第五話:『魔術師』下
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「助けに来たよ、ともみ」
ひびきは対峙する二人の姿を、空から見ていた。一瞬だけ正気に戻ったともみは棘だらけの鰐の尾と、巨大で歪に曲がった両手の爪、そして一対の虹色の翼を纏ったまま目の前の景色が信じられないように茫然としていた。翼さえも持たないひかりは相対して余りにも小さく見えて、けれど怯えているのはともみの方だった。ともみの異形の姿なんて気にも留めない様子で、ひかりが次の一歩を踏み出そうとした瞬間、
≪peacock’s fowl≫
数百発の羽弾が放たれ、ひかりの組み上げた塔の内側を穿つ。「おいっ、お前……」思わず責めるような声を上げかけたひびきを手で制して、ひかりは自分とひびきを守るように立ち上げていた障壁を消し去った。ともみは残された片翼で己の姿を覆い隠して、うずくまって震えていた。「見ないで!お願い、こんなわたしを、見ないで……っ!」獣と混ざりあったような、乱喰歯のともみの泣き顔。それは『孔雀の羽』の決して見られたくない側面、本当の根源を自覚したからこその姿だった。そして辺り一帯を覆い尽くし、天まで届く漆黒の大瀑布を背にして、ひかりは尚も歩を進める。
「あなたを、連れ戻しに来た。ちょっと、遅くなっちゃったけど」
そして、その言葉が引き金となった。ともみの表情に怯えが消えて、周囲の空気には敵意が満ちていく。「……もう、手遅れよ」絶望に満ちた低い声で言った後、ともみは背の翼を消し去る。そこに在るのは最初の『想い』を失ったものが成り果てる、『翼のない魔法使い』の姿だった。ひびきは呟く、「忘れちまったのか、自分の『理由』を」と。なんのために嘘をつくのか、なんのために本当のことを隠すのか、その全ての動機となるものを彼女は自分で忘れてしまったのだろうか。恐らくは違う――この精神を蝕む『悪夢』の力はそれを壊すためのもので、佐々木しおんの目的は自分達を魔術師[どうぞく]へと引き摺り落とすことだったのだ。
「こないで!わたしを一人にして、わたしを放っておいて!」
ともみが叫ぶ、そして地面に向けて巨大な鰐の尾を叩きつける。地盤がひっくり返るほどの揺れと、数百の【人の影】による呪いで『塔』が揺らぐ。『塔』の中に土埃が立ち込めて視界を塞がれる。ともみが塔の天辺から外に出ようとするのを予想して、≪rejecter≫ひかりは退路を断つため塔に天蓋を生み出していた。だが土埃が晴れた時『塔』の中に残されたのは、地面に空いた巨大な大穴だけで。
「地面を潜って逃げたのか……」
地中への潜行、それは彼女に『翼』があるという前提で考えていたから、考え付かなかった抜け穴だった。そして彼女は救いの手さえも拒絶して、『呪い』に満ちた暮町の空へと逃げ出したのだ。「助けたくても、あんなに攻撃してきちゃ助けれねえよ……っ!」ひびきの叫びが、塔の中にこだまする。それはきっと、どうしようもないくらいに、これまでずっと続いてきた、『正しいこと』だった。
「……ねえ、ひびきは、どうしたい?」
ともみは既に『翼』を失い、追うためには再び【人の影】が跋扈する外へと飛び出さないといけない。そんな中、場違いなほど明るい声で、ひかりは言ったのだった。「どういう意味だよ?」最初から『翼』なんて与えられていなかった、普通から外れた自分達の中でも更に異端であった彼女は、続けて言った。
「今がどうであるかなんて考えないでさ、ひびきのしたい事を、これからしよう。人の精神に必然しかないとしたら、わたし達が今から『世界』を変えるのも、必然だよ」
その内実は決して誰にも知ることができず、にも関わらず起こってしまった事の理由づけに、そして何かを諦めるための悲観にしか使われない『運命』という言葉を、ひかりは容易く自らのこれから成し遂げるものに対して使うのだった。そして、ひびきはようやく理解する。それが伊藤・カイザー・ドルムメバティに見出したものと同じ、善も悪もない純粋な『力』であることを。
彼は外のことを何も知らず、そして自分も彼のことを多くは知らない。けれど自分が彼の踊りを目にしただけで、その虜になったのと同じように、最初から知る必要なんてないのだ。踊ること以外を知らなくとも、その踊りによって何もかもを変えられるのだから。誰かに理解されることを必要とせず、そして誰の『世界』に受け入れられなくとも、己の望みを叶えるために『世界』の何もかもを変えていくもの。それは退屈に過ぎていく平和な日々も、平穏に過ぎていく無為な日々も、なにもかもぶち壊して、なにもかも変えていく『熱』だった。
「……大丈夫。わたし一人で、飛んでみせる」
ひかりが確信に満ちた声で言った後、『塔』が消え去って灰色の暮町と呪いに満ちた空が再び現れる。遥か遠くの空に、再び生成された虹色の翼で、ひかりのたどり着けない場所まで飛び上っているともみの姿が見えた。
――最初から『翼』は与えられていた、自分がそれに気付かなかっただけで。
――硝子の靴で、蝋の翼で、それでも沈みゆく太陽に追い縋る、『夕暮れ』で戦う者の翼を。
ひかりは勢いで弾き飛ばされないように姿勢を低くして、片手を地面につける。そして、≪rejecter≫ひかりの足元から生成された障壁がせり上がり、ひかりを障壁の立ち上がる凄まじい速度のままに天へと運んでいく。迫り来る障壁の足場に気付いて更に上方へ逃げようとするともみに追い縋り、≪”The Maze”≫ひかりは自分の足元の障壁を維持したまま地面や民家の壁、そして既に生成されている障壁の根元から新たな障壁を高速で生成することで、先端の足場とそれに乗った自分を運んでいく。意のままに生成される巨大迷路の先端部に立つことで、ともみの飛行速度さえ上回る。それは急成長する大樹の枝先に掴まっているかのような奇怪な飛び方で、けれど紛れもなくひかりは一人で空を飛んでいるのだった。
偽りの暮町と【人の影】の雑踏、閉ざされた灰空のステージに、二人の少女が舞い踊る。かたや天を覆い隠すほどに大きな虹色の翼で、かたや翼ですらない黒い障壁の壇上で。数千の羽、薙ぎ払われる鰐の尾、どれ一つとして、ひかりを傷付けることはできない。ひかりは障壁を天に掲げ、雹の中を突っ込むような衝撃に見舞われながらも、逃げようとするともみとの距離を着実に詰めていく。
「分かってるでしょ?わたしに戻る場所なんてない、わたしに戻って欲しいなんて思ってくれてる人は居ない!戻ったところで、また前の生活に戻らなきゃいけないだけじゃない!」
ともみの叫びが、羽弾の雨とともに空間を伝播する。陸號ともみに帰る場所はない、それは最初から分かりきったことだった。しおんと『悪夢』の魔法を取り去ったとしても残る一番大きな問題が、恐らくともみが『帰ってきたいとも思っていない』であろうということだ。誰も彼女のことを心配していない、戻ってきてほしいとも思っていない。そんな場所から、自分の意志でなく連れ去られたとしても、きっと帰ってきたいとは思わない。自分達が魔術師の手からともみを奪い返したとして、或いはこれが単なる家出だとして警察なりが連れ帰って事件が終わったとして、その問題を解決しない限り、ともみが本当の意味で『日常』に帰って来ることはない。
「わたしがここに居る!だから、あなたを連れ戻しに来た!」
それぞれの抱く決して交わらない『世界』を、現実を改変する力へと換えて、互いの自我と自我を全力でぶつけ合うのが『魔法』による戦いの本質だ。ともみの『悪夢』とひかりの『障壁』という同系統の魔法、相互の『書き足された世界』が激突する。ともみが飛翔した跡を縫うように暮町の街並みを、変わることのない日常を映し出した結界を、浸食し破壊していく黒い鋼の巨大な質量。溺れるような水底の闇を打ち砕く、硬質な『拒絶』の牙城。
「そんなの信じない、この世界の全部あたしの敵よ!」
ひかりは、ともみの恐怖さえも手に取るように分かった。全てを敵だと見なしていれば、誰に対しても如何に利用し、如何に邪魔をさせないかだけ考えていれば良い。もしそうでないとしたら、誰が味方で誰が敵かも分からない世界の中で、誰かを信じて裏切られた時の被害を、本当に味方だった誰かを傷付けた時に失うものを、自らの責任において背負わないといけないのだ。陸號ともみの世界観も、きっと何も間違っていない。彼女の経験から導き出された、最も正しい世界がここなのだ。
――だから、必要なのは言葉じゃない。
障壁の隙間を抜いて飛来した羽弾が、ひかりの膝に突き刺さる。ひかりは思わず姿勢を崩して膝をつくが、ともみに追い縋る障壁の勢いが止まることはない。ひかりは高速で突き進む、障壁の先端の縁を掴んだ。そして全身に障壁の速度を乗せて、頭上のともみに向かって、ひかりは跳躍した。
この世界の全員が共有しているであろう『客観的な現実』を存在するものと仮定して、それらは原子やら素粒子といった『物質』と、その結合や運動といった『エネルギー』によって構成されている。そしてヒトは物質が反射する光の波長や空気の振動を知覚器で捉えることで、その『外世界』を知覚する。
あなたは腕を伸ばして何かに触れたり殴ったり、声帯を震わせて何か音の組み合わせを伝えたり、文字を書いたりすることで外世界に影響を与えることができる。外世界はあなたの行動に対して反応し、あるいはまったく無関係に、あなたに影響を与える。あなたはそれを皮下の神経で感じて、眼球によって光の波長を受容し、耳で空気の振動を捉えることで『知覚』する。また他の人間も、あなたが影響を与えた『外世界』を知覚し、それに対して行動することで外世界に影響を与え、それをまた、あなたは知覚する。その相互作用によって互いの観測する『世界』に新たな経験が重ねられ、時には相手の『世界』を書き換える――ある事象について『自分の中でそう思っている』ように、相手にもそう思わせる。
言葉やダンス、芸術だって同じ、或いはもっと野蛮な暴力や、そして互いの誇りや命を懸けた戦いでさえも、自分の認知に従って外世界に働きかけることで、他者の観る『世界』を書き換える行為であることに変わりはない。ならば人の営為の全ては、己の認知に従って外世界に働きかける『魔法』であるに違いないのだ。
――だから、ともみを助けるための手段もまた『魔法』であるのだった。
ひかりは跳躍の終点で、ともみを力いっぱい抱きしめた。ともみが咄嗟に突き出した爪が脇腹を深く抉るが、障壁によって軌道を逸らされたそれは致命傷にはほど遠い。起こっている出来事が理解できずに呆然としているともみに、ひかりは何も気にしていないように笑いかける。
「大丈夫。怖がらないし、嫌わないよ」
相手が知っているような使い古された『正しい』言説は、既に相手の『世界』を構成している経験の一つでしかないが故に、幾ら繰り返しても『世界』を変えるには至らない。相手の『世界』を書き換える、そのために必要なのは相手の知り得なかった新たな『経験』によって挙げられる『世界のルール』への反証だ。
「他の誰があなたの敵でも、わたしだけはあなたの味方であり続ける」
ともみの敵意も攻撃も全て受け止めた上で、それでも抱き締めてくれるような『強さ』を持つ者は、ともみの世界にこれまで存在しなかった。故にその経験は彼女の知り得ないものであり、言葉さえも副次的なものに過ぎず、その抱擁と受容こそが彼女の『世界』を変え得るものだった。
――立ち止まって抗うか、受け入れて前に進むか。
救われなくても仕方のない誰かを、それでも助けたいと思うのなら。必要なのは正しさでも善性でも、なにかを信じる心でもなく、『力』だ。弾丸の雨に、棘の中に、我が身を焼く炎に飛び込む強さ、それでも生きて帰ってこれると信じられる強さ。ひかりは御岳鶴来との戦いで、それを得たのだった。
「だから、戻ってきて、ともみ」
ともみの『世界』が揺らぐのを、ひかりは肌で感じていた。ともみ目から溢れた熱い涙が、重ねられたひかりの頬を伝って流れ落ちる。ひかりは、ずっと心に『壁』を纏っていた。冷たく黒い、己の精神を覆い隠すように。口から流れ出る言葉は、きっと本心には程遠い。それでも陸號ともみを助けられるのは、自分しか居ないのだ。最後の一言を、ひかりは口にする。
「わたしは、あなたのことが好きだから。あなたが居ないと、寂しいよ」
そして、ともみを蝕み、殺そうとしていた『悪夢の世界』に巨大なヒビが入る。ともみの『世界』が崩れ変容していくのを、ひかりは見上げた。
――たった、これだけ。
――たったこれだけのことを、誰もができなかったのだ。
自分の『世界』の中でだけの自分の正しさで、誰かは救えない。自らの主張を押し付けるだけでは、相手を望み通りに書き換えることはできない。言葉が偽りだから、なんだというのだ。嘘で、偽りで、邪悪な動機からであるにせよ、行われた『救い』という現象は紛れもなく真実なのだ。救いとは、見つけるものじゃない。ただ己の手で、創り出すものだ。
「ひびき!」
ひかりは、遥か下の地面に立つひびきに向かって、力の限りに叫ぶ。
「任せとけ!」
その声を待ちわびていたように、手筈通りに天と地に一本ずつ、硝子の薔薇の意匠が凝らされた剣が突き刺される。
「――硝子の脆きを愛でるのは、」
そして、唱えられる『鍵なる言葉[キーコード]』。牙を剥くのは、ひびきの『世界[さけび]』。――ヒトの『弱さ』を憎んで、またその『弱さ』から逃れられない自分自身を、何よりも憎んでいた。
――だけど今、ようやく分かった。
大多数の人が持つ故に、それを掲げれば、あらゆる責任と罪から逃れて生きて行けるような弱さ。悲劇の世界で、感動や芸術のためだけに生み出される、美化された苦しみ。そして傷付きやすいが故に大切に扱われ、容易く失われるが故にこそ愛される硝子細工の脆さ。誰よりも自分自身の中にあるそれが、時には誰かを助ける優しさとなり周囲の人々が肯定されたとしても、或いは愛される理由となるのだとしても、それらを決して肯定しない。
「――オレは、『オレの弱さ』を否定する」
砕け散れ、硝子の薔薇。苦しむことが愛される条件なら、そんな愛、消えてしまえばいい。誰かを傷付け素知らぬふりをさせる自らの『弱さ』を否定し、塗り替え、成り上がる。「――いずれ翼を失うとしても、今はまだ、その時じゃない」そして今この場所には居ない彼女に向けて、ひびきは小さく呟いた。
≪fragile: Code release≫
『脆化』の魔法が、ひびきの『世界』が、ひび割れたともみの悪夢の世界に、完全なる止めを刺す。響き渡る、【人の影】の怨嗟の声と断末魔。どこにも行けない街のハリボテも、身体を蝕む空気も砕けて消える。最後に残ったのは、どこまでも続く平坦な地平線。そして柔らかな雨のように降り注ぐ、灰色の光の筋。
「……ひかり、」
ともみは赤く泣きはらした眼で、ひかりを見上げる。居心地悪そうに傍で立っていたひびきは、その時あることに気付いた。ともみの衣装と『魔法』によって変身した身体の部位が光の粒子となって空に散っていって、最後に変身が解けた彼女の胸元から、淡い虹色に輝く結晶が浮かび上がってきたのだ。
「……『想いの欠片』だ」
それは、これまでにひびきが見た、どの『想いの欠片』とも比べ物にならないくらいの大きさだった。孔雀が翼を広げたような扇状に、青や緑に赤紫の光をそよがせる『想いの欠片』は少しの間宙に留まった後、ひかりが思わず掬い上げるようにかざした両掌へと溶けていった。
――
ともみが『悪夢の世界』から救い出された日の夜、陸號家では無論の事、ともみ以外の失踪した子供達も戻ってきたことで暮町全体が再び大きな騒ぎになった。戻ってきた子供達の全員が衣服や身体にも傷一つなく、ただ消えてから戻ってくるまでの記憶を失っていた。ともみも気付いた時には自分の寝室で呆然としていて、それを家族に発見された時には他の子供達について知らなかったものの、『彼らと同じように記憶を失っている』というふりをしたのだった。そして警察からの聴取から解放されて、親に当然のように『迷惑をかけるな』と怒られた後、寝入るために寝室で灯りを消してからも、妹は何も言わずに自分を見つめていた。
前の事件と同じように、『ただ一人だけ帰ってこなかった』柏木夏鈴――佐々木しおんの捜索は今でも続いている。ともみは彼の動機について誰にも語ることはなかったが、一つだけ彼に問い掛けたいことがあった。『世界』が全て柏木夏鈴の憎んだ通りのものであるなら、彼が語った『節理』の通りに子供達は誰にも助け出されることなく、そして彼の魔法は誰も止めることができないままに全てを呑み込み滅ぼしていただろう。一方で、もし現実の中に彼が観る『世界』の通りでないの部分があれば、彼の計画は失敗する可能性があったが、その時『世界』は彼にとって、必ずしも滅ぼさなければならない無価値なものではなくなっている。
――柏木夏鈴は、どちらの結果が出ても良かったんじゃないだろうか?
あなたは口で言うほどその状況を、その状況に組み込まれている自分を受け容れていないんじゃないか、かつて自分がそう問いかけたのを思い出す。皮肉っぽい言葉と露悪的な振る舞いは、まるで自分の語った『節理』に反発を覚えて否定して欲しいからのようで。無論その程度のことで『世界』が憎悪の対象であり滅ぼすべきものである事実が変わらなくとも、彼にとって『完全な敗北』は存在しなかったということだ。
そして翌日の放課後、周囲からの詮索を逃れるために急いで下駄箱に向かう途中で、ともみは思わぬ人物に呼び止められたのだった。
「……ともみ姉さん」
蜜柑色の光が差し込む冷たい街路を、ともみ達は昔のように二人並んで歩いていた。みともはわざわざ帰り道についてきてまでして、結局なにも話さない。「生徒会の仕事は良いの?」「今日は、休ませてもらったわ」道中に交わしたのは、そんな二言だけで。ひかり達が居ないかと考えて向かおうとしていた場所――あの公園まであと少しというところで、ようやく彼女は話し始めたのだった。
「わたしは、ずっと、あなたのことが憎かった。小学生の頃から、その前から、ずっと、ずっと」
あなたは昔から、わたしにない全てを持っていた。生まれた時から、あなただけが全てを与えられていた。あなたは、わたしを助けながら、慰めながら、ずっとそれを嘲笑っていた。わたしを見下し続けていた。わたしは、あなたがずっと、妬ましかった。それなのに、あなたはわたしが追いこす前に、勝手に全てを失った。わたしが血の滲むような努力で勝ち取ったものは全て、あなたが落ちぶれる前に持っていたものだ。
――妹が話したのは、ともみが今までに聞いたことのなかった、そんな言葉だった。
「このまま消えられたら、わたしの努力はなんだったんですか」
最後にみともはそう呟いて、黙り込んでしまう。ともみにとっては、裏切られたとすら感じさせるような、そんな言葉。けれど、みともにとっては、ずっとそう思いながら生きてきたこと。ともみが、そうであったように。それが彼女の『世界』なのだ。
「ありがとう、本当の気持ちを言ってくれて」だから、ともみはこう言った。「でもね、みとも。わたしは、あなたを見下したことなんて一度もない。あなたは、わたしの一人しか居ない大切な妹だから。わたしは、あなたのことが好きだよ、みとも」ひかりなら、こう話すだろう。そんな風に、考えながら。
「あなたは愛してくれる人を見つけたんですね」みともはしばらく黙ってから、小さな声で呟いた。「わたしはあなたが妬ましかった、あなたが憎かった。今は、そんな言葉を口にできるあなたが、ただ羨ましい」
薄桃色の優しい色をした羊雲が流れていく。沈みかけの夕陽は少しずつ赤みを増していって、ともみは思わず目を細めた。
――わたしが、あなたを愛してあげる。
その言葉を自分が言ったところで、彼女に届くかどうかは分からないけれど。彼女の『世界』を否定することなく、少しずつでも、優しい色に塗り替えることができたなら。
――わたしは、もう一つの道を選んだわたしの半身を、わたしがわたしを愛するように、愛せたらと思う。
ともみは微かな予感に衝き動かされて、かつて二人で向かった廃工場がある方角の空を見上げた。再開された『夕暮れ戦争』が始まっているはずの時間で、けれど廃工場の天辺に『扉』が見えることはなかった。それに気付いた時、ともみの頬を一雫の涙が伝い落ちる。それが何を意味するのかを、自ずと理解できてしまったからだ。
――それが陸號ともみの『夕暮れ戦争』の終わりだった。
『魔法』は人には言えない苦しみ、誰とも相容れない己の世界観によって生まれる。それは欠けたもの、喪ったものの力であるが故に、力の根源である空洞を埋めることができたのなら、なくしたものを取り戻すことができたのなら、その人は自分の『魔法』を失うのだ。だから、ともみは既に『夕暮れ戦争』に参加する資格も、その必要も失っていた。魔法使いは『リライト』に己の願いを懸けて、『想いの欠片』を探し求めて戦う。けれど『リライト』さえも喪われた何かを、与えられなかった何かを取り戻す為の道具[まほう]でしかない。願いが叶えられたのなら、満たされたのなら、もう『想いの欠片』なんて要らないのだ。
そして、ともみが『夕暮れ戦争』に参加することは、それから二度となかった。けれど、それは彼女の日常が一変することを意味しない。あの『悪夢の世界』を生き延びたからといって、教室の中に彼女の居場所ができるわけでもないし、親からの評価が戻るわけでもない。夕暮れ戦争をやめたからといって、陸號ともみの戦いは終わらない。ともみは明日からも、二度目の失踪のことで数を増した好奇の視線や、相変わらずの親からの失望、そういったものと戦っていかなければならない。
――それでも、今のわたしなら、この変わらない、何も良くならない日常でも生きていける。たった一度でも『愛』を知ることのできた自分なら、誰か一人でも自分を愛してくれている世界でなら。わたしはきっと、この日々を戦い抜くことが出来る。
/第五話『魔術師[night maker]』
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