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第五話:『魔術師』中

――


最後の授業が始まってから、ひびきは保健室のベッドに腰掛けて、上靴を脱いで所在無さげに足を揺らせていた。そして入り口の扉が開く音に顔を上げて、来訪者の姿を認めたひびきは、思わず険しかった表情を少しだけ緩めたのだった。

「……元気そうで良かったよ、篠崎」

ひびきが学校に来た当初の目的は、『美化委員会』の監視を逃れて学校内でともみと連絡を取ることだった。しかし彼女が消された今となっては最早、『夕暮れ戦争』の趨勢を担えるのはひびき自身と、ひかり以外に誰も残っていないのだ。だから、ひびきは何処まで話すべきか迷っていた自分の知ることを全て、ひかりに余すことなく伝えることにした。

寝ることができるように薄暗くされた保健室、ひびきはベッドの上で膝を抱えて、ひかりと二人きりで言葉を交わした。ひかりは『翼のない魔法使い』の正体を聞いた後も、あまり動揺した様子は見せなかった。ひびきはなんとなく病棟でのこと、ひかりと出会ったばかりの頃に交わした会話を思い出した。ひかりが『魔法少女』の正体をひびきから聞いた時のことだ、あの時はリノンが自分の膝を枕にして寝ていたけれど。

「オレだけじゃ、ともみは連れ戻せない……あいつが一人で何もかも背負いこんで終わらせようとするのも、見てるだけしかできなかった」

手詰まりに近い現状のことも、『魔術師』のことと魔法少女がやがてそれに至ることも、ひかりは口を挟むこともなく静かに聞いていた。その真っ黒な瞳の奥で、ひかりが何を考えているのか、ひびきには見通すことができなかった。そして最後に、ひびきが悔しげに呟いた時、ひかりは細い首をかしげて問いかけた。

「ひびきにとって、ともみは必要なの?」

「……どういうことだ」

ひかりは普段おとなしいのに、突飛なことをさも当然といった風に言い出すことがある。ひかりの中では筋の通った考え方なのだろう、実際に聞いて一理あると思えるような内容だと思うことも多かったけれど、今のひかりは本当に分からないといった表情をしていた。そして、この時もひびきは、ひかりが何を言っているのか最初分からなかった。

「例えば、ともみ自身が戻るのを望んでいないとしたら?それでも、ひびきは連れ戻す?」

それはひびきが見て、ひかりに語った通りの、ともみの孤立した学校生活を踏まえてのことだった。例え帰ってこれたとして、戻った日常に居場所なんてない――ともみが望む通りに『ここではないどこか』へ消えることができたとしたら、それを引き戻す理由はあるのか?と聞いていたのだ。

「ともみの話通りなら相手の『魔術師』は何人居るか分からない、頭数は多い方が良い」

と答えたけれど、「わたしは『翼のない魔法使い』だよ?」と無頓着に言ってのけられて、ひびきは言葉に詰まった。ひかりは自分がそれだという事実よりも、ひびきがそれだと分かっていて力を借りようとしていることを疑問に思っているようだった。

――それが何であるのか、まだ分からないことの方が多いけど。

御岳鶴来がひかりを襲って来たのはそれを根絶やしにするためで、それは『人喰い道化』の惨劇を作り出した者達だということ。ひびきも『人喰い道化』が居なければ何も喪わず、今こうやって戦っていることもなかっただろうということ。それだけは確かだった。

「『夕暮れ戦争』を守りたいだけなら、『魔術師』のわたしに協力なんて求めずに、ともみの残した手掛かりだけ引き継いで犯人を突き止めればいい……だから、ひびきがそうまでして、ともみを助けないといけない理由って、何かなって」

ひかりは最後を曖昧な口調で濁して、喋りすぎたことを後悔するように黙りこんだ。そして気まずい沈黙が流れようとした時、ひびきは口を開いた。

「……自分がなんで、こんなに意地になってるのか分かってる」

二人しか居ない薄暗い保健室に、ぽつりと落とされた言葉。今度はひかりが不思議そうに顔を上げて、ひびきは彼女の眼を直視できずに、顔を背けながら話し始めた。

「陸號が大切だからとか、友達だから助けようとしているわけじゃない、それは嫌になるくらい自覚してる。今お前に話していること自体、あいつとの約束も破ってるんだ……あのさ言ったろ、ともみの教室に行った時のこと。あいつが消えたところで、誰もなにも変わらなかったし、学校は少しだって変わることなく続いてた」

その言葉に、視界の端でひかりが頷くのが見えた。

「うん……もう一人の誘拐された子、クラスメートだったんだけど、さっきまで居なくなってたことにも気づかなかった」

『日常』とは海のようなものだ。個人の生活とは水の分子で、それに満たされたものを『社会』と呼ぶ。それらは流動的で、そして全体としての流れは一つの個が欠けても維持され続ける。分子の一つ一つに力がなかったとしても、その膨大な数によって誰一人として逆らうことができないほどの大きな流れになる。ゆっくりとしか変わっていかず、誰一人としてその流れを制御することも、今の流れに逆らうこともできない。

「でも、誰かが欠けても回っていく世界、それが許せないんじゃない。オレが許せないのは――」

ひびきはそこで一旦言葉を切って、息継ぎをした。制服の襟元から露わになった、普段は隠している首筋に、冷たい空気が忍び込むのを感じた。まるで水底に居るように、呼吸の度に肺が水浸しになっていくように息苦しかった。それは学校という場所に感じたことかもしれないし、これから口にしようとしている言葉に対してかもしれなかった。

「……ともみが消える前、オレのこと信じてないのも、やりこめて利用してやろうって思ってるのも丸わかりで、ああやって誰にも勘ぐってばかりなら孤立しても仕方ないって、少しだけ思ったんだ。ともみのクラスのやつも口にはしなかったけど、多分みんな自業自得だって思ってた」

実際、誰か一人が悪意をもって、ともみを孤立させたわけじゃないのだろう。むしろ誰かが悪者であってほしいとさえ思っていたけれど、大勢の『普通のやつ』が悪いんじゃないことも分かっていた。ひびきは保健室の養護教諭の先生、カルナと呼ばれていた親切な上級生のことを思い出す。その中にはきっと、リノンのように何かを隠したまま、普通の幸せを求めて日常を選んだ人間もそっと混ざっていて。それ以上でも以下でもない、ただの人間だ。

「でも誰も悪意を持っていなかったとして、一度くらいは善意で手を差し伸べたりもしていて、だからそれを振り払って孤立していった相手の方が『悪い』というのが、どうしようもないくらい『正しい』ことだとして……じゃあ、『正しさ』って何だろうな。誰かを『助けない』ことが正しいはずなんてないのに、自業自得って言葉は正しいのか?」

ひびきは雪の降っていた廃ビル群でひかりと戦った時のこと、その黒い瞳がまるで自分の全てを見透かしているようで怖かったことを思い出した。きっと今もひかりは、自分が今までに見てきた『世界』を、蒼い瞳を透かして読み取ろうとしているのだろう。あの時からずっと、ひびきの観ているものは変わらなかった。それに気付けなかっただけで、『想い』は最初からずっとそこにあったのだ。

「ようやく分かったんだ、何がこんなに許せないのか。オレが今まで、何が憎くて仕方なかったのか」

かつて憎んだ、諦めたことを正当化するために『夕暮れ戦争』を嘲笑うようになった元魔法少女たち。自分自身は何もしないで、ただ言葉によって脆い自尊心を守ろうとする。なりたくないものに、なりつつある自分を自覚することは、極めて稀だ。それは今現在の快と不快に真っ向から反するもので、無意識のうちに目を逸らしてしまう。今こうやって学校に来なければ、そして御岳の言葉がなければ、それを直視することもできなかった。それは己の行動に理由を見出そうとする時、そして誰かの言葉や行為を責めようとする時に、決して考えないようにすることができる、たった一つの前提条件だ。

「オレが学校に来て『普通の日常』に混ざった時も、ともみを探して困っていた時も、誰かに歩み寄ろうとして拒絶されることはなかった。けど、それは『優しい』んじゃない、『何もしてない』だけなんだ」

今までそうあったものが、そうあり続けるというだけの、ともみに戻れる居場所がないのと表裏一体の出来事だ。一人ぼっちの人間はずっと一人ぼっちのまま。孤立した者との隔絶は決して埋められることはなく。そして、その事実から眼を逸らすために『自業自得』という言葉を行使する。ならば『正しさ』とは、弱い人間のためにある『助けなかった』という結論を覆い隠すための善悪論だ。

「“お前じゃ世界を、『そうあるがままの今』を変えることなんてできやしない。”それだけの単純な事実に、『仕方がない』と言い訳するために造られた論理だ。歩み寄ろうとしない相手の、力及ばずに状況を変えられなかった誰かの『弱さ』、欠点や悪行を挙げて自業自得だと糾弾する時、何かしようとすら考えず、誰かにどうにかしてもらおうとしか考えなかった『自分の弱さ』からは眼を逸らしていられる……オレは、それが許せなかったんだ」

「あなた一人が、そこまで『弱さ』を観続けて、それに対峙する必要なんてないのに……それは、『弱さ』は、そんなに悪いものなの?」

ひびきの言葉を途中で遮って、ひかりは首をかしげて問い掛ける。ひびきも、それを否定することなく頷いた。

「ああ、確かに『弱さ』が誰かを救うこともあるかもしれないさ」

それは例えば同情や共感とか、自分の至らなさを知ることによる寛容だとか。誰かが幸せになるのが『嬉しいから』支援する、不幸な誰かが『かわいそうだから』手を差し伸べる、それで日常は回っているし、きっと助けられてる人も大勢居る。

「けど、それは自分の生活や安全が侵害されない時だけの話だ。善意とは今日生きていけるだけの蓄えを確保した後の、余った端金によって与えられるものだ。それ以上を求めようとすると、『正しさ』という侵されない安全圏に逃げ込まれてしまう。そして誰かを救う『自分の弱さ』に気付くことはあっても、誰かを傷付けたことすら認めたがらない『自分の弱さ』には、絶対に気付くことが出来ない。だから、『弱さ』なんて糞くらえなんだ」

能動的な悪意はなく、ただただ『弱い』だけの、それを認めないために『正しさ』を盾にする『普通』の人々。それが幸せに生きるための条件だとしても、その一員になんて絶対になりたくない――それが、ひびきの『理由』だった。

「……わたしは誰かが優しいとか、優しくないとかも、考えたことなかったな」

困ったように笑うひかりを、ひびきは何も言わずに見つめ返した。共感されるはずもないことも、ひびきは最初から分かっていた。自分達に共通するのは、ただ日常を受け容れて生きることができずに、『ここではないどこか』を目指して『扉』へ向かったという事実だけだ。背負ったものは誰一人として同じでなく、生きている世界も星と星の距離よりも遠い。

「……お前が力を貸してくれるなら、明日もここで待ってる」

最後の授業の終わりを告げるチャイムが鳴り、ひびきはひかりと別れる前にそう言い残した。


放課後のホームルームで伝えられたこととして、日中の警察による聞き込みでも不審者どころか、消えた陸號ともみと佐々木しおんの失踪するまでの目撃情報さえなかったらしい。ひびきは集団下校を避けて早めに帰ろうとした時に、保健室の先生からその話を聞いたのだった。ひびきは誰も居ない家に急いで帰った後、腑に落ちない点について思い巡らせていた。

――ともみは一体どこで『消された』のだろうか?

必要以上なまでに警戒していたはずの彼女が『対象書き換え』を行う条件を満たされたタイミングが、ひびきには分からなかった。ともみが明かさなかった『心当たり』の相手が魔術師であったか、少なくとも彼もしくは彼女に直接会いに行ったことが失踪の切っ掛けであったと考えて良いだろう。

だが大きな効果を持つ『書き換え』ほど、厳しい条件を満たさなければならないのがセオリーだ。もし正体を知られたからといって即座に相手を消せるような魔法を持つなら、ともみが言うように『美化委員会』のマッチポンプのための一員であったとしても、その魔術師はもっと早くに『夕暮れ戦争』を制圧することができていたはずだ。その正体の片鱗さえも掴ませない魔術師の魔法について、ひびきには一つ思い浮かんだ仮説があった。


――失踪した子供達が『魔法の発動条件を満たされた』時期と、『魔法が発動して連れ去られた』時期が違うとしたら?


なんの前触れも徴候もなく人が消失する、それこそお伽噺の魔法[マジック]のように。ひびきが思い出していたのは、なんてことのないテレビで目にするような、箱の中に入った人を消してみせる手品[マジック]だ。

手品では不可思議な現象で消えたように見せかけられていても、実際に人を消滅させたり別の場所に移動させているのではなくて、消える人が仕掛け人だったか、使う箱などの道具に事前に仕込みがしてあるといったトリックが使われている。そして手品師が『今から箱に入れた人を消して見せる』と言った時には既にトリックは終了していて、相手の宣言の後にいくら観察したって手掛かりなんか得られない。

白い少女が『たった一人、自分が手を出せない魔術師』だと語った時のことが記憶になければ、そんなことは考えもしなかっただろう。“その魔術師は日常の中で目標に近付き、魔法を発動するための何らかの『条件』を達成する。けれどすぐに魔法を使うことはなく、対象が魔法少女に変身した直後に、既に条件を満たしていた何らかの魔法を発動させて連れ去るんだ。『変身前の人間』には攻撃していないし、『夕暮れ戦争』の中に魔術師として侵入しているわけでもない。”

もし消された子供達の条件を満たされたタイミングと、魔法が発動したタイミングが違うとしたら?ひびきは『対象書き換え』の魔法を持っていたから、その想像をするのは容易かった。例えば自分のように『生成した剣の刃に対象が触れている』ことが発動条件であるとして、『誘拐を始める時点』では剣が既に刺してある。それが目に見えない剣であるなら、誘拐したい全員に刺してから遠く離れた場所で起動させることも可能だ。魔術師が今この瞬間も、条件をすでに満たされている相手だけに魔法を発動させているのだとしたら、これから相手に近付く必要も、監視の目が厳しくなった街中を出歩く必要もないのだ。仕込みを終えて既にこの街から出ている可能性すらあって、だとしたら今からの防犯対策や犯人の捜索に意味なんてないのかもしれない。

ひかりに伝えるには余りにも荒唐無稽で、根拠の薄すぎる仮説だった。けれど、この仮説が合っていた時のことを考えて、ひびきは背筋が寒くなる。ともみが既に条件を満たされていたとしたら、じゃあそれは何時からだ?そして、ともみ以外にどれだけの人数に『仕込み』がされているんだろうか?それは新たに三人の生徒が姿を消した晩のことだった。


――


今晩の食事は、品数も多い豪勢なものだった。ひかりの快気祝いだと言って、凝り性の火ヶ理は脂の乗ったレバーを炭火焼にして、林檎のコンポートを添えたものも作っていた。こってりとした味わいの白レバーが林檎の自然な甘みで和えられて、前菜かデザートのようにさっぱり食べられるようにしたものだ。

「――例えばだ、ひかり。」

火ヶ理はフォークに刺した四つ切りの林檎を軽く掲げながら話し始めた。

「この『林檎』を視るためには、『この赤い果物が林檎と呼ばれた』ことを覚えておかないといけないし、林檎の甘酸っぱい香りを嗅ぐためには『林檎を齧ると口腔内の味蕾に、甘酸っぱいと命名されている感覚が広がる』ことを経験しなければならない。そして、その時に知覚した香りが『林檎』という記憶と連関することで、例え林檎を視なくとも、そして実際に味わうことがなくとも、その香りを嗅ぐだけで林檎の甘酸っぱい味が想起される。だから嗅覚であっても『甘酸っぱい』という形容詞が使われるんだ」

火ヶ理の働いている仕事の小難しい話も、二人で言葉を交わすようになってから十年以上になる今となっては最早慣れたもので、ひかりは食事の手を止めないまま話を聞いていた。遠く向こうの地表からはパトカーの音がひっきりなしに鳴り響いていて、後になって分かったことだが、集団下校でPTAや教員が巡回していたにも関わらず、九時頃になっても三人の生徒が帰ってきてなかったのだ。

「付加される情報によって事象を判別するのは、生物の認知の基本的な機序だ。例えば損害や苦痛を受けた時の記憶と紐付けて認識された『敵』に対して恐怖や怒りを感じ、実際に攻撃される前に反抗や逃亡を選択できないものは生き残ることなんてできない。しかし、例えどちらにも能動的な害意がなかったとしても、この機序によって敵同士というものが生まれることがあるんだ」

ひかりは添えられた林檎のコンフィチュールを一掬い口に含んでみる。様々な材料とともに調理され本来の味から変化して、原型を留めないくらいに磨り潰された後でも、その中に『林檎』が入っているのだと色と味と香りから分かる。それは当たり前すぎて、普段は考えもしないことだ。

「ほとんどすべての生物は、敵意を読み取れる素振りを見せる相手が、往々にして自分に攻撃してくると学習している。或いは本能で、生まれつき敵意には敵意で返すようになっている。どちらか一方が、これまでに自身に危害を加えてきた『敵』の記憶に、目の前の相手の持つ情報を連関させて『敵』だと認識してしまえば、認知の対象である相手もまた、敵意を向けてくるそれを『敵』として認識する」

ひかりは食事の手を止めて顔を上げる。火ヶ理がなんのことを話しているかを理解したからだった。自分がさっきまで話していた、孤立したまま失踪した女の子――陸號ともみのことについて語っているのだ。最後の授業時間にひびきから話を聞いた後、ひかりは集団下校でその日は帰宅するしかなくて、火ヶ理に『ある女の子』のことを食事がてら話したのだった。

「人は認知したもの以外を経験することはできない。例えば誰かの経験を聞いたとしても、それが『誰かに~と言われた』という記憶になることから分かるようにね。記憶されるのは感覚器によって得られた純粋な『知覚』ではなく、視覚による個人の判別や、音の連なりの言語としての理解などを経た、つまり『これまでの記憶』に基づいて構成された『認知』であるんだ」

新たな知覚は、これまでの経験全てによって影響を受けた上で認知となる。そして認知によって得られた記憶はまた新たな経験となり、次の認知に影響を与えることで記憶の連関はより強固になっていく。敵だと見なした者からは自分を傷つけかねない仕草や意図を優先して読み取ろうとするようになるし、ひどい恐怖を感じさせられた物には再び対峙しただけで傷付けられることに怯えるようになる。

「そして人間そのものや、世界そのものを一括りに過去の記憶と連関させるようになった人は、助けようとしている相手さえも同じように敵や恐れるべき者として認識してしまうから、それを変えるのは難しいものさ……お前も、出会った頃はそうだったろう?」

火ヶ理の言葉に、ひかりは少しだけ微笑んで頷いた。

「あんまり昔のことは、覚えてないけど……そうだね、ずっと、そうだった」

かつて恐れるもの全てから距離を取るために、己の味わう恐怖や苦しみを他人事として捉えるために、ひかりは自分自身を遠くから観察する術を得た。周囲に薄膜を張って、どんな知覚もその向こう側にある他人事として傍観するように、そして誰の言葉も薄膜を隔てて聞き流すように。そこから出ようとすれば、かつて味わった痛みをまた味わうことになるのも学習して、いつしかその場所から出られないようになっていた。

「人間の精神は、必然のみで形作られている。これは考えてみれば、至極当然のことなんだ。例えば人が己の意志によって環境や他者を、そして自分自身を変えることができるとしよう。じゃあ、その『意志』とやらは、どうやって育まれたのか?」

生まれたばかりの赤ん坊の精神に差異があるとしたら、それは遺伝によって形作られたか、胎生時の外部から受けた影響による脳構造の違いだ。そして身体の成長や脳の拡大とともに、己の五感から受け取る知覚を積み重ねていくことで精神は変性していくが、受け取ることのできる情報は家庭の地理的や経済的な事情、親や周囲の人間といった生育する環境に依存する。

「意志を生み出す精神は、環境によって形作られるものだ。精神や意志の存在を否定している訳じゃない。ただ『己の精神の形成に、己の意志の介在する余地はない』という、ある意味当たり前の事実だ。どんな精神も、どんな意志も自身で選び取ったものではなく、与えられた遺伝と与えられた環境の、帰納的な結果として形作られるものだ」

歩く時に今出した左足、そして次に出す右足の一つ一つを吟味する人なんて居ないように、人が何かについて考え、出した結論を実際の行動に反映させることなんて本当はそう多くない。ただ周囲の環境から与えられた情報の記憶と、それに対して取った行動の経験の積み重ねによる日常の僅かな変化を繰り返すことによって今の『自分』に至っている。それは己の『魔法』が必ずしも、自身の望んだものではないのと同じように。

「……じゃあ、仕方がないのかな?その女の子は一人ぼっちなのが当然で、ずっとそのままなのかな?」

ひかりは誰に尋ねるわけでもなく、独り言のようにぽつりと呟く。この時火ヶ理がひかりに伝えていなかったこととして、既に保護者の連絡網を使って他の生徒の安否確認の電話がかかってきた後だった。最初の二人の時点で誘拐だと疑われていたから、三人の子供の親からの連絡があった時点で大勢の警察が動員されて捜索にあたり、翌朝には隣町で十数人の子供が失踪したことと関連付けるニュースが流れることになる。

「答えは分かっているはずさ、今のお前なら」

火ヶ理は組んだ両手に顎を乗せて、微笑みながらひかりの顔を覗きこむ。微動だにしない火ヶ理の黒い瞳孔には影が落ち、全ての光を吸い込んでしまったように暗くなる。どんな暗闇の中の、些細な変化でも見逃さないような視線を真っ向から受け止めて、ひかりは静かに微笑んだ。

「ごちそうさま、今日も美味しかったよ」

ひかりは料理を綺麗に平らげられた後、手を合わせる。「ああ、愛してるぜ、ひかり」ひかりの解いた髪を、火ヶ理は優しく撫でる。そして昨日までもそうしていたように、ひかりは母の両手に抱かれるようにして、寄り添って眠ったのだった。


所在が掴めなくなってから72時間が経過した事で、最初の犠牲者である佐々木しおんの失踪扱いが法的に確定した時には既に、5人の生徒が姿を消していた。隣町での事件に比べても明らかに過剰なペースで、魔法の隠匿も考えていなければ、攫った相手から『想いの欠片』を搾り取ることさえ目的でないのかもしれない。今回の一件で警察を動かしていた者は『温すぎた』と後悔した。もとよりあれは、利用できるような相手ではなかったのだ。

最初の二人が消えた時に、皆がもっと深刻に考えていれば――考えていれば、どうなったのだろう?既に『条件』を満たされている者が多くとも、犯人が姿を眩ませる前に捕まえて魔法の発動を封じていれば、犠牲者の数を少なくすることはできたかもしれない。だが最初に狙われたのが、消えたとしても誰も大きな損失だと考えないような孤立した子供達だったから、消されたことを利用して自分の利権を拡大しようだなんて悠長なことを考えていられた。そして犯人もまた、ただ己を利用しようとしている『美化員会』の初動を遅れさせることで、致命的なアドバンテージを得られると分かっていたのだ。まるでそれが世界の仕組みであるかのように、戦局の移り変わりは最初から決まっていたのだ。


翌朝また来たひびきが知った時、みんな『仕方がない』とさえ言わないようになっていた。次は自分がそうなるかもしれないという事に、ようやく気付いたのだ。新たに誘拐された三人と友達だった生徒は多く、その無差別なやり口から犯人は『想いの欠片』ではなく『世界への損害の大きさ』そのものを目的としているようにも考えられた。

『美化委員会』がマッチポンプの役目を持っていた仲間に裏切られたか、利用して勢力を拡大しようとした魔術師のやり口が予想以上に過激だったのかは分からないが、美化委員会のやり方では温すぎたのだ。既にその事を自覚しているらしい『美化委員会』らしき組織が、もはや隠匿も手段も考えずに連続誘拐犯を追って潰そうとしているのも見て取れた。今朝から警察は潜伏場所と考えられるような人目につかない場所に片っ端から立ち入り調査をして、日中も常に情報提供を求めるニュースと警察による見回りが続いている。或いは『夕暮れ戦争』も中止された今、犯人の探知と殲滅を目的として、魔術師が日常の世界に投入されることもあるのかもしれない。

犯人がたった一人で『美化委員会』や公権力と戦って、勝算があるのかどうかは分からなかった。或いは最初から生き残ることさえ考えていなくて、自分の命と引き換えに世界と心中するつもりなのかもしれない。ただ一つ確かなのは、最早誰にも事件を利用して夕暮れ戦争を支配するような猶予がないということだ。自分達の居場所であった黄昏の星空は、きっと跡形さえも残らないような戦いになる。


――


この学校の生徒会は一年制で、今の生徒会長には去年度の後期に入った際に引き継がれた。生徒会長と言っても文化祭や体育祭といった行事の企画、運営以外に生徒会の仕事などないのが今までの慣習だった。部費の配分は先生に一任されていたし、建物の改築や、新たな教育方針などを学校側に進言しても聞き入れられることは中々ない。最初は熱意に溢れていた生徒会長も、時が流れそういう現実を知るにつれ、ただ内申点のためにお飾りを務める仕事だと割り切るようになるのが常だった。だが今の生徒会長は、前から要望はあったし不可能でもなかったけれど、実現されていなかった小さなことを一気に実行に移したのだ。

例えば長年のごみや埃が蓄積していた部室棟の生徒による大規模清掃だとかといった、教師側からも反対されないような実現可能だけれど面倒なこと、むしろ面倒臭がりの生徒側の不興を買うのが怖くて誰も言い出さなかったようなことを、自分が先頭に立って行うことでやりとげてしまった。決して歴代の生徒会長に比べてカリスマがあるわけじゃないが、なにをするにも自分から動く。大きなことをしたわけではないけれど、そこそこ人気のある生徒会長――ひびきは前にそういう話をリノンから聞いていたが、それがともみの妹であることは初耳だった。そして昼休みに保健室を訪れたひかりは、すでに陸號みともに会いに行く手筈を整えた後だった。

「でも早期下校とか集団下校って言ってた生徒会長が、仕事に追われてて早く帰れないなんて本末転倒じゃねえか」

ひびきは呆れたように言いながらも、ひかりの行動の早さに内心驚いていた。ひかりは生徒会の手伝いをしていて生徒会長に面識のある友人を通して、放課後に会いに行けるようにアポを取ったらしかった。

「うん、家から車で送迎してもらってるから大丈夫らしいけど、“あの人はお人好しすぎる”って知り合いの子も言ってた」

ひかりは保健室の先生に許可を貰って持ち込んだ弁当箱を開けながら、笑って頷いた。ひかりの印象に反するような肉の多い中身にひびきが驚いていると、「お母さんが、お前はもっと食べて大きく育てって」と恥ずかしげに笑う。ひびきは昨日腹を空かした反省から食パン一切れを持ってきていたが、朝のニュースを見てから身体がろくに食事を受け付けなかった。

「それでね、放課後わたしに付いてきて欲しいの」

ひかりは時雨煮のようなものを口に運びながら、上目遣いになって言った。ともみを探す手がかりになるかもしれない提案を断る理由もなかったが、ひびきは一つ聞いておきたいことがあった。それは昨日ひかりに尋ねられたことと同じ内容だった。

「お前はどうして、ともみを助けようとするんだ?」

ひびきがひかりと出会った時の第一印象は、少し消極的なだけの普通の女の子というものだった。片親だけど金銭的に問題があるわけでもなくて、火ヶ理は少し言葉を交わしただけでも、一人で二役こなせそうな超然とした、そして優しさもある人だと分かった。リノンから聞く限り、クラス内でも明るく社交的というわけではないけど、孤立していなくて友達もそこそこ居る。なにより彼女自身に、日常に居場所を見出せないような要素が見当たらないのだ。だから、これだけ大事になっているのに、何事もなかったように再び保健室に来たひかりを見た時は、助かると思う反面、半ば信じられなかったのだ。

「友達だから、かな」

ひかりは、いつもの困ったような微笑みを浮かべて答える。その言葉はとても簡潔で、ひびきの『理由』よりはよっぽど真っ当なものであるはずだった。けれど暴走した誘拐犯と『美化委員会』の激突が避けられない、絶望的な現状の何もかもを聞いた上で、普段となにも変わらない様子で口にしたひかりの答えを、ひびきは心の底から信じることができなかったのだ。


生徒会室は、三年生の教室がある階の奥にあった。つばめが手慣れた様子で扉を開けると、縦に細長い生徒会室の全容が露わになる。並んだ机や椅子は綺麗に整えられていて、不要なもの――お菓子の袋やごみ等が転がっている事もない。ただ、経費削減で灯りが切られているため、光源は沈みかけの西日だけで、薄暗い部屋の中にはどこか物寂しい雰囲気が漂っている。そして奥の窓を背にして、少女が一人だけ机に置かれた書類と向き合っていた。

「生徒会長、他の人たちは?また仕事も生徒会長に任せて、先に帰っちゃったんですか?」

つばめの声に気付いて、少女が顔を上げる。少女は右側面で一つに結わえられた髪以外、ともみとそっくりの顔をしていた。ともみに似た少女は、淑やかな笑みを浮かべてつばめに言った。

「ううん、いいのよ鷲尾さん。わたしが勝手に残って、やってるだけだから」

みともの机の前に高く積み上がった書類の山は、とても陽が沈み切る前に終わるようなものだとは思えなかった。「もうすぐ冬休みだからね。色々やっておかないと」そう言って、仕事を続けようとするみともの目の前の書類の、半分ほどをつばめが持ち上げる。

「わたし、手伝います。わたしも今日は、お父さんが迎えに来てくれますから」

少女は咄嗟に何か言おうとしたが、少し迷った後に「ありがとうね、鷲尾さん」と感謝だけではない複雑そうな表情で頭を下げただけだった。

「生徒会長なんだから、もっと堂々としててください。ちゃんと自分から言わないと、誰も気付いてくれませんよ」

普段ひかりが見ているのと同じように、つばめは上級生相手でも振る舞いを変えないようだった。

「頼まれなくてもやってくれる鷲尾さんには、本当に感謝しているのよ?」

つばめは頭を抑えて、呆れたようなため息をつく。ひかりは入り口で立ち止まって、二人のやり取りを黙って見ていた。そして後ろの廊下で、ひびきも心持ちひかりの後ろに隠れるようにしながら立っていた。

「つばめさんは、勇気がある人ね。何かをお願いするのは、とても勇気が要ることだわ」

「勇気なんて要らないですよ。当たり前のことをお願いするだけなんですから」

口を尖らせるつばめに困ったような笑みを浮かべた後、少女は不意にひかりの方を向いて言った。「そちらの方が、あなたの話していたお友達ですか?」ひかりの肩越しに少女を見たひびきは、双子の姉である陸號ともみと変わらないはずの出で立ちに、ともみと全くの正反対の落ち着いた印象を抱いた。

「……初めまして、陸號みともさん」

ひかりが遠慮がちに頭を下げると、みともは静かに微笑み返す。

「なんか、生徒会長と話したいことがあるらしくって。お仕事は隣の教室でやっておくから、ちょっとだけ話を聞いてあげてもらえないですか?」

二人の間に立っていたつばめの言葉に、みともは快く頷いた。

「ええ、構いませんよ」

つばめが書類を抱えて出て行った後、ひかり達は机を挟んで、みともの真正面の椅子に座らされる。みともの背後の西向きの窓から、沈みかけの陽の光が差し込んでくる。目を細めたひかりに気付いて、みともはカーテンを閉めてくれた。

「それで、用というのはなんでしょう?」

落ち着いた物腰と、淑やかな表情。姉が行方不明だなんてことは、おくびにも出さないような振る舞いだった。そしてひびきが何か言おうとするよりも先に、ひかりが「陸號ともみさんの事です」と口にした。陸號みともは、表情を変えなかった。

「わたしは、あの人のことを探しているんです。あの人がどうして居なくなったか、何処へ行ったのか心当たりはありませんか?」

苦笑のような表情を浮かべながら、みともは首を傾げる。

「お力になりたいのは山々ですが……もしそんな心当たりがあるなら、既に警察に言っていますよ。それに明確な手がかりを誰かが持っているなら、今頃は姉も見つけられている筈じゃないでしょうか」

みともの言う通り、手掛かりなんて無くて当然だ。そう分かってはいても、ひびきは内心で落胆を隠せなかった。誰も失踪した子供達を探そうとしない一番の理由は、彼女が孤立していたからではなくて、自分達ではその行方を探すことが不可能に近いからだ。自分達だけがともみを探そうと動いたところで、厳然たるその事実だけは動かないのだ。

「じゃあ、なんでもいいんです。あの人について教えてほしい」

しつこく食い下がるひかりに、みともの微笑みに少しだけ怪訝そうな感情が浮かぶ。ひかりは彼女に縋っているのではなくて、むしろ『これで駄目なら次に行く』とでも言いたげな淡々とした様子で、みともは思わず問い返した。

「……あなたは、姉の、何ですか?」

ひかりは瞬きもせずに彼女を注視し続けたまま、敢えて躊躇うような素振りを見せてから、ゆっくりと言葉にする。「友達、です」名状しがたい何かが、みともの心に張り巡らされた壁の内側で蠢いたのを、ひかりの眼は確かに捉えた。

「篠崎さんの気持ちは分かりますが、わたし達が動いたところでどうにもなりませんよ。今も警察や先生といった大人の人たちが、姉さんや居なくなった他の人たちを探すために身を尽くしてくれているのを立場上よく耳にします。だから、私たちはまず自分達の身の安全のことを考えて、事件の解決は大人に任せるべきだと思います」

それは大人が聞き分けのない子供に諭すような口調で、事実みともは生徒会長であり、学校の中で大人に一番近い子供なのだった。「……だけど、」とひびきは言い返そうとして言葉に詰まる。みともに自分達が事件を解決できる力を持つ、魔法使いであることを言うわけにもいかないのだ。

「もちろん、それでも何かしてあげたい気持ちも分かります。あなた方が姉を、友達だと思ってくれているのでしたら……でも、あなたは姉さんのことを友達だと言いましたが、姉さんも本当に友達だと思っているでしょうか?」

「居なくなってるんだ、そんなこと言ってる場合か」

ひびきが思わず言い返すと、みともは素直に頷いた後、こう続けた。

「……ええ、その通りですね。知っている人が居なくなりもすれば、誰だって不安に心を掻き乱されます。でも、だからこそ、あの人は何処かへ姿を消すことで、追いかけてもらおうとしてるんじゃないでしょうか?」

「どういうことだ?」

ひびきは問い返す。それに答えるみともの言葉は、『助けようとしている』ひびき達への怒りさえ含んでいて、無意味な正論よりもよっぽど重いものだった。

「世の中は、なにか欲しいと思ったら、そのためにそれなりの努力をしないといけない――特に、それが他人に対して求めるものである時には。誰かに愛されたいと思うのならば、まず自らが愛されるように振る舞わなければならないんです。それを理解できなかった姉さんは、今までもわざと危ない事をしたり、素行を悪くして心配されることで気を惹こうとしていました。姉さんが前に家出した時の話、聞いたことはありますか?」

ともみはかつて『扉が見える』と言って廃工場に向かい、遅くまで帰らなかったことで騒ぎを起こした。ひびきが初めて知った『扉の事件』についての全容は、『扉』が見える子供達にとっては全く別の意味合いになるものだった。そして間近でそれを見続けていた、真っ当に生徒会長として人望を集めていた妹にとっても、また違う意味を持つことかもしれない。

「『扉』が見えるだなんて、『だから自分は特別な人間なんだ』って気を惹こうとしてるだけで、霊感少女のふりをする小さな子供となんら変わりません……そして誰にも顧みられなかったとしても、『かわいそう』だからと優しくする人が居るから付け上がって、また自分が消えたら心配してくれる人が居るのを確かめるために同じことを繰り返す。あの人は今でもそうやって他人に求めてばかりで、誰にも何もしてあげようとしないまま、わがままばかりを通してきました」

ひびきは目の前に居る少女のことを、ようやく『厄介だ』と思うことができた。“ともみ”と“みとも”の姉妹関係について多くは知らなかったけれど、その話し方がどことなく自分と二人きりで居る時のともみに似ていることに気付いたのだ。それがお人好しの『生徒会長』としての仮面に隠されているだけで、自分の思った事を言葉にするのではなくて、何をどう話せば相手を思い通りに動かせるか考えて話しているのが姉と同じだった。カルナ達の口にしたような自身への無意識の言い訳ではなく、ともみを助けようとしている自分達に向けて悪意を持って、ともみが本当に助けられるべき存在かどうかを問い掛けているのだ。

「……放っておいて、誰も追いかけてこないのが分かれば、いつか自分の足で歩いて帰ってきますよ、それがあの人のためでもあるんじゃないでしょうか?」

みともは最後に、ひかりの方に向き直ってそう締めくくった。ひびきは不意に、ともみが失踪する前に口にした『心当たりのある』美化委員会に繋がりのあるかもしれない人物とは、陸號みともの事だったのではないかと思った。学校やそれ以外の大人と日常的に接する機会が多く、そして生徒達のことを子供の視点から広く知ることのできる立場。もしそうだとしたら、魔法がなければ無力な子供に過ぎない自分達に、彼女を突破して必要な情報を引き出すことができるのだろうか?苦しげに言い返そうとしたひびきを制して、ひかりが口を開いた。

「何かを分かる必要なんてありませんよ。何がともみのためになるとか、あの人が何を考えて消えたのだとか、自分達のことをどう思っているかとか、自分達が動いて何か変わるのかとか――あの子が助けられるべきかどうか、だなんて考えたこともありません。そんなこと、どうだっていいから」

みともが微笑を崩す。ひびきはぞわりと鳥肌が立つような怖気を感じて、「今、なんて言った……?」と、思わずひかりの方に振り返る。その冷たく突き放したような言葉を、ひかりが口にしたということが受け入れられなかったのだ。ひかりの本心が不意に分からなくなることは、今までにもあった。けれど今の状況下にあっても平然としていられるひかりを見た時、ひびきは彼女がまるで自身を取り巻くものに対して強い感情を、そして興味さえ今まで抱いたことがないのかと疑いさえし始めていた。

「……じゃあ、お前はどうしてともみを助けようとするんだ」

ひかりは困ったような微笑を浮かべる。ひびきは『普通の女の子』にしか見えない彼女の仕草が、本当の彼女のものでないことにようやく気付いた。ひかりは自分の心と、それを出力する表情や言葉といった所作の間に、一枚の『壁』を立てている。そうすることで社会に溶け込みながらも、周囲に透明な薄膜を張っているかのように、決して埋めることのできない隔たりを他者との間に保ち続けているのだ。

「『立ち止まって抗うか、受け入れて前に進むか』だよ、ひびき。誰かを助けるために動くと決めたなら、『助け出せるかどうか』を語る意味はないし、助けないことを選んだなら『助けられなくても仕方がないこと』を主張する必要もない。どちらにしたって『今どうであるか』を主張したり、議論しなくたって良いんだ」

ひかりの微かな声は、それ故に斜陽の差し込む生徒会室の静寂に、浸み込むように響き渡る。自分以外の誰もが言葉を失ったその刹那、ひかりは周囲を取り巻く見えない敵と、絶望的なまでの今の窮地について思いを巡らせていた。

――連続誘拐犯と『美化委員会』のことは、調査を始めた時点で知らない情報が多すぎて、そして敵対しているものが強大すぎて、きっと最初からひかりが居たとしてもどうしようもなかっただろう。

――けれど自分の正体が『魔法少女』でない、もっと恐ろしいものであったとして。『夕暮れ』がやがて魔術師の『夜』に呑まれるものだとして。そして人の精神には必然しかなくて、ともみが孤立することも最初から決まっていたとして。

「今がどうであるかなんて、どうだっていい。今までのことも考えなくて良い、わたしが考えるべきなのは――わたしがこれからどうしたいのか、そのために何が必要なのか、それだけでいい。わたしにとって、ともみは必要な友達、だから助けに行く」

ひびきは『普通の女の子』の薄膜[ヴェール]を脱ぎ捨てたひかりの本性を目の当たりにして、恐怖だけではない感情に身を震わせた。ひかりの視る世界には誰も存在せず、文字通り全てのものに一切の感情も抱いていないのだ。今の逆境や敵の数、そして自分の身に及ぶ危険さえも、己が目的に向かって進み続けることを止める理由にはならない。それはきっと、ひびきが自身と周囲の人間に見出していた『弱さ』の対極にあるもので、全ての魔術師を殺すと言ってのけた御岳の、あらゆる倫理や常識を彼岸に追いやった混じりっ気のない意志と同じものだ。それは正常とは程遠く、けれど目的のために『正しさ』を一切合切捨てたその言葉は、普通の人たちの『ともみを助けないための沢山の正しい言葉』を一言で置き去りにする力を持っていた。

「……陸號みともさん」名前を呼びかけられたみともが、心なしか怯えたような視線を返す。「わたしには『助ける』という目的があるなら、ともみが助けるに値する人間であるかどうか判断する必要がない。あなたが姉を『助けるべきでない』と口にするのは、一体どうしてでしょう」

人間の精神は必然のみで形作られている。ならば人のどんな感情や意志、そこから生み出される行動や言葉にも、必然の理由がある。陸號みともが語った言葉の『意図』を、ひかりは確かめた。お人好しの善人として通っている生徒会長が、何故こうまでして自分達にともみを追うのを諦めさせようとしていたのか。

「――お姉さんのことは、嫌いですか」

ひかりは、ここにクラスの知り合いが居なくてよかった、と思う。篠崎ひかりがこんな風に話すところを、つばめやリノンに見られたくはなかった。そして、みともとつばめの会話を聞いた時から抱いていた漠然とした推測は、ひかりが実際に彼女と言葉を交わす中で確信に変わっていた。

――みともは自分と同じで、周囲に薄膜を張っている人間だ、と。

ひかりが『居ても居なくても良い自分』の殻を纏って生活しているのと同じように、みともは人に尽くして、誰からも好かれる『生徒会長』としての姿を演じている。それは巧妙に作り上げられた偽りの姿で、けれどひかりにとっては、鏡のように見慣れたものだったのだ。

「あなたのお友達のことを、悪く言えませんわ」

辛うじて笑顔を保ったまま、みともは口を開く。「お姉さんに、消えてほしいと思っていた?」みともが、ひかりの後ろにある生徒会室の入り口の扉を見た。鷲尾つばめは、しばらくは帰ってこないだろう。

「わたしが、お姉ちゃんをどこかに連れ去ったとでも?冗談はやめてください」

ひかりはかつて自分の恐れるものや、己の味わう苦しみから距離を取って他人事として捉えるために、周囲に薄膜を張って自分自身を遠くから観察する術を得た。周囲の人と関わって『篠崎ひかり』の人格として他者に認識される『演じている自分』とは、演じることを選んだ『本当の自分』を守るための薄膜だ。日常の中で何かを認識して反応を返すのは、『本当の自分』が作り上げた『演じている自分』で、『本当の自分』はただそれを眺めているだけ。ひかりは普通の女の子のように話して、笑ったりしている『薄膜』を、演じることを選んだ自分が遠いところから見ているような感覚をいつも感じていた。

日常の中で『何かを演じる』とは、そういうことだ。ひかりは自分が纏う薄膜に何を演じさせるかを決められるけど、実際に演じるのも傷ついたりするのもその薄膜で、ひかり自身じゃない。誰かが悪意を持って『篠崎ひかり』を攻撃しようとしても、彼らの知っているのは本当の彼女でないのだから、どんな言葉も的外れにしかならない。

「……あなたは何よりも、わたし達があの人を助けようとしていることが許せないんですね」

陸號みともも、きっと同じだ。目の前に居る『みとも』の事を変えようとしたり、秘密を知ろうとしても、いくら会話しても触れ合っても『中身』にこちらから触れることはできない。そういう人間の『薄膜』を壊すには、内側に居る『本当の自分』を探り当て、それを暴くような言葉を投げ掛ければ良い。当の本人は覚えていないだろうけど、ひかりにそれを教えたのはひびきだった。ひびきと仲間になる前に、全てをスクリーンの向こうに隔てて時が過ぎ去るのを待とうとした、その自分自身を見透かしたような言葉を投げ掛けられたことがあったのだ。それは一度として他人の言葉に心を動かされなかったひかりを自己嫌悪させるほど強い言葉だった。

「――分からないだけです。あんな人のことを何故、そうまでして助けようとするのか……あの人はなんの努力もせずに、自分が愛されてないのが悪いんだってふて腐れて、当たり散らして。わたしは両親の期待に沿ってここまで来たんです。みんなのやりたがらないことを進んでやって、生徒会長にまでなって」

薄暗い生徒会室の中に、光の加減で色を変える、頑なさを秘めた鳶色[ヘイズル]の瞳が浮き上がる。含んだ棘を隠そうともしない言葉に、ひびきは初めて目の前の少女がともみに似ていると思った。ひかりとの会話で普段演じている『生徒会長』としての殻に亀裂が入り、彼女の『陸號ともみの妹』としての一面が見え始めていたのだ。それは隠しているのでも演じているのでもなく、様々な姿はその全てが本物の彼女の一面であって、孔雀の羽が広げられるように一瞬にしてその様相を変える。

「努力せねば愛されない。条件付きでしか、何かを先に支払わなければ愛されない。ここは、そういう世界なんです。ねえ、迷惑かけてばっかで他人になにかを与えてあげることもなくて、自分の周りがどれだけ不公平か、自分がどれだけ愛されてないかを考えるので精いっぱいな人を、誰が愛せるって言うんですか」

椅子をがたんと揺らして立ち上がり、苦しげな表情で、声を殺して叫ぶように話すみともは、ひかり達を見ているのではなかった。一体みともは誰に向けて話しかけているのだろう?と、ひびきは疑問に思う。彼女の背には夜に染まりつつある空がカーテンを透かして、ともみと瓜二つの姿を浮かび上がらせる。

「あなたも『扉』が見えているんですね?」

みともは心臓を刺し貫かれたように、動きを止めて立ち尽くす。ひびきも愕然として、それを口にしたひかりの方を見た。

「つばめが言ってたんです、生徒会長は『良い人』すぎるって。辛くても表に出さずに、どんな苦労も不平不満を言わずに引き受けるんだって。でも、ともみは勝手に周りを敵視して話し合おうともしない、要求ばっかりで自分がそれを与えられるように動こうとしないから嫌われるんだって、つばめは言ったことがありました」

それは今となっては随分昔に思えるけれど、一度『夕暮れ戦争』から身を引いたひかりを、ともみが連れ戻そうとしてつばめと言い合いになった時のことだった。

「あなたはまるで、その正反対――周りにとっては利益しかない存在だけど、あなた自身は一体どういう理由でそんな風に、損な役回りを引き受けているんでしょう?」

人の精神は環境によって形作られる。彼女達は双子で、同じ遺伝子を持ち、同じ環境で育っている。ならば表出する振る舞いが真逆であるように見えたとしても、それらは同じ経験によって育てられた精神に起因する表裏一体のものかもしれない。“努力せねば愛されない。条件付きでしか、何かを先に支払わなければ愛されない。ここは、そういう世界だ”――彼女がともみについて語った言葉は、そのまま自身に向けた言葉ではないだろうか? だとしたら、みともは愛されるために『良い子』を演じ続けているのだ。

「……わたしも同じだったから、少しだけ分かるんです。『扉』が見えるようになったのは、今の自分を演じ続けることが嫌になって、『此処ではない何処か』を望んだから。わたしは、あなたの生活を脅かさない。あなたは、あの人の事を教えてくれるだけで良い。わたしが、あの人を連れ戻します」

ひかりは、震えるみともに向けて、静かに語りかけた。

「『扉の騒ぎ』について、陸號ともみの失踪について、あなただけの秘密にしていることが、他にありませんか?」

みともが唇を噛む。彼女の中で激しい葛藤が渦を巻いているのが、ひびきにも分かった。けれど、それも長くはない事で、みともは切れ切れに話し始めたのだった。自嘲するように、きっと誰にも話さなかったであろう彼女の秘密――片時も離れることのなかった双子の彼女達が、互いを失って、全く別の道を歩み始めた時のことを。

「……わたしは、あの人に裏切られたんです。今でもあの人は、それを認めはしないですけどね」


――


みともが『扉』が見えると口にして、そこに向かおうとしたのは、わたし達が中学二年生になった夏のことだった。


みともは二年生になってすぐ生徒会に入り、学校行事の準備や色んな人の頼まれごとを進んで引き受けたりして、早くも次の生徒会長の第一候補としても目され始めていた。みともが変わり始めたのは、ただ『私たちが飢えているもの』としか定義することのできない、曖昧模糊とした『愛される』ということについて最後に語った翌日からだった。

――無償の愛なんてないとしたら、愛のために払えるものがない人は、一生愛されないままね

――ねえ、お姉ちゃん。わたしは、愛されるように頑張るわ

みともは決して見返りを求めることなく、彼女を頼る人の数は日増しに増えていったが、ずっと姉の後ろにくっついて一人では何もできなかったみともが、今までとは別人のように明るく社交的になったことを不思議がるのは、ともみだけではなかったようだ。

誰かに望んだことを拒絶されるのが恐くて「トイレに行きたい」とさえ姉を通してしか言えなかった彼女は、けれど失敗することを恐れてパニックになりさえしなければ人より賢く器用だったし、今まで習い事や勉強を重ねた分だけ出来る事も多かった。そしてみともは、自分が失敗することで何かを奪われたり損なわれたりする前に、自ら進んで差し出すようにすることで、失敗を怯え過ぎずに済むようになっていた。

みともは相手と二人きりの時に、自分の過去の失敗、不安や悩みといったものを秘密めかして打ち明けることで相手を信頼しているように見せかけ、また自分が弱い部分を敢えて隠さないことで、相手にとって有用な存在でありながら、決して劣等感や妬みを抱かせないようにしていたのだ。みともにとって、ただ二人きりの時に信頼して明かしたように見せることが重要で、それを噂にされることも恐れてはいなかった。実際の所、彼女の弱みを明かされた人々は、むしろ自分だけが知る『陸號みともが完全ではない部分』を秘密のままにすることを好んだようだった。その当時の生徒会長はお飾りのようなもので、投げ出された仕事を引き受けていたのもみともだったが、そういう相手の顔を立てることも忘れなかったし、前例のない女子生徒会長になりそうな彼女を快く思っていない先生にも、みともは取り入ることを忘れなかった。

「わたしに友達なんて居ないよ」

ある日、どうすれば友達ができるか、わたしが冗談めかして尋ねた時に、彼女はそう言った。当時のともみとみともは小学校の時と変わらないように、家では二人でずっと離れずに生活していた。といっても、自分達に遊ぶ時間や道具が与えられることはなく、二人でゆっくり会話できるのは、明かりを落とした寝室での秘密の時間だけだったけれど。

「なにも求めないの。そうすれば周りに沢山人が集まって、必要とされるようになる。まずはなんでも、先に支払わないといけないんだって。それで対価が得られるとは限らないけれど。でも、そうしないと、愛されない」

そう語るみともは少し擦り切れたような表情をしていて、顔を埋めて丸まるように何かをぎゅっと強く抱きしめて眠る寝姿も、彼女の家での振る舞いは昔と何一つ変わってはいなかった。そして外で笑顔を振りまいているみともが、家に帰った途端に糸が切れたように元気を失って殆ど動かなくなる姿を何度か目にして、ともみは彼女が周囲に『本当の自分』を気取られないように演じ続けていることに薄っすらと気付き始めていた。そして、みともが『扉』が見えると言い出したのも、ちょうどその頃だった。

「姉さん、あたしね『扉』が見えるんだ。『七不思議』の、此処ではない何処かへ続いている光の扉が、夕方になると廃工場の上に浮かんでいるの」

異世界に繋がっているという『暮町七不思議』の一つ。ともみは七不思議の噂を知ってはいたけれど、その時みともが冗談めかして口にした言葉の意味を、理解することはできなかった。そして妹と鏡映しの姿でありながら全く似ない、優等生ではあるものの高慢で自分の要求を通してばかりな姉への嫌悪の目も周囲に見られるようになっていったが、わたしは妹に嫉妬する事はなかった。もともと同じ家庭で、誰にも愛されず、居場所もないまま生きてきた、お互いにとってたった一人の半身だ。わたしは彼女が愛されることのできる場所を見つけ出したなら、笑って送り出すつもりだった。

次の生徒会長を決める引継ぎ選挙が近付いて多忙を極めていたみともは、相変わらず関係のない仕事も引き受けて、自分を快く思わない相手にも笑顔を絶やさないで接し続けていた。それは日を重ねるにつれ、家での昔通りの彼女の姿も想像できない、疲れや苛立ちさえ微塵も感じさせない完璧な振る舞いになっていて、どんな心無い言葉を向けられても、まるで彼女の纏った『演じている自分』という薄膜に隔てられてその心に届いていないかのようだった。そして、それに呼応するように、みともが夜の寝室で七不思議の『扉』のこと、その向こうにあるという『此処ではない何処か』へ行きたいと、擦り切れた焦燥を滲ませて口にする頻度が上がっていくようになって、ともみはようやく彼女の語ったそれが逃避の願望であることに気付いたのだった。

「姉さん、知ってる?」ある日みともは呟くように言った。窓の向こうの夜更けの空に、ともみには決して見ることのできない何かを見据えながら。「行きたい場所なんて本当は何処にも無いのに、今居る場所が嫌で『扉』を目指した人は、『扉』の向こうの暗闇に連れ去られて、二度と戻ってこられないんだって。でも誰も居ない暗闇の中で、ずっと一人ぼっちで居るってのは、そんなに悪いことじゃない。寂しいかもしれないけど、何に脅かされることもないし、何も変わることないなら、希望も絶望も楽しいことも苦しいこともなくて、この世界からは居なくなることができるんだもの」

それが普通の会話をしているような落ち着いた声だったので一瞬理解できなかったけれど、直後ともみは背筋をぞっと冷たいものが走るのを感じた。それは自分の唯一無二の大切なものが、手の届かない場所に消えてしまう恐怖と絶望だった。

「みともは、どうして私だけにしか言ってくれないの?みんな、あなたが皆に好かれるために無理して頑張ってることも、こんなに辛い、苦しいって思ってることも知らないから、あなたに寄り掛かって無理難題を押し付けたり、気楽そうに見えるから少しくらい良いだろうって嫌味を言ったりしてるのよ」

からからになった口で、ともみが思わずそう話すと、向こう側のベッドに腰掛けたみともが顔を上げて、ともみに目を合わせた。そして、ともみは彼女が自分に対しても、薄膜を隔てて立ち入らせていない場所があったことを教えられた。

「……助けを求めたら、悪いことが起こるから。助けを求める人や、自分が不遇である事を叫ぶ人は、周囲にとっては不快な人間だから、愛されなくなってしまうから。だから、誰にも、何も、求めちゃいけない、って」

少しずつ、切れ切れになっていく彼女の言葉を聞いて、ともみは彼女が昔から何一つとして変わっていなかったのだと思い知らされた。みともは『求め方』が分からないまま、人に愛されようとしていたのだ。小さい頃に夜尿が治らず、朝起きてシーツが濡れていた時に、親にそれを知られたら失望と嫌悪の目で見られ、その後打たれることを繰り返し『経験』して、自分の失敗や窮状を明かして助けを求めれば、失望され嫌われて悪いことが起きると『学習』したあの時から。みともが『助けを求められない』ということは、ずっと変わらなかったのだ。


――人から愛されたいのなら、自分から愛されるような人間にならなければならない。何かを求めるのなら、その前に自分が何かを与えなければならない。けれど無償の愛なんてないとしたら、愛のために払えるものがない人は、一生愛されないままだ。


愛された経験のない人が愛し方や愛され方を学習できるはずもなく、みともは愛されるために我が身を削って、ただ一方的に他者に与え続けたのだった。助けを求めたら悪いことが起こるからと真逆の自分を演じていれば、都合のいい存在だと思った人間達が集まってくる。けれど適当におだてられてはこき使われるだけで、演じることをやめて何かを求めようとすれば、手のひらを返したように周囲から人が離れていく。そうやって集めた人間達は所詮、みともの価値を『演じている間の無償の奉仕』にしか見出していないのだから。だから愛を求めて奉仕し続けて、けれど未だ誰にも愛されず、そして自分もまた愛してくれない人々のことを愛せない。誰にも愛されず、誰のことも愛せないまま、愛していない人々に尽くし続けている。

「お願い姉さん、誰にも言わないで……」

震える声で、縋りつくように見上げてくるみともは髪を解いていて、ともみと何一つとして違う場所のない、鏡写しの半身だ。人の愛し方も愛され方も分からなくて、味方が誰も居ないことまで、ともみと同じだった。ともみは、これから自分が口にしようとしていることに動悸を感じながらも、みともに問い掛けた。

「みともは『扉』の向こうに行きたいの?」

たった一人の半身、守るべき大切な妹。みともがいてくれたから、ともみは今まで一人ぼっちだと思ったことはなかったし、己の半身である彼女と二人なら、こんな世界でも生きていけると思っていた。みともが無言で頷くのを見てから、ともみが次の言葉を発するまでの葛藤は、そう長くはなかった。

「なら、わたしも付いていくわ。一緒に逃げよう、こんな場所から」

そして学校帰りに習い事もすっぽかして、ともみは妹を連れて廃工場に向かったのだった。家に帰らなかったのが陸號家の双子であることに加えて、当時隣町では児童の連続失踪が取り沙汰されていたので騒ぎは予想以上に大きくなり、警察を動員しての捜索までが行われた。それが学校の生徒達も知るところとなった、はた迷惑な『扉の騒ぎ』の顛末だった。


みともが自分の服の裾を掴んで泣きそうな瞳で助けを求めてくる時、ともみは今まで決して拒む事はなかった。みともが口にできない要求を汲み取って代弁することができるのは常に彼女と一緒に行動している自分だけで、ともみは助けを求められる度に自分が必要とされている実感を得ることができた。みともにとって姉が要求の代弁者であるのと同じように、ともみにとっても妹は決して失われてはならない自らの居場所だったのだ。だから廃工場に辿り着く前に補導員に見つかった時も、ともみは妹を庇って罪を負った。廃工場の上に浮かぶ『扉』に、妹を連れて向かおうとしたのだと大人達に言ったのだ。無論親には激怒されたし、教師や保護者達を通して生徒達もそれを知ることになった。

“日々を楽しく生きる為に、自分を利するために”――ヒトの中に、それ以外の考えなんて何もないと分かっていた。だが自分の学校での成績や振る舞いが優良であったが故に回りに集まっていた人間達が、こういう時にいかに容易く手の平を返すかということを、ともみは初めて自分の身で味わうことになった。かつて羨望を向けられていた人間の醜聞は、それが些細なことであったとしても、自分を妬む人間や日々の刺激に飢えていた人間にとっては格好の餌だ。まして『扉』が見えるなんて嘘を理由にして家出したことは、ともみに羨望や嫉妬、やっかみを抱いていた人間を媒介として、一瞬にして学校中に広まった。

ヒトが知覚した他者の姿を『名前』に紐付けることで個人として認識するのと同じように、噂が広まる過程で『陸郷ともみ』という個人には様々な情報が付加されていく。そして新たな知覚が経験によって影響を受けた上で認知となるのと同じように、誰かから聞いたエピソードや人物像をもとに自分の今取っている行動の全てが解釈されて、また新たな情報が付加されていくことで社会の中で認識される『陸號ともみ』の人物像が更新されていく。だから一度でも社会の中にある『自分』に負の情報が付加されてしまえば、それを知っている人間は誰だって自分と接する時に噂のことを思い出しながら眼の前の『陸號ともみ』を解釈するし、噂の種[エサ]だと見なされている者と対峙すれば醜聞になりうる失敗や嘲笑うことのできる欠点を優先して読み取ろうとするようになるだろう。誰かが『扉の事件』の噂によって付加された情報をもとに認識した『陸號ともみの行動』は新たな情報として自分に付加されて、次に出会う見知らぬ他人の認知にさえ影響を与えることで『陸號ともみ』に付加される情報は動かしがたくなっていく。『陸號ともみ』に不可逆的に付加されていく負の情報のループ、『扉の騒ぎ』がその始まりだったのだ。


みともは逆に、姉の向こう見ずな行動に巻き込まれた被害者という立場によって同情を集めた。みともが自発的に助けを求めたり辛さを吐き出す必要もないまま、彼女への仕事の押し付けや嫌味の類も数が減った。そして家の中でも、それまでの消耗した様子やともみに語った窮状が嘘だったかのような振る舞いで親にも気に入られるようになっていた。

そして、みともが生徒会長になった頃、ともみはようやく気付いたのだ。みともは相手と二人きりの時に、自分の悩みや苦しみといった弱い部分を秘密めかして打ち明けることで相手を信頼しているように見せかけ、そして相手の同情を引くことで自分に対して何かを捧げたいと思わせるように仕向けていた。みともは自分に対しても、他の大多数の人間にそうしたように、同情を引くように振る舞っていただけなのだと。

みともが誰か一人にだけに見せる弱みが、信頼の証でないことを誰よりも分かっていたはずなのに、ともみは自分が妹にとって特別な存在だと、まんまと誤解させられていたのだ。あの『扉の向こう』という自殺を仄めかすような言葉ですらも、きっとそうだった。ともみを見えもしない『扉』に向かわせたのは“巻き込まれた自分”に同情を集めるだけでなく、生徒会選挙にあたって足を引っ張りかねない存在である姉と完全に縁を切るために仕組まれた出来事だったのだ。

相手に自分のことを自由に使って良いと思わせることで庇護を求め、ただ無心に相手が快楽を覚えるように振る舞うことで、要求を自分から口にせずとも相手に貢がせて、結果として自分をどれだけ貶めることになっても気にしない。それが人に媚びて、自らの身体を売りものにする行為とそう変わらないものだとしても、絶えず怒られ、絶えず怯えて自己を肯定できずに育った彼女は、捨てるプライドなんて元々持っていないのだ。

「みとも、今でも『扉』は見えているの」

二人きりの時に話した言葉以外に、最初にみともが『扉』に向かおうとしていた証拠はなかった。きっと最初から『被害者』としての自分を演じる目的で、形に残るような行動としての証拠は残さなかったのだろう。それでも二人廃工場へと歩いて向かった時の、夕暮れの街並みと繋いだ手の感触、墜ちていく陽の眩しさと、怪物の死骸のようにそびえ立つ廃工場。手を引かれるみともが空を見上げて眩しそうに目を細め、ともみは彼女の手の温もりに、心を安らがせる――たった一人の半身、守るべき大切な妹、その温かな記憶に縋るようにして、ともみは二人きりの寝室で問い掛けたのだった。

「――『扉』なんて、何処にも無いわ。そんなもの、噂を聞いた目立ちたがりの子が、自分には見えるって主張するだけのものよ」

みともは少しの沈黙の後、平坦な声で答えた。温かな記憶、通い合わせた心なんて全てが嘘で、最初から存在しなかったのだ。己さえも愛することができない者が己の半身に対して抱く感情は愛などではなく、妹はただ他の人間に対してするのと同じように信頼するふりをして自分を利用していただけだった。この世界に味方なんて誰一人として居なくて、それは血を分け生活を共にしていた妹でさえ例外でなかった。二人で廃工場に向かったその日、ともみは半身である妹を、その温かな記憶とともに永遠に失った。

そして『扉の騒ぎ』で世界から居場所を失って、『此処では無い何処か』を探し求めるようになった頃、ともみは廃工場の上空に浮かぶ『扉』が見えるようになった。そして一人で出かけた廃工場で、七不思議のもう一つである『真っ白な少女』に出会って、魔法と夕暮れ戦争のことを知ったのだ。


「……そんなことが、」

グラウンドにも教室にも生徒が一人として居ない静まり返った校舎の一角で、ひびきは思わず言葉に詰まる。そして今、みともが語った話に多少なりとも動揺している自分に気付いた。

「そうよ。あの人だけが、わたしのために何かをしてくれた。あの人だけが、本当のわたしを曝け出せる人だった」

抱えきれない秘密を共有して、お互いの痛みを分かち合う、二人は共依存の関係だった。二人でなら何処にでも行けると、みともは信じて疑わなかったのだ。みともは声を荒げて、涙を流しながら言った。

「でも、あの人はわたしを裏切った!廃工場の近くまで行って、陽が沈んできて補導員に捕まった時あの人は、そうなるのを分かりきってたように『じゃあ、そろそろ帰ろっか』って言ったんです。本当に『どこか』へ行こうとしていたのはわたしだけだった。あの人に……『扉』なんて見えてなかった。きっと一日くらい、どこか隣町くらいの遠くまで行って、そこで普通の子供達がするような遊びをして、帰った後は怒られる――お姉ちゃんにとっての『何処か』なんて、そのくらいの事でしかなかった。そして、あの人はわたしを『裏切り者』と言ったけれど……裏切り者はあの人じゃないですか。わたしは、こんなにもあの人のことを、信じていたのに!」

みともはそこまで一息に、押し殺した声でそう叫ぶと、肩で息をしながら床にへたり込む。外面を取り繕う壁も粉々に砕けて、脆い、ひび割れた中身が露出している。それが、ひかりの知った、『扉の事件』の真相だった。話している最中の仕草を見ても、嘘をついているようには見えなかった。そのために、ここまで追いつめてから話させたのだ。

「……最初から、あの人に『扉』なんて見えていないと分かっていた。『ここではないどこか』の意味なんて、姉さんに分かるはずもなかった。将来を約束されて、『姉』として与えられていた姉さんには……わたしだけがね、聞かされていたんです。わたし達の両親は、わたし達を産んだ時には随分と歳を取っていて、これ以上子供を産むことはできなかった。だから、わたし達のどちらか……いえ、姉である、ともみが、家も会社も継ぐことになっていました。そして妹のわたしは、中学を出たら知らない人と見合い結婚させられるんです。だから、わたしの名前はね、御供[みとも]なんですよ。人身御供の、みとも」

涙で汚れた顔で、自嘲気味に呟くみともを、ひびきはどうすることもできず、ひかりは何をするでもなく見下ろしていた。


その時、軽快な声とともに、ひかりの後ろの扉が開かれる。「みともさん、仕事終わりましたよー」ひびきは咄嗟に横にずれて、入り口からみともの姿を見えないようにした。

「つばめさん、ありがとう。あとは、わたしがやっておくから」

涙を袖で拭って立ち上がり、みともは可能な限りいつも通りにつばめに礼を言った。ちょうど西日が差し込む逆光で、みともの泣きはらした頬は見えないだろう、とひかりは思う。

「そういえば、ひかりから生徒会長への話ってなんだったんですか?ひかりって内気で恥ずかしがり屋で、自分からお願いなんてしたことないような子だったから、生徒会長と話したいって頼まれた時はびっくりしちゃいましたよ」

つばめがそう言った時、信じられない、というような顔をみともが向けてくる。「言いませんよ。ここであったことは秘密です、お互いにね」ひかりは、口の動きだけでみともに言った。そして次の瞬間には、ひかりは『いつものひかり』の分厚い壁を纏っていた。「陸號みともさん。色々教えてくださって、ありがとうございました」ひかりが頭を下げると、周囲に漂う妙な空気に気付いたのか「それでさ、なんのこと話してたの?」とつばめが聞いてくる。

「ううん、ちょっとね。お願いを聞いてくれてありがとう、つばめ」

篠崎ひかりは、いつものように笑った。

「みともさんも、早めに帰ってくださいね。暗くなってからだと、帰り道が危ないから」

つばめは、鞄を背負って生徒会室を出ていく。ひかりが一礼して立ち去ろうとしたその時、みともに服の袖を掴んで引き止められる。「待って」机に転がったボールペンの金属部が、沈みかけの夕陽を受けて赤く輝いている。振り返ったひかりは、自分より背が高いはずのみともが、とても小さく見えるような気がした。

「姉さんは居なくなる直前に『美化委員会』がどうとか言って、最初に消えた子が誘拐されたと警察よりも早く決めつけていたり、妙なことに首を突っ込んでるのは分かっていました……だから、わたしも気になって自分の知れる限りの、消えた生徒の情報を探っていたんです。一年前、あなたと同じクラスに転校してきた佐々木しおんの事を、どれくらい知っていますか?」

その名前が出されたのは唐突でもなんでもなかった。ともみより先に行方が知れなくなった佐々木しおんが、この連続誘拐の最初の犠牲者だとされているのだ。ひかりが知っているのは彼女が噂好きの根無し草で、身体が弱いから夏場でも長袖のブラウスを着て、体育は常に見学していることくらいだった。

「確かに『佐々木しおん』は中学一年の途中で、この学校に転校してきました。保護者との連絡が一度も取れなかったり、誰もしおんの家を知ってる子が居なかったり少し変なところもあったそうですが、この学校にも色々な事情を持つ生徒が居ますし、先生達もそこまで一人の子に関心を持っているわけじゃありませんから。転校手続きの時の住民届とか、一通りの情報が揃っていれば深く詮索されることはないんです」

みともはそこで一旦、言葉を切る。まるで次に自分が語ろうとしている事実に、得体の知れない気味悪さを感じているかのように。

「でもね、隣町の学校に『佐々木しおん』なんて子供は通っていなかった。それどころか隣町から何処かへ転校していった女子生徒なんて、ここ二年ほど居なかったそうです」

つまり『佐々木しおん』は確かに暮町中学校に入学したけれど、その住所も出自も偽りで何処からも転校してきていない。存在しない子供が消えたということは、これ以上の混乱が起きるのを恐れて、警察がまだ公表に踏み切れてない事実だった。

「わたしはね、お姉ちゃんが居なくなるよりも早く、その事を知っていました。連絡が取れなくなった佐々木しおんの家に警察が訪れた時に、そこが数年使われてないことから半分くらい分かっていた事だったんです」

警察側でも考えられた可能性は、ここに転入する時に戸籍を偽造したということだ。それまで『佐々木しおん』なんて人間は、何処にも居なかったのだ。ならば彼女は――「『佐々木しおん』を名乗ってた奴は、一体どこから来た何者なんだ?」

ひびきが呆然と呟いた言葉は、その場に居る全員の抱いた疑問だった。


――『美化委員会』がどれだけ探し回ったとしても、見つかるはずがないわけだ。


ともみは苦々しくも、納得せざるをえなかった。条件さえ満たしていればどんなに離れた相手でも自分の領域に引きずりこめるのならば、まず最初に自分をその領域に隠してしまえばいい。そして個人としても『最初の被害者』として早々に疑いのリストから外される――ありきたりで古典的な手法だが、『魔法』を使ってそれを実現させることは誰も思いつくことができなかった。

「あなたの言っていた話……何が本当だったの?」

ともみは真っ暗な闇の中に立っていた。辺りには床も天井も存在しない水底の闇、重く苦しく果てることのない常夜の黒だけが広がっている。佐々木しおんは変身すらしていない制服姿で宙に立ち、問いの意図が分からないといった風に笑いながら首を傾げる。同時に、そこはかとなく生臭い、磯にも栗の花にも似た香りが辺りにふわりと漂う。

ともみは幸いというべきか、生きて真犯人と対面することができていた。だが既に条件を満たした『対象書き換え』に対して抗うことは絶望的だ。この場所に引き摺り込まれた時点で勝負は見えていて、だから投げ掛けた問いは悔し紛れの答え合わせでしかなかった。

「隣町での失踪事件と、あなたの幼馴染のことよ。何かを偽ることは簡単だけど、嘘だけで作られた逸話を信じさせることは難しいわ。信憑性がなくとも広まる噂程度のものでなくて、自分を信じていない相手すら疑わせないほどに一貫性のある出来事なんて」

しおんの目が微かな驚きに見開かれた後、その口元が暗い愉悦を含んで三日月のように歪む。「ええ、本当に……わたし達は似ている」そこに暮町の子供達が知る『佐々木しおん』の姿は無かった。血の通っていない肢体が生白く浮かび上がり、長い黒髪は闇に溶ける。艶やかな紅い唇と、常人の理解を越えた何かに満たされた深淵のように黒い、大きな瞳。それは辺り一面の闇を満たす、何者かの蠢く音ならぬ音に満たされた濃密な静寂と同一の性質を持っていた。

「柏木夏鈴には元から幼馴染なんて、誰一人として友達なんて居ませんでしたよ。彼はずっと一人ぼっちで、自分に付加された情報に囚われて何処にも行けなくなって、だから何処でもない何処かを望んだんです」

嘲笑うかのような表情と口調に、ともみは確信を抱いた。目の前の魔術師は、確かに隣町の学校に居たのだ。ただし転校したのではなく、今起こっている事件と同じ方法、唯一人だけ帰らなかった『最初の被害者』として姿を消し、暮町に偽りの名で潜り込んだ。

「柏木夏鈴……!」

ともみは彼の、本当の名前を叫ぶ。自分の生を他人事のように語ることで、その悲しみを、憎悪を全て隠し通してきた皮肉屋、日常に潜む魔術師に向かって。

「“此処ではない何処かへ、何処でもない何処かへ”!!!」

≪”peacok fowls”≫

ともみが『鍵なる言葉[キーコード]』を叫ぶと同時に、その背から巨大な猛禽の翼が広がる。そして雨の降らない荒野、誰も自分を知らない地球の裏側にある異邦、『此処ではない何処か』として思い描かれた空想の地の衣装が素肌を包み、同じ意匠をもった紋様が身体に浮かび上がる。

≪set up≫

しおん、いや柏木夏鈴が領域内に『対象書き換え』の効果を表す前に、ともみは鋭い羽の弾丸を生み出し、宙に立つ彼を射抜こうとする。生身のままの柏木は、しかし眼前に迫り来る羽の弾幕を見てはいなかった。柏木夏鈴は手を掲げ、高らかに謳い上げるように、彼の『鍵なる言葉[キーコード]』を口にする。

「“我が名は、明けぬ夜”」

≪”night maker”≫

ともみの羽弾は数発だけ柏木に命中し、ブラウスの袖やスカートの裾、髪を裂いて軽く散らせたが、それ以上は見えぬ何かに阻まれたように宙に停止する。だが、ともみの羽弾を止めたものは闇の中に居たのではなく、そして最初からずっと見えていた。辺り一面に満ちて生臭い芳香と轟々と鳴り響く静寂を撒き散らし、ともみに呼吸の苦しさを感じさせていた水底の闇そのものが、ともみの羽弾を止めた柏木の魔法だったのだ。

≪set up≫

水底の闇が輪郭を持ち、無数のヒトの姿を形作る。そして直後、視界一杯に広がるものを見た時、その絶望的なまでの力量差を悟った。

「僕は『夕暮れ戦争』なんてどうでもいい……あたしに力[まほう]を与えてくれた人が望んでいるから、物のついででやってるだけ。けど『前』に捕らえた魔法使いは全員壊してしまったから、今度はちゃんと有効に使いますよ」

ともみの耳元で不意に響く、甘く囁きかけるような声。ともみは柏木自身か、その背後に居る『力』を与えた何者かが、今の事態以上の何かを望んでいるのだと理解する。そして自分が苦しまずに死ねることは、決して無いということも。

「あなたは『丁寧に』やらないといけない逸材です……自分の根源から眼を逸らすことで、自分の力を無意識に制限してしまっている……」

柏木夏鈴の姿は既にどこにもなく、ともみの全身に纏わりつき、服の下の素肌に潜り込んでくる水底の闇が、ともみに喋りかけているのだった。


――


「……なあ篠崎」

つばめと別れて誰も居ない教室に荷物を取りに戻る途中、長い影の伸びるリノリウムの廊下で、ひびきは先に行くひかりに声をかけた。

「ともみに『扉』が見えてなかったって、どういうことだろうな」

ともみがみともに隠していたか、みともが嘘をついているか、それとも本当にその時は見えていなかったのか。ともみが消えるよりも早く、みともは佐々木しおんの正体について疑惑を抱いていた。もし誘拐事件を追うともみにそれを伝えていれば、彼女の失踪が起こらなかったかもしれない。

――わたしは愛される、わたしは人身御供になんかならない、わたしは親の期待と投資に応え続けて、わたしが家を継ぐ。それが、駄目ですか。

――あなたはわたしじゃない。だから、口なんて挟ませない。あの人がどこかに消えてしまったのなら、もう戻らなくても構わない!

最後にそう言い捨てたみともの表情は苦しそうで、ひびきは彼女がともみを恨んでいるけれど、それだけじゃないから苦しいのだと分かった。彼女がどう言おうと、あれはともみだ、もう一人の。ともみが『扉』に向かわず、日常を生きることを選んだ姿だ。その表向きの振る舞いが正反対であっても、曝け出された素顔は『夕暮れ戦争』でのともみと同じものだった。そして、ひかりの答えは、なんとなく予想できていたものだった。

「……どっちが先に裏切ったかなんて、どうでも良いよ」

けれど、ひかりは口にはしないだけで、ひびきの問いに対する答えを一つ持っていた。

――『ともみの世界』ではみともが裏切っていて、『みともの世界』ではともみが裏切っている、そういうことも有り得るのだと。

確固たる事実とは『知覚』に対してのみ成り立つのであり、それぞれの記憶に基づいた解釈を経る『認識』において、万人に共通する真実など存在しない。そして複数の人間が抱いた噛み合わない真実[にんしき]は、互いが望まぬすれ違いを引き起こすこともある。


そして二人が教室に辿り着いた時、窓から差し込む夕陽を背にして一人分の小さな人影が机に腰掛けていた。

「篠崎さんも隅に置けませんね、こんな遅くに密会だなんて……でも、先生に怒られちゃいますよ?」

ひびきは咄嗟に身構える。それは誰も残っていないはずのない教室で待ち受けていた知らない相手への警戒や、相手の周囲に立ち込める異様な空気といったものへの恐怖よりも、単純に相手の姿が普通のものではなかったからだ。長い黒髪の下に浮かぶ眠たげで皮肉っぽい笑顔と反するように、その制服の袖口や裾は鋭い何かで切り裂かれ、所々に血が滲んでいた。

「……久しぶりだね、しおん」

ひかりは人影を黙って見上げた後、至って平静な様子で口を開く。その名前を聞いて、ひびきは相手が最初に失踪したはずの、そして最初から何処にも存在しなかった人間であることを知った。そして、お前が犯人なのかと、ひびきが問い掛けようとしたのを見透かしたように、しおんは「僕と戦うつもりですか?」と笑った。

「あなた達は僕の魔法の『条件』を満たしていません。つまり今なら見逃してあげる選択肢もあるということです」

わざとらしい笑い声と、見下したような言葉も挑発だと分かった上で、ひびきは疑問に思う。変身することのできない魔術師が自ら敵の前に身を曝して、こうまで余裕を見せていることに違和感があったのだ。

「ううん、ともみを連れ戻すだけだよ。でも、そのために必要なことなら、あなたを倒すかもしれない」

ひかりの言葉は、決して揺らぐことがなかった。みともに対して語ったのと同じように、これから自分がどうしたいのか、そのために何が必要なのか、それだけしか考えていない。しおんも彼女の思考を察したらしく、少し驚いて称賛するような表情をした。

「では、仕方ありませんね」

しおんは大して残念そうでもなく呟いて、それと同時に、

≪set up≫

ひかり達が入ってきた教室のドアが凍りついて動かなくなった。「なっ……!」ひびきは思わず声を上げ、そして教室中の机が氷結して持ち上がり、自分達に向けて弾丸のように撃ち放たれる直前、≪”fragile”≫薄いブルーの半透明の球壁が、≪”rejecter”≫床から立ち上がる黒鋼の障壁が、≪≪set up≫≫辛うじてその初撃を防ぎきる。

「仲間が居たのか……!」

ひびきは見えないだけで最初から居たのであろう、頭上に浮かぶ氷遣いの魔術師に気付いて舌打ちをする。障壁に弾かれ散らばった机と椅子が再び浮き上がるのに加えて、掃除用具入れのロッカーが、そして黒板が引き剥がされて巨大な氷塊の嵐を引き起こす。その渦中に生身の姿で平然と立ちながら、しおんは二人に向かって語り掛けた。

「実際、あなた方はとても邪魔でした。『夕暮れ戦争』の枠に収まらない強さを持ちながら、私の魔法の発動条件を満たしていない数少ない人間でもあった。あなた達だけは直接手を下さなければ、今回の計画に支障が出ると判断したんです」

これで三度目の対面となる氷遣いの魔術師が、『連続誘拐犯』としての佐々木しおんの用心棒か、或いは同じ勢力に属する協力者であったようだ。最初に戦った時の弾速と追尾性をそのままに、氷そのものではなく凍らせた物体によって硬度と質量を増した弾丸は、回避も反撃も許すことなく自動障壁を削り取っていく。

≪sphere shield≫

ひびきの視界が唐突に真っ黒い壁に覆われる。ひかりは床に張り付く半球状に障壁を展開して、二人分の即席シェルターにした直後ひびきに「床を抜いて!」と叫んだ。≪”fragile”≫ひびきが足元に突き刺した剣が砕け散ると同時に、その周囲の床の強度が下がり障壁の重さに耐え切れずに崩落する。ひびきは下階の机に背から叩きつけられ、肺から息が漏れ出ると同時に口をついて罵声が出る。

「クソッ、『ルール』無視かよ!」

変身していない人間に対しての魔法の行使は『夕暮れ戦争』のルール違反で、『しにがみさま』に排除される。元より『連続誘拐犯の魔術師』が厄介だったのは、そのルールぎりぎりの手法によって魔法を行使されていたからだったはずだ。だから『変身前の人間への攻撃』という自殺行為に等しい手段への対策を、ひびき達は全く用意していなかった。

「この場所に、もう『ルール』なんて存在しませんよ」

佐々木しおんが、二人の目の前に降り立っていた。その無防備な身体に咄嗟に剣を突きつけようとして、ひびきは両手の感覚がなくなっていることに気付く。「……ごめん、今のは失敗だった」ひかりが無表情で呟く、その両脚の先も氷に覆われていた。常時発動型の『対象書き換え』であり他の書き換えを相殺できる自動障壁と異なり、ひかりの壁[rejecter]は魔法で『書き足された』ただの硬質な物体に過ぎない。故に相手を指定した『対象書き換え』の魔法への抵抗性は低く、氷弾ではない直接の『対象書き換え』である氷結魔法がシェルターを貫通していたのだ。

「……『ルール』がないって、どういうことだ?」

ひかりは『しにがみさま』の魔法によって、誰にも気づかれる事なく元通りになるはずの教室の損壊が、いつまで経っても修復されていないことに気付く。ひびきの時間稼ぎと純粋な疑問が入り混じった言葉を見透かすように、しおんは微笑んでこう答えた。

「『しにがみさま』による暮町全域の監視、認識阻害と街の損壊の修復は今、完全に無効化されています。つまり、あなた達が長話でいくら時間稼ぎをしたって、『しにがみさま』は来ないってことです」

ひびきは、しおんが指差した先にあるものを見て、背筋がぞっと寒くなるのを感じた。窓の外には開かれた『扉』が浮かんでいて、その向こう側にある暗闇が夕空の中に滲みだしていた。変身するまで気付かなかったということは、それが『魔法』によるものであることは間違いなく、そして夜空とも異質な星一つない暗闇は、既に夕空を半ばまで覆い尽くしていた。『夕暮れ戦争』のシンボルである『扉』と『夕空』を喰らい尽し、まるで暗闇自らが新たな『ルール』にとって代わろうとするように。

「そんな……一体どうやって」

真っ白なコートに身を包み、底の知れない微笑みを浮かべていた白い少女。『夕暮れ戦争』における認識阻害や建物の修復、違反者の排除の全てをこなす、畏怖さえ感じさせるような規模の魔法の持ち主。絶対であるはずの『しにがみさま』の監視と、それを基にした『夕暮れ戦争』という機構を信じて疑わなかったが故に、ひかり達は正体を知られた犯人が自分達を消しに来るという可能性を忘れていたのだ。ひびき達に待つべき増援や用意していた反撃の策もなく、最早為す術がないことも分かっていたからか、しおんは真実を隠すことなく話し始めた。

「一つの対象に同系統の『書き換え』が重なった時、どうなるか知っていますか?互いの魔力[おもい]が拮抗している場合はそれぞれの効果が相殺され、そうでない場合は打ち勝った側の効果によって上書きされる」

魔法とは現実を『書き換える』ものであり、その作用の機序は『自己書き換え』『書き足し』『対象書き換え』の三つの系統に分けられる――それは魔法少女が『夕暮れ戦争』に参加するにあたって、『しにがみさま』から教えられることの一つだった。

「その『魔法』について受けた説明に、疑問を抱いたことはありませんでしたか?暮町を覆い尽くす複雑怪奇な書き換えを行い、『夕暮れ戦争』という機構を創り上げるまでに至った『しにがみさま』の魔法は、一体どの種別に分類されるべきなのでしょう?それは『しにがみさま』の、そして夕暮れ戦争という魔法の弱点であるが故に意図的に秘匿されていた、最上位にあたる『四つ目の系統』の書き換えです。万が一にも『しにがみさま』と拮抗する魔法の持ち主が居た場合、今のように『夕暮れ戦争』というルールそのものを打ち消され、或いは上書きされてしまう――だから『しにがみさま』は魔法少女に、『四つ目の系統』の魔法の存在そのものを秘匿していた」

しおんの説明の間にも、開かれた『扉』から滲みだした暗闇と『夕暮れ戦争』の領域である夕空は、空を占める己の陣地を増やすため互いを喰らいあっているようだった。その二つの魔法はまるで、自身の書き換えの影響下にある『領域』を拡大させることで、『世界そのもの』さえ書き換えているようだった。

「……ともみを攫ったのと、同じ魔法だね」ひかりが呟いた言葉に、しおんは興味深そうに目を細めた。「――魔法少女を『己の領域』に引きずり込む魔法、そして条件を満たした相手が連れ去られる『何処か』は、大規模な捜索が続けられているにも関わらず未だ見つかっていない。隠さた系統の魔法というものが、現実世界に存在しなかった『領域』を新たに書き足すのだとしたら、こんなに大勢の消えた子供が何処を探しても見つからない事も納得できる」

「ご名答――『夕暮れ戦争』という戦場そのものが、『しにがみさま』の持つ魔法によって生み出された『領域』なんです」「ともみ達を攫ったのは、その領域に取り込んで『想いの欠片』を奪うことで、あなたが『しにがみさま』と拮抗できるほどの魔力を得るため?」「……それも、目的の一つです」

ひかり達はその会話で、今まで『美化委員会』が動くための切っ掛けとしか分からなかった『連続誘拐事件』の、しおんにとっての目的を理解する。「……全部、あなたが夕暮れ戦争という『機構』そのものを破壊するための布石だったんだね」

「『夕暮れ戦争』は元より存続のための全てを『しにがみさま』一人に依存した、外部からの防衛に向かない脆いものでした。戦いの舞台としては余りにも脆弱で、いざ襲撃者が現れてから対応しようとしたところで無理な話だった。わたしが今回の騒ぎを起こさなかったとしても、いずれ誰かによって破壊されることは免れなかったでしょう」

そして上階に空いた穴から、しおんの頭上に氷遣いの魔術師が降り立つ。しおんが語り終えるのを合図として彼女が巨大な氷柱を生み出すのが見えたが、ひびきの自動障壁は既に砕け散り、ひかりの壁では後に続く氷結魔法を防げず二の舞になることが分かっていた。

「『夕暮れ』はいつか終わるものです、そして『夜』が来る。どんな輝きを放っていても、それは終わる定めを最初から抱いて生まれてくる光だ」

しおんの言葉と共に、廃工場の陰に消えた夕陽の最後の残照が失われ、真っ暗な夜の色に教室の中までもが染められていく。

――『夕暮れ戦争』という機構が停止すれば、この夕刻の戦場に全ての魔術師が雪崩れ込んでくる。そして自分達は、その全てを敵に回して戦うことになるのだ。

目の前の氷遣いの魔術師一人にさえ勝算が見えない中、その絶望的な状況に立ち向かおうとする二人を嘲笑うように、しおんは語り続ける。

「――日没は怖いですね、それだけは逃れようもなくやってくるから」

絶対に諦めないと誓ったはずの願いが、それを叶えるために捨てた物が増えて後戻りできなくなる度に、叶うはずのないものだと気付かされていくように。唯一つ絶対だと信じていた大切なものは容易く奪われ壊されて、かつて憎んでいたものに自分が成り果てるように。傷付かないために、幸せに生きるために選んだはずの選択が、やがて自分から他の幸せに生きることができたかもしれない選択肢を奪い去っていくように。

「けれど『夜そのもの』になれば日没を恐れずに済む、だから私は明けない夜になることを選んだんです。いずれその輝きを失う定めから逃れられない夕空の星ではなく、約束された終わりをもたらす夜の暗闇に」

ひかりは絶望的な戦況の中でも、最期の瞬間まで決して目を閉じようとはしなかった。ひびきを氷弾の嵐から庇って前に立ち、ひかりはありったけの障壁を生み出そうとする。そして自身の身体から体温が奪われ、足先から徐々に凍りついていくのを感じていた時、ひかりは視界の端で白い光が瞬いた気がした。自分が命の危機に曝された時、幾度となく目にしたあの光が。

≪shot bullet≫

どこからともなく響く、落ち着いた低音の電子音声。闇に染められた夕空を映す窓ガラスを突き破り、一人の少女が教室の床に土埃を上げながら着地する。≪assault≫少女の両手には散弾銃とアサルトライフルが一挺ずつ握られて、氷弾の嵐を超高密度の弾幕で全て撃ち落とす。

「何故ですか……?『夕暮れ戦争』の機構を創り上げていた魔法は、わたしが完全に相殺したはずです。何故、あなたはまだ戦えている?」

しおんが目の前の現実を認められないように呟く。それと同時に、立ち上がった『しにがみさま』が柔らかな声で口にした言葉を、すぎに理解できた者は居なかった。

「『夕暮れ戦争』の機構が停止したとしても、この魔法が阻害されることはない。これは僕が……生きていた頃の魔法だからね」

≪”white note”≫

『しにがみさま』がその言葉を言い終えた瞬間、飛び掛かろうとしていた氷の魔術師に照準を合わせた状態で、教室の床と壁から無数の火砲が立ち上がる。それは到底『夕暮れ戦争』を組み上げている結界と同じ魔法から生まれたと考えることのできない、重厚な黒い鋼で構成された火砲の『書き足し』で、その衝撃で『しにがみさま』の風に遊ばれたような白い短めの癖っ毛がそよそよと揺れた。

「最初、魔術師とは再生力と自己変異性、そして翼を失い経年劣化した魔法少女の呼び名に過ぎなかった。けれど魔法少女の卓越した再生力によって魔術師は淘汰を受け、『生体に対する高い殺害力を有する魔法』を持つ者のみが魔法少女を獲物とすることができた。そして彼らはただ目の前の人間を殺す為なら、優れた剣技や一本の名刀よりも、背後からナイフで数十回突き刺す方が早いことに気付いたんだ。そして『制御されていない戦場』において、魔法に想像力[ちせい]や人間性[やさしさ]は不要なものとなった。形而下でも形而上でも、巨大な総体が個人を食い殺すことも、奪うことに長けた者が道に迷える子供から全てを奪い尽くすことも、誰も止めやしない。そこに『夕暮れ戦争』のように、黄昏を守ってくれるものなどありはしなかった」

ひかり達は唐突に生まれた膠着状態の中で『しにがみさま』が語っているのが、『夕暮れ戦争』のが生まれるまでの歴史だと分かった。それは『しにがみさま』という存在が現れる前の話であるはずなのに、まるで自分自身がそれを体験したような言葉で紡がれていて。そして白い少女は、初めてひびき達の方に振り向いた。

「……そう、嘘をついて悪かったね。人喰い道化なんて実在しない。それでも偽りにしてはいけない、これからも守り続けていかなければならない真実が一つだけある。“僕”が、『人喰い道化事件』の最後の犠牲者だ」

「……あんたは昔、魔法少女だったのか」

そして『制御されていない戦場』の中で命を落とし、『人喰い道化』の仕業として葬り去られた最後の一人――ひびきが呆然と呟く。

「僕は、もう二度と……僕のような人間を出さないために、この街に『しにがみさま』として存在し続ける。それが、生きていた頃の僕の、最後の願いだから」

白い少女は、この場に居る全ての人間に、そして世界そのものに語り掛けるように、胸を張ってこう言った。

「そうさ、夕暮れはいつか終わるものだ。けれど再び、それを必要とする誰かのもとに巡り来るものだ。『夕暮れ戦争』という戦場は失われてはならない。それが全ての者にとって、いずれ過ぎ去るものでしかないとしても」

≪code release≫

凍らせた礫片や机の弾丸と、黒鋼の火砲から放たれた鉛の弾丸、二つの嵐が教室内で激突し、窓ガラスを突き破って空へと飛び出す。そして氷遣いの魔術師を追って割れた窓ガラスから飛び発つ前に、白い少女はひかり達に隠された『四つ目の系統』の魔法の正体について簡潔に伝えた。

「ひかり、ひびき……彼を、君たちに任せる。」

そして暴風が過ぎ去った後のような様相の教室の中、ひかり達は同じく教室に残された佐々木しおんと対峙する。監視の目がないと口にした時でも、決して『ルール』を破ろうとしなかった油断のない相手。或いは、誰よりも『夕暮れ戦争』のルールに恩恵を受けている一人。佐々木しおんと決着をつけて、ともみを取り戻すのは『しにがみさま』ではなく魔法少女であるひびき達の役目だった。

「……ともみ達を攫った魔法を、解除しろ」

ひびきの剣を喉元に突きつけられて、しおんは尚も笑みを崩すことはなかった。「殺せばいいじゃないですか、そうすれば僕の魔法も、或いは解除されるかもしれませんよ」それは、ひびき達がしおんの事をどうすることもできないと見越しての言葉だった。変身してないしおんを殺すことは、例え『夕暮れ戦争』のルールがなくとも現実の法に反するし、ひびきが人の命を奪うことができないのも明らかなことだった。護衛として潜んでいた氷遣いの魔術師は『しにがみさま』が押さえてくれているが、未だともみを取り戻す有効な手立ては見つかっていない。

「……でも、それはあなたも同じ。仲間に奇襲させた事からも分かるように、あなたはわたし達が邪魔だけど、自力でそれを排除することができない」

ひかりの言葉に、しおんは不快そうに眉をひそめた。事実、ひかり達が掴んだ佐々木しおんの正体を警察や大人達に広めることができれば、しおんが捕まえられることは無くとも彼が再び正体を隠して別の学校に潜り込み、同じような犯行を繰り返すことはできなくなる。その方法でともみを取り戻せるとは思えなかったが、『連続誘拐事件』を止めるための手段は既に手に入れているのだ。

「だからね、しおん。わたしは『条件』を満たされてあげるよ、しおんの魔法のね。あなたにとっても、この提案を呑まない理由はないと思うけど」

「……なんだって?」

ひびきが思わず聞き返す、ひかりは当たり前の事を言うように「ともみを連れ戻すなら、まずは会いに行かないといけないよ」と笑った。それは確かに、ともみを助けるために残された唯一の選択肢で、そして明らかに無謀な手段だった。ともみ以外の連れ去られた子供達や誘拐犯を捕まえるのは、ひかりにとっては本当にどうでもいい事なのだと、ひびきは思い知らされる。

「陸號ともみが生きている前提の話ですね」

しおんの揺さぶりにも平静な表情を崩さずに、ひかりは「隣町の事件の時、十人分の子供を連れ去る条件を、自分が消えたとき既に満たしているのなら、どうして一気に発動してしまわなかったのかな」と問い返す。「例えばそれが捕らえた相手の『魂を奪う』魔法であったとして、閉じ込めるための『領域』そのものは一つしか無いから、一度に多くの対象を取り込みすぎると『消化』できないからじゃないかな?」

もしも、その推測が間違いであったとして――ともみが生きていないとしたら、この騒ぎに関与する必要はもうないのだから、真実がどうあれ取るべき行動は変わらなかった。実際にその『領域』に踏み込んで、その眼で確かめることでしか、ともみの安否を確実に知る術もないのだから。

「……理解に苦しみますね。どうして、そうまでして陸號ともみを助けようとするんですか?」

「あの子は、わたしの友達。だから、助けるよ」

「それが分からないんです。あなたの鷲尾さんや高木さんとの関係を見る限り、『友達』という概念が、あなたにとってそんなにも重いものだとは思えないのですが」

ひかりは徐々に感覚が戻ってきた脚の、痒さにも似た痺れに顔をしかめながら立ち上がる。そして少しふて腐れたように顔を背けて、ひかりは日常の中での些細な不満をこぼすような口調で、こう口にしたのだった。

「わたしはね、一緒に戦う仲間が居ればそれでいいの。わたしにとっての『友達』は、一緒に話したりする人じゃなくて、力を貸してくれる仲間のこと。わたしの『魔法』は用途が限られていて、一人で戦うには不便すぎるから……でも、みんなはそれじゃ、ダメみたい。一緒に食事をしたり、家に来たり、『仲良く』していないと、他の人にとっては友達じゃないの。おんなじように、変えたい、変わりたい、と思っていて。そのために、力を合わせて戦う。なんで、それだけじゃ、ダメなのかな」

しおんは、数秒間、さっきまでの饒舌を忘れてひかりの顔を見ていた。そして、心底嫌悪するような表情で、吐き捨てるように言った。

「あなた、気付いていますか?ぜんぜん、普通じゃない」

目の前に居るしおんも、きっと同じようなものだと、ひかりは思う。そんなこと、とっくの昔に知っていたから、それを悟られないように『居ても居なくてもいい』自分を演じ続けていたのだ。そして自分から望んで何かを手に入れようと動き始めた頃から、それができなくなることが増えているのも分かっていた。

「……篠崎さんは食べれないものが多くて、いつも昼食は弁当でしたよね」

しおんはそう言いながら、何者かによって薄く切り裂かれて釦の取れた、ブラウスの袖を捲りあげる。しおんの腕の、露わになった素肌には、幾筋もの深い切り傷がつけられていた。ひびきは思わず息を呑み、ひかりはしおんが夏でも長袖で体育に参加することもなく、決して四肢を露わにすることがなかったのを思い出していた。

「体内に取り込ませる量は、累計しての数滴分で構いません。だから気付かれないほどの少量が混入した食事を幾度か食べさせることで、学食を利用していた生徒の全てに発動条件を満たさせることができました。陸號さんは普段学食を使わないので、わたしの所に『隣町の連続失踪』について訊きに来た時に、同席した食事に直接混ぜることで条件を満たしたんです」

しおんの頬や腕を薄く裂いた傷から血が流れて、差し出された手の平に小さな血溜まりを作る。そしてそれこそが、しおんの魔法が発動するための『条件』であり、変身できる他の魔術師と協力して、配膳される前の学食に混ぜ込んでいたものの正体だった。そして既に生徒の大多数が『血』を飲んでいる手遅れの状況だからこそ、しおんはその条件を明かしたのだった。

――能力発動のための準備として、こんなことをしたのだろうか?

決して派手なものではない腕に残された自傷の痕が、しおんの『何処にでも居る普通の女の子』としての外見から浮き彫りになったような違和感を放っているのを見て、ひびきはそんな風に考えた。ひびき達に知る由もなかったが、『対象書き換え』の魔法の発動のために体液系の条件は珍しいものではない。輸血や感染、そして性――現実でのそれもまた、他者との繋がりに介在する媒介物として、ありふれたものであるように。

――魔法とは自己そのものだ。

しおんの『魔法』が形作られる過程の中で、その発現までに重ねられていた当人にとって重要な意味を持つ行為が選択されたとも考えられる。御岳鶴来が『全ての魔法を無効化する刃』という魔法を生かすために武術を始めたのか、それまでに積み上げていた武術を基にして彼女の魔法が形作られたのかと同じで、今となってはそれを外から確かめる術はない。

「――血は飲めるよ、大丈夫」

ひかりは少しの躊躇いも見せずに、冬の空気に乾き始めている、しおんの小さな血溜まりに口をつける。しおんの手の平と自らの唇を接点として、体内に入ってくる塩辛く鉄臭いものを、ひかりは何の変哲もない血だと思った。そして汚れた口元を衣装の袖で拭いて、ひかりは立ち尽くすひびきの方に振り返る。

「ひびき、ついて来てくれる?」

ひかりの疑いの欠片も見えない表情と、その言葉の意味を悟って、ひびきは気が遠くなりそうになる。それは想像しただけで吐き気を催すほどの行為だったが、ひびきもまた自身のために、ともみを助けると誓ったのだ。

「……くそっ!」

そして、ひかりとひびきは、暮町の何処からも姿を消したのだった。『夕暮れ戦争』において、変身した子供が日常の世界の『何処からも』居なくなるのと同じように。

≪”night maker”≫


――


最初に感じたのは、纏わりつくような、冷たく湿った空気。開いた眼に飛び込んできた見覚えのない景色に、ひかりは何処とも知れない冷たい地面から身を起こす。頭上に太陽は出ていない。天を覆い尽くす灰色を、ひかりは最初、曇り空なのだと思った。そして、すぐに間違いに気付く。空は晴れ渡っていて、ただその空の色が、仄暗い灰色であるだけのこと。太陽も雲もない、灰穹の空が一面に広がっているのだ。水気を持った灰色の光が、雨のように断続的に降り注ぐ。どこにも姿の無い鳥が、羽ばたきとともに青と緑の羽を落としていく。ドライアイスを水に落とした時のような濃い霧がかかっていて、視界を塞ぐだけでなく呼吸さえも困難にしている。高山や酸素の薄い場所に居るような、霧に肺まで侵されるような、そんな息苦しさだった。何度も深呼吸を繰り返しながら、ひかりは一つの単純な事実を確認する。ここは、自分が生きている世界じゃない。夢の中か、或いは。

「……ここが、しおんの結界」

「クソッ、何も見えねえぞ。オレ達はどこに居るんだ?」

傍に倒れていたらしいひびきが、ひかりに続いて身を起こす。見渡せるのはせいぜい周囲の半径5m程度で、自分がどこに居るのか、何も手掛かりが見つけられない。ひかりは立ち上がろうとして、ふと胃が浮き上がるような気持ちの悪い浮遊感を覚える。ひかりは御岳鶴来に最初の襲撃を受けた後、白い少女に夕暮れの路地裏を模した不思議な世界へ招かれて、彼女と二人きりで話したことを思い出した。あれが夢だったのか、それとも彼女の魔法だったのか、まだその答えを聞いていなかった。けれど、あの時の沈まない夕陽と誰も居ない路地裏の世界は、寂れてはいたが不思議と安心するような、そんな世界だった。ここは違う。重苦しく、じめじめとしていて、吸い込む空気にすら悪意か、なにかが満ちているような。周囲が見えない中でも、不気味さや異常が十二分に感じられるような、そんな世界だ。

――全ての魔法は、本質的に『結界』なんだ。

ひかりは、つい数刻前に『しにがみさま』から教えられた『魔法』の真実について思いを巡らせる。魔法の原理が『書き換える』ことだという言葉は、ある程度的を射ているけど本質には及ばない。例えば現実世界で何かを『書き換える』として、人は何もないところに自由に絵を描けるわけじゃない。一人につき、魔法は一つきり。現実を書き換える絵具[インク]は、或いは魔法によって描き出す絵は、一つだけ。

――その正体とは、自分の中にある『世界』なんだ。

自分が規定する、自分そのもの、自分の生きる環境、現実の在り方――そういった主観を『世界』と呼ぶ。人は皆、例外なく自分の『世界』で生きている。時に『常識』と呼ばれるそれを通して人は現実を解釈して、その『世界』に満ちた節理[ルール]を前提とした思考をする。そして人は意識的、無意識的に関わらず、己の世界の常識と節理[ルール]に激しく執着する。相手に自分の常識を押し付け、自分の『世界』で塗りつぶし、自分の『世界』が侵されれば徹底的に異端を排除する。

――それが『魔法とは何か?』という問いの、答えだよ。

『魔法』とは、その人間にとっての『世界の節理[ルール]』の発露である。現実世界に、自身の主観世界のルールを押し付ける力、それが魔法だ。

「……霧が晴れ始めた」

ひかりは足元のコンクリートのような地面が、少しずつ見える範囲を広めていることに気付く。霧が完全に晴れ渡った時、露わになった周囲の景色は、いつも通っている暮町中学校の前だった。だが、何かが、決定的に自分の世界と異なっている。校舎はまるでひかり達を押し潰そうとするように、威圧的に見える。周囲には、登校する生徒の声。けれど当然、つばめもリノンもそこには居ない。人影はどこにも見えず、ただ声だけが不穏にこだましているのだ。ひかりは恐怖に駆られて、強く、強く自分の胸を押さえる。そこにだけは、いつもと変わらない静寂があった。

――全ての魔法は『独自の法則を持った、一つの世界を立ち上げる』ことによって発動する。

『しにがみさま』が“全ての魔法は本質的に『結界』だ”と言ったように、現実に現れる魔法は全てそういう形をした結界として見ることができる。魔法の対象選択の範囲や射程とは『自身の世界の広さ、範囲』であり、魔法による『書き換え』の性質は自身の世界の『法則[ルール]』と、世界の形、世界の大きさによって決定される。東大寺ひびきの魔法は、『突き刺した剣を中心として発生する結界内で』『強度の低下』が引き起こされ、陸號ともみの魔法は『自分のみを対象とした結界』で『自分を望む生き物に作り替えられる』。ひかりの障壁もまた、『全てのものにとって不可侵の結界』の書き足しとして考えることもできる。

――自分の持つ主観的な『世界』によって、客観的・物理的な世界を『塗り替える』のが魔法だ。

――そして一番、原初に近く、一番、強力な魔法が、『世界そのものを描き出す』魔法なんだ。

現実に存在する対象を『ルール』に基づいて書き換えるのではない。現実世界に割り込んで、全ての法則が独自のものである、完全に独立した新たな一つの世界を創り出す魔法――すなわち物理法則と同時に観測者にとっての『世界のルール』に、範囲内のもの全てを従わせる領域を創り出す、最上位にして最も『魔法』の本質に近いモノ。

――佐々木しおんは、そういう魔法の使い手だ。

ひかりとひびきは、校門の脇に隠れていた。何も分からないこの世界の中で、身を隠す為、そして何よりも、これ以上歩き続ける体力が残されていなかったのだ。歩くとまるで泥を掻き分けて進むように身体が重く、吸い込む空気もまた泥のように肺に堆積し、呼吸を妨げる。少し歩いただけでも呼吸が乱れ、倒れ込みそうになる。ひかりは、回らない頭で考える――これはどういう魔法で、ここはどういう世界なのか。校舎の造りは、現実世界のそれと何も変わらない。ただ、今のその場所は、自分達に対して滴るような悪意を感じさせている。

「これがアイツの魔法だって?ふざけてやがる……」

ひびきは青ざめた顔で周囲を見回していて、心なしか震えているようにも見えた。もしかして、ひびきは自分よりも怖がっているのだろうか?ひかりはそんな事を考えて、かえって冷静になることができた。やることは、いつもと何も変わらない。自分の目的、そしてその為に必要なことを最初に押さえる。周囲の異常を感じるのは、取れる手段と対処すべき脅威を知るためだけにすればいい。陸號ともみを助け出し、この世界から脱出する。そのために、必要なことは。

ふと、ひかりは頭上から視線を感じる。顔を上に上げると、校舎の窓から何かが見えた。人間のような形をした、何かだった。ひびきが「――幽霊か?」と呟く。そんなものだったら、よっぽどいい。かつて『扉』の向こうに引き込まれて、【それ】に襲われた時のことを思い出す。恐れるべきは、この世界そのものだ。

「見つかったのは、確かだよ。これ以上、ここに留まってはいられない」

どのみち、ともみの探索のために『この学校』は避けて通れない。この『世界』で魔法が放てるかどうかは確認した。『扉』の向こうに引き込まれた時と違って、どんな状況になろうとも戦うことは出来る。「行くよ、ひびき」「おい、待てってば!」ひかりが校舎に向かって歩き出すと、ひびきは慌てたようについてくる。周囲に警戒を巡らせながら、校舎に入って。そしてすぐに、二人はこの世界の『ルール』を知ることになった。


――


ヒトは報酬系と嫌悪系に紐付けられた経験によって、『法則』を学ぶ生き物だ。例えば、左に押すと電流が流れるスイッチ、右に押すと餌が出るスイッチを用意した箱に入れられたネズミが、何度かの試行で『右のスイッチを押せば良い思いができる』という『ルール』を学習するのと同じように。知覚した現状への正しい対応をとるために、己の経験と記憶から照らし合わせて『こうすれば、こうなる』という因果関係を見出すのだ。それが客観的な『現実』と照らし合わせて、妥当なものでないとしても。

――元より、『正しい認知』なんて存在しないのだ。

『正しい認知』と聞くと、誰もが己が含まれるようにそれを定義するだろう。だけど『病的な認知』の対義語、そうでない状態としてしか、『正常な認知』を定義することはできない。そして『病的』であることは『正常でない』ことを意味せず、ただ自身の生活や周囲の人間との関係に『支障が出る』というだけの意味に過ぎないのだ。

例えばネズミや、そして学習機能を有したロボットさえも、鬱病に似た様相を示すことが観測されている。ぬるま湯を溜めた円筒形の水筒にネズミを入れて、這い上がろうとするたびに水の中に滑り落ちる経験を繰り返させたると十分ほどで水に沈むことすら無抵抗になり、救出した後ふたたび同じ円筒系の水筒に入れると今度は2分もしないうちに動くのをやめて無抵抗になる。また正解となる行動を選ぶことで報酬が与えられ、自分の置かれた状況を把握し取るべき行動を選択するようになる学習機能を有したロボットに、途中にある障害物を避けながら報酬である電池パックを探して動き回らせる研究を続けると、『手に入るエネルギーが、手に入れる為に消費するエネルギーと釣り合わない』という判断から停止してしまう個体が現れる。彼らが『行動しないこと』を選択する判断基準の違いは、今までの試行における入手エネルギーと消費エネルギーの収支であるか、報酬系と嫌悪系に基づいた記憶の積み重ねであるかだけだ。つまり、これも『己の経験』から生まれた認知の一つだと言える。その状態の者たちにとっては『己の経験と記憶から照らし合わせて、動かないことが正解である』という『世界の法則[ルール]』を学びとったのだ。

――『世界』とはなんだ?

ヒトが『世界とはこういうものだ』と一定の確信を持って語る時、その『世界』という言葉の定義がはっきりと言及されることは少ない。ヒトは宇宙の果てを知ることはできないし、海を越えて地球上の全てを包括している必要もない。『世界』とは個々の所有している観念的なものであり、或いは積み重なった認知により作られた『観測』そのものだ。そして最も初歩的な段階では視覚像や空気の振動に意味を与え、そして意味を与えられた現状認識に対して取る行動を選択するための唯一の指標でもある。

――では、その『世界』とは何でできているものだろう?

『自分は○○である』といった自己認識から、『××すべきである』という善悪論、『□□は△△だ』という抽象的な判断基準まで、個人の認知によって帰納的に学習された『法則[ルール]』に満たされることで、ヒトの『世界』は形作られる。『世界』とはつまり断片的な因果関係によって満たされた『法則[ルール]』の集合であり、そして自らの観測した『世界』の中でしか人間は生きることができない。

その人間の経験したこと、取り巻く環境、接してきた他者、そして自分自身。それだけが『世界』なのは、誰だって同じだ。二人として、生まれてから寸分たがわず同じものを観て生きてきた人間は居ない。そして観たものが世界となるのだから、同じ世界を持つ人間など居るはずもない。そこにあるのは異世界だ。ファンタジーやSFの世界でも、海の向こうや遠くの星々などでもなく、わたし達の隣に異世界は存在し得る。善悪正誤の価値観や物事の因果関係でさえも、自身のそれと全く異なる世界。そもそも観てきたものが、『知っている現実』が違うんだから当たり前のことだ。

――『世界』について語られる言葉とは、小説でいう所の『地の文』に似たものだ。

台詞や行動として表出するもの、それによって理解される人格などは氷山の一角に過ぎない。目の前の人間がどのように考え、どのような意志を持ち、外から認識できる言葉や行動を生み出したのか、その基となった『世界』を他者が知ることはできない。

――君の『ルール[じょうしき]』が一切通用しない君にとっての『異世界』が、君を取り巻く全ての人間の中に在るんだ。

誰かの観てきたものを知ることはできないし、同じ場所には同じような世界を持つ人間が集まる。そして周囲と隔絶した世界を持つ者ほど、それを知られる事を恐れるか、孤立することで口を閉ざすようになるから、彼らが抱いた『異世界』を認識することは余りにも少ない。でもね、確実にそこにあるんだ。君と隔絶した世界が。逆に、言えない苦しみを抱えて生きることで、『普通の世界』との隔絶を抱くようになる人間も多く居る。

――何の話をしているか、そろそろ分かってきたんじゃないか?

――そう、『魔法使い』の話だ。


「篠崎ってさ、ゲームとかやったことあるか?RPGとか、アドベンチャーのさ」

先を行くひかりの背中に、ひびきは声を掛けたくなった。

「ないけど……それがどうかしたの?」

「いや、オレもリノンの家でやっただけなんだけど……なんていうか、そっくりなんだ。この世界と、そういうゲームが」

それは丁度、二人がひかりの教室まで行って、他の教室と同じように『入れない』ことを確認した時だった。ドアに取り付けられた窓ガラスからは教室の内装――並んだ机や椅子、そして人の影のようなものがぼんやりと蠢いているのが見える。けれどドアは見た目だけの、壁と一体化したハリボテのようなもので、開けて中に入るどころか動かすことすらできなかった。

「ゲームの中ではさ、主人公がストーリーの中で行かなきゃいけない場所、イベントが起こったり、キャラクターが居たりする場所、それとお店とか必要な施設以外は、マップの中に造られていないんだ。外側だけ見たらあるように見えても、扉に鍵がかかってたり、木とか棚とかが邪魔して通れない。その先には、元々なにも設定されてないんだ。学校でも、どこかの村とかでも、全部を余すことなくマップにしようとしたら、キリがないから、ってリノンは言ってた。なあ、それってこの世界と、全く同じじゃないか?」

見た目としてだけ、作られた場所。まるで電車に乗っている時に、窓ガラスの代わりに流れ去る景色の映像が流されているような、全ての食べ物が見本用のレプリカに取り換えられた弁当箱のような、そんな奇妙さだった。その向こう側に、何もない。それが意味することを、ひびき達は考えようとする。そして、二人がともみの教室まで向かおうとした、その時だった。【人の影】に、二人が出逢ったのは。

「おい……ひかり、何か来るぞ」

ひびきは震える指先で、目の前の廊下から歩いてくる人の形をした何かを指差した。その姿がはっきりと見て取れるほど近寄ってきた時、ひびきの背筋を寒気が這いのぼる。服も、体型もこの学校の生徒のそれだ。ただ顔の造作だけが、写真や絵を濡れた指で擦ったように汚くぼやけている。ひびきが一歩下がろうとしたのと、二人の横を新しい【人の影】が通り抜けるのが、ほぼ同時だった。

「……っ!」

≪fragile≫

声にならない悲鳴を上げて、ひびきは生み出した剣で【人の影】に斬りかかろうとする。その腕を掴んで止めたのは、ひかりだった。

「攻撃しては駄目」「どうしてだ!?先に倒さないと、何してくるか分からないんだぞ!」ひびきは取り乱した声で、ひかりに叫ぶ。得体の知れない【それ】を目前にして、ひびきは何もしないなんて選択肢なんてあるはずがないと思った。

「相手がそのつもりなら、もうとっくに攻撃されてる。そうじゃない理由は……」

ひかりは【人の影】から眼を逸らさないまま、冷静に語りかける。敵意、悪意、それらは二つの不気味な【人の影】から、常に感じ続けている。それでも、不意に横切られた時、攻撃されなかった理由は。

「たぶん、こちらが攻撃してくるのを待っているんだと思う。ここは魔法の世界――魔法には必ず、ルールがある」

顔のない通行人たちは、二人並んでこちらを見ている。こちらを指差して、何かを言ってるように見えた。「怖い……気持ち悪い……なんなんだよ、これ……」震えながらそう呟くひびきの手を引いて、ひかりは【人の影】たちの横を通り過ぎる。目指す場所は、ともみの教室。服の隙間から素肌に纏わりつくような冷気と湿気、そして身体の重さと息苦しさが、一層増したような気がした。

――わたしは、生きてる人の方が怖いけどな。

何もしてこない【人の影】の横を通り過ぎる時、瞼をぎゅっと閉じて自分の服を掴んでついているひびきを見て、ひかりはそんな言葉を飲み込んだ。ずっと、先を歩くのはひかりだった。学校の内装をよく知っているのがひかりであること、ひびきが一人では歩こうとしないことも理由だが、なによりひかりは立ち止まっていることの方が怖かった。ここに居続けたら、いつか息ができなくなりそうな気がするのだ。

ひかり予想通り、ともみの教室だけは扉が開いて、入れるようになっていた。それはひかりが抱いた、この世界についてのある仮説を裏付けることでもあった。ともみの教室に近付くにつれ、【人の影】は着実にその数を増していった。

「……随分と、荒れてるな」

ともみの教室は、妙に荒れていた。机や椅子が方々に転がり、【人の影】は教室の中心を取り巻くように立ち尽くしている。落ちている教科書を開こうとしても、ページがあるように側面を塗装された木の板のように、指をかける隙間すらなかった。別の教室のドアと同じような、見た目だけのハリボテだ。

「ひかり、なんか気分悪い……」

「大丈夫?」

ひかりはほとんど上の空で、しゃがみこんだひびきに声をかけながら、周囲を見渡す。そして、ともみの羽弾のような茶色い羽が教卓の端に突き刺さっていることに気付いた、その直後。ひかりは強烈な眩暈に襲われた。

「……っ!?」

ぐらり、と視界が傾いて、先にしゃがみこんでいたひびきに覆いかぶさるように倒れてしまう。周囲の【人の影】たちがこちらを指差して笑い、なにかを言い合っているのが聞こえた。酸素が不足して、ほとんどまともに呼吸ができなくなっている。身体は熱病にかかったように重く、震えが止まらない。ひかりは胸を強く押さえて、恐怖や混乱に荒れ狂う心を鎮めようとする。そして、ひかりは理解した。

――攻撃は、発生している。

【人の影】たちは呪いのようなもので、確実にこちらの心身を蝕んでいる。視ただけで毒を与えるような、それは恐らく【それ】らの悪意に満ちた視線に依存するものだ。ひかりはこれまで、ひびきや御岳のように物理的、一撃必殺の攻撃を持つ相手ばかりと戦っていて、即効性でない攻撃には鈍感になっていたのだ。

――けれど、それでも、たぶん攻撃したら、もっとまずいことになる。

それは不思議な確信だった。この世界についての仮説が正しくて、かつ陸號ともみについて聞いた、様々な話に、話者にとっての偽りがないのだとしたら。その確信は、きっと正しいものだ。

「わたし達は魔法で攻撃されてる。でも、絶対に反撃しちゃ駄目」

ひかりは力を振り絞って立ち上がると、へたり込んだままのひびきの手を引いて立ち上がらせる。【人の影】一人分なら、きっと大したことのない攻撃。教室内全員分の呪いを受けているから、着実に心身を削られている。窒息するのが先か、正気を失うのが先か、それとも、我慢できずに攻撃して、【人の影】が一斉に襲い掛かってくるのが先か。

――彼ら一人一人にとっては、攻撃ではないような些細な悪意。

――こちらが攻撃すれば、相手にとっては先に攻撃したのはこちらになる。

――そういう【ルール】だ。

「……御岳鶴来の方が、よっぽど戦いやすかった」

ひかりは誰にも聞こえないように、そう小さな声で毒づく。そして、振り返ってひびきに一言、こう言った。

「逃げよう」

「逃げるっつったって、何処へ逃げるんだ!?この場所じゃあ、たぶん隠れられるような場所なんて用意されてないぞ!」

ひびきの声が、奇妙に遠く、歪んで聞こえる。身体はますます重くなり。まるで泥沼を泳いでいるような気分になる。教室を出てすぐの廊下、窓ガラスが一枚、盛大に砕かれているのが見えた。そして、教卓に突き刺さった羽の弾丸。

――陸號ともみは、少なくとも一度ここに来ている。

その確信を抱きながら、ひかりは窓ガラスに向かって全力で走り、そのまま宙へと飛び出した。ひびきの問いへの答えを、簡潔に答えながら。

「作ればいいよ」

≪rejecter≫

二人が窓ガラスから飛び出すと同時に、ひかりは目張りをするように窓に障壁を張り巡らし、【人の影】の視線を遮断する。ある程度は予想通りのことだったが、校舎から校門までの間にも【人の影】が現れていて、こちらに向かって有毒の視線を投げ掛けてくる。≪rejecter≫間髪置かずに二人の足元に発生した障壁が、【人の影】の視線を遮断し、同時に二人の足場となって一直線に街の方へと伸びていく。

「便利だな、その壁……」

ひびきの気の抜けた声を後ろに、ひかりはゆっくりと天空を歩み出す。天にはグレーの晴天、そして相変わらずの泥の空気。けれども、呼吸をして、歩けるくらいには二人とも回復していた。

「ともみは、ここから何処かに逃げたんだ」

初めて『この世界』で見下ろした学校の外は、校舎の中よりも遥かに異常に満ちていた。街路を隙間なく埋め尽くす【人の影】。それだけではない。高層ビルやマンション、様々な建物の輪郭を示すシルエット。薄暗いのに、どこにも灯りはなく、そして入り口や窓もどこにも見えない。あれもきっと『行けない場所』なのだ、とひかりは思う。眼下の景色には、車の音も、生き物の声も聞こえない完全な無音だ。全てが音と彩度を失い、死に絶えた灰色の世界。

空中でも、まるで見えない壁があるように障壁の生成先、移動経路が制限されていて、『駅向こう』や街外れに行くことはできなかった。ただ、ひかり達を知らない場所へと導くように、一方向にだけ障壁を生成することが出来ていた。ひかりはひびきの手を引いて、無言で歩き続ける。

ひびきは目の前の、現実と何も変わらない鮮明な街並みが一人の人間の創り上げた『魔法』そのものであり、今の自分達が居る場所がその『魔法』によって作り出された世界であるとは、最初は到底信じることができなかった。けれど、すぐに自分達が『書き換え』よりも遥かに大規模なものの影響下にあることを思い知ることになった。


ひかりは一度後ろを振り返った時、ひびきの顔が【人の影】と同じように歪にぼやけて見えた。ひびきにとっても同じように見えたらしく、思わず障壁の通路から落ちそうになった彼女の手をひかりが掴んで、横からの障壁で通路に押し戻す。

「これもこの世界の『ルール』だよ。我を忘れたら、きっとそこで終わり」

肩で息をするひびきに、ひかりは静かに言った。『扉の向こう』の暗闇の街を知っているひかりは、しおんの魔法の仕組みを少しずつだが理解し始めていた。そして、自らの仮説が確度を増していく実感も得ていた。しおんの『変身できない』という大きな制約も、魔法を発動させるまでの煩雑な条件も、全てはこの『世界』を創造するという圧倒的な効果の代償だ。だが現実から完全に独立した世界に、物理法則や独自のルールを与えて運営できるほどの演算能力と、更にその中に複数の人間を取り込んで24時間維持し続けるほどの集中力を、一介の人間が持てるはずがない。

――きっと『出現させている』のではない、『自らの領域に連れ去る』というのも少し違う。

――この世界は既に『存在していた』ものだ、しおんが魔法を発動させるより前に、しおんでない誰かの中に。

魔法の効果とは無から生み出されるものではなく、本来隠されている自身にとっての『世界のルール』を他者へと適用し、或いは外部から認識できるような物理的変異を引き起こすことで現実世界に行われる干渉だ。ならば、決して外から知ることのできない『個人に積み重ねられた認知』と、その経験によって帰納的に学習された『法則[ルール]』が織りなす『世界』という観念そのものを『顕現させる』力は、まさに『魔法』の原理に最も近いモノだ。利用しているのが自分ではなく他人の『世界』だということを除けば、だが。

「この『世界』の持ち主は、しおんじゃないんだ。だから、しおんは取り込んだ相手をすぐに、己の意志で殺すことができなかった」

隣町での失踪した子供達が帰ってきた時、身体や服には傷一つない綺麗なものだったと聞いた。それは事件にされないように取り計らったのではなく、しおんの魔法では『肉体は傷付けられなかった』のではないだろうか?

「佐々木しおんの魔法じゃなかったのか?」

ひかりの呟いた言葉に、疑問を覚えたひびきが問い掛ける。ひかりは答える前に、雲も太陽もない空を見上げた。水中から見上げた水面に、遠くおぼろげな陽が揺れるように、灰色の空からは微かな明かりが断続的に降り注いでいる。一面に満ちる空気は纏わりつくように重く、その息苦しさと相まって緩慢に窒息させてられてゆくような焦燥を覚えさせる。

魔法によって創造される『世界』とは、外から決して知ることのできない持ち主の観測が、他の誰かにとって実際に五感的な知覚となる場所だ。それはまさに他人の夢を覗き見ているようで、本来その言動や行動から推し量ることしか出来ない、誰かの『地の文』となる観念の具現化だ。

「……まだ仮説だけどね。しおんの魔法は、しおん自身の『世界』を顕現させているんじゃない。条件を満たした対象を誰か一人でも取り込む事で初めて現れる世界――それは『佐々木しおんの世界』ではなくて、取り込まれた人間の観ている『世界』を悪意によって極端に改変したもの」

『夢』とは記憶の再解釈のための脳の働きだ。ならば記憶の積み重ねによって生まれる『世界』が、その持ち主にまで牙を剥くとしたら、それは『悪夢』そのものだ。恐らくしおんの魔力は、『世界』の持ち主や取り込まれた他の人間が自力でそこから抜け出せないように捕らえておくのと、顕現の過程でそれらが悪意をもって本来の『世界』の主にまで襲い掛かるように極端化させることだけに使われているのだろう。

――では、その『悪夢』の主は誰か?

灰色の光の雨は、波打つ水面から降り注ぐ光と同じように、断続的に揺らぎ続ける。そして、もがきながら墜ちていく絶望と恐怖が、この世界を形作っている。不透明な水を通して観た周囲のものは、ぼやけて歪み、恐怖を掻き立てる。誰かの呼ぶ声は遠く、手を伸ばしてもただ灰色の水を掻くばかり。もがけばもがくほど苦しみは増し、そして浮かび上がることも、すくわれることも決してない。そんな誰かの『世界』――誰の『世界』かは、もう分かっている。

「――ここが、ともみの生きてる『世界』なんだ」

陸號ともみは、陸號ともみの世界に、閉じ込められている。ひかりはその仮説を抱いたのは、ともみの入ったことのない教室、行ったことのない場所に行けないようになっていると気付いた時だった。観たものだけが、世界を構成する。ならば、この道の行く先もきっと、一つしか無い。

「なあ、ひかり。お前はどうして、怖くないんだ?」

障壁の道を歩み続けるひかりに、ひびきが問い掛ける。その声は相変わらず、水中で話した時のように歪に遠く反響している。ひかりは振り返って、言った。

「ううん、怖いよ。生まれてから一度も、なにもかも、怖くなかったことなんてない。でも、この世界よりも、ともみが居なくなってしまうことの方が怖いから。立ち止まっていることの方が、歩き続けることよりも怖いから。だから、わたしは前に進むの」

『友達』が居なくなってしまうのは、とても怖いことだ。自分の魔法は、単体で戦うには足りていないものが多い。御岳を倒すことも、二人の力がなかったら不可能だっただろう。自分にとっての『友達』とは、今を変える為に力を合わせて戦う仲間のこと。けれど、ひびきやともみにとって、彼女達の『世界』にとって『友達』の定義が別であるのなら、ひかりは互いが『友達』で居続ける為に、二人の前で自分を演じ続ける。

「……それってさ、変じゃないか?何もかもが怖いって、どうして、そんなに怖いんだ?普通さ、なにかが怖いって、ちょっとくらい理由があるもんだろ。虫なら気持ち悪いとか、暗いとことか高いとこだと不安になるとかさ、」

ひびきは少しだけ、ひかり自身のことも怖かった。御岳との決戦の時、ともみが見ていないところで御岳と最後に対峙して、そして単身で仕留めた時のあの真っ黒な瞳。それは平時のひかりと全くの別人のようで、自分達が傷や苦しみを隠して日常を過ごし、『夕暮れ戦争』でその『素顔』を曝け出して戦うのとは、何か異質なものに思えた。ひかりが『夕暮れ戦争』の中で交わす言葉も、その仕草も『普通の女の子』から逸脱することはなくて、それ故に『本当の篠崎ひかり』と誰も会話したことがないんじゃないかと思わされる。

「――『怖いから戦うんだ』って言った時もさ、お前、全然怖そうになんか見えなかった」

ひびきは、不審そうにひかりを見つめる。ひかりは、ひびきの言っていることが分からずに首を傾げる。ひびきは『本当の自分』である『根源』を、全ての行動の理由を『恐怖』だと言って拘束解除[コードリリース]を発動した彼女の姿も見ていたけれど、その時そこには冷静で、ともすれば機械のように精密な、御岳と対になる一人の戦士が居ただけだった。

――じゃあ、一体『誰が』怖がっているんだ?

――怖がってるお前と、戦ってるお前は別なのか?

その問いをひびきが口にする前に、二人の会話は突如として中断されることになった。宙に居ても分かるほど強烈な地響き、そして先程にも増して重くなった空気が二人に襲い掛かる。

「来るよ」

ひかりは障壁から落ちないように足を踏ん張りながら、平坦な声で呟く。

「ともみの家だ」

街の『こちら側』の中でも、比較的裕福な人間の家ばかりが立ち並ぶ通り。その中でもいっとう大きな豪邸が、灰色の街並みの中で一つだけ彩度と、そして巨大な威圧感を持って建っていた。

≪peafowl’s wings≫

その時だった。聞き慣れたはずの電子音声と、あの文言が鳴り響いたのは。

≪Code release≫

ともみの家が、その瞬間に崩落した。一瞬で砕けて瓦礫と化し、重力に従って落ちていく屋根と外壁を貫いて生えたのは、三階建てだったともみの家よりも更に高くそびえ立つ、一対の翼。

「……なんだ、ありゃ」

ひびきが、茫然と呟く声が背後で聞こえる。青と、緑と、赤紫。色とりどりの羽が組み合わさったそれは、現実のものに当てはめるのならば孔雀の羽。ただ、そう言い表すにはあまりにも大きく、そして硬質な異獣の翼だった。翼の下には、十倍以上に拡大された、棘を纏った鰐の尾。両手には獅子のものよりも鋭く巨大で、そして狂暴な五対の爪。瓦礫を踏みしめる両脚もどんな猛獣のそれよりも強靭で、彼女の姿は竜か、怪鳥か、現実に居ない生き物のそれだった。ひかりは、彼女の名を呟く。

「……ともみ」

息も絶え絶えで、正気などとうに保っていないような姿のともみの足元には、数百の【人の影】の断片が散乱していた。

「ずっと、戦ってたのか。アイツが消えてから、オレ達が来るまで」

天を走る障壁も、二人の姿も見えないように、ともみは天に向かって咆哮する。耳をつんざくような轟音と、空気の波打つような鳴動がひかりとひびきの身体を揺らす。そして、ひかりは気付いた。ともみの足元の【人の影】が元通りに……いや、断片になったものがそれぞれ一個の【人の影】として、その数を数倍にも増して再生しつつあることに。

「攻撃したら、ああなるんだ」

ひかりは感情の乗らない声でそう呟いた。

――攻撃して退ければ、その瞬間だけは確かに凌げる。

――けれど、後で何倍にも増えた敵に、何倍にも増えた悪意で蝕まれることになる。

――それを凌いだとしても、敵は無尽蔵に、倒せば倒すほどその数を増していく。

――攻撃せずに堪えても、状況は改善しない。

――そして、逃げ道はどこにもない。

この『世界』において対象の魂を殺すのは、誰かの意志で発露する魔法ではなく、その基となる『観測』そのものだ。彼女が世界に対して抱いてしまった『悲観』――負の『ルール』そのものが、彼女自身を殺そうとしているのだ。

人の声帯から発することのできるはずもない、獣のような絶叫がひかり達の耳をつんざく。ともみは正気を失った声で、何かを求めるように、何かを恐れるように、何かを憎むように、天に向かって咆哮していた。

「ひびき、地面まで連れて行って」

ひかりは、ゆっくりと精神を集中させる。『己の世界』を見つめる為に。そして、自分が何を求めるか、そのために必要なことが何か、それだけを考えて。

「ともみは、わたし一人でやる」

「大丈夫なのか?」

「どうせ大丈夫じゃなかったとしても、やるしかないよ……それに、ひびきには最後にお願いしたいことがあるから」

ひかりはこれまでの、ともみについて聞かされた話を思い返す。誰が何を思っているのか、どういう事情があったのか、何が正しくて何が間違っていて、何が善くて何が悪いのか、今はどうでもいい。真実なんて、どこにもないから。誰も彼も、自分の認知以外を信じることなんてできない。

ともみの敵対的な振る舞いに対して、周囲はそれに応じた振る舞いをする。度を超えて親切にする必要は無くて、ともみもますます周囲を敵と見なすようになる。或いは逆だったとして。最初の頃に、周囲に恵まれなかったから、ともみは自衛のために敵対的な振る舞いを身に着けたとして。そうでない人たちの輪の中に入っても、その振る舞いを変えることができず、そして新たな環境における彼女は周囲にとって、『恵まれない環境』を作り出す要因でしかないのだ。

――自身の行ったことのある場所だけが世界で、

――自身の知るものだけが存在するもので、

――だから彼女は、敵しか知らない。

陸郷ともみの認知は、陸郷ともみの認知に過ぎない。けれど彼女はその中でしか生きることができず、それは誰一人として例外ではないのだ。ヒトは『自らの学習したルール』が支配する、『自分の世界』の中で生きている。そして、認知はいくらでも歪んでいく。周りが敵に見えて、そのように振る舞うことで実際に敵になっていく負のスパイラル。

――最初は、どこから始まった?

どっちが悪いかなんて、なにが正しいかなんてどうでもいい。助ける、わたしの友達[なかま]を。わたしにとって、それが必要なこと。

――ともみを助けるために、必要なことは。

ひかりは、ゆっくりと手を掲げる。

≪rejecter: code release≫

かつて、ひかりは己の恐れるもの全てから距離を取るために、自分自身を遠くから観察することで己の味わう恐怖や苦しみを他人事として捉える術を得た。その時、観察される『世界に触れる自分』は、観察している『本当の自分』を守るための薄膜となり、『本当の自分』がそこから出ようとすれば、かつて味わった痛みをまた味わうことになるのも学習して、いつしかその場所から出られないようになっていた。けれど今は違う、それは牢獄なんかじゃない。『観察する、本当の自分』に自衛以外の動機ができた、今となっては。

――わたしは、わたしのためだけに、陸號ともみを連れ戻す。

――そのことを知るのもまた、わたしだけでいい。

≪”The Maze”≫

『対象書き換え』と『自己書き換え』の魔法は、『既にある事物を一つのルールに従って書き換える』という意味では、規模の大きさや対象の多さと能力の効果をトレードオフにしているだけで、互いに対応する二系統だ。同様に『書き足し』と『世界創造』の魔法は『指定空間に新たなルールを付け足す』のが本質であり、両者の違いはその対象が『同時に生み出された物体』であるか『同時に生み出された空間』であるかというだけのことだ。

――『拒絶者[リジェクター]』の魔法。

書き足される立体迷路は、2m^3のマス目によって描画される『固有の領域』だ。黒く冷たく硬質で、そこに他者の介在する余地はなく、その世界は『侵せない』ことが最優先の定義である。その内部において新たなルールが付加されることはないが、その対価として得られたのが圧倒的な質量をともなった純物理的な支配領域だ。

――ひかりの『世界』が、顕現する。


――


「――案外に、持ちこたえるじゃありませんか」

ともみが辺り一帯に響き渡る声に顔を上げると、何処からから戻ってきたらしい彼の姿が、灰色の空の中にぽつりと浮かんでいた。釦が取れて肌蹴たブラウスの胸元からは、肋骨の浮くくらい華奢な体躯と、なだらかな二つの丘陵が見え隠れしている。

「……柏木、夏鈴」

満身創痍の身体で、ともみは少女のように笑う彼に向けて声を絞り出す。ともみの意識は朦朧として、自分がこの場所で何時間、何日間戦い続けたかの記憶も曖昧だった。視界一杯に広がるもの全てが敵であり、吸い込む空気や肌に触れる雨さえも、全てがしおんの『魔法』によるものだ。そして、これが自分の『世界』そのものだと気付くのに、そう時間はかからなかった

「復讐のつもり?あなたを助けなかった、世界への」

彼が『しおん』として語った時の言葉を信じるのなら、最初の犯行である隣町の『仕込み』をし始めたのが中学に入ってすぐのことだ。その動機になっているのが『佐々木しおん』として話していた時でさえ話題に上らせなかった、『小学生の時の出来事』であることが推測できた。これまでの事件はきっと、しおんが小学生の頃に経験したものの再現だ。家庭内での虐待が表沙汰になった時、周囲から受けた扱いの。そして隣町の中学に転入するまでの入院生活の中で、柏木は今の事態以上の何かを望んでいる、彼に『力[まほう]』を与えた何者かに出会ったのだ。

「そんなことしたって、この『世界』は何も変わらない。復讐に値するものなんて、この世に何一つとしてありはしませんよ」

「復讐でないなら、なんのためにこんなことを」

『柏木夏鈴』が自発的な失踪を遂げたところから、隣町での『連続失踪事件』は引き起こされた。消えた柏木夏鈴のことを誰一人として気にすることもなく、つつがなく続いていく日常。そして、彼の『仕込んだ』魔法が発動して立て続けに子供が失踪しても、それでも誰かが助けようと動くことはなかった。夏鈴はその最中で名前を変えて転校し、他の子供は魂を奪われ『柏木夏鈴』だけが人知れず消え去った。

それは柏木夏鈴が『日常』から足を踏み外した小学生の頃の出来事を、暮町に至るまで何度も繰り返しているようで、それが復讐でないとしたら――柏木夏鈴は、楽しくてたまらないような笑みを浮かべる。

「あなたが敵に回したのは『この世界のルール』です。誰も自分から居場所を失って、姿を消した人間を助けになんて来ない。誰も消えて困らない人間を消したことで、罰が与えられたりしない。そういう風に『世界』が廻っている限り、次の場所でも同じように、僕はこうして一人ずつ魔術師に墜としていく。足取りを消して新たな名で日常に溶け込めるなら、過去の経歴の真偽を疑おうとする者なんて居ない――前の名での自分は、既に死んでいるんですから」

その言葉に、皮肉っぽい笑みに、ともみは『佐々木しおん』として彼と言葉を交わした時に見た、その本当の姿の相似形を見出した。これからも観続けねばならない、自分が変えることのできない世界には、日常の中に居場所を与えられた人間と、彼らが決して認識することもない、救われることのない日陰の幽霊――『救われない側』の人間と、『救わない側』の人間の二つしか居ないとして。

「あなたは二度と『救われない側』になりたくなくて、そして無自覚なままに『救わない側』に回ることもできなかった。けれど、あんたが何処にも属さないために目指したのは、『世界』に与する事のない傍観者なんかじゃない……あんたは『どうにもならない世界』そのものにとって代わろうとした」

柏木夏鈴は『傍観者』になるのではなく、『救われない構造そのもの』になろうとした。そのための手段が、柏木夏鈴にとっての『この事件』だったのだ。柏木は嗤う、その眼に底知れない暗闇を湛えて。

「――この世界は地獄ですよ。そして地獄には、永劫苦しみ続ける罪人と、その行使者である鬼しか居ません。わたしが『負の螺旋』そのものになる、それがたった一つの……」

復讐や憎悪もあるのかもしれない。けれどそれ以上に、彼を動かしているのは『観測』だ。世界に対する『観測』、日常的に選択し続ける『行動』、そして『目的』の三つのどれかが定まっていること、それがアイデンティティというものになる。或いは、異端たりうる理由――『魔法』に。

東大寺ひびきが自らを含めた遍く人間に『弱さ』を見出し、それを憎んだのと同じように。篠崎ひかりが己の恐れるもの全てに対して距離を取り、世界を知覚して行動の主体となる自らさえも『拒絶』して、遠く離れた殻の中からそれらを傍観していたように。御岳鶴来が己の全てを奪った存在へ『復讐』するためだけに、数えきれないほどの魔術師を殺し続けたように。何かを怖いと思うこと、自分より恵まれた誰かを羨むこと、大切なものを奪った相手を憎いと思うこと……どれ一つとしておかしいものでないはずなのに、彼女達の多くは世界に受け入れられていないと感じていた。

柏木夏鈴の選択は、彼の『観測』の中では至って人間的な妥当なものだった。だが、その『観測』が余りにも歪であるために、こうまでも大きな異端となりうる行動となったのだ。

「……もう父さんに貰ったもの、この身体くらいしか残っていないけど。待っててね、あなたを殺したもの全部わたしが殺してあげるから。今取り込んでる魔法使いの『悪夢』を合わせただけでも、この街くらいは呑み込める」

未だしぶとく戦い続ける陸號ともみを見下ろして、柏木夏鈴は小さな声で呟いた。そして壊れ物を扱うかのような繊細な手つきで、白磁の人形ような自らの身体を抱きしめた。ホルモン注射と豊胸手術によって膨らんだ胸は、同年代の少女と同じように痛いくらいの肌の張りを残していた。

――もうすぐで、手駒が増える。

それは柏木夏鈴に『力』を与えた者が、望んだことだった。

「……だから、あなたには早く墜ちてもらわないといけないんですがね。」

その言葉が終わると同時に、さらに数を増した【人の影】が陸號ともみを取り囲む。そして今や暮町の街並みさえもが、ともみに向けて悪意を向けていた。

――誰も助けに来ない、だなんて。

柏木も分かりきったことを言うものだと、ともみは思った。助けなんて最初から期待していない、自分は一人で全てを成し遂げるために、どんな人間にだってなれるようになったのだ。誰も信じていなければ、誰に助けを求めることもなく。誰にも心を開かなければ、誰かに踏み荒らされることもなく。誰にも寄り掛からなければ、誰かを失うことを恐れることもない。味方でない相手しか居ないのなら、誰に対しても如何に利用し、如何に邪魔をさせないかだけ考えていれば良い。だから、全てを敵だと見なすのだ。

≪peacock’s fowl≫

ともみは望む――新たな姿[じぶん]、新たな魔法[ちから]を。戦うために、全身の部位を変化させて、元の自分の身体を捨て去って。足先を変化させて地中に潜行させていた大蛇が更に変化、巨大な尾として立ち上げられ【人の影】を数体打ち払う。ともみの翼は更に巨大な七色のものとなり、その羽ばたきと蚤のように変化させた脚の跳躍によって加速した勢いのままに【人の影】の群れに突っ込み、自動障壁と重ねて纏った甲殻によってその多くを轢き潰す。翼の弾丸は着弾と同時にその急成長する植物の蔦に変化して、辺り一帯の家屋をその内部から砕いていく。

――本当は、この『世界』がそういう風に一義的なものでないと分かっていても。

良くも悪くも、自覚的であってもなくても、人の中には『自分』しかないのだ。日々を楽しく生きる為に、自分を利するために――その目的に適っている限り、必ずしも害意を持っている敵ばかりではないことも、ともみは知っていた。全ての人間を敵だと見なすようになったのは、そう思わないと生きていけないからだ。

本当は憎みたくない、なんて。分かっている、自分の中にも『自分』しかない、他人の想いなんて誰も汲んではくれない。自分は周囲の誰にとっても自己中心的な悪者であって、それに至った経緯なんて語ったところで理解されるはずもない。『他人が敵である』という感覚を、半数以上の人は知らずに生きていくのだから。

――憎んだのは、かつて自らの『想い』を裏切られたからで。

かつての自分には、たった一つだけ信じるに値する半身が居るのだと思っていて。身を賭して守ろうとした彼女に裏切られて、全てを失った。だから敵だと思わなければ、生きていけなくなった。そして、ともみは今更どうしようもない、一つの真実に気付いてしまった。

――みともに裏切られたのは、『信じていた』からだ。

あの時の私には確かに一人だけ敵でない人間が居たのだ、それこそが妹と自分を別っていたものだ。わたしは妹に求められることで、必要とされていると感じることができた。妹にとって、わたしは要求を代弁してくれる存在ではあったけれど、わたしが妹を必要としていると思ってくれてはいなかった。あの時のみともには、誰一人として信じられる者が居なかった。ともみは形だけの名声や、妬み混じりのおべっかを『自分が居て良い』ことの証明だと考えることはできなかったが、あの頃のみともに向けられていたのは常に叱責と失望で、だから姉を『半身』だと見ることができなかったのだ。

――今まさに自分の魂を殺そうとしている『この世界』で、彼女は小さい頃からずっと生きてきたのだ。

だから、自分を裏切ったのだ。全てを敵と見なして利用しようとしている、今の自分と同じように。言われた当時は理解できなかった、みともの言葉を思い出す――“無償の愛なんてないとしたら、愛のために払えるものがない人は、一生愛されないままね”それを理解できなかった理由はただ一つ、あの時わたしは妹を大切な半身として『愛する』ことが出来ていたのだ。たった一つ手に入れられそうだった愛があった故に、もう二度と誰も愛せないほど敵として見なさなければ生きていけないようになった。


――ここは水底だ、何もかもが手遅れになってしまった場所だ。


浮かび上がることのないまま、ただ失われていく呼吸と、遠ざかる水面を眺めるだけの。一際大きな【人の影】が現れる。彼らはもはや笑ってもいない。わたしは彼らを傷付ける、すなわち悪であり、敵であるのだ。身体の重さも、呼吸も、もはや耐え難いほどになり、とうとう翼の片方が呪いに負けて根本から折れ落ちる。そして明確な『悪』に対しては最早、物理的な暴力さえも『正義』として許容される。

ヒトは中学生になるころから経験の堆積によって『節理』を学び、そして芽吹き始めた抽象的な概念としての『世界』の中で生きるようになる。辿ってきた人生の道筋は誰一人として同じでないのなら、その経験もまた一様ではなく、故に『世界』を共有することは出来ない。『魔法』とは……

≪”peacock’s fowl” code release≫

鋼のように硬く巨大な虹色の翼が、ともみの背から折れた猛禽の翼を根元から引き裂くように生やされる。色とりどりの羽が組み合わさったそれは、現実のものに当てはめるのならば孔雀の羽。愛されるために、そして敵しか居ない世界で生きていくために、数多の『自分』を作り上げた少女、陸號ともみの『根源』そのものだった。柏木は最早ヒトとしての原型すら留めない、ともみの姿を見て言った。

「……それが、あなたの本当の『魔法』の力。あなたが『想い』を失い『願い』も忘れたとして、それでも残る『根源』の正体――『認知の歪み』そのものです」

人は自分が置かれている状況を、絶えず主観的に判断し続けている。『認知』と呼ばれるそれは生存のための学習能力として、通常は己を利するように行われているが、特定の状況下では非適応的――つまり自他の生活に対して支障をきたすような行動を生むことがあり、精神医学的に『認知の歪み』と呼ばれるそれらは自らが生んだ非適応的な行動によって更に増強されていく。

『魔法』となるのは、胸の奥に秘した言えない苦しみ、明かせない傷痕そのものではない。他者と共有できないような経験を背負って生きる者が、必然的に抱くことになる大多数の人間から外れた節理――『認知の歪み』と呼ばれるそれを魔法の力に換えるのだ。魔法の個人差とは各々が生きる『世界』の差異であり、それらは常識との『ズレ』の大きさだけ異質な効果を持つようになる。しおんの魔法によって生まれた『悪夢』もまた然り、その効果は対象の歪んだ認知と、それに基づいた行動が生み出す負の螺旋を顕現させるものだ。


――『全てが敵である』という認知の牢獄。


きっとそれは、陸號みともが抜け出せないでいるものと同じだった。ただ姉と妹であったということだけが違いの、同じ家に育ち同じ親を持った二人は、その姿も観る世界も鏡写しの半身で。みともは拒絶される事に怯えて、受容されることに飢えていた。そして受容されるためには歩み寄らねばならないが、歩み寄らなければ拒絶される事もない。きっと今も彼女は、誰も信じられないまま、誰にも愛せないままに自分を演じて愛されようとしているのだ。

――人から愛されたいのなら、自分から愛されるような人間にならなければならない。

――何かを求めるのなら、その前に自分が何かを与えなければならない。

けれど要求を口にすることができないから、どれだけ与えても見返りがこない。どれだけ周囲に人が集まっても、それは偽りの自分に集まっているだけで。今のみともの姿は『勝手に周りを敵視して話し合おうともしない、要求ばっかりで自分がそれを与えられるように動こうとしない』と見捨てられた自分の、『もしも』の成れの果てだった。

表裏一体の二人の根本にあるのは『与えられた経験を持たないが故に、どうすれば与えられるか分からない』という事実。愛されるために相手に尽くして奪われ続けるか、全てを敵と見なして孤立していくか。自分達が辿れる道は最初からその二つだけで、どちらにせよ愛される可能性なんて何処にも無かったのだ。

「……目的は果たされました。ようこそ、『こちら側』へ」

ともみが我に返った時、目の前には散乱した数百の【人の影】の残骸と、猛禽のそれに変化した手で文字通り『鷲掴み』にされ、握りつぶされる直前の柏木の顔があった。そして湿った手応えと共に柏木の顔が破裂し、撒き散らした黒い飛沫でともみの身体を汚す。ともみは荒い息をつきながら、黒く汚れた全身の部位の『書き換え』を元に戻そうとした。


――『それ』が起こるのに、明確な一瞬はない。


柏木夏鈴か、その背後に居る者が、どうして自分をすぐに殺さず、こんな迂遠な方法で攻撃していたのか。その目的をともみが理解した時には、既に手遅れになっていた。生やされた竜の尾よりも、猛禽の爪よりも先に、ともみの固有魔法による『書き換え』が解除されたのは、その背から生える『翼』だった。

どんな翼だって生やせるのなら、本当の『翼』なんて何処にも無い。それは『氷遣いの魔術師』と同じように、ただ偽りの翼で魔法少女のふりをしているに過ぎない。魔法少女が『翼のない魔法使い』に成り果てるのに明確な一瞬はなくて、ただ『既に失われていた』ことを後になってから気付くのだ。

認知の歪み[まほう]を捨てられないままに、世界か己を変える熱量[つばさ]を失った者達は、唯一つ残された『根源[ルール]』に従い行動することで、他者を傷付け、己を損ない、そして奪い続ける。既に失われた『最初の想い』の残滓を求めて、自分が何を願っていたのかすらも忘れ去って。それが『魔術師』だ。

ともみは誰も自分の事を知らない場所へ行きたかった、だから自分が『夕暮れ戦争』に踏み込んだのだと今まで考えていた。それは逃避という『願望』に過ぎないと、そして今この瞬間の感情とも異なる、己の行動の全ての動機となる最初の『想い』に、ともみは既に気付いていた。なんのために嘘をつくのか、なんのために本当のことを隠すのか、それを始めた時の『理由』を。

“きっと、わたし達、ここに居ていいよって、生きてていいよって、そう言ってもらえればいいだけなのよ。わたしが、わたしであるって理由だけで、他に何もしなくたって、期待に応えたり、なにかをあげたりしなくたって、そこに居ていいよ、生きてていいよ、って。一度だけで良い。一瞬だけで良い。そう言って、優しく抱きしめてほしい。”

『本当の自分』では愛されないからと、愛されるために数多の『自分』を演じ分けた。けれど『本当の自分』が愛されないと考えるのは、誰よりも自分自身がそれを愛せていないからだ。そして最初の想いは『偽らざる自分を――誰よりも自分が嫌いで、何かを演じていないと生きることができない醜い自分を、抱きしめて欲しい』という、愛されるために何にだってなってみせると手に入れた自分の変身魔法では、決して叶えられない矛盾さえもが『魔法[じぶん]』の姿そのもので。

ともみは『最初の想い』を忘れたのではなく、それが永遠に失われたことを知ってしまったから『翼』を失ったのだ。『愛されたいのならば、先に愛さなければならない』それを出来たかもしれない、たった一つの可能性――『偽らざる姿』を鏡写しで共有して、真に『愛していた』半身は、互いを二度と越えられない鏡の向こう側に遠ざけてしまった。

「――愛して、欲しかった」

溺れ死ぬ間際の一呼吸の泡のように、そんな言葉が口をついて出る。それは最初の願いで、最後の想い、そして今や全てが過去形になってしまった、ともみの最期の言葉だった。柏木夏鈴を倒したところで、この『悪夢の世界』が消え去ることはない。この世界の持ち主は、自分自身なのだから。そして再生していく【人の影】と薄れゆく意識の中、ともみは聞き慣れた電子音声を耳にした。

≪rejecter: code release≫

轟音、天地がひっくり返るような地響きとともに、ともみの周囲を包み込むように円柱状の障壁が立ち上がる。【人の影】の呪いを遮断するように天までそびえ立つ、その『塔』の上から灰色の光の雨が降り注ぐ。そして塔の中に降り立ち、ゆっくりと歩を進める小さな人影を見た時、ともみは自分の目を信じられなかった。

「……ひかり?」

それは自分が学習した振る舞い、相手を利用するための言葉を使わないで済む、たった一人の相手だった。不用意に自身の立ち位置や腹の底を明かすことなく、一般的な常識と倫理観に即した当り障りのない言葉で相手の求めるものを探って、それに見合う対価を提示できるのかと言外に問いかけるような、そして自分が『いかに尽くしてやっているか』をひけらかすことで暗に相手に従うことを強制するような父の姿を目にしながら育って、それを生きるための手段として学びながらも反感を覚えずには居られなかった。けれど彼女にだけは、演じていない『本当の自分』なんて居ないとしても、ともみは嘘や偽りを口にすることなく接することができたのだ。

「助けに来たよ、ともみ」

そこに居るだけで精神を蝕まれていく『悪夢の世界』の中でも、彼女の普通の女の子らしい微笑みが揺らぐことは無い。自分よりも深く隔てられて、そして固く閉ざされた心の持ち主である彼女だからこそ、この場所まで来られたのだ。ひかりは自分の命を奪おうとした相手からも躊躇なく何かを学び取ろうとして、ともみがどれだけ我が儘に振る舞っても気にも留めない。けれど、それは彼女が優しいからじゃない。ひかりは自分自身しか見ていないだけなのだ。ともみと根源を異にする『偽りの自分』を纏った彼女の本質に、他の誰も気付いてはいないだろう。

どんな時でも決して変わることのない、その凡庸な振る舞いこそが誰一人として越えることのできない絶対の隔絶、彼女の『障壁』の正体だ。ひかりは透明な薄膜で自分を覆って、その薄膜を取り囲む周囲の人間や現象そのものではなく、ただ薄膜に映し出された『世界』という像だけを観続けている。その分厚い隔壁[スクリーン]は、まるでそれが生身であるかのように感情に満ちた振る舞いを演じる鎧でもある。

ひかりは『外殻の自分』の視た物を観ず、ただそれを視る彼女と、それを視せる『世界』の二者だけを、遠いところから見下ろしている。ひかりはひかりの振る舞いを振る舞わず、ただそうするように彼女という表層に命じて、そしてその対象は誰か個人ではなく、ひかりを取り巻く『世界』に対して振る舞わせるだけなのだ。だから他者も、立ちはだかる危険や障害も、ひかりに対してなんの感情も引き起こすことができない。自分の望みのために、自分がどうすべきか、それだけが彼女の見ているのものだ。そして彼女の目の前にあるものに敵も味方も存在しないが故に、ともみは彼女の前では演じることなく振る舞うことができていたのだ。

≪”The Maze”≫

『魔法』とは個人の生きる『世界』の表出であり、その認知によって現実を改変する力である。二種の『書き換え』と対立する二つの『書き足し』の魔法は、他者を介在させることなく『世界』を観るものだけに与えられる。それは特定の対象に依存することなく、閉じた観測そのものを現出させる自己完結性の発露だ。

――ひかりの『世界』が、顕現する。

それは日常を破壊するもの、絶望を打ち砕くものだった。誰もが当たり前に抱いた世界のルールも、変わることのない日々の繰り返される必然も、なにもかもぶち壊して、なにもかも変えていくもの。そして、ともみが彼女の中に見出した善悪の彼岸にある『力』を、ひびきもまた時を同じくして目にしていた。


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