてこよう」
「え、今迄が休憩だったのでは」
「ははは。まあそうとも言うかも分からんな。ははは、ではな」
笑ってごまかしつつ梯子を降り始める。治郎兵衛は慌てて尋ねた。こんな事を話してくれる人の名はどうしても知っておかねばならない。
「あのっ、ところで」
「ん?」
「貴方様の御名前をまだ伺っておりませんでした。御一門の方でしょうか」
「儂か」
侍は少し間を置いた後、答えた。
「伊勢だ。まあこの名を名乗れるのは家中でも限られた者だけだからな。別に怪しまなくていいぞ。ではまたな」
「は、お気を付けて」
治郎兵衛に見送られ、伊勢が梯子を降りていく。
その時、というか実は割と前から櫓の脇に建つ武具小屋の物陰に潜み、治郎兵衛達を窺う人影があった。抜き身の刀を引っさげたその者は伊勢の姿を確認すると、静かにその場を離れていったのだった。
1333
隠岐島から戻った後醍醐天皇が武家政権打倒を掲げ蜂起。
足利尊氏が鎌倉幕府から離反。京都六波羅探題を制圧。
新田義貞によって得宗北条家・鎌倉幕府滅亡。
後醍醐天皇、建武の新政を開始。
1336
足利尊氏、室町で北朝を擁して幕府を開く。
後醍醐天皇は大和吉野に逃れ南朝を開く。
以後五十年以上に渡り日本全土で南北朝勢力が争う戦乱に。
1349
関東・伊豆・甲斐を分治する鎌倉府設置。
駿河・越後守護は関東の押さえに。
1350
観応の擾乱(尊氏 vs 実弟直義)。
1352
幽閉された直義の死によって観応の擾乱終結。
1379
二代鎌倉公方氏満、京での政変に呼応して挙兵を計画。
関東管領上杉憲春に諌死され断念。
後に幕府に謝罪の使者を送り赦される。
その後も関東の親幕派、南朝方を武力で制圧していき覇権確立。
1392
足利義満主導で南北朝和解。
1399
堺で大内義弘が謀反。呼応して三代鎌倉公方光兼挙兵。
武蔵府中で関東管領上杉憲定に諫止され、義弘の敗死の報を受け断念。
後に幕府に恭順の意を示し赦される。
陸奥・出羽が鎌倉府管轄となる。
弟満直が篠川城に派遣され、篠川御所(陸奥国。現郡山市)が置かれる。
1415
前関東管領犬懸上杉家上杉禅秀の乱。
1417
上杉禅秀、持氏の弟、叔父、鎌倉鶴岡八幡宮で自刃。
犬懸上杉家没落、以後関東管領は山内上杉のみの世襲に。
鎌倉府による上杉への処罰が苛烈過ぎ幕府・関東管領側と溝深まる。
1438
永享の乱。
幕府に反抗的な態度を取る持氏に上杉憲実が関東管領を辞退。
憲実討伐の兵を持氏が挙げる。
篠川公方、駿河守護今川範忠、幕府直轄軍が派遣される。
1439
持氏・嫡子義久自害。鎌倉府滅亡。
1440
六代将軍義教が実子を鎌倉公方後任に据えようとするが
中央支配を拒む下総結城氏が持氏遺児の春王丸・安王丸を担いで反乱。
篠川御所を結城氏方が制圧。満直自害。奥羽の鎌倉府統制は崩壊。
幕府に鎮圧され結城氏敗死、遺児らは処刑。
1441
嘉吉の変。京都で催された結城合戦の祝宴で足利義教が
専制政治を恐れた赤松氏に殺害される。
1449
持氏遺児の成氏が、関東諸将・管領畠山・上杉一門(越後上杉含む)の
要請を容れた幕府により五代鎌倉公方に就任(1447とも)。
関東管領には憲実の実子憲忠が就任(憲実は反対した模様)。
1450
江ノ島合戦。山内・扇谷上杉の家宰勢に成氏が襲撃を受ける。
鎌倉府再興に尽力した持氏旧臣・持氏方豪族が永享の乱敗者側にも拘わらず
旧領を復帰される仕置きに反発した両上杉家家宰長尾・太田氏による。
成氏側が望む両家宰の処罰を幕府は許さず。
1452
管領が細川勝元となり、関東管領の取次なき書状は受けない等の処置がなされ
成氏方と幕府・関東管領側の溝が深まる。
1455
成氏方が関東管領上杉憲忠を謀殺。享徳の乱、勃発(鎌倉府内部の対立が原因とも)
幕府によって駿河・越後守護の軍勢が関東管領側を支援。
1457
成氏は鎌倉を放棄し、本拠の下総古河に移座。以後古河公方に。
1458
八代将軍義政の異母兄政知、渋川義鏡・上杉教朝(犬懸家)を伴い下向。
幕府側は政知を中心に奥羽・信濃・甲斐等の大規模討伐軍を組織。
※越前・尾張・遠江の守護斯波氏は越前守護代と対立、合戦となり派遣命令を無視
結局大規模討伐軍が派遣されたかは不明。
1459
上杉方は五十子陣を整備。太田道真・道灌親子が岩付・江戸・川越城築城。
太田庄の戦いで幕府軍が負け、政知も自軍を持たないことで伊豆に止め置かれる。
以後は義政意向により渋川義鏡の実子義廉が
斯波家に養子入りし新たな援軍組織が検討されるも
義鏡自身が関東管領側と不和になり失脚したことで立ち消えとなる。
義廉が斯波家にとって不要になりここら辺のゴタゴタが応仁の乱の一因になる。
軍事力確保に失敗した政知はそのまま伊豆に留まる。
1467
京に遠江・美濃・越中から北九州までの守護大名が軍勢を率いて集結。
応仁の乱が勃発。以降京は断続的衝突が繰り返され荒廃する。
原因は畠山氏後継、斯波氏後継、八代将軍の後継、義政の優柔不断な処理等とも。
1476
山内上杉家家宰職を巡り長尾景春が謀反。
1477
景春により五十子陣崩壊。
太田道灌によって景春居城の鉢形城制圧。
1478
成氏方と関東管領側は和睦。
1480
太田道灌によって日野城が落ち、景春は成氏方へ落ちる。
道灌活躍により扇谷の威勢は上がり、景春一派の反乱により山内の威勢は下がる。
1483
成氏方と幕府側が和解(都鄙合体)。
山内上杉支配だった伊豆は堀越公方政知支配となる。
1486
道灌増長を嫌った扇谷上杉定正が山内上杉顕定にも煽られ道灌暗殺。
道灌氏配下の太田一族、国人等が山内側へ走り、両上杉家の仲は険悪に。
1487
長享の乱。(扇谷上杉 vs 山内上杉)
古河公方足利政氏は扇谷方に付く。
1491
堀越公方政知病没。
1494
扇谷上杉定正死去をきっかけとして政氏は山内上杉方に付く。
1505
山内上杉側が河越城を包囲して扇谷上杉朝良が降伏して長享の乱終結。
山内側は朝良を隠居させようとしたが扇谷家臣団の反対と
古河公方側で政氏と子高基が不和になった影響を受け断念。
1506
永正の乱。
●残りはまた次話以降に書くかもしれません




