10 登用試験 結果発表
1町=110m
辰の刻(午前七時)を過ぎた頃。小田原城二ノ丸正面に立つ冠木門前に二十人弱の受験者達が集まってきた。
治郎兵衛は断ったのだが与一郎と卯吉も結局付いてきている。与一郎が眠そうに眼を擦った。
「城に出入りする者の妨げにならぬよう、こんな早い時間に集めるとは。それだったら人が少ない南側の箱根口門前でやれば良かったろうに」
「大手門(正門)でやりたかったんじゃないの」
治郎兵衛は適当に応えた。普段あまり物事に動じない自分だと思っていたのだが、どうも今朝は囚われている。
駄目だろうな、と思う。だがそれでも結果を見に来ずにはいられなかった。
やがて太鼓の音がゆっくりした拍子で鳴り響いてきた。城内のどこか櫓の上で叩いているらしい。
冠木門がぎぎぎっと開いていく。中からは、面接で手厳しい問いをぶつけてきたあの石巻右衛門家貞が数名の下士を従えて現れた。その手には折り畳まれた料紙。
「石衛門様か~。こりゃ幸先悪いな」
与一郎が軽口をたたく間に、受験者達の前までやってきた家貞はすました顔で言った。
「方々、御苦労に存ずる。それでは只今より、先日行った『北条家家来登用試験』の合格者を読み上げる。受験者数四十一名のうち、合格者は五名である」
家貞は料紙を丁寧に開くと、正面に据え、軽く咳払いをする。
「では――」
この瞬間、場の空気が一気に張り詰めた。
「……まず、吉野小次郎正高殿」
一拍遅れて呼ばれた者が威勢良く返事をする。
「続いて、里田弥一殿」
治郎兵衛ではなかった。
「続いて、清野甚介殿」
治郎兵衛ではない。
「続いて、三木沢庄衛門道兼殿」
もう四人目だ。
――やはり駄目か。治郎兵衛は足元を見て、目を固く瞑った。
「最後に……」
一瞬が長い。
「――坂野太兵衛元吉殿。以上である」
やはり駄目だった。これ以上思うことは何も無い。治郎兵衛はただ小さく、頷いた。気落ちした肩を与一郎が軽く叩く。治郎兵衛はどうにか笑ってみせた。
「では、呼ばれた者については早速御役目について案内いたすので城内へ。
なお次の試験は九月に鎌倉玉縄城にて予定されておる。試験日の十日前に各村里への印判状、市場等への立て札にて連絡いたすので確認するように。また今回の試験結果が考慮される様なことは一切無いのでそれを了承した上で臨むように。
では、解散とする。まことに御苦労にござった」
名を呼ばれなかった者達は肩を落とす、地面を蹴る等、様々だが、やがてそれぞれに帰っていく。
その一番後ろに付いて歩き出す治郎兵衛を卯吉が励ました。
「やっぱり難しいんだね、北条家みたいな大きな御家ともなると。お疲れ様だったね」
「まあ……しょうがないよね。一兄の言う通りだよ。これを機にもうちょっと学問に励んでみようかな」
与一郎も流石に今日ばかりは甘い。
「まあすぐに気持ち切り替えなくても、ちょっと試験のことは忘れろよ。なに、俺がまた気長に教えてやるから」
「ありがとう。迷惑かけるけど頼むよ」
「おお、気にすんな。……って俺は一緒に帰っちゃいけないんだった。城へ行かなきゃ。じゃあな、治郎兵衛、卯吉」
「うん、またね」
「はい、また武蔵から帰ったらお会いしましょう」
走って城へ戻る与一郎。治郎兵衛と卯吉も歩き出した。
「やっぱり暗算かな、あとは人の話を正確に理解して速記する訓練もしないと」
「中々すぐには難しいよね。でも治郎兄ならきっと出来るようになるよ」
「うん、頑張る」
意気込む治郎兵衛。微笑む卯吉。そんな二人の背中に、遠くから呼び掛ける声がした。
「お~い、ちょっと待てェ!」
振り返ると与一郎が走ってくる。きょとんとする治郎兵衛達に大きく手を振って叫んだ。
「治郎兵衛、ちょっと来いって!」
二人は顔を見合わせた。与一郎はこちらを呼ぶばかりでやって来ない。仕方なくもと来た道を引き返した。
「なに、一兄」
「忘れ物か何かですか」
「治郎兵衛、右衛門様が呼んでる。ちょっと来いって」
与一郎が見やる大手門前にまだ家貞が立っておりこちらを見ていた。
何だろう。怪しみながら戻る治郎兵衛に、二人も付いていく。城門前に戻ってきた治郎兵衛に家貞が告げたのは驚くべき事実だった。
「やっと戻ってきたか。ええとだな、本日よりお主を『侍見習い』として新九郎氏康様の下で召し抱えることとなった」
「え……」
治郎兵衛はあまりの展開に言葉が出てこない。代わりに与一郎が尋ねた。
「右衛門様、だってさっき『合格者は以上』って……」
「その通りだ。登用試験の合格者は規定通り五名で間違いない。治郎兵衛、お前は不合格だ」
治郎兵衛は顔を歪めた。意味が分からない。
「不合格は不合格だ。が、……合格者の選定作業の中で新九郎様より推薦があってな。他の受験者の公平な評価と御家の台所事情を踏まえた結果、正規合格者枠ではなく新九郎様の扶持でそちを家臣とすることになったという次第だ。不合格者に要らぬ不満を抱かせぬよう、こうして秘密裡に伝えることとなった。
なお、あくまで侍見習いぞ。勤めの中で不適格と判断されれば遠慮なく御役御免とするゆえ――」
「いィやったーーーッ!!!」
「すげえじゃねえか、治郎兵衛ッ!! 若君の直属かよ!!」
「わーいッ!! やったね治郎兄ッ!!」
三人は大歓声を上げている。家貞は軽くため息をつき、説明を続ける。
「禄は六貫飛んで三〇文、御蔵出し。二食寝床付きである。小田原城内二ノ丸に小者達が使う長屋があるゆえ、そこを利用してもらう。その条件で良いということであれば、正式に召し抱えとなる」
それまではしゃいでいた与一郎が苦笑いする。
「ろ、六貫? たった? は、はは。かなり手厳しい評価ですな……」
「六貫飛んで三〇文だ。当然である。北条家の蔵に治郎兵衛の様な半人前を雇い入れる余裕は無い。某は一向に構わぬぞ。不服ということであれば、この話は無かったことに――」
「大満足です!」
治郎兵衛がぴしゃっと遮った。家貞の気が変わらないうちにと急いで続ける。
「食べるにも寝るにも困らない、それで新九郎様、北条家にお仕え出来るならば、これ以上の幸せはありませぬ。本日より宜しくお願い致します!」
「そうか。良かろう。ああ、ただしそちの今の実力を踏まえ、当分は御役目を覚える合間に学問や武芸の鍛錬を積ませるゆえ、そのつもりでいるように」
「かしこまりました!」
「よし、では付いてまいれ。北条家次期当主、新九郎氏康様の下へ案内する」
「はっ!」
「与一郎、お主も共に来て先程の吉野殿を足軽備え方の詰所に案内いたせ」
「はっ」
家貞は先立って城内へ入っていく。
何を隠そう、『そこまで召し抱えたいならば俸禄は若君の懐から出して頂かねばなりませぬ』と言い張って譲らなかったのはこの家貞である。無論そこは公平適正な評価だったと今も思っている。それでも最後にはその条件を飲んだ氏康――何をするにも父氏綱の先例と重臣の意見を気にする大人しい若君――が珍しく己の意思を押し通し、『戦で活躍するだけの力自慢に育ってしまうは惜しい』と治郎兵衛をねじ込んだ。その熱意と目の付け所が家貞は少し嬉しく、更には氏康を動かした後ろの若者がどう育っていくのかを思い、口元に小さな笑みを零すのだった。
* * *
二ノ丸敷地内で他の五名が各々の持ち場へ案内されていった後、治郎兵衛は家貞に付いて本丸へ上り、斜め前方、五町程先に仰ぎ見る本曲輪の壮麗な館に目を奪われつつも、本丸敷地中央に建つ氏康居館の一室に連れてこられた。
治郎兵衛の禄を考えれば破格の待遇だったといえる。
間もなくして足音が近付いてくる。面を伏した治郎兵衛のすぐ横を通り抜け、その正面に座る。
「北条新九郎氏康である。面を上げよ」
「はっ」
登用試験より僅か三日後のことだったとはいえ、二人にとって特別な再会だった。
「よく来てくれたな。治郎兵衛」
「はっ! 本来なら失格となるべきところ、勿体なき御厚情により召し抱えて下さり、御礼の言葉もございません!」
「うむ。まずは見習い身分として励んでもらうが、ゆくゆくは北条の名に恥じぬ武士となって活躍してくれること、大いに期待しておるぞ」
「はッ。有り難き幸せッ! 精一杯努めまする!」
氏康は治郎兵衛の気負った顔を見て微笑む。それにつられてようやく治郎兵衛の顔も綻んだ。
「まあ儂もそちと同い年の十五だ。これから父や家臣達に学んでいかねばならぬ事だらけじゃ。
いつか民が笑って暮らせる世が本当に訪れるよう、共に戦っていこうぞ」
「はッ!!」
未だ総髪に後ろ髪を結っている治郎兵衛は、小田原北条家を取り巻くこの乱世についてまだ右も左も分からない。けれども、世を安らかにという願い一つを胸に、危なげながらもゆっくりと歩み出したのだった。
御蔵出し:知行地ではなく銭で俸禄を支払うこと
1貫=1000文(この10話では10万円です)
6貫とんで30文:年収60万3000円。二食付きでも税を払うと食っていけないかも分かりません




