11 乱世に飲まれぬ者
薬研堀:たしか薬草などをごりごりと擦って粉末にする道具と同じ断面をした空堀
1間:1.8m
快元:真言宗の僧侶
治郎兵衛が氏康に挨拶を済ませた翌日から小田原城での日々が始まった。
初日、二ノ丸の南西側の横堀――方形の二ノ丸の二辺に巡らされている深さ一間程の空堀。薬研堀である。(ちなみに石垣は無く、外周の城壁も板葺き屋根の付いた板塀である)――を深くする普請作業に加わって昼前まで働いた後、治郎兵衛は吉政からの言い付けで本丸の氏康居館へ向かっている。
正直、少し拍子抜けしていた。堀の普請は初めてだったが、鍬や鋤で土を掘ってその表面を平に打ち固める工程は、水田の用水路を引く作業の規模を大きくしたのと大差無かった。要するにもっと大勢の者を監督したり銭や米の帳面付けの仕事を期待していたのだが甘かったらしい。
箱根口門から二ノ丸敷地内へ入り、長屋の通りを進んだ先で左に曲がった――
「……わっ!」
危うくぶつかりそうになった相手は淡い黄色の小袖を着た少女だった。大きな黒い瞳を爛々とさせてこちらをじっと見上げてくる。どこかで見た気もする。思い出すことに一生懸命な治郎兵衛も凝視する。
やがて、得意気に少女が言った。
「そなた、治郎兵衛でしょう」
「……!?」
治郎兵衛は片膝を突いた。誰だか分からないが言葉遣いからして目上の人だ。
「はい。昨日より新九郎氏康様に召し抱えて頂きました治郎兵衛です。以後、よろしくお願い致します」
「そんなにかしこまらなくて良いわ。私は栄。新九郎兄上の一つ下の妹です」
「は。そうでしたか。どこかでお見掛けした様な気がしましたが」
「試験の日に兄上の隣にいたのです」
「そうでしたか」
「仕官が許されて良かったわね」
栄はにこりと笑う。
「はい。有り難うございます」
「槍の実技も強かったけど、浜で騎馬武者の一団が迫った時に兄上の前にばッと立ちはだかったでしょ。中々格好良かったわよ」
「有り難うございます」
「武器も甲冑も無く裸で。見上げた心意気でした」
「はは……。ただ夢中だっただけです。栄様はあの襲撃も試験だとご存知だったのですか」
「いいえ、だから最初は本当にびっくりしたわ。でも、貴方に投げ飛ばされて目を回す武者の顔をよく見たら四郎左だったから、……ああ、山角四郎左衛門定吉っていう家来衆なんだけど。だから、これは何かあるわねって思ったのよ」
栄をふと見れば、斜め上をきりっと睨んでいる。
「そ、そうでしたか」
ともかく、治郎兵衛は改めてほっとした。とどめを刺せなくて良かった。というか他の騎馬武者達もそれを阻止する為に必死だったのかもしれない。
「ああ、でも水練はもっと励んだ方が良いわね」
「はは……そうなんです。それに筆記も面接も全然駄目でした。だから仕官を認めて頂いたことに、未だに少し信じられない気もしています」
「ん……そう言われてみると、浜で右衛門も厳しいみたいなこと言ってたかも……」
治郎兵衛が苦笑いするのを見つつ、栄は勝手に考え込んだ。
「もしかすると……」
「何ですか?」
「……私があの時貴方の強さを評価したから、それが兄上の心に大きく響いたのかも……」
「えっ。……そうだったんですか」
「……そう、うん。そうね。そう考えれば辻褄が合うもの」
「それは存じませんでした。栄様が……」
納得した栄は自信満々に言い放った。
「治郎兵衛。こう見えても私は相模国主、北条左京大夫氏綱の次女なの。影響力、結構あるから」
「ははーっ」
治郎兵衛はひれ伏した。
「かしこまらなくて良いってば。でもこの栄に感謝する心は忘れないようにね」
「ははーっ」
「さて……と。そろそろ私は行かないと」
「お出掛けですか?」
「え? ええ、まあそうね。追手が来るから」
「追手!?」
「舞いの稽古中に抜け出してきたの。糸乃に見つかったら連れ戻されちゃう」
「そういう話でしたか……。大変そうですね」
「ほんとよ。秋だかに快元様や連歌師の宗……何とかって人とか、それから京の公家の何とかって方の家来衆も招くから、その接待として披露しなきゃいけないの」
「ははぁ……」
「去年はできませんって押し切ったんだけど、今年は無理だったわ……。父上に頭まで下げられたら、ね」
「なるほど……」
「じゃあまたね」
「はい、お気を付けて」
治郎兵衛は早足で去っていく栄を見送っていたが、途中で彼女は振り返ると笑顔で大声に言った。
「治郎兵衛ーっ、その腕でしかと兄上を守るのですよ!」
「はッ! かしこまりました!」
治郎兵衛も笑顔で返した。
* * *
本丸の氏康居館へと来た治郎兵衛は氏康に目通りし、栄からの口利きがあったことに驚いたという話をしたところ、あっさり否定されてしまった。
「そんなわけなかろう」
「ええ……」
「影響力どころか、合格者を選定する話し合いにも呼んでおらぬ」
「……」
治郎兵衛は何だか力が抜けた。横に控える吉政も苦笑いしている。氏康は呆れ顔だ。
「あやつは大して考えなしに喋ったり動いたりするからなあ……」
「動くのは困りますね……。あ、や。失礼を申しました」
「くく。まことにそなたの言う通りだ。あれの話は精々半分程度に聞いておけばいい」
「半分ですか」
「それでも十分過ぎるくらいだ」
三人で笑う。
そこへ家貞が数冊の書物を持って入ってきた。
「若君様、そろそろ本曲輪の方へお出でになって下さい。都筑についての軍議が始まります」
「む、そうだな。右京、行くとしよう」
「はっ」
氏康は治郎兵衛に言った。
「治郎兵衛、座学に関しては右衛門がそちの師となってくれる。御役目の合間だけだが、右衛門の講義は中身が濃い。しっかり励むのだぞ」
「は、はいっ」
氏康と吉政が出ていってしまうと、治郎兵衛と家貞は大きめの文机を通して向かい合った。
家貞は脇に置いた書物のうち、一番薄いものを取り出す。表紙には『北条家家来之心得二十一箇条』とある。
「まずはこれから渡しておこう」
「これは……」
「御先代様の頃に定められ、申し渡されてきた、この北条家に仕える者達が心得とする家訓だ。身だしなみ、生活のこと、御役目の姿勢、人との付き合い方、修練の心得、火事、泥棒に対する用心まで記されている」
「なるほど……拝見します」
『一家の主は早起きをすべきである。家の者が見習う』、『不意の来客に狼狽えるのは見苦しいので、出仕の無い日も身だしなみを整えよ』、『和歌を心得よ。言葉は一言でも心の内を露わにすることがあるから注意して使う習慣を身に付けよ』、『懐にいつも書物の類を入れておき、僅かな暇があれば目を通して読み書きを疎かにするな』、『身なりについて人を羨むな。人に見苦しいと思われない程度に整えれば良い』、『嘘をつくな。それは己が気付かぬうちに習慣となり、信用を失う』、『宿老を敬え。同輩、目下の者に対しても丁寧な態度を心掛けよ』、『神仏を拝むことは、行いの慎みに繋がる。拝む様ではなくその心持ちにこそ意味がある』等、整然と記されている。
読み進めていくうちに何とも形容し難い思いに囚われた。
『戦人』とは治郎兵衛の父と祖父を殺した者達だった。大義を抱いても、その汚れた印象は容易に拭えない。なのに、ここに示されたその姿は全く違う。異質なものに思える。この様な心得を家中に広めるよう指示した御先代様とは一体どの様な方だったのだろう。
治郎兵衛は目の前の家貞も忘れてぼんやりとしてしまった。
「こら、何を間抜けた顔をしておる」
「……あ、ああ、失礼しました」
「次はこれだ。『論語』である。言わずと知れた孔子の教えを記したものだな。生き方、考え方を深めてくれる優れた書物だ。御役目を終えた後等に読み、学べ。分からない点があれば私か右京辺りに尋ねよ」
「基本、独学ですか。は、はい。わあ……」
一転して情けない悲鳴をあげた。がちがちの漢文だ。題名は聞いたことがあったものの治郎兵衛は漢文に馴染みが無い。
ややあって家貞はため息をついてみせ、もう一冊の簡素だが厚めの書物を出した。
「そういう反応をするであろうと若君様が案じて下さり、お主にはこれを渡せと言われておる」
治郎兵衛が開くとそこには何と先程の原文が書き下されていた。
「これは……」
「若君様が幼少のみぎり、主だった項目に限ってだが文字の手習いを兼ねて記したものだ」
「すごい……。あ、でもよろしいのでしょうか、そんな大事な物をお借りして」
「うむ。まあ、これ以外にも私や右京等、多くの者が記しているからな」
「……」
治郎兵衛は少し怖くなった。
「しかし大切な物であることには変わりない。気を付けて扱えよ」
「はっ。有り難くお借りします」
「次はこれだ。『庭訓往来』」
「これは一体……」
「今より百五十年程前、玄慧という天台宗の僧が記したとされるものだ。文の往来という形式でその作法、用語を理解しつつ、衣食住、療養、寺社の行事、領国経営、訴訟等、広い範囲に渡って知ることができる。昔のものとはいえ学ぶところが多いぞ」
「なるほど……。こちらも……」
「書き下したものだ」
「助かります……」
胸を撫で下ろしたが、それも束の間だった。
家貞は部屋の隅に片付けられていた紙と硯、筆をてきぱきと用意する。
「前置きは以上だ。それでは若君様より言いつかっている通りに、始めるとしよう」
姿勢を正すその真剣な顔に、治郎兵衛は面接の苦い思い出が蘇る。頭を振ってそれを打ち消し、正座し直した。




