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第五話:『魔術師』上

――


昼には昼の陽光が、

夜には夜の暗闇が、

宵には斜陽の輝きが、あなたの世界を染め上げる。

一体その中のどれを『本当の景色』と呼ぶことができるのだろうか。


――


≪sepia note≫

ワイヤーを巻きつけられ軋む電柱、降り注ぐ凍りついた鉄骨。巻き上がる粉塵を潜り抜け、白銀の髪がとうに沈んだ夕陽の残照を受けて煌めいた。少年のような造作の顔になんの表情も浮かべないまま、十二番と名乗った少女は眼前を埋め尽くす氷の弾幕に向けて、鋼線を引いて突っ込んでいく。

十二番の眼下、繁華街にはネオンが煌めき、民家の窓には明かりが灯る。道行く人々はその数を増してゆき、宵より生まれた暗闇は、更に色濃く浮かび上がる。降り注ぐ氷の弾幕が呼び出された銃の火砲で迎撃される、つんざくような激しい音。破壊された家屋を包み込んで再生させていく白い光が、行き交う人々の眼を照らす。そして誰一人として、頭上の戦いに足を止めるものは居なかった。

「厄介なものですね、その『認識阻害』の魔法……これだけ派手にやって、誰にも見えないなんて。この魔法によって『夕暮れ戦争』は守られていた」

氷の弾幕を撃ち放ちながら、黒衣の少女が初めて口を開く。十二番は片手に巨大な銃を呼び出しながら、いつもの微笑を浮かべた。

「決して魔法による存在を『透明』にしているんじゃない。誰だって見えているし、聞こえているよ。ただ『認識できない』だけなんだ」

人は『現実』そのものを把握することはできない。外部から感覚器に与えられた刺激が、神経を通して脳に送られる事で、人は現実の物理的状態を認識するのだ。そして身体に存在する眼球や耳といった感覚器によって得られた、外部の状態を示す五感情報を『知覚』と呼ぶが、まだこの状態では『網膜上の個々の細胞が光を受け取っているかどうか』、『鼓膜の振動数と震えの大きさ』といった無意味な電気信号に過ぎない。この暗号じみた複雑なシグナルが脳に送られ、これまでの経験や記憶と結びつくことで、ようやく具体的な意味のある情報として解読されるのだ。

ヒトの脳の高次野のあらゆる働きに使われる外部認識は、この解読された『認知』によって形作られる。故にこの知覚が認知に至るまでのプロセスを阻害されてしまえば、それは観測者にとって『存在しない』のと同じことだ。

あらゆる物体を凍りつかせて弾丸として撃ち放つ少女を、呼び出した銃の火砲によって迎撃し、また退路を断ちながら追い詰めていく十二番。道行く誰かが空を見上げてその戦いを目にしたとしても、彼の『認知』の中に空を飛ぶ少女は存在せず、『思考』できるのはただ何の変哲もない夕空についてだけだ。大地を穿つ銃撃の音に『気付く』ことも、自らの鼻先を掠める弾丸に驚き飛び退いたりすることはない。

もっとも、降り注ぐ氷柱の弾幕は人々に向かう分だけ撃ち落とされ、流れ弾によって破壊された地面や家屋は白い光に包まれて元通りに再生されていくのだが。氷の弾丸を撃ち放つ彼女が、未だに十二番によって殺されていないのは、一重にその脇に意識を失ったままの御岳を抱えていたからだ。

「――君は斥候役だったというわけだ。本当の力を隠して魔法少女を偽り、今まで魔術師に気付かれていなかった『夕暮れ戦争』の存在を探るための」

これまでそうであったように誰も、陽が沈んだ後に行われているその戦いに気付かない。宙に浮かぶ『扉』を見ることのできない普通の人々はおろか、魔法少女たちでさえも変身を解いた後だ。

阻害された認知によって形成された現実で、人々の暮らす『平和な日常』が維持される。『魔法少女』なんて『この世界』には存在しない。知覚されたとしても、それは人々の外部認識を構成する要素からはじき出される。人々は笑い、泣き、思考して、生きて死ぬ。魔法なんて存在しない『世界』の中で。魔法少女とて同じことだ。『夕暮れ戦争』の舞台を駆け抜け、そしていずれは翼を失う。『扉』の向こうに何があるかも、知らぬまま。


そしてただ一人、校舎の屋上から、彼女達の戦いを『観ている』影があった。階下では切れかけの蛍光灯が、微かな瞬きを繰り返しながら廊下を青緑に照らし出す。群青の夜闇を背に、青緑の光を微かに頬に受け、『翼』のない黒衣には魔法を使うときに排出される『想いの塵』を纏ってすらいない。それは本来、陽が沈み、『扉』が消えた後に動き始める者たち。『魔術師』の姿だった。

≪set up≫

その人影は夕陽の残照を握り潰すように、空に向けて手をかざす。『扉』が軋み音を立ててゆっくりと開いていく。まるで見えざる手によって、『扉』の彼岸である内側から押し開けられるように。

≪“night maker”≫

十二番が咄嗟にそちらに目をやる、その一瞬の隙をついて、氷の魔法使いは『扉』の向こうへ逃げ去った。そして入れ替わるようにして、『扉』の向こうから夕暮れ戦争の舞台である暮町へ。コールタールのように重くまとわりつく暗闇の中から、『扉』を開いたその魔法はひっそりとにじみ出る。水底の闇。重く苦しく、果てることのない常夜の黒。それは日が沈んだ時に、動き始める。或いはそれこそが陽光を隠し、夜の到来を告げるものだ。


――≪第五話:『魔術師[night maker]≫――


ひかりの住む一室がある、駅から数分の高層マンション。その外廊下と窓からは、ちょうど暮町の『こちら側』だけが一望できる。考えられた立地だ、とひびきは皮肉交じりの感想を抱いた。けれど『夕暮れ戦争』以外で初めて見下ろした暮町の雪景色に、少し胸を打たれたのも事実だった。

真っ白に染まった屋根が立ち並ぶ、人の通った跡だけが黒い、雪の薄く積もった道路。立ち並ぶ電柱と家屋の壁だけが、モノクロの景色に淡い色彩を加える。閑静な『こちら側』の街並みは、雪景色によく映える。骨の髄まで冷えこむ寒さだけは、どうにかならないかと思ったけれど。

ともみは「寒そうな恰好ね」と待ち合わせ場所に来たひびきを見て言ったが、別にマフラーや着込んだ服の一つを貸してくれるわけでもないようだ。ファーつきの白いコートの裾から、黒いストッキングに包まれた脚が見える。ともみは眼下の景色に特になにも思っていないようだった。さすが良家のお嬢様は、こんな眺めも見慣れているのだろう。ひびきはそう考えたけれど、口には出さなかった。

「……ねえ、ひびき。あんたさ、誰かの家に遊びに行ったことってある?」

ともみが不意に、そんなことを聞いてくる。ひびきが特に考えず、「当たり前だろ」と答えると、ともみは何故か怒ったような表情で黙り込んだ後、「じゃあ、早くチャイム押してよ」とだけ言った。二人の目の前には、部屋の号数だけが書かれたマンションの一室の扉がある。二人はひかりの部屋の玄関口で、どちらがインターホンを押すかで睨み合っているのだった。

「なんでだよ、慣れてるだろ、こういう場所」

薄手のジャケットと、破れたジーンズに吹き付けてくる冷たく乾いた風に、ひびきは思わず震えあがる。いい加減、身体が冷えてきた――そう思った時、不意にひびきは後ろから声を掛けられた。「どうした、嬢さん方」振り返ると、スーツの上下に鮮やかな赤のコートを羽織った長身の女性が居た。「ひかりの母さんだ」ひびきが呟くと、ともみは何故か緊張しはじめる。「ああ、あの時の――見舞いにきてくれたのか。ありがとう」火ヶ理はそう言って、二人に微笑んだ。見上げるほどに高い背も服装も、まるで大人の男性のようだった。ひかりとは似ても似つかない、何もかもが真逆だ。


「ひかりが倒れたのか……最近は無かったんだけどな。こいつはちょっと身体が弱いんだ」

運び込まれたひかりを見て、火ヶ理はそう言った。御岳との戦いの後、ひかりが教えてくれたマンションの一室まで飛んでから、人目がないことを確認して変身を解いた。そしてその時、出迎えてくれたのが彼女だったのだ。

「ありがとう、後のことは心配しなくていい」

意識を失ったひかりを前にしても、決して揺らがない微笑を見て、ひびきは不思議に思った。

――普通、もっと取り乱すものじゃないだろうか?

怒ったり、焦ったりしないことを、少しだけ冷たすぎるようにも感じた。そして今まで、高価なスーツを着こなすような大人にも会った事がなかったし、どう話せばいいかもわからなかった。

「先日は名乗らず、不躾な真似をしてすいませんでした」

ひびきが何か言おうとするよりも早く、ともみが一歩前に出て、頭を下げた。「改めて……わたしは陸號家長女、陸號ともみと申します。暮町中学では、娘さんに大変お世話になっております」

そして、それがいかにも自然な所作だったので、ともみが自分達の関係を偽ることなくさらりと誤魔化しているのに気付くのに時間がかかった。先ほどまでの態度はどこへやら、顔を上げたともみは毅然とした表情を浮かべている。胸を張ってまっすぐに立ち、脚の前でぴたりと手を揃えた立ち姿も、いつも見ている『夕暮れ戦争』での彼女とは、まるで別人のようだった。

「立ち話もなんだから、入ってもらおう。前はろくに茶も出せなかったからな」

ともみから高そうな菓子包みを受け取った火ヶ理は、鍵を差し込んで扉を開ける。「……その、ひかりは?」ともみが、さっきまでの流暢さを失った、心配そうな声で火ヶ理に訊いた。御岳との戦いから数日間が経っていたが、ともみもひびきも、ずっとひかりの容態が気がかりだった。

火ヶ理は何も言わず玄関口で靴を脱いだ後、明かりのついた居間に向かって「ひかり、友達が見舞いに来てくれたぞ」と呼びかけた。すると向こうからばたばたという物音と、「ちょ……ちょっと待って、入って来ないで!」と思いの外に大きく、慌てているようなひかりの声が聞こえてきた。火ヶ理が二人の方に振り返って、微笑んだ。

「聞いての通り元気だ、二日もすれば学校に行ける」

部屋の中はひかりの反応から予想されたような散らかった感じではなくて、暗褐色のフローリングが敷き詰められた広い居間と大きな液晶テレビ、革張りのソファと中央がガラス張りになった木のテーブル、そして奥に二つの部屋があるだけだった。空調が効いていて、冷えていた身体がじんわりと暖められていく。「普通の家じゃん」ひびきは呟く。さらに言えば、普通の、というよりも、随分と羨ましい家だった。

「その、入っていいんですか?ひかりが大丈夫なら、見舞いの品だけ渡していただければ」

ともみが遠慮がちに、前を行く火ヶ理に話しかける。「ああ、気にするな。これまで誰も家に入れたことがないから、怖がってるだけさ」そして火ヶ理は、奥の部屋に続く、閉じられた扉の前に立った。

「入って来ないでって、言ったのに……」

扉の向こうから聞こえるひかりの声は、若干涙声だったので、ひびきは少しぎょっとする。ひびきが今までに知っているひかりは、誰かに怒ったり泣いたり、感情を露わにするようなことがなかったからだ。けれど、火ヶ理は慣れた様子で、冗談めかした言葉をかける。「なんだって、初めては怖いものさ」「……お母さんの馬鹿」扉の向こうから、拗ねたような声が返ってくる。火ヶ理は扉に顔を寄せて、小さな声で言った。「大丈夫だ、ひかり。なにも怖いことなんてない」

その様子を見て、ひかりも家族にはこんな風なんだな、とひびきは意外に思った。今の出来事が特別ひかりを怒らせたというわけではなくて、家の中ではひかりも普通の女の子のように拗ねたり、へそを曲げたりするようだ。

「扉、開けるぞ。ほら、二人も入ってくれ」

奥の部屋は寝室で、居間と同じようなフローリングに大きなベッドが置いてあった。そして、ベッドに座ったまま俯くひかりの姿を見て、ともみが小さく息を呑んだ。

パジャマの襟元から覗く細い首筋が、薄い肩が、流れ落ちる黒髪を背景にして際立っている。垂れ下がった前髪に隠れた大きな黒い瞳と、人形のように生命の希薄な顔。大人っぽい、というよりも、思わず顔を背けたくなるような、歳にそぐわない危険な空気。それは、ひびきがかつてよく見て、感じ取ったことのあるものだった。

「用が有ったら呼んでくれ。私は書斎に居るから、それ以外ならどこ使ってくれてもいい」

「あ、はい。すいません」

用は済んだとばかりに身を翻して隣の部屋に引っ込んでしまう火ヶ理に慌てて頭を下げたあと、ひびきは再びひかりの姿を見た。

「髪、解いてるとこ見たの、初めてだ」

ひびきは辛うじて、それだけを口にする。「うん、外だと邪魔だから」そう言ってひかりが笑顔を作ると、周囲に漂っていた妖気は嘘のように消えてしまう。顔を赤くして呆けていたともみが、ようやく我に返ったようだった。

「座ってろ、まだ治ってないんだろ」

立ち上がろうとするひかりを手で制しながら、ひびきは手に提げていた袋をひっくり返して中身を出す。スーパーで売っている、二、三百円くらいの洋菓子の詰め合わせだ。それから寝室を見回して椅子が見つからなかったので、脱いだジャケットを座布団代わりに地面に胡坐をかいた。ふと思い出して、ひかりに「ここって、何か食べても良い場所か?」と聞く。「うん、お母さん、お酒飲むときに色々つまんだりしてるから」暗く落ち着いた色調の家具も、棚に並べられたウイスキーの瓶も火ヶ理の趣味だろうか。

「ごめんね、二人揃って来てもらっちゃって……こんな、お見舞いのお菓子まで」

ひびきを真似るようにして、ともみも暑そうなコートを脱いだ。内側に着ていた、ぴったりとした薄手の黒いセーターの胸元に、ともみの栗色の髪が落ちる。

「気にすんなよ。で、大丈夫なのか、身体は」

「うん、ずっと寝てたからもう大丈夫。ただの貧血みたいなものだって」

ひかりがいつもの遠慮がちな笑顔を見せたので、ともみとひびきは揃って胸をなで下ろす。ともみが何か言おうとした時、扉がノックされて火ヶ理が戻ってきた。その手には、熱々の湯気を立てるカップが、三つ乗せられたトレーがあった。

「紅茶、淹れてきたぞ」

「ん、ありがと、お母さん」

ひかりはくつろいだ様子で、火ヶ理の方を見ないで言った。いつものか細い声の中に、なんとなく安心しきった響きが混じっていた。それは気遣いの要らない、それでいて親密な関係に独特のものだ。


トレーを床に置いた後、三人がそれぞれカップに口をつける。そして、ひびきが持ってきた洋菓子を、ともみが一つ齧って「パサパサね」と言った。「嫌なら食うなよ」とひびきが言い返す、その様子をにこやかに眺めていた火ヶ理が、ふと口を開く。

「ひかりに見舞いが来るなんて、本当に初めてだ……ひかりが友達を作るなんてなぁ」

そして、火ヶ理はひかりの髪をくしゃくしゃと撫でる。優しげな眼差しで見つめられながら、ひかりは目を閉じて為すがままになっていた。

「友達は大切にしろよ、ひかり」

「……うん」

ひかりは頷いた後、身体を傾がせて火ヶ理に肩を預けた。互いに無遠慮なようで、相手のことを考えている。投げやりなようで、想っている。その関係が、そして相手が決して損なわれないと信じているが故に、安心して自分を曝け出せる。ひかりと火ヶ理のそんな関係を、ひびきは少し羨ましいと思った。

「……聞かないんですか、何があったのかとか」

ひびきが少し迷ってから口を開くと、他の2人がぎょっとして振り返る。

「ひかりが無理しすぎたんだろう?何があったのかは知らないが――」火ヶ理は、慈しむようにひかりの頬を撫でると、「気にしないで良い、挑戦してみろって言ったのは私だ」とひびき達に笑いかけた。

「良い母さんじゃないか」

火ヶ理が出て行った後、ひびきは言った。そして、少し後悔した。自分が、あの母親を持つひかりに、嫉妬していることが分かったからだ。「もう、本当よ。羨ましいわ、こんな家」そんなひびきの心情は知らず、ともみが後に続く。火ヶ理を前にした時とは違う、いつもの『夕暮れ戦争』で見るともみの姿だ。「なんでひかり、あたし達が来るのが嫌だったのよ」ともみの声には、若干責めるような響きが混じっている。玄関先で拒絶されたことに、結構傷付いていたのかもしれない、とひびきは思った。そしてひかりは散々言いよどんだ末に、口を開いた。

「……嫌っていうか、怖い」そして続けられた言葉は、誰にも分からない、抽象的なものだった。

「――自分の壁の内側に、誰かを入れたくない。

 ここは、わたしにとっての、壁の内側だから。誰かがそこに居るのは、怖いの」

そして、ひかりは何かを誤魔化すように、また自分の紅茶に口をつけた。


――


ひびき達はその後、窓の外の景色が暗くなるまで、ベッドの脇で他愛のない話に興じていた。ともみは床に座って食べたり話したりすることに慣れていないらしく、ひびき達の見よう見まねで片膝を抱えて座っている。くしゃっとなったスカートから伸びる脚はストッキングに包まれて、その奥から高そうな下着がちらりと見えていた。ひびきにとっては、友達の家なんて自分の家に居るような恰好で行くものだったので、ともみの気合の入った格好と緊張具合には少しだけ変に思った。

ひびきから見ても分かるほど、ともみは落ち着きなくそわそわしている。ともみの口調は、まるで生まれて初めて人間と話すかのようにたどたどしくて、火ヶ理と話していた時の流麗さが嘘のようだった。だが、ひびきに対しても、いつもの突っかかるような声の険はなかった。ひかりは話題を振られれば返答するけれど、自分から何かを話し始めることはなく、ただ話を聞いてにこにこと笑っていた。だから大よそ話しているのはひびきだけだったけれど、それでも中々に新鮮な気分だった。三人で『夕暮れ戦争』に参加することはあっても、それ以外の時に一緒になにかをすることはなかったからだ。無論、どうでもいい話ばかりではなくて、ひかりに聞かせなければならないこともあった。

「御岳鶴来は『夕暮れ戦争』に参加していない。どうしてかは分からないけど、ずっと監視してたから確かだ」

戦いの翌日も、御岳鶴来は何も変わらない様子で学校に行っていた。けれど彼女はあれ以来、魔法少女に変身して暮町の空を駆ることはなかった。何よりも今、正体を知られたひかり達が無事でいることがその裏付けだった。

「二人は『夕暮れ戦争』に行ってないの?」

「……ああ」

ひかりの無邪気な問いかけに、ひびきは言葉少なに頷いた。ひかりは御岳との戦いで意識を失って、『扉』が開いたことも知らないのだ。

「でも、わたしが治ったら二人とも、『夕暮れ戦争』に行くんでしょう?」

三人でなら、どんな相手だって大丈夫。そう言いたげなひかりの笑顔に、ひびきは思わず眼を逸らす。ひかりは自分達が『夕暮れ戦争』に参加していないのを、戦力が不完全なまま御岳に襲撃される危険を冒したくないからだと思っているようだ。

――ひかりは襲ってきた『翼の無い魔法使い』のことも覚えてないのか?

その疑問を口にするべきかどうか、ひびきは逡巡する。ひかりにそれを聞くことは、きっと真実を教えるということに他ならない。

「……オレもこれ以上、御岳を尾行してるわけにもいかねえぞ」

「どういうことよ?」

ともみが不審げに眼を細めて訊いてくる。返答に口をついて出た言葉が、その場しのぎのものなのか、己の本心なのかはひびき自身にも分からなかった。

「――オレも、学校に行くかもしれないから」

ただ『願いを叶える』ことだけが全てで、それ以外の何かを考えるのは、戦うことを諦めるのと同義だと考えていた。届かないと諦めた星空を、ずっと見上げて生きるくらいなら、蝋の翼で太陽に飛んで、イカロスのように焼け墜ちて死んだ方がまだマシだ、と。

「……本当?」

「ずっと、他に何もしないでいるわけにはいかないからさ……そうじゃなくても、何かしないと。これからオレが、生きてくために」

だけど、『夕暮れ』はいつか終わるものだ。元よりそれは、昼と夜を隔てる、ほんの一瞬の境界を指す言葉なのだから。いつか……いつか、自分が願いを叶えたとしても、そこから『夕暮れ戦争』のない日々が続いていく。思い通りにならない現実に直面するたびに、『魔法』の力で現実を書き換えるわけにはいかないのだ。

「そうなんだ。それなら、仕方ないね」

ひかりは少し残念そうに微笑む。だが今『扉』のことを隠していても、いずれ明らかになるだろう。たかが奇襲を受ける危険くらいで、彼女が今更『夕暮れ戦争』に行かなくなることはないと分かっていた。

――本当のことを、ひかりに教えるべきだろうか?

ひかりは『夕暮れ戦争』を経て、随分と変わったと思う。初めて出会った時の、何もかもを諦めたような彼女から、今の姿を想像することはできそうもない。だから、少しだけでもその前向きさを壊さずにいたいと思うのは、自分の臆病さに過ぎないだろうか。

「ねえ、ひかり。ひかりは『夕暮れ戦争』が好き?」

出し抜けに、ともみがそんな言葉を口にした。相変わらずちょっとだけ、声が震えていた。ひかりは目を丸くして、少しの間無言になる。『そんなこと、考えたことも無かった』とでも言いたげに。けれど次にひかりが口を開いた時、そこにはあまり目にすることのない、彼女の混じりっ気ない笑顔があった。

「今は、進み続けていたいなって……みんなで『夕暮れ戦争』をしたいって思う。何かをしたいなんて思ったこと、今までなかったから」

「大丈夫よ、ひかりはわたしが守るわ」

ともみの声の震えが止まっていた。伏せていた眼を上げた彼女の表情は、虚勢もなければ棘もない、ともみとは思えないくらい真っ直ぐなものだった。それは同時に、ひびきに向けての言外の意味を含んでいた。

――だから今は、何も言わなくていい、と。

らしくない言葉だ、とひびきは思う。ともみも、あの『扉』が開く光景を目にしたはずなのに。

――簡単に言うよな。

そんな返答は、ひかりの手前、呑みこんだ。

「だから、今は安心してゆっくり休んで」

「本調子に戻るまで、来ちゃ駄目だからな」

ともみも自分も、まるで別人のようだ。目と目で伝え合って、ひかりを傷付けないために口を閉ざす。そう思ってから、むしろこれが自分達の『普段の姿』なのだと気付く。

多くの魔法少女は日常の中、表向き『普通』の子供として振る舞うことで社会の中に溶け込んでいる。いつもの『夕暮れ戦争』で見る彼女達の姿は、その虚飾を取り払った『社会と相容れない自分』そのものであり、お互いの『非日常での姿』だけを知っていた今までの関係が、本来ありえないものだったのだ。隠した傷、秘した闇だけが互いを繋ぎ止める、そんな関係なんて。

「ありがとう……ともみも、ひびきも」

ひかりの表情は、とても安らかなものだった。ともみは何も言わず、ふいっと顔を逸らす。その耳までが、少し赤くなっていた。そして、それ以上、誰も『夕暮れ戦争』の話をすることはなかった。どうでもいい話をして、過ぎていく穏やかな時間。

――まるで『普通』の友達みたいに、

そこまで考えてから、ひびきは頭を振った。馬鹿らしい、あくまで自分達は、ただの協力関係だ。もとより『夕暮れ戦争』がなければ、この三人が出会うはずもなかった。篠崎ひかりと、陸號ともみ、自分達の日常は決して重なり合うことがない。誇張無しに『生きてきた世界』そのものが違うのだから。

「……じきに、陽が沈むな。そろそろ帰らないと」

そう言って、ひびきは立ち上がる。窓の向こう、赤く染まっていた空は、東から徐々に夜の色へと変わっていく。太陽を隠す巨大な影となっていた廃工場も、街の灯りに照らされて本来の寂れた灰色へと戻っていく。立ち並ぶ屋根に積もった白雪が、沈む太陽の最期の煌めきを橙色に照り返して、暮町そのものが輝いているようだった。

――今日の暮町は、どうしてこんなにも綺麗なんだろう。

ひびきは不意に、そんなことを考えた。夕陽に染められても、雪に覆われても、暮町はずっと同じ暮町のはずなのに。『夕暮れ戦争』がなければ、こんな景色もずっと知らないままだったかもしれない。そして、今こうやって話している彼女達の、こんな一面を知ることもなかっただろう。


――


暮町の『こちら側』は均等に配置された街灯によって、夜でも穏やかな明るさが保たれている。『夕暮れ戦争』に行かずに、それ以外のどこかへ行った後の帰り道。何年ぶりのことだろう、とひびきは思い返す。母が倒れる前なら、どこかへ連れて行ってもらったり、リノンやかつての友達の家に遊びに行ったりしていた。

「……ねえひびき。どうしたのよ、あんた。さっきから、ずっとぼんやりしてる」

「ん?ああ、いや……なんでもない」

本当は、ひかりと別れてからすぐに、火ヶ理と交わした会話のことを思い出していた。

――そういやアンタ、吹雪さんとこの子か?

寝室を出たひびき達の背に声がかかる。振り向くと、いつのまにか部屋着になっていた火ヶ理が、琥珀色の液体を入れたグラスを片手に微笑んでいた。

――母さんのこと、知ってるんですか。

ひびきはそう答えながら、思わず身構える。母のことを知っていて、良く思っている人間が少ないことは、嫌と言うほど分かっていた。ひびきの言葉には答えず、火ヶ理は

――母譲りの綺麗な顔だ。そんな美人なら、

と何かを懐かしむように続ける。その言葉の次に来るものを想像して、ひびきは気取られないくらい微かに、身をこわばらせた。『そういう目』で見られることが、嫌だったのだ。ひびきにとって、『美人』という言葉は飾り物としての価値でしかなかった。ただ消費されて捨てられていく、商品としての女らしさ。だから前髪を伸ばして、少しでも顔が人目に曝されないようにした。身体が女性らしくなっていこうとすることを、食事を抜いて抑えようとした。きっかけとなった出来事は、外から見れば些細なことかもしれないけれど。

――きっと、良いお嫁さんになるな。

だから、そんな風に言われるなんて、想像したこともなかった。どう答えれば良いか分からなかったけれど、お腹の奥が熱くなって、自分が照れているのが分かった。空を見上げて、白い息を吐いた。

ただ本当の星空だけが、見渡す限りの頭上に広がっていた。これまで一日たりとも途切れず行われていた『夕暮れ戦争』も、その合図となっていた『扉』も見えることはなかった。ひかりの家に行くまでの道中も、御岳との戦いからの数日間の夕刻の間も、最初からずっと。

ともみとひびきは、言葉少なに暗くなった帰り道を歩いていく。駅から離れている、人通りも少ない道路。数十メートル離れた大通りまで、見渡す限りの民家が並んでいるだけだ。そして、ぼうっと浮き出た自販機の明かり、そこに差し掛かった時ふと誰かの気配がした。

「遅かったわね」

ともみが表情を変えぬまま、背後に立っていた何者かに声をかける。ひびきが思わず振り向くと、そこにはあの白い少女が立っていた。魔法を使っていなくとも白い『想いの塵』を周囲に漂わせ、短い白銀の髪は風もないのにそよいでいる。黄金の瞳を細めて、少女は微笑んだ。

「“しにがみさま”……」

暗闇の中にぼうっと白く浮き上がる少女の姿は、夜に在りても夜に相容れないることはない。彼女がヒトの前に姿を現すのは、ひびきが知る限りでは『夕暮れ戦争』に誰かを引き込む時だけだ。

「僕が来るって、分かってたのかい?」

「あたしとひびきが一緒に居るタイミングなんて、お見舞いの時くらいしか無いじゃない。それに、ひかりの部屋に来るかと思ってた」

さも当然といった風に、ともみが答える。白い少女は肩をすくめて、「あそこには出没したくないんだ」と返した。本来、一度『夕暮れ戦争』に参加した者の前には、彼女はもう姿を現すことない。だから『七不思議』の一つである彼女について、その噂以上のことを知る者は多くはなかった。

雪のように白いコートとズボンは、分厚い革で造られた軍服だ。ひかりと違って、余りにも美麗に装われているから最初は気付かない。背中に小さなリボンがあしらわれ、けれどその装いの本質は、あくまで何かを拒み隔てるための防護壁だ。彼女の、その振る舞いと心にも、似たような感情を抱いた。

「……なあ、あれは何だったんだ?」

我慢できなくなったひびきが少女に問いかける。御岳を倒した直後に現れた、ひかり以外の『翼の無い魔法使い』。行使される魔法はどこか異質で、その戦闘には容赦がない。そして『扉』が開いた先にあった、何もない真っ暗闇。

「恐らく、漁夫の利を狙っていたんだろうね。鶴来……御岳鶴来が無事でいるうちは出て行っても勝算がないから、君たち双方が潰し合って消耗するのを待っていたんだ。そして決着が付いた後、自分達の障害となる『夕暮れ戦争』の中で最上位の魔法使い達を、同時に排除するつもりだった」

その『最上位の魔法使い』という言葉が、御岳だけでなく自分達をも指しているのが分かって、ひびきは空恐ろしくなる。

――戦い続けたその先に、何が待っているんだ?

「何者なんだ、その『翼の無い魔法使い』ってのは」

ひかりのことが脳裏によぎる。最初に出会ったとき、翼がない少女が魔法少女である自分を見ていることに驚いたこと。魔法少女は必ず固有魔法に加えて自動障壁と己の『翼』を持っていて、ひかりはそのどれ一つとして持っていなかったこと。ひかりとの距離が縮まった後も、その理由を彼女に直接聞くことが出来なかった。きっと彼女自身も知らないのだろうし、それに真実を知ってしまえば、何か取り返しのつかないことが起こるような気がした。

「魔術師――魔法少女と対になる、もう一つの魔法使いだ」

白い少女は、微笑みながら“その名前”を口にした。

「……なんだって?」

「自分達を言い表すとき、『魔法使い』と『魔法少女』という二つの言葉があることに気付いていたかい?『魔法使い』とは、『魔法』を行使できる人間の総称だ。そして『魔法使い』は『魔法少女』と『魔術師』の二つに大別される」

少女は眼前の二人の愕然とした様子にも構わず語る。

『魔術師』は翼を持たない。そして己を守るための自動障壁も、自動治癒さえも行うことが出来ない。その代わりに、ただ一つだけ彼らに与えられたのが『殺しの魔導(キリングマジック)』だ。己の魔力を全て振り向けた、ただ殺して奪うことに特化した固有魔法。避けることはできず当たれば即死、魔法少女の自動治癒が発動するよりも早く魔法の源――命を殺しきることができる。

「A(核兵器)B(生物兵器)C(化学兵器)の類いまでなんでもござれ、彼ら同士の戦いは現実での銃を持った人々の戦いと同じだ。建物の影で息を殺して相手を探り、見つければ視界の外から一撃で墜とす。姿を曝せば狙い撃たれ、声を上げれば背から刺される。仕損じれば反撃で殺され、撃ち合いになれば半数以上が命を落とす。その戦いの中では、対話や交渉どころか『想い』のぶつかり合いなんて、あったもんじゃない……例えば、君たち三人が友達になった時のような、ね」

拘束解除(コードリリース)、ただ行き場を無くした『想い』を叫ぶ手段としての魔法。相反する立場や思想の持ち主が、決して譲り合うことなく、けれど必ずしも憎み合うことなく、己の目的のために己の全霊をかけてぶつかる戦いのための魔法。そういうものと真逆に位置するものだとだけ、ひびきにも理解できた。ただ相手を排除する為だけに、最適化された魔法。思わず、身の毛がよだつ。

「君たちに襲い掛かってきたあの魔術師は、恐らく下の下だろう。上位の魔術師になると肉眼で視られただけで“終わり”だ……魔法少女が、君たちが戦って良い相手じゃない。だから僕は戦場を分けて、相互に知られないようにした。『チャンネル分け』のことは覚えているかい?」

『チャンネル分け』――認識阻害は一般人に対してだけでなく、魔法少女同士にも働く。『夕暮れ戦争』は複数の階層[チャンネル]によって分けられていて、変身した魔法少女は自分と同じ層にいる別の魔法少女と、『それ』だけを阻害されずに認識することが出来る。例え地位置的に同じ場所に居たとしても、互いに認識できない『違う層』の魔法少女は、存在しないのと同じだ。それは暮町という一つの土地の中に複数の戦場を作ることで、魔法少女同士の過剰な交戦や、『それ』の取り合いを抑えるためのものだった。

「より上位のチャンネル分けとして、暮町には『夕暮れ戦争』と隣り合った別の戦場が設定されている。君たちが『扉』の向こうに見たものだ……仮に『夜』とでも呼んでおこうか。そこで魔術師たちは、彼ら同士で戦っている。けれど『チャンネル分け』と同じで、戦場を分けるには相互の認識阻害が必要だ。『もう片方の戦場』の存在は、魔術師達に……そして魔法少女にも、知られないことで成立していた」

「……それを、あんたの力で?」

だとしたら、途方もない規模だ。ひびきは微かな畏怖を覚える。彼女は何処でもないどこかを求めた子供達を『夕暮れ戦争』へと誘い、けれど自ら『夕暮れ戦争』を戦うことはない。『監督役』を自称する、彼女の本質は“境界”。『扉』と同じように日常と非日常を隔て、そして夜と夕暮れをも隔てる。日常と非日常、相反する二者のどちら側にも属することなく、その狭間にだけ現れるもの。或いは、その二つを分ける境界そのもの。それが彼女だった。

「うん、僕の魔法で、ね。だけど『夕暮れ戦争』を破壊しようとする彼らの手によって、秘匿は破られた。だから君たちに隠しておく必要もなくなったんだ……今は危険だから、夕暮れ戦争は一度休止にさせてもらっている」

白い少女の話が事実なら、並大抵の魔法少女では『魔術師』に歯が立たないだろう。ひびきは城壁が破られて、敵国の兵が雪崩れ込んでくるのを連想した。起こるのは略奪と虐殺、そして『夕暮れ戦争』の滅亡。

「終わってたまるか」

ひびきは思わず、そう叫んでいた。

「『夕暮れ戦争』が無くなるなんて指咥えて見てられるかよ。願いを、まだ叶えてない」

そうだ、自分はまだ願いを叶えていない。母の病気を治して、幸せな日々を取り戻すという、己の戦う理由。未知なる敵に怯え、つかの間の平穏に絆されて、そのことを忘れそうになっていた。

「……ひかりが、一番夕暮れ戦争のことを『好き』だったと思う。願いを叶えるためだけじゃなくて、『夕暮れ戦争』で一緒に戦いたいって、そう言ってくれた」

ともみが肩を抱くようにして、そう呟いた。まるで、それが自分の戦う理由として十分だとでも言いたげに。そして二人の言葉を聞いて、白い少女は微笑んだ。

「君たちに、お願いしたいことがある。今『夕暮れ戦争』の中で頂上にまで上りつめた、君たちに」

「それが、今日現れた要件ね」

見透かしたようなともみの言葉にも、少女はただ何一つとして読み取れない、無機質な微笑だけを返す。冷たい風に葉の落ちた木々がそよそよと揺れて、ひびきはかじかんだ指先を強く握り締める。

「境界を越えた者を排除するのは、僕の役目だ。物理的に攻め込んでくる魔術師なら僕が全て止めよう。だが『それ以外』の魔術師を……君たちに、頼むことになるかもしれない。たった一人の、日常の中に潜んで変身さえすることなく、『夕暮れ戦争』を蝕むことのできる魔法の持ち主だ」

ザアアア、と車のタイヤが地面を擦る音が、向こうの通りから聞こえてくる。いつも通りに続いていく日常から、少女の周りだけが切り離されたような、そんな錯覚を感じる。夜にあって白く輝き、日常にあって彼岸のように白い装束。ひびきは少女のことを、初めて気味の悪い、明確な異物として捉えた。

――今日起こった出来事の全てが、本来あり得るはずのない平穏だと分かっていても。

彼女の姿はまさに、これからも緩やかに続いていくはずの日常の終わりを、唐突に告げる存在――死神そのものだった。


――


「どうしてあんたは、その一人の魔術師とやらを倒せないんだ?」

ひびきが問い掛ける。数日前、『扉』が開いて翼のない魔法使いが襲い掛かってきた時に、自分達を救った白い少女の魔法を思い出しながら。あれだけの力を持つ彼女が『倒せない』相手を、自分達でどうにかできるとは思わなかった。

「いいや、その魔術師は――仮に彼と呼ぶけれど、優れた戦闘力を持ってるわけじゃない。僕の領域である『夕暮れ戦争』に踏みことなく、僕らと対峙しないように隠れ潜んだまま、魔法少女を己の領域に引きずり込むんだ。隣町では、十数人の子供がこの魔術師に攫われた」

白い少女は、そう答えた。分かっているのは、物理的な破壊力を持たない代わりに、『条件』を満たした相手をどこかに連れ去ることができる魔法を持つということだけ。『対象書き換え』の魔法の中には、条件を満たすことで相手に直接、特殊な効果を与えることができるものがある。

「その魔術師は日常の中で目標に近付き、魔法を発動するための何らかの『条件』を達成する。けれどすぐに魔法を使うことはなく、対象が魔法少女に変身した直後に、既に条件を満たしていた何らかの魔法を発動させて連れ去るんだ。『変身前の人間』には攻撃していないし、『夕暮れ戦争』の中に魔術師として侵入しているわけでもない」

ひびき達は、白い少女が『倒せない』という言葉の意味を理解する。戦って勝てないのではなく、戦いにさえ持ち込ませない相手。

「僕が排除するのを許されているのは、『夕暮れ戦争』に対して明確なルール違反をした者だけだ。例えルールぎりぎりの悪辣な手法だとしても、僕が動くわけにはいかないんだ」

「その『ルール』ってやつは現に人が消えてても動いちゃいけないくらい、あんたにとって大事なもんなのか?」

ひびきが白い少女に詰め寄る。その声をいつもに増して荒げ、焦燥した様子である理由を、ともみは知り得なかった。それよりも、考えるべきことがあった。人が消える――誘拐、それとも失踪?どこかで聞いたことがある。

「それに、人が消えてるなら事件になるはずだろ。警察とかが動いたりしないのか?」

「今の科学では解明できない、超常的な方法で行われる犯行だ。魔法使いでないものに、その痕跡を掴むことは出来ないだろう」

そして、ともみはその話を思い出す。ある未解決事件について、政治家である父に相談しにきた一人の男。名を、鷲尾香良洲といった。彼が会食の中で口にした言葉の中から、連想された事柄について、白い少女に問いかける。

「……昔、『人喰い道化』って連続殺人鬼が居たわ。たくさんの被害者が出たのに、結局その痕跡は何一つとして掴めなかった。『人喰い道化』は、魔術師なの?」

ひびきが息を詰める。ともみは、それに気付かず言葉を続ける。ひびきの戦う理由について、ともみは知らなかった。何を取り戻すために、戦っているのか。それを奪われた原因となった出来事が、なんであったか。

「魔法でそういうことができると、考えたことはあったわ。誰にも認識されないまま、誰も知らない方法で相手を傷付けられる。そして変身する前の正体を知られない限り、決して誰にも裁くことができない――『しにがみさま』とは、何よりもそういった事態を避けるために存在しているのではないの?」

白い少女は魔法少女への変身の仕方を教える時に、『夕暮れ戦争の監督役』を名乗って一つのルールを語って聞かせた。変身していない人間を攻撃することを禁ずる規則――それが誰のための『ルール』であるのか、ともみは少なからず考えたことがある。

「初めに僕らを『死神』という名で呼んだのは、魔術師たちだ。多くの地で語り継がれる、人の死を司るシステム――僕らをそれに重ねて、魔術師たちは恐れたんだ。けれど、伝説の中の彼らほどヒトに従順で、謙虚なものも居ないだろう?彼らは死すべきもの以外を傷付けることはなく、ただ与えられた仕事をこなすだけなんだから」

白い少女は、そう語る。ともみの問いかけを、明確に肯定するわけでもなく。そして続けられた言葉の意味を、ともみは最初よく理解することができなかった。

「僕は篠崎ひかりが『夕暮れ戦争』に彼女が身を置くことを感知しない。彼女が魔法によって誰かを殺したわけではないからね」

「分かってる、そんなこと」

ともみがどういうことか尋ねようとするよりも早く、ひびきは声を荒げて言い返す。自身の考えを見透かしたような、その言葉に。

「それなら、良かった」

少女は微笑む、まるでそれ以外の表情を知らないかのように。掠れたような声は微かに甘い響きを伴って、それが余計にひびきの背筋を粟立たせる。

――或いは、それが人の形をしている事こそが、恐れる理由なのかもしれない。

その仕草と容貌があまりに人間に近いが故に意識せずには居られない、人間離れした美しさと行使する魔法の異質さ。目の前に立つそれが、ただ人の姿を持っただけの、人でない『システムそのもの』であるということを受け容れられず、それが恐ろしいのだと。真っ白い少女、全てと隔絶した怪異そのもの、それを見上げて、ともみが口を開いた。

「わたしは実際に起こった被害――隣町での失踪から、その魔術師を追うわ。持ってる手掛かりも、当たれる場所の量からも適任でしょう?」

ともみの迷いのない言葉に、動揺や怯えさえ欠片も感じられず、白い少女も少しだけ、ひびきと同じように眼を丸くした。それが人間らしい感情を持つように見せる、演技なのかどうかも分からないけれど。

「ひびき、あんたは私よりも『夕暮れ戦争』と魔法少女に詳しいから、そっちに当てがあれば探して。もし無ければ、わたし一人でやる」

それはひかりと一緒に居ない時の、ともみの普段の振る舞いそのものだった。傲岸で相手のことなんて考えもせず、それゆえにどんなときも怖気づく事はない、いつもの陸號ともみだ。ともみの的確な指示が、不穏になってきた空気を引き戻す。

「ありがとう、僕からの要件はこれで終わりだ。長く引き留めて悪かったね――送っていこうか?」

ともみは、ひびきを一瞥してから答えた。

「いいえ、その必要はないわ」

白い少女は幽霊のように、最初から居なかったもののように掻き消える。それからほどなくして、通りの向こうから人の声が近付いてくる。そして周囲を照らすものは、星空と自販機と街灯だけになる。ともみの白いコートに街灯の光が降り注ぎ、夜闇の中にぽつりと彼女の姿を浮かび上がらせる。

二人はしばしの間、なにも言わずに互いを見つめ合っていた。街はひっそりと静まり返って、夜露に濡れたアスファルトが、自販機の灯りを受けて黒く艶めいている。何一つとして動くもののない景色は、過ぎていく時の感覚を失わせる。ともみの鳶色の瞳だけが、何かに思いを巡らすようにちらりと動く。

「『しにがみさま』はオレ達にどうしろってんだ?あいつは何を考えてる?」

ひびきの知る限り、あの白い少女は今まで、決して誰かに肩入れしたり、戦いに介入することはなかった。それが、ここ二ヶ月ほど――ひかりと出会ってからの間、ことあるごとに現れては色々な情報を伝え、それとなく自分達の後押しをしているらしい。それはまるで当面の利益を与えることで、その真意について探らせないようにするようで、ひびきは白い少女への薄気味悪さを拭えなかった。

「警察は法を破った時にだけ動けるもので、そうでないときは大きく動けないわ。多分、それと同じ。だから代わりに、あたし達に学校とか街の中を歩き回ってどうにかしろってことよ」

ともみは迷いのない、そして頑なな表情で、ひびきを真っ直ぐに見つめ返す。吊り目がちの目元が夜の群青に染まり、真一文字に引き結ばれた口元は細やかな陰影に彩られている。ひびきにも、それが言葉を差し挟む余地もない、ともみの中での決定事項なのだと分かった。

「信じていいのか、あいつの言ってることを」

ひびきの言葉を遮るようにして、ともみが一歩前に押し出る。

「『夕暮れ戦争』を守るために必要なことだけ考えなさい。あれが敵でも味方でも関係ないわ。あんたやあれにとっても、あたしにとっても『夕暮れ戦争』が無くなるのが今、一番困ることでしょう?」

周囲を取り巻く事態について、今の自分達には何も分かっていないし、知る方法さえも持ってない。けれど、ともみは決して誰も信じていないし、あの少女が得体の知れない相手だと分かった上で、自分がどうするべきか決めているのだということだけは、ひびきにも理解できた。現に『扉』が開かれたこと、そして『翼のない魔法使い』が襲い掛かってきたのは、動かしようのない事実なのだ。

ともみの口調は相変わらず上から目線で、口を開けば自分の要求ばかりで、相手に歩み寄ることなんて考えもしていない。けれど今回に限っては、その揺らぐことのない的確な指示に、幾度となく助けられている。だからこそ、聞いておかなければならないことがあった。

「なら……どうしてさっき、ひかりに今までの事を言わなかったんだ?お前は『しにがみさま』がオレ達になにか任せに来ることも、最初から薄々勘付いてたみたいだ。今日はたまたまオレ達しか居なかったけど、ひかりも遅かれ早かれ知ることになるだろ」

「ひかりは今、ゆっくり休ませたいの。わたしが持っている情報だから、どこで誰に教えるのか決めるのも勝手でしょう?」

ともみは一度そこで言葉を切って目を伏せた。街灯と自販機のぼんやりした光を受けて、ともみの瞳は榛色[ヘイズル] に照らされる。ともみの微かな息遣いと共に、その色彩は緑がかった色にも琥珀のような色にも変わり、その本当の色がどんなものであったか思い出せなくなる。

「そうね、あの『しにがみさま』がひかりの部屋まで来て、今までのことを伝えていたら、仕方がないと諦めていた。でも、もし……それが可能なら。ひかりには何も伝えず、この騒ぎを終わらせる。それが無理でも、せめて身体が治るまでの間だけでも、ゆっくり休ませたいの」

無謀だ、とひびきは思った。手分けして捜査すると言ったのもともみだ。ただでさえ正体も分からない敵が潜む場所に、ともみは一人で踏み込もうとしている。魔法が使えない中では、自分達はただの子供――いや、居場所を持たない子供でしかないのに。だから自分達は、夕暮れ戦争に己の場所を見出したのだ。

「『夕暮れ戦争』が無くなって困るのは一緒だって、お前が言ったんだろ」

「あたしの目的は、ひかりを傷付けないこと。そのために、ひかりと一緒に居られる、ひかりの大切にしている『夕暮れ戦争』を守るの。あなたとは違う。あなたが願いを叶えるために『夕暮れ戦争』で戦ってるのは魔術師である『人喰い道化』のせい、そうでしょう?」

いつもの彼女だ、とひびきは苦々しく思う。刺々しい物言いも、聞く耳を持たない態度も、最初に出会って戦ったその時から、何も変わっていない。けれど、そこに口を挟むことができなかったのは、ひびきも少なからず彼女の言葉に思い当たる部分があったからだ。

「あたしたちは『魔術師』に関してまだ知らないことの方が多いわ。あの『しにがみさま』も知られたら不都合だから、伏せている情報が幾つかあるはず。あんたも『魔術師』が何かもはっきりと分かっていなくて、だから疑わずにはいられない。あんたの大切な人を殺した『魔術師』と、ひかりが『同じ』なんじゃないか?って。疑いを持ったままのあんたが、ひかりを傷付けずに協力できるとは思えないわ」

ともみの敵意に溢れた、突き放すような声。ひかりの家での不器用ながら優しい笑顔も、白い少女と交わした会話の頭の回転の速さも、それらが同じ人間の見せるものだと思えなくなる。魔法少女は本当の自分を隠そうと何かを演じることもあるが、それとは違う。隠しているのでもなく、混ざっているのではなく、そもそも同一の人物でさえないような。孔雀の羽のように、羽を開けば一瞬にしてその様相を変える、ぞっとするくらい鮮やかなコントラスト。場所と状況によって見せる様々な姿は、その全てが本物のようで。


――色んな人になれるのに、何故相手に好かれるような人を演じないのだろう?


ひびきはふと、そんな疑問を抱いたが、些細なものとしてすぐに忘れてしまった。

「……お前さ、篠崎の前だと印象変わるよな」

ひびきは代わりに、そんなことを口にした。

「そう?」

「ああ、アイツと居る時は馬鹿に見える」

ともみも、なんでもないように言い返す。

「賢く振る舞ってるだけよ、油断できない人の前ではね」

ともみの心は、ひびきにとっては不明瞭で、何を考えているのかさえも読み取れない。けれど、それは『しにがみさま』とは似て非なるものだ。あの白い少女を、その奥に生身の肉体が、心があることさえ想像できないような、着飾られた厳重な防護壁としての『白』のイメージだとすれば。ともみは、虹色だ。

次々と変わってゆく姿の、その全てが本物に見えるが故に、演じていない彼女が居るのかどうかも分からない。それでも分かっていることが、一つだけあった。ともみは、自分一人で立ち向かうつもりだ。色んな自分を演じ分けて、自分で全てやってしまうつもりのように見えた。

――お前は、そんなタマじゃねえだろ。

ひびきは、そんな言葉を飲み込んだ。ともみは今の自分を、賢く演じているだけだと言った。他人のことなんて言えたものじゃないとしても、今のともみは本当に無理をしていると思う。ともみは、あくまで『虹色』であって、その全てが強い側面ではないこと。ひかりの部屋着姿を見ただけで照れてどぎまぎして、それでも幸せそうに談笑に加わっていた彼女も、その一面であるはずだ。そして御岳鶴来という圧倒的な脅威の前に、半べそになりながら飛翔していた彼女も。

その弱い部分を誰にも読み取られないように奥歯を食い縛って、誰も彼もを遠ざけて進んでいこうとする彼女の姿が、分相応なものに挑もうとしているように見えた。けれど魔法少女なんて、みんなそんなものであることも分かりきったことだった。

「大したことじゃないわ。どうせ一人で戦うのは、お互い慣れてるでしょ?」

ともみが背を向ける。最後に、そんな言葉を残して。己の守るべきもののために、日常の世界へと飛び込んでゆく。今この瞬間も彼女は『一人』なのだと、どうしようもなく分かってしまった。

「……ああ、分かったよ」

ひびきもまた、ともみに背を向ける。陸號ともみのことを決して友達だとは思わない、傲慢で嫌なヤツだとさえ思う。それでも、同じ『夕暮れ戦争』を背負った魔法少女として、遠ざかっていく背中に一度だけ声を掛けた。

「無茶すんじゃねえぞ、陸號」

そして、ともみの言葉を思い出して疑問に思った。『手掛かりを持っている、情報の当てがある』――それは一体、どんな相手のことだろう。ともみはそれも、教えてくれそうにはなかったけれど。


ともみは硬く冷えたアスファルトの道路を踏みにじり、遠く離れていくひびきの方を振り返りもせず歩き続ける。月さえもおぼろげにしか見えない、夜の曇り空。その光は遠く、水底から見上げた水面のようで。ともみは不意に、自分の足元がぐらりと揺れるように感じた。先程の少女とひびきの会話が、どういう意味を持つかも薄々理解できていた。

――敵の正体だけでなく、今目の前に居る二人が味方であるかどうかさえも分からない。

全てに包囲され、緩慢に窒息させてられてゆくような。それはともみにとって慣れ親しんだ感覚で、楽なものだ、とさえ思った。味方でない相手なら、いかに利用し、いかに邪魔をさせないかだけ考えていれば良いのだから。

誰も信じていなければ、誰に助けを求めることもなく。誰にも心を開かなければ、誰かに踏み荒らされることもなく。誰にも寄り掛からなければ、誰かを失うことを恐れることもない。味方なんて最初から、どこにも居やしない。ここは水底だ、わたし以外のなにもない場所。

――見上げた先にある、ただ一つの光を除いては。

ともみの足取りは水底を歩むように重く、ある場所に辿り着いたところで足を止める。暮町の中心から離れた、人通りのまばらな一角。広がる庭園の向こうに白くそびえ立つ、場違いなほど大きな洋風の邸宅。その場所に、『翼のない魔術師』が引き起こした事件についての手掛かりを持ち得る、彼女が帰ってきている筈だった。

――私には、妹が居た。

重い空気を肺一杯に吸い込み、ともみは自宅の大きな門をくぐる。失われた温かな思い出だけが残る、誰も味方の居ないその場所へ。


――


ともみは自宅の長い廊下の、奥まった場所にある一室で、乾かし終わった栗色の髪を手で梳いた。暖房の効いたその部屋で、ともみは薄い絹のスリップに腕を通した後、ベッドに腰掛け布団を抱き寄せる。そして布団の柔らかく冷たい感触に顔を埋めながら、ふと窓の外に、そして寝室の中に目をやった。汚いもの、危ないものや、喧騒から遠く離れた、なにもない景色。どこかへ旅行に行ったときの手回しのオルゴール、バレエ人形や金細工の時計。本当に欲しかったものなんて、この場所には一つもない。微かな郷愁だけが、失われた温かな記憶とともに思い起こされるだけだ。

まだ彼女は帰って来てない。ともみは膝を抱えて嫌な動悸を抑えながら、何をするでもなく待ち続ける。隣り合った、空のベッドの主を。自分が門限についてとやかく言われないのは、その人物のおかげだった。そして普段は、決して言葉を交わすことないように、どちらかが先に寝入っているのだった。だが今日に限って言えば、これから自分が追うべき『敵』について、教師や生徒への関わりが多い彼女は、避けて通れぬ相手であった。ともみは双子の妹、陸號みともと一緒に居合わせた、先日の会食のことを思い出す。


――隣町の中学校で十人の子供が『消えていた』というのは、


あの白い少女の話を聞いた時に、思い起こされたのは香良洲という名の警察の言葉だった。御岳との戦いの前日、香良洲は隣町で起こった失踪について、立件できない事件として相談しに来ていた。ともみの家では、夕食に同席する来客は珍しくもないことだった。どれも政治家である父に交渉やら頼み事があってくる人ばかりだったが、ともみにとっては来客がある日の方がまだ良かった。

両親にとって親の務めとは、金のかかった衣服や、週ごとの予定に詰め込まれる習い事の費用のことだった。お前のためを思っているから、こうやって美味しい食事を食べさせてやるし、旅行に連れて行ってあげているんだ。家族が一堂に会する食事と月に一度くらいの旅行では、必ずそう言い聞かされた。父は外の仕事で忙しく、また自分も習い事に出かけさせられることが多かったので、それ以外の時には滅多に親と話したりすることはなかった。ともみは優しい声音で諭されながら、彼らは自身の投資に応えさせるために、そうやってともみを説得しているのだと分かっていた。


――それは連続誘拐事件ということですか?


あの香良洲という警察にしても、同じことだ。ともみは香良洲が『何を言っていたか』も思い出すだけでなく、同時に『どうしてそんなことを言っていたのか』にも思考を巡らせた。あの男がどういう感情から、或いはどういう目的で、その言葉を発したのか?人は目的がなければ話しかけないし、意図がなければ言葉を口にしない。己の欲求を満たす為、目的を果たす為以外に、他の人に歩み寄る理由なんてあるはずもない。ただ警察として捜査を進めていけば良い事件なら、父のところに来ることもないだろう。事実ともみの父がした問いかけに、香良洲は首を横に振ったのだった。

「いえ、『事件にならない』のが厄介なんです。当時、失踪した子供の行方を、誰も探そうとしなかった。この事件には、私が別の線から行っていた調査で偶然行き当たったのですが、そうでなければただの独立した失踪として放置されていたかもしれません」

少し苦い顔でそう前置きをしてから、香良洲はその事件について話し始めた。ともみの耳を通り抜けていく会話の背景に、響き渡るピアノの旋律。右側にひっつめた長い栗色の髪をなびかせ、ともみと鏡写しのような顔と鳶色の瞳を鍵盤に伏せて、絹のドレスに身を包んだ少女がジムノペディの一番を奏でている。張りつめた弦の切れていくような、穏やかでありながら不安を呼び起こす鍵盤の音。

「消えたのは全て、学校内で孤立していた子供です。学校の方ではただの不登校だと思い、家族は家出だと思って当人を迷惑に思う。もともと浮いた子が多かったこともあり、学校も家族もそのことで双方に確認を取ることもありませんでした。心配して探す友達が居たとしても、精々一人や二人。それ故、失踪であることすら判明するのに時間がかかったと聞きます」

普通この手の会食に家族が混ざることはないが、ともみの妹はピアノの腕を見込まれて呼ばれる事が多かった。ともみ自身がその場所に居たのは、来客の手前、姉を置いて行くわけにもいかなかったからだろう。自分はもはや期待もされていなければ、価値も見出されていない。双子の妹である陸號みともと違って。

「しかし、現にあなたはその失踪を知っているわけです。事件として警察の方でも捜査が行われるはずでは?」

テーブル越しに交わされる会話に、響き渡るピアノの音。ともみだけが手持無沙汰で、味のしない料理を食べ終わった後は、他の誰も彼もを視界から追い出すように俯いて、息苦しいその時間が早く過ぎ去って欲しいとだけ願っていた。先に席を立つことが許されていたなら、迷いなくそうしていただろう。

親不孝の娘として、失望の視線に曝されるのが堪らなく嫌だった。両親にとっての、わたしのためと想っての習い事、高い外食や旅行、そういったものを無碍にして、あまつさえ期待されていたものと真逆の大失態を、二ヶ月前に引き起こしたのだから。投資に見合った効果を得られない、できそこないの不良債権。今目の前に広がる景色の全てが、そう語っている。とっくの昔に愛想も尽かされていて、来客の居ない食事の度に行われる説教もただの惰性になっていた。

――そして子供達は『帰ってくる』んです。まるで、魂を奪われたような様子になって。

ともみは顔を上げた。猫背になってマナーがなってないと叱られるのが嫌だっただけではなく、香良洲の言葉になにか不穏なものを感じたからだった。

「二週間ほどして失踪がようやく判明し、『事件』として捜査が行われる――その前に、子供達は帰ってきたのです。外傷はなく、服装は綺麗なまま、消えた時と同じ服で……ただ、その子の内面だけが、失踪する前と決定的に変わってしまった。口もきかず何をしても反応もせず、まともな状態ではないと聞きました」

ともみは既に『魔法』での犯行という可能性について、この時点で思い当たっていた。確信に至ったのは白い少女との会話の時で、それまでは取るに足らないこととして忘れていた。

「何があったかは本人しか知らないが、その本人が語る口を持たない。何かがあったと警察に訴えるとしたら家族だけだが、そうしないような家の子だけを狙っている。つまり子供のことよりも、面倒事を避けることに天秤が傾くような」

「気分の悪い話ですな。もしその失踪に、本当に犯人というものが居るとすればですが。警察としては、法律と社会構造の隙間で尻尾を掴まれる事なく続けられる犯罪というのは、きっと頭が痛いものでしょう」

父の発したのは、ただの一般的な常識と倫理観に即した、空っぽの当り障りのない意見だ。その言葉の中に、己なんてものはありもしない。自身ではなく共同体の話に、そして仮定の話にすり替えて、不用意に自身の立ち位置や腹の底を明かすことなく、相手の出方を窺うための。香良洲も分かっているからこそ、話し続ける。全ての状況と事情を伝えた上で、相手から望むものを引き出すために、それに見合う大義と利益を提示しようとしていた。

「そう、対外的に法律を犯した者が居る証拠さえなければ、誰一人としてその出来事に対して騒ぐこともないから、事件として立件されることもない。そして被害者達も自宅に籠りっきりか、或いは精神病棟の中で、事件になっていなければ訪ねられる場所じゃない。おそらく今のまま刑事事件になっても、犯罪である痕跡すら見つからずに事故扱いでしょう。その犯人が存在するのかどうかも分からないという点でも、まさに『人喰い道化』の再来といったところです」

「ですが、そんな厄介な事件で、私ごときに出来ることなどありますでしょうか?」

ともみの父の、要求はなんだ、という単刀直入な問いかけ。こういう場所で要求されるのは、たいていは行政側からの政策的な補助や資金面の援助といったものだった。

「人喰い道化が居ないにしても、現にそういう事件を起こした『何か』が今もあるわけです。昨年には隣町で、そして次はここでないとは限らない。民間にも知れ渡るほど大規模な失踪となって『人喰い道化』のような騒ぎになれば、行政側もまた治安悪化と責められるかもしれません」

“あなたにとっても利害の関係がある事だ”と、香良洲はともみの父に目で語り掛ける。興味がないことを隠そうともしなかった、ともみの父の表情が初めて少しだけ動いた。

「刑事立件できないから表立って捜査できない――だから、事件そのものに言及することなく捜査を始められるような名目を、行政の側から準備して欲しいのです。そして犯人の追跡だけでなく、そのような事件が再び起こらないように予防するために動けるような名目を」

ともみは香良洲の表情を、声音を思い出す、その言葉の意図を探るために。あの男は、その『何か』が居ることを、一点の曇りもなく確信しているようだった。今から思い返してみれば、『魔法使い』の存在を知っていて、それを引き摺りだそうとしていたようにも考えられる。

「しかし、果たして周囲が納得するような名目が用意できるでしょうか?」

「案はあります。あなたの市の企画した、街の再開発計画のためのプログラムの一環として組み込んで貰えればいい。そうですね、題目は“町そのものへ眼を向けて、包括的に犯罪を予防する”というような――曖昧でそれとなければそれとないほどいい、その方が本当の目的である『人喰い道化』及び類似した事件の捜索、という本当の目的をカモフラージュしやすくなる」

暮町を含めた一つの市の市長であるともみの父が、長年『暮町の再開発』を掲げていたことに、香良洲は話を近づけていた。暮町はかつて工場街として発展してきたが、その負の遺産である廃工場と駅向こうの歓楽街は、『こちら側』の人間の多くに不安に思われている。けれど廃工場を取り壊すためには予算を捻出しなければならないし、駅向こうの治安を改善しようとしても、歓楽街にある施設やそこで働く人々の反対が多かった。

「人員も、最初の手がかりも、全てこちらで用意してあります。あとは単独行動を行うための大義さえあれば、私たちは動き出せる。『人喰い道化』事件の捜査課長をしていた頃から今までの十年間で、それだけの権限は積み上げてきました」

「……あなたも変わりませんね、『人喰い道化』にずっと固執している」

鷲尾香良洲は底知れない使命感に満ちた黒い眼で、頷いたのだった。その時その場では、ともみの父からの返答はなかった。けれど、あれから一週間近く経つ今、香良洲という男はもう動き始めているだろう。あの白い少女と話した時に確信が持てた事だが、恐らく香良洲と自分たちの追っている相手は同じだ。しかし目的は違う――香良洲はこの失踪事件を口実として利用して、自身の執着している『人喰い道化』という過去の事件に捜査の手を伸ばそうとしている。ともみの父に至っては事件なんてどうでもよくて、ただ再開発という自分のプログラムを進めるための道具としてしか見ていないだろう。

自分達が生きる暮町という小さな日常を組み上げる、『社会』というシステムのちょっと大きな歯車である大人達と、誰にも知られる事なく非日常の舞台で戦い続ける魔法少女たちは、本来なら決して交わらないものだ。けれど捜査が大々的に行われるようになった結果、魔法使いの存在と『夕暮れ戦争』の秘匿が暴かれてしまえば、その後の推移に関わらず今の『夕暮れ戦争』は失われる。明らかになってしまえば、それは『夕暮れ戦争』ではないからだ。ともみが何よりも恐れていたのは、それだった。たかが一人の、正体の知れない魔術師との戦闘の帰趨さえ、或いは大して重要でないかもしれない。

自分を知る誰にも知られることのない逃げ場としての『非日常』として。周囲から受け入れられた人間は誰一人として立ち入ることができず、他の何かを犠牲にしてまで叶えたいような願いを持たない人間は見ることさえできない『戦場』として。その秘匿によってこそ、『夕暮れ戦争』は成り立っている。しかし香良洲もともみの父も、『夕暮れ戦争』がどうなろうと知ったことではない。魔術師も魔法少女も、一般人から見ればまとめて『向こう側』だ。対岸がいくら燃えようと、こちら側に飛び火しないならそれでいい。

「……姉さん、起きていたの」

コツコツという足音が寝室のドアの前で止まり、すぐに無造作に開けられる。ともみは深呼吸をしてから、顔を上げて声の主を見た。

「みともこそ、遅かったわね」

自分のものと同じ丈の学生服に、質素な外套とマフラーを巻いて、つい今しがた帰ってきたらしい。みともは着ている服と、風呂と寝る時以外は決して解かないサイドテールの他は、何一つとして自分と変わらない姿をしていた。“ともみ”と“みとも”、一卵性双生児である自分達の姿は、その違いを見せつけるように振る舞わなければ、自身であることを主張するように着飾らなければ、親にも間違えられてしまうほどに似通っていた。

どれほどの時間彼女を待っていたのだろうと、ともみは随分と濃くなった窓の外の闇に目をやった陸號みともは生徒会の仕事が長引いて、冬はことさら早い日没に間に合わずに帰ってくることが多かった。元より親も帰ってくることは少ないし、居合わせても会話が生まれることはもっと少ない。

「明日からは早くなるわ」みともは全開になった暖房に顔をしかめてから、外套を暑そうに脱いで制服のブラウス姿になる。そして外套をクローゼットにかける前に、一度だけ顔を近づけてウール地の匂いを嗅いだ。「近くの町で子供が誘拐されたかもしれないって騒ぎになったらしくて、しばらく部活の時間も縮めて、六時までには全員下校らしいわ。だから、明日から早く帰れるように仕事を片付けてたの」

みともは暮町中学の生徒会長をしていて、姉である自分以外の、誰の頼みごとでも引き受ける。そのせいで他の人の仕事まで背負い込んで、帰りが遅くなることも多かった。嫌と言えない性格だけは、昔から変わらない。それ故、みともは教師と生徒の橋渡し役になることも多く、教師たちの意向を真っ先に知る生徒でもある。今になって隣町の失踪が取り沙汰されたということは、あの香良洲という男が手がかりを何か掴んで、暮町中学に働きかけているのかもしれない。同じ事件と犯人を追っている、その存在を確信して――あの男は、味方と言えるのだろうか?

「ねえ、みとも」

ともみはベッドから腰を上げて、浴室へ向かおうと背を向けたみともに声をかけた。「暮町中学の中に、行方不明になっている子……ううん、急に学校に来なくなった子は居ない?」

ともみの目的は、あくまで騒ぎがこれ以上大きくなる前に、事態を早々に終息させることだ。魔術師がより多くの犠牲者を出す前に、そして香良洲や大人達が闇に葬られた失踪事件を、『夕暮れ戦争』まで巻き込んで明るみのもとに引き摺りだす前に。

香良洲の動向と本当の目的も、情報をどこまで掴んでいるのかも分からない。生徒会長であるみともを通して僅かに得られる、教師や学校、市そのものといった大人の都合で動いていく世界。複雑な利害関係が絡み合う、その『世界』を知ることを、大人のものだといって遠ざけてしまえば、抗うこともできずに利用されるだけだ。戦う場所は『夕暮れ戦争』だけではないし、眼前に立ちはだかるものだけが敵ではない。

「あら、探偵ごっこでも始めるつもり?」

振り返ったみともの眼には、静かな敵意と、微かな嘲り。ともみにとっては、もはや誰から向けられるのにも慣れた視線だった。

「知る必要はないし、興味もないでしょう?」

飛び交う皮肉の応酬と、ほとんど同じ姿をした二人。傍から見れば、鏡と会話しているように見えるかもしれないと、ともみは思った。

「調べたりしなくていい、ただ今知ってることを答えるだけで良いの。手間もかけさせないし、損もないわ」

みともはつんと尖った鼻を鳴らして、さっさと会話を終わらせてしまうことを選んだようだ。

「居ないわ。それに二日くらいなら、病欠が伝わってないだけかもしれない」

「先生たちの噂話とかでもね?」

ともみは確認しながら、気取られぬように安堵のため息をついた。その魔術師はまだ動き出していないようだが、油断はできない。ともすれば、時間のかかる魔法の『条件』を満たしている最中なのかもしれない。

「じゃあ隣街での失踪事件について知っていそうな子――被害者の関係者とか、隣町に住んでいたりとかを知らない?」

何一つとして手掛かりを残さず、子供たちを連れ去る力を持つ魔術師。もしその正体に近付く糸口があるとすれば、ただ一つの証拠として存在している失踪した子供達について調べることだ。失踪したのが自分達と同じ中学生なら、被害者について知る者がこの学校内に居る可能性も高いだろう。

「隣町……?どうして、そんなに失踪事件についてばかり知りたがるのかしら」

ともみの不用意に放った言葉に、みともは不審そうに問い返す。言葉の内容ではなく、その意図を探ろうとするように。喋りすぎたと、ともみは心の中で舌打ちをする。

「先週くらいだったかしら、夕食に来てた警察の人が、そんな事言ってたわね」

みともは、ともみ以外の相手の頼み事には快く応えるし、何かを問われたら丁寧に教えてあげる。けれど姉である自分に対してそうでないように、他の人に対しても、人助けだとか、お人好しだとか、そんな理由ではないのだ。ただ生徒会長としてその方が得だから、そう振る舞っているだけのこと。誰も信じていないからどんな綺麗事でも口にして、誰も頼りにしていないから誰にだって優しいふりをする。

「姉さん、あの警察の人が言ってたことだけど――失踪して、身体だけが無傷で帰ってきた子供達の、魂は何処へ行ったんでしょうね?」

世間話でもするような何気ない口調で、不意に投げ掛けられた問い。ともみが『夕暮れ戦争』に行っていることも、そんな噂話が現実のものとして存在することも、みともは知らない。けれど自分たちの根幹にあるものは同じで、自分達は鏡写しの半身だ。互いが何を知っているのか知らなくても、いつも帰りの遅い姉のことを、みともが何を考えているのかは少しだけ分かる。

「七不思議の『しにがみさま』の噂みたいに、別の場所へ連れていかれたとでも?」

みともには関係ないことだと、問いへの答えを拒むこともできた。けれど答えなければ、こちらも望む答えは引き出せないだろう。

「あなたも、自分がそんな風に消えられたらって、思ってるんじゃないのかしら」

思わず睨み付けた先のみともは、せせら笑うような表情で、しかし鳶色の目はじっとこちらの瞳を覗きこんでいる。鏡に映し出されたような、同じ色の瞳を。かまをかけているのか、単純に、いつもの皮肉なのか。しばしの沈黙の後、ともみが先に目を逸らした。

「隣町から転校してきたって子なら知ってるわ。佐々木しおんって子、今は二年生だったかしら、一つ下の学年ね……教えてあげたんだから、馬鹿みたいな噂で騒ぎ立てて、私にまで迷惑かけないでね、姉さん」

それだけ言い残して、みともは浴室へと歩いていった。ともみが家族と真っ当な会話をしたのは、一年ぶりのことだった。思わず安堵のため息をついてから、ともみはその背を無言で見送る。どこへ行くにも一緒だった、かつての半身を。


――


灯りを落とした寝室で、ともみは目を開く。微かに音を立てて動く時計の針を見上げると、既に日が変わっていた。隣のベッドの布団の膨らみは、微かな寝息だけを立てて動かない。みともは大人用の大きな枕を、ぎゅっと強く抱きしめるように眠る。自分の匂いが染み込んだものに顔を埋めて、心を落ち着かせるのが、みともの小さい時からの癖だった。変わらないものもある、それがよけいに、変わってしまったものを際立たせると、ともみは思う。

――いつから、そうなったのだろう?

時折、そんな疑問を思い浮かべることがあった。例えば今のように、暗い部屋の中で一人きり、闇に目を凝らしている時に。そして誰にも頼らず、誰にも心を開かないでいるために、近付いてくる誰かを振り払って、その誰かの視線を背に受けながら去る時に――ちょうど今日、東大寺ひびきに対してそうしたように。

ひびきと行動を共にすれば、今は正体も分からない敵の魔術師について、手分けして効率的に調べられるかもしれない。けれど、ひびきにとっての篠崎ひかりは、何人か居る仲間の一人でしかない。もし『魔術師』についての情報を掴んだ時、ひかりを守ることと、『人喰い道化』を追うことの二つが相容れないものになったとしたら、ひびきは後者を選ぶだろう。

土壇場になってから邪魔をされるようなら、最初から自分一人の方が良い。周りの人間に求めるのは、とりあえずの協力と、邪魔をさせない確約だけ。味方なんて最初から、どこにも居やしない。ここは水底だ、わたし以外のなにもない場所。これまでの半生で、それを学んだのは何時の日だったか。


ずっと昔の幼い頃、ともみの生きる世界を構成する全ては、親の言葉によって出来ていた。家族と食事をする度に、毎日口にしている食事は当たり前の平凡なものではなくて、世界には家族の日々の食べ物さえも養えない人が大勢いること、だからお前は大人になってからも今のような不自由ない暮らしを続けるために努力しないといけない、父は何度も暗示をかけるように繰り返した。ともみが遊ぶこともなく勉強と習い事にひたすら打ち込んだのは、その言葉を信じたからというよりも、ただ親に褒められたかったからだ。それに親の言うことを聞かなかったり、泣いて愚図ったりして親を怒らせたら、例え旅行の先でも翌日行く場所の予定もキャンセルして家に帰ると言われて、買ってもらった玩具やテレビも取り上げられてしばらくは楽しいことを何もさせてくれなかった。

遊んでる他の子たちを横目に、中身がぎっしり詰まったランドセルを揺らしながら習い事へと急ぐ放課後。そして年を経る程に、ともみが物事を学ぶほどに、『家族』だけが全てだった彼女の生きる世界は広がっていった。それ以外の日常を送れたかもしれなくて、自分にとって習い事ばかりの今の生活が不本意なものかもしれないという考えを抱けるようになった頃には、ともみの学校での成績や振る舞いは優良と呼べるものになっていて、ともみ達(ともみと、妹だ)の周りには多くの人が集まるようになっていた。

親はそれを当然のことだといって褒めてくれはしなかったし、集まってきたクラスメイト達の瞳には必ず、ともみが褒められるために練習していたピアノや水泳の上手さ、勉強の成績と教師からの評価といったものへの羨望の感情が映っていた。そして向けられる言葉の中には必ずと言っていいほど、家柄や身なりへの空疎なおだて言葉か、本人ですらそう気付かないような嫉妬とやっかみが混ざり合っていた。ともみがその場所に居ることを喜んでいる人間は、誰も居なかった。

ともみは父に言い聞かされ続けてきた言葉がただ彼自身の体裁のために、あるいは後継ぎとして優秀であれという意図によって発される言葉だと分かるようになっていった。赤子が音の連なりから言葉として、様々な明るさの光点の集合から記号としての意味を抜き出して認識するように、成長するにつれて他者というものを本能的に光に集まる虫のように、無意識に恩恵を期待して目立つものの周りに集まるものとして、自身に向けられた言葉を額面通りの意味ではなく、その背後の意図によって認識するようになった。

『眼』が見ているものは同じでも、『耳』が聞いている声は同じでも、それを解釈する脳は新しい経験を得るにつれて変容していく。生きることは記憶を積み重ねていくことで、知覚したものを解釈するのは積み重ねられた経験だ。ただの音の連なりを言語として聞き取れるようになるのと同じように、同じ物事を別の意味によって認識するようになり、個人として生きる世界がより広く、そして複雑になっていくことを『成長』と呼ぶのだ。

求められている優等生として振る舞いを続けていれば、本当の自分を曝け出して、本当に欲しいものを求めることはできない。そして本当の自分が分からなくなるくらいまで押し殺した生活の中で、ともみは『世界』の仕組みに気付いたのだった。

“日々を楽しく生きる為に、自分を利するために”――ヒトの中に、それ以外のものなんて何もない。こき下ろして嘲笑うための欠点を探すために話しかけてくる者、わたしの機嫌を良くさせて都合よく使おうとするためにおべっかを使う者。どこを見回しても、言葉とは自分の都合のために使われる道具であり、そして自覚的であってもなくても、人の中には『自分』しかないのだと。

ともみは優等生ではあったけれど、流行りのドラマやゲームの話は分からなかったし、習い事ばかりで遊ばないから親しい友人はできなかった。習い事や学校での授業と違って、友達の作り方なんて誰も教えてはくれない。一人でも友達が居る人なら、今居る友達と接する時と、最初に友達を作った時と同じように他者と接していれば、友達を作ることもできるだろう。そして一人目の友達を通して、新たに気の合う相手を見つけることもできる。けれど友達が一人も居ない人は、友達を作るための人との接し方も分からないから、新たに友達を作ることもずっとできないままだ。ともみの周囲にはいつも沢山の人が集まっていたが、本音を曝け出せるような、本当の友人と呼べる者は一人として居なかった。

けれど、ともみは友達が居ないからといって周りから助けを得られず困る事はなかったし、周囲の大人からはリーダーシップのある優秀な子供として褒められた。相手を思い通りに動かす為には、どうして欲しいか口に出してお願いするのではなく、相手にとって『そうしなければならない』と思い込ませることさえできれば良い。願い事を聞いてくれる友人や、対価や見返りの提示も必要ない――誰よりも、ともみ自身がそれをよく知っていた。親が自分に何かをさせようとする時に、本当にして欲しいことを『お願い』することはなかった。ただ食事の場や旅行の先で、与えたものを取り上げると脅すか、これから手に入れ続けるためにそうしろと言うだけで、自分はそうするべきだと信じ込まされていたのだから。


『学習』とは感覚器で得た知覚情報の経験に基づく解釈、及び認識した外界の状況に対する行動選択としての思考のブラッシュアップであり、人間のみならぬ生物全体のあらゆる意識活動の基礎である。例えば、マウスの前に二つのスイッチを用意して、右側のスイッチを押すと電撃が流れ、左のスイッチを押すと餌が出るようにしておくと、マウスは徐々に左のスイッチだけを押すようになる。これは『右側のスイッチ』という視覚的な情報に対して『電撃』という不快な経験が結び付けられ、同様に『左側のスイッチを押す』という動作に『餌』という快情動の記憶が積み重なったためだとされている。快を感じた出来事は繰り返し行おうとし、不快と感じたものを忌避するようになることで、生物はより効率的で安全な動作を行うように成長していくのだ。

ヒトの精神もまた然り、生まれた瞬間から様々な経験[インプット]を積み重ねることよって、本能だけの原始的な状態から徐々に組み上げられていく。鼠とヒトの意識に差異があるとすれば、それは生まれた持つ聡明さの優劣ではなく、成長と経験によって『学習』する内容の複雑さにある。鼠は繰り返すことを忌避する『不快な体験』を独立した事象として記憶するが、人はそれを『間違い』や『失敗』という観念で括ることで一般化し、より広範な状況に対して適応するようになる。快情動を与えられた記憶も同様、その善悪正誤の判断を行うものをヒトは『精神』と呼び、逆にヒトが善悪正誤や美醜の判断を行い、自身の行動を決定するための思考は、どれだけ複雑で在ろうとも己自身の経験したこと以上のもので作られることはないという意味において、かつての経験によって快が示されたものを繰り返す鼠のそれと質的に異なるものではない。善や正であると判断し、それを行うということは、不快の記憶を忌避すること、快の記憶に従うということに他ならないからだ。


ともみが『夕暮れ戦争の危機』という言葉を使ったのは、ひびきにとりあえずの協力と、ひかりに『魔術師』のことを知らせないことを約束させるためだ。あの白い少女が口にした事実を聞いた時のひびきの表情は、感情を覆い隠すことさえ知らないような、余りにも率直なもので――だから、自分のような人間に思い通りに動かされる。ひびきはしばらくの間、この騒ぎが収まるくらいまでは、ひかりと距離を置こうとするだろう。相手を信じずに、本当のことを言わずに失敗したことは、今まで生きてきて一度もなかった。

無論、ひびきが自分に対して善い感情を抱かないことは分かっている。けれど世界とはそうう風に回っていて、だから自分もそうするだけだ。誰かに騙されたことのある人だけが、誰かを騙すということを知っている。何かを偽ったことのある人だけが、誰かが同じように嘘をついているかもしれないと考えることができる。そして自らが人を裏切ることこそが、世界には裏切りというものが満ちていることの証明となる。例えそれに自分一人で抗って、正直に生きて誰かを信じようとしても――そういう人をこそ、世界は食い物にしようと待ち構えている。

かつて、そうではないと思っていた時があった。信じても良い相手が、世界に一人くらいは居ると思っていたのは少し前のことだ。眠れない夜にベッドの上で布団を引き寄せて、黙って涙をこぼす時も一人きりではなかった頃。誰も信じられないとしても、同じ『誰も信じられない世界』を分かち合うことのできた相手。


――わたしには、妹が居た。


――


みともの言った通り、翌朝には担任の教師から早期下校についてのアナウンスがあった。予想外だったのは、それに加えてPTAから募った有志が、登下校路の近くをパトロールするらしいということだった。人目につかない場所を無くしたら、魔術師による人攫いは予防できるのだろうか?ただ魔術師の騒ぎを終わらせてからも巡回が続けば、『夕暮れ戦争』に行きにくくなることは確かだった。その日の昼休みに、ともみは一人の女子生徒に会いに行った。

「……何の用ですか?これからお昼ごはん食べに行くとこなんですけど」

二年生の教室が並ぶ廊下――ひかりは学校に来ていない。みともからの情報を頼りに探し出したその少女は、ともみの事を知っているようだった。誰かとの話題に出すことはあっても、直接話したくはない相手だと、その表情が語っていた。

「あんたが佐々木しおんね、聞きたいことがあるの」

幾分くたびれた感じの、けれど着崩されてはいない上衣のブレザーと臙脂色のスカート。きっと休みの日でも、制服のまま出歩いているのだろう。用意された器があるなら、あえて他を用意しなくても良いと考えている――その見た目から読み取れる第一印象は、みともが彼女について語った通りのものだった。噂好きで、かつ誰でも分け隔てなく接する、どこにも執着のない根無し草。昼休みになるまでの授業中、ずっと寝ていたような寝ぼけ眼はしかし、ともみが口に出した要件に興味を持ったようだ。

「隣町でのこと……?じゃあ、学食奢ってくれるならいいですよ、陸號ともみ先輩」

ともみは学校の食堂を使ったことがなかった。内装は雑然としていて、何処から雇われたのかも分からないようなパートの業員が作るそれは、コンビニ弁当の方がよっぽどマシという評価を聞いていたからだ。

「奢って貰うんだから持ってきますよ、どうせ頼み方も知らないんでしょう?」

食券を片手に受け渡し口に並ぶ生徒達を眺めていると、しおんがトレイに乗せた二つのどんぶりを、危なっかしげに揺らしながら歩いてきた。「で、隣町での失踪事件だなんて、どうしてそんなことを知りたいんですか?」二つの親子丼を置きながら、待ちきれないといった風に眼を輝かせながら、しおんがたずねてくる。メニューは知らないし味に期待もしていなかったから、注文内容もしおんに任せたのだ。

――『それが楽しいから』噂話をするのは、社会に溶け込んだ『普通の人間』の機序だ。

誰かについての話を聞くことは好奇心を満たし、その話題を共有した相手とは連帯感が生まれる。そして周囲の情勢の変化をより鋭敏に感じ取り、より周囲に溶け込むことができるようになる。無論『そのために』噂話をするのではなく、人として成長していくどこかの過程で『その利益を得たから』それを快であると感じるようになり、それを繰り返すようになった。ならば、それを利用するまでだ。

「今日、早期下校のこと言われてたでしょ?」不味い卵丼に顔を顰めないように気を付けながら、ともみはさりげない風に話し始めた。親子丼とは言えど鶏肉は皮が少しだけ混ざっているくらいで、ちょっと鉄臭いような気がするのは、手袋をつけたまま硬貨のやりとりをした業員の手で料理されたからかもしれないと思った。ともみが口をつけたのを見てから、しおんも同じように親子丼を食べ始める。「家の方で聞いたんだけど、生徒達が居なくなってたのって半年も前らしいわね。どうしてその時は騒ぎになってなかったのか、ちょっと気になったのよ」

その答えについて、ともみは既に香良洲から聞いていた。敢えて最初にそれを聞いたのは、それが事情を知る噂好きの人間にとって、話したくて堪らないようなゴシップであるはずだからだ。

「ああ、なるほど……わたしはその騒ぎの途中くらいでこっちに転校してきたから、失踪した人全員のことを知ってるわけじゃありませんけどね。最初に消えたのは柏木夏鈴って男の子だったんですけど、別に何か事件を起こしたわけでもない、ただ消えただけですからね。たまに話題には出しても、本当に心配して探そうとする人なんて居ませんでした。転校とか不登校とか珍しいことでもないですし、もし自殺とか失踪だと分かったとしても、誰も驚いたりはしなかったでしょうね」

「いくらなんでも、自殺だとしても気にしない、なんて有り得るかしら?」

俄かには信じがたいような言葉を聞いて、ともみは思わずそう訊ねていた。その口調にともみが責めているのだと思ったのか、しおんは肩をすくめて答えた。

「そういう子だったですよ、先生も含めてみんな、『とうとう消えたのか』とだけ思っていましたから。傍から見たら、変な子だったんですよ――仕草がとか、見た目がとかじゃなくてね。学校から消える前から、何処にも居ないような子でした」

その柏木夏鈴という子供について、ともみは素性を聞いた。女の子みたいに綺麗な顔と声で、人形みたいに真っ黒な瞳をしていたこと。小学校の間中ずっと家族から性的虐待を受け続けてたとかで、それがばれて父親が逮捕されたらしくて、中学に入るまでは何処かで入院していたこと。話しかけても反応が希薄で、授業中も休み時間もずっと眠るか保健室に行っていたこと。

――狙われたのは、学校内で孤立している子供。

その被害者に焦点を当てて、ともみは情報を集める腹積もりだった。被害者の消えた時のこと、戻ってきた時のこと、全員の共通点と、その当時の周りの状況。しかし、

「まるで幽霊みたいなものだったから、当然クラスでも浮いてましたね。ああ人間ってこんな風になることもあるんだ、って思ってしまうから、見るだけで不快だったんでしょう。あの子の方も誰とも関わろうとしなかったし、それを望んでたんじゃないですか? もし自殺したって知らされたとしても、その時だけショックを受けたり悲しんでるふりをして、みんな翌日には忘れてたと思います。彼を預かってた遠い親戚も、面倒事が消えてくれてさぞ良かったでしょうね」

親子丼を食べる手も休めず話すしおんを見て、ともみは思う。その状況を作り出すのに、しおんの弁舌はさぞ役立つことだろう。決して目の前の相手には使わない揶揄と、誰かを笑い者にするための皮肉。きっと彼女は、それを自覚している。どこにも属さない根無し草――教室という水槽で根を持たずとも浮かずにいられるには、所属以外での共感をクラスの人間と持つ必要がある。もともと『みんな』なんて、『誰か』を追いやることでしか成立しないのだから当然だ。ともみ自身そういう人間を今まで数多く見てきて、今では自分がその『誰か』であるから、よく分かっていた。

「雨降ってきたから体育自習だって……あれ、なんか怒らせたの?」

しおんを呼びに来た友人らしい女子生徒が、ともみに気付いて怪訝そうな顔をする。ともみと誰かが一緒に居るのを見て、第一声がそれだ。ともみは席を立ちたくなる気持ちを抑える。ともみがどういう人間かについての周囲の評価は分かっていたし、それは自分ですらも否定はできないものだった。大勢を相手に自分一人では、必ず自分が悪者にされる。

「そんなんじゃないですよ、もうすぐ行きます」

「じゃあ、外で待ってるね」

少し気にする素振りを見せながらも歩き去っていく女子生徒を、ともみは無言で見送る。そして他の生徒についての問いに、しおんは話し始めた。

「学校の近くで不審者が出たなんて話もなかったから失踪扱いだったんです。それに隣町では『暮町七不思議』みたいな時代錯誤な噂もありませんでした。柏木夏鈴に続いて消えた子たちも、部活もなにもやってないのに帰りが遅かったり、暗くなってからも街を歩き回ってるような子が多かったらしくて。だから人気のないところを不用心に歩いて、誰かに誘拐されたのかもしれませんね。先生たちもいざ消えた数が増えたからといって、ずっと放っておいたのに今更騒ぎにするわけにもいかなかったんでしょう」

黙って考え込むともみと対照的に、しおんは尋ねられていなくとも話し続ける。今しおんが協力的に見えるのは、それが話題性のあるゴシップだからだ。後になれば、自分もまた誰かとのそういう話題の一つに使われるのだろう。『あの騒ぎ』を起こしたともみが、また何か変なものに首を突っ込もうとしている、と。

必ずしも悪意によるゴシップでなくとも、それが噂として広まる過程で『陸郷ともみ』という個人には、様々な情報が付加されていく。ヒトが知覚した他者の姿を『名前』に紐付けることで個人として認識するのと同じように、次に会う相手はその噂によって付加された情報をもとに、個人としての『陸號ともみ』を認識する。誰かから聞いたエピソード、その個人を表すイメージ、それらの人物像をもとに自分のとった行動の全てが解釈されて、また新たな情報が『陸號ともみ』に付加されていく、その繰り返しが日常だ。

「天に神はおわし、世はこともなし……そういう風に、世界は廻ってるんです。ただでさえ気味が悪くて、同じ場所に居るだけで不快なんだから、噂の種として少しくらい役立って貰わないと、周りに不公平じゃないですか。そりゃ昔大変なことがあったかもしれないけど、今そうして孤立してるのはその人の選択なんですから」

まるで目の前のともみに対して向けられたような、しおんの言葉を聞きながら。ともみは彼女の黒い瞳を覗きこむようにして言った。

「……不思議ね、あなた。柏木夏鈴のことだけは随分と饒舌に、楽しそうに話すわ」

「わたしは、事実を述べてるだけですよ」

「事実かどうかは問題じゃないわ、それに責めているわけでもない。その事実を述べたくて仕方ないのは何故?その事件のことを本当に楽しんでるなら、悲しんでるように話すわ」

しおんの薄っぺらい笑みが剥がれて、その眼が一瞬だけ怪訝そうに細められる。「……どういうことですか?」そして、しおんが問い返そうとした時、二人が挟んで座っていた食堂の机に人影が差す。

「しおん、もう昼休み終わるから教室戻った方が良いよ。先輩も、下級生に絡んで迷惑かけるのやめてくださいね」

ともみは自分を見下ろす人影を見て、面倒なやつが来たと顔を顰める。ひかりを呼び戻そうとした時に邪魔をした、正義感の強い委員長気質の生徒だ。気付くと食堂にはほとんど人も残っていない。さしずめ自分は彼女にとって、身勝手な都合で級友を遅刻するまで話に付き合わせようとする、不良生徒に見えていることだろう。

「別に遅刻したって構いやしませんよ、次自習でしょう?」ともみが口を開くより先に、しおんが言った。「先に行っててください、大丈夫ですよ」幸い名も知らぬその下級生は、しおんがそう言うなら、といった風に素直に引き下がってくれた。ともみにも、今この瞬間に起こった出来事だけを客観視したら、自分が悪者であることは分かっていた。そしてこれまでも生身の身体には、物理的には誰にも危害を加えられたことはない。

けれど、自分の知らない場所で好き放題に噂されたとしても、周りに抱かれた勝手な人物像でしか生きることを許されない。それは紛れもなく攻撃で、だから身を守る為に自分のやり方で反抗すれば、より多くの人間に敵とみなされ、更に孤立していく。誰もが敵である日々の中で、誰かに好かれるように振る舞う余裕なんてあるはずもない。

「休み時間過ぎてからも食堂に居るの、先生に見つかったら怒られるわ。歩きながら話しましょう」

外に出ると小雨が降っていて、伸ばした鳶色の髪と、ブラウスの胸元を灰色の水滴が濡らす。上履きの靴底から溶け出した泥が、薄く水を張ったコンクリの台座を黒く汚す。湿った空気が肺を侵し、溺れるような息苦しさに動悸がする。薄暗い雲の下、そのまま魂までも穢されていくような感覚は、ともみがいつも味わっているものだ。自分を取り巻くもの全て、敵として見られて、敵として振る舞うしかできない、繰り返される日常が、自分をゆっくりと溺死させていく。

けれど最初から分かっていたことだ。ここは水底だ、自分以外には誰も居ない場所。目に映るもの全てが敵だと最初から分かっているなら、誰にも遠慮はいらない、幾らでも目的を果たす手段はある。既にともみとしおんの立場は逆転していた。今、話を聞きたがっているのはしおんの方だ。

「別に、疑問に思っただけよ。あなたは口で言うほどその状況を、その状況に組み込まれている自分を受け容れていないんじゃないか、って。まるで自分の言ったことを誰かに否定して欲しいから、不快に思わせるような言い方をしているみたい。それを楽しんでいるかのような皮肉っぽい笑いも――どういう風に受け取ってもらいたくて、そう振る舞っているのかしら?」

人は目的がなければ話しかけないし、意図がなければ言葉を口にしない。ただ相手から能動的に与えられる情報を信じて、得があるのは相手だけだ。相手が発した言葉の内容だけでなく、それを口にした動機を、その口調に込められた欲求を解釈する。

「わたしたち案外、似た者同士なのかもしれませんね。あなたは僕のことを知りたいわけじゃない。あなたは何を知りたいかも明かさないまま、それをわたしから引き出そうとしている。それがあなたの処世術ですか?」

しおんの言う通り、ともみにとって相手の本性なんてどうだっていい。ただ決めつけることで、そうでないと反撥するならその言葉の中から新たな手がかりを、そうかもしれないと思い込ませられるなら、ひびきの時と同じように動かせばいい。

「柏木夏鈴には一人だけ友達が居たんです。小学校からの幼馴染で――父親が逮捕されて入院して、あんな事になる前の彼を知っている生徒でした。柏木が失踪する前から既に、あの子にどう接すればいいか分からなくて、友達と呼べるかも怪しい間柄だったんですけどね」

どうでも良さそうな口調でしおんが話し始めたのは、温かい缶コーヒーを買ってから、人目につかない食堂の裏手にあるコンクリの生垣に腰掛けてからだった。

「けど幼馴染の方も、彼くらいしか友達が居ないような子でしたから。柏木夏鈴が学校に来なくなった時は心配して彼の家にまで行って、そして初めて、彼が何処からも居なくなってしまったことに気付いたんです。その幼馴染は自分でも心当たりのある場所を探し回って、周囲にも探してもらうようにお願いしたんです。

けれど、誰も聞き入れてはくれませんでした。そして自分以外の誰も、その子が帰ってくるのを望んでないことを思い知らされたんです。馬鹿ですよね――それまで彼女は自分の望んでいることで、倫理的に正しいことなら、なんでも聞き入れてもらえると思っていたんです」

しおんの言葉の中には、柏木夏鈴の幼馴染を、嘲笑うような響きがあった。誰だって、現状を受け容れられなかったとしても、それを能動的に変えようとするのは難しい。ともみは声に出さず呟く――まして、世界の仕組みなど。自分達魔法少女だって、それを変えるために命まで懸けて、それでもまだ届かない。

「柏木夏鈴は帰ってきませんでした。そして自分以外の誰も、そのことを気に留めた様子もなく、日々の些細なことで笑ったり愚痴ったり、変わらない生活を続けていました。そして、その幼馴染は悲しんで、悔しがって、怒って、泣いて――ようやく学びました。世界に真っ向から立ち向かおうとするなんて、真っ当な怒りを抱くことなんて、馬鹿なことだって」

「……柏木夏鈴は、帰ってこなかった?」

聞き逃せない言葉を耳に挟んで、ともみは思わず問い返す。

「ああ、あなたは何か理由があって隣町のこと調べてるみたいだし、失踪者が『帰ってきた』ことも知ってるんですね。怪我もしてなくて服装も元のまま、方々探しつくされた後に、ひょっこり家の近くとかで見つけられた、って。誰も学校に来ることはなかったですけどね。みんな消える前の柏木夏鈴みたいな状態になってたらしくて――ふふ、千羽鶴か寄せ書きでも送るべきでしたか?」

相変わらずの皮肉について、ともみは何の感慨も抱かない。ともみの中には既に、ある確信が生まれていた。

――犠牲になっているのは、魔法少女だ。学校内で、孤立している子供達。

ならば魔術師の候補として疑わしいのは学校内の生徒と教師だけでなく、一つの学年やクラスに執着せずに『浮いた子供』を選定して接触できるカウンセラーなどの人間だ。或いは暮町の『扉』のような、普通の人間には視えない魔法の産物を用いた場所的なトラップ。どちらの仮定を取っても、誰が誘拐を行った魔術師であるのかを知るためには、どうやって誘拐が行われたか、つまり行使された魔法の正体が手掛かりとなる。

最初の失踪、たった一人だけ帰ってこなかった柏木夏鈴。そこから続いた連続誘拐とは無関係の失踪だったとも考えられるが、柏木夏鈴は誰よりも被害者たちの共通点を満たしている。もしも最初に行った誘拐、その被害者だけが帰ってこなかったのだとしたら。そこで魔術師が学習したことで、以後の誘拐では決して行わなかったミス――何一つとして手掛かりを残すことのない魔法の、綻びがあるかもしれない。

「その幼馴染と、あなたは少しだけ似ているかもしれません。あなたにとって『本当の願いを言わない』のが生きていく手段であるように、その幼馴染は『本当の気持ちを言わない』ことで自分の魂を守ろうとしたんです。自分が変えることのできない世界を、これからも観続けねばならないのなら。せめて何処にも属さずに、決して自ら世界に与する事のない、ただ傍観者であろうとした。どうにもならない世界を嘲笑うことで、どうにもできない自分の無力さから、どうにかして眼を逸らそうとした。そのための手段が、彼女にとっては『皮肉』だったんです」

ともみが思い至った事実は、きっと隣町の事件の推理には役立たないものだった。確かに佐々木しおんの言った通りのことが、隣町では起こったのだろう。けれど、それらのエピソードに対して彼女の抱いているように見せかけた感情が、そしてその事件における彼女の立ち位置だけが、本当のものではなかったということだ。

「ああ、そういうこと。あなたが柏木夏鈴の――」

きっちりとブラウスの袖釦を止めた、華奢な腕。しおんは食堂の外壁に背を預けて、神経質に膝を揺する。それに合わせて臙脂色のスカートがふわふわと、風に抗うことのできない根無し草のように揺れる。自分と同じ、どこにでも居る――普通の、ありふれた弱い子供の一人だと、ともみは思った。そして自分の無力を自覚して、世界を変えることができなくとも、せめてその中には組み込まれたくないと抗っている。

「ここまで話して誤解されたら嫌だから言いますけど。わたしは前の学校で学んだから、こうやって生きることを選んだんです。柏木夏鈴は、別の世界に逃げたんです。どこでもない場所へ……わたしを置いて。きっと夏鈴にとってはその方が、あの場所で生き続けていくよりも幸せなことだったんでしょうね」

『扉』を信じていない人間にとって、その言葉は死後の世界、つまり自殺を意味するものだ。しおんには、柏木夏鈴に対して『友達』に向けられる以上の感情があるように見えた。かつての自分が妹に向けていたような、或いは、今の自分がひかりに向けているような。

「隣町での連続誘拐事件のこと、あなたが調べてる動機は分からないですけど、そんなに入れ込んでる理由なら知ってますよ」

「……どういうこと?」

昼休みの終わりを告げるチャイムが遠くで鳴る。小雨が上がり、どこかで雨宿りしていたであろう鳥の群れが一斉に飛び去っていく。あとには薄く水を張ったままのコンクリの台座と、濡れた制服に温度を奪われて、凍える二人だけが残された。

「この学校で、あなたが『扉』の騒ぎを起こしたのも、それと同じ時期だったからでしょう?僕が転校してくる前ですけど、話には聞いてますよ。あなたが自分の居場所を壊してしまった時のこと――やだなあ、中までびしょ濡れだ」

しおんは話しながら、濡れたコンクリに腰掛けていたせいで水浸しになったスカートを引っ張る。

「……どう思ってくれても結構だけど、調べてる理由はそんなんじゃないわ。あの事はなんにも、関係ない」

ともみは学校中に知れ渡っている、その『事実』を知っていた。今それについてしおんが言及するのは、きっと彼女の心の中に踏み込み過ぎた、ともみへの反撃だ。あの事件以来、みともは誰に対しても優等生を演じる、今のみともになった。そしてともみは、誰を演じることもできない、今のともみになった。

「あなたは妹を連れて家出していた当時、ちょうど隣町では連続失踪があった。だから帰ってこないあなた達も、誘拐されたんじゃないかと疑われて、警察まで動員しての騒ぎになりました。そして保護されたあなたは、家出した理由を廃工場にあるという『扉』の噂を信じたからだと言った。それが、あなたが全てを失った原因――そんな馬鹿げた動機での家出で、はた迷惑な騒ぎを起こしたと学校でも知るところとなって、優等生として人望もあったあなたは、対外的評価の全てを失った」

しおんが去り際に放った言葉は、きっと彼女の思惑通り、ともみに彼女と同じくらいの痛みを遺した。きっと佐々木しおんからこれ以上のことを聞き出すことはできない、柏木夏鈴について別の方向から調べよう。そんな風に考えながら、ともみは密かに佐々木しおんを羨まずには居られなかった。


佐々木しおんは連続誘拐事件で幼馴染を失った後、この街に逃げるように転校してきたと言った。少なくとも彼女には、その選択肢が与えられていたのだ。

――ここではない何処かへ。

ともみの心を囚える、その想い。海の向こうや地球の裏側、誰も自分のことを知らない場所まで行って暮らすことができたなら。『夕暮れ戦争』に足を踏み入れた何よりの理由が、それだったのだ。


――


「やっと見つけた――御岳鶴来」

ひびきの声に、ベンチで座って何かを読んでいた少女が顔を上げる。駅裏の公園には彼女達以外の人影はなく、かつて閑静な住宅街に響き渡っていた音楽ももう流れない。最近、役所の『美化委員会』とかいう所の方針で、公園での音楽流しとダンスの練習を禁止する貼り紙がなされたのだ。カイザーには踊る場所なんて幾らでもあるけれど、自分達が一緒に踊る機会はほとんど無くなるだろうと、ひびきは内心寂しく思っていた。

「……君は、誰かな」

御岳の物憂げな横顔、決して乱れることのない静かな吐息。それは『夕暮れ戦争』での彼女と余りにかけ離れたもので、彼女の読んでいるものが数学の参考書だと分かった時、ひびきは自分が何の要件で来たのかも忘れて立ち尽くす。

――『夕暮れ』はいつか終わるものだ。

それは昼と夜を隔てる、ほんの一瞬の境界を指す言葉。黒い爆炎を背負い、幾百の返り血に塗れて戦うこの少女でさえ、大学受験や将来の事、『夕暮れ』の先に続く日々を見据えているのだろうか。そんなことを、考えた瞬間だった。

御岳の参考書が地面に墜ちる、ひびきの視界がぐるんと一回転して背に衝撃が、肩に激痛が走る。何が起こったのか理解できないまま、先程までと何も変わらない表情の御岳の顔が間近に見えた。その薄い唇だけが微かに動き、言葉を紡いだ。

「思い出した、学祭の時の……篠崎ひかりの仲間か」

僅かにでも油断していたことを、ひびきは悔いた。長い間『夕暮れ戦争』で戦い続けていたからこそ忘れていた、魔法を使わずとも人間が戦えるということ――御岳のバックボーンは武術だ。ひびきは先日の戦いで変身後の姿しか見られておらず、強制的に変身が解かれた学祭での姿と、先日の出来事が御岳の中で結びつくまでに一拍の間があった。逆に言えば、御岳がその連想に辿り着いた瞬間には、ひびきは既に関節を極められ地面に敷かれていた。

御岳の魔法によって変身を強制解除されたともみ、彼女の通っていた道場に真っ向から乗り込んだひかり、その二人が話しかけていれば、数秒早く首を折られていたかもしれない。『夕暮れ戦争』のルールが禁止しているのは、魔法で変身していない人間を攻撃することだけだ。ならば変身せずに徒手格闘で仕留めればいいというのは、少なくとも『夕暮れ戦争』の法には反していない。

「話を聞け、『夕暮れ戦争』のことだ」

力が緩む気配はない、むしろその言葉を聞いて、ますます肩関節への痛みが強まるのを感じた。あと少しでも力が強まれば、骨が折れるか関節が外れる。彼女の剣捌きに比べれば、その関節技は幾らか力任せの粗削りで、それ故にもたらされる損傷は酷いものになると分かった。

「私は今まで何百と戦い、殺してきた。そして何度も敗れて泥を舐め、命からがら逃げのびた。たかが一度の戦いで、私がお前達に与するとでも思ったのか」

それは悩むことも躊躇うこともなく、その状況下での最適解を出し続けることだけに特化した『獣』であり、暴力と殺戮という『現象』そのものだ。刀はたった一度斬れないものがあったくらいで、刃が折れるわけではない。炎にだって燃やせないものはあるが、それでも炎は消えることなく、それ以外の全てを燃やし尽くす。

――それだけの執念を、自分は持てているだろうか?

激痛の中で抱いてしまった、そんな想いを捻じ伏せるようにして、ひびきは叫んだ。

「オレも『人喰い道化』に父さんを殺された、魔術師が『夕暮れ戦争』に攻め込んできてるんだ」

ともみと違って、自分の知ることを偽らず全て話す以外に、ひびきは方法を知らない。御岳の眼が僅かに細められ、関節に加わる痛みが少しだけ弱まった。

「お前が、かつて数百の命を奪った個人である『人喰い道化』のことを言っているのなら、そんなものは存在しない」

「……なんだって?」

ひびきは単純に、御岳の発した言葉の意味が理解できなかった。御岳はひびきを放して立ち上がり、ブレザーの袖口から砂埃を払う。それだけで御岳の姿は最初に見たものと何も変わらない、暴力の片鱗さえも読み取れないような物静かな女学生のそれになる。

「お前は『想いの欠片』を廃工場で、『しにがみさま』とやらに渡されたか?」

「そうだ……『しにがみさま』に会った事がないのか?」

その言葉に含まれる微細な違和感に気付いて、聞き返したひびきを無視して、御岳は話を続ける。

「あの『欠片』は魔法使いの条件を満たせば、誰に渡されなくとも勝手に生まれるものだ。『しにがみさま』はお前たちに『魔法』を与えているんじゃない。『夕暮れ戦争』の領域下において、その力を制約し抑えつけているんだ。夕刻にしか変身できないように、そして自分の前でしか魔法の力に目覚めないように」

「一体、なんの目的で」

ひびきが痛む肩を抑えながら立ち上がり、自分を見下ろす御岳を睨み付けようとした。その瞬間、強いつむじ風が吹き付けて、ひびきの髪が吹き上がる。ひびきは御岳の瞳に、少年のような自身の姿が映っているのを見た。御岳の無表情の奥で、得体の知れない感情が蠢いたように見えた。一瞬だけ、自分を通して別の誰かを見ているような。風に遊ばれて癖毛のように跳ねた、短い髪。

「――“オレ”か」

「なんだって?」

凍えるような冷たい風が耳元でごうごうと鳴る。御岳が呟いた言葉を、ひびきはもう一度聞き返すことを躊躇した。御岳の中に生まれた感情がなんであれ、その想いは余りに硬質で。自分なんかが触れようとしたら、きっと跡形もなく砕かれる。そして御岳が次に口を開いた時、その話の内容が余りにも衝撃的なものだったせいで、ひびきはその出来事をすぐに忘れてしまった。

「……私が魔法少女を始めた時には、『扉』や『夕暮れ戦争』なんて無かった。だから魔法少女と魔術師は、同じ戦場で戦っていた。多くの魔法少女は『殺しの魔導』に対抗する術を持たなかったし、何より魔術師は群で行動する。表向きの社会的立場を利用しながら秘密裏に連携することで、敵対する相手の正体を探り出して変身する前に殺そうとする。たとえ人通りのある白昼の往来でも、敵を殺せるなら躊躇なく一般人を巻き込んだ。ルールに反したものを排除する『死神』達が出現するまで、そして魔術師が『扉』の向こうの隔離された戦場で戦うようになるまでの間に、魔法少女も無関係な者も大勢殺された」

例えば太陽、例えば空、例えば自分が今立っている地面のように、『夕暮れ戦争』と『扉』は余りに当たり前に存在していたから、それのない『魔法使いの戦い』などというものを、ひびきは今までに想像したことがなかった。まるで海の向こうの遠い国や、自分の生まれる数十年前の時代に起こっていた戦争の話を聞かされているように、現実感のない話だった。同時に、目の前に居る少女がそれを生き延びた人間であるということも。

「あまりに多くの人間が、あまりに異様な方法で殺された。世界に『魔術師』の存在が露呈するのは、或いは各々の魔術師が犯した罪が露呈するのは時間の問題だった。だから魔術師達は協力して、象徴としての『人喰い道化』を生み出した。被害者達をそれの仕業として処理させて、全ての罪を引っ被らせるための、存在しない殺人鬼を」

「……そんな、こと」

ひびきは決して、復讐のために生きてきたわけではないと思っていた。ただ母と暮らした幸せな一時を取り戻すために、自分は戦っているのだと。それでも声が震えるのを、拳を強く握り込むのを、止めることはできなかった。そして眼前に立つ御岳が発した問いに、思わず頷きそうになった自分に愕然となった。

「『人喰い道化』なんて実在しないと、知らない方が良かったか?」

それを肯定するのならば、今の自分が消沈している理由は、余りにも明白で。それは自分を取り巻く不幸の、明確な理由となるものが居ないと分かったことで、自身が普段から抱いている怒りの矛先を向ける対象を失ってしまったからだ。もしそうだとしたら、その怒りとは自身が普段から抱いている鬱憤が転嫁されたものに過ぎず、鬱憤の原因そのものに対して行動を起こせないことからの逃避だ。

「せめて自分の不幸の元凶が、明確な怒りを向ける悪が欲しかったか。それを憎んでいれば、復讐を果たせない自己を憎むことなく、幸せでない日々でも生きていけたか?」

「お前は……!」ひびきは掴みかかることすら“出来ない、その圧倒的な力量差を見せ付けられているから”。「お前は、『人喰い道化』なんて居ないと知っていたのに、殺し続けていたのか。そんな八つ当たりみたいな、無意味な復讐で」“だから、相手をそう詰ることしかできない。”考えないようにしていた、たった一つの前提条件。それを見透かしたように、御岳は口を開いた。

「――弱いんだな、お前は。自分が生きていくための手段を、自分の全てを奪ったはずの相手に依存している。父親を殺されたのだろう、なら仇自体は存在するはずだ。『人喰い道化』が存在しなくとも、その正体が『魔術師』の隠れ蓑であるなら、この世に存在する全ての魔術師を殺し続けていれば、いずれそこに行き当たる」

それは常識の埒外、善悪の彼岸にある『強さ』だった。その目的を果たすことだけに特化して、躊躇うことも捨てて最適解を出し続ける機械のように。そして殺戮という現象そのものと化した彼女にとって、その言葉は決して絵空事の話ではない。それは認めたくない事実を突きつけるもので、ひびきは無意識のうちに目を逸らしたくなった。憎みながらもどうすることもできない、『諦めた側』に自分が居るということ。全てを投げ捨ててまで復讐を為そうとする彼女のようになれないと、ひびきには分かりきっていた。

「魔術師になっていく過程は段階的なものだ。知っているか?願いなんて無くたって、強い想いを持たずとも、人は生きていけるんだ。人は日々の生活の中から学び、自分に蓄積されていく怒りや鬱憤を、その原因と立ち向かわずに解消する術を得る。表向きは社会に適合したように見える者が多いのは、角が取れたのではなく反撥するだけの熱量を失ったからだ。そして自身の同類を見つけて、何らかのカテゴリー内での『普通』に収まることで逸脱から逃れる。そして自分が抱いた最初の『想い』を忘れ、己や誰かを傷付けてまで叶えたかった『願い』も忘れ、ただ人を傷付けるための『魔法』だけが残る」

御岳鶴来の言葉は硬質すぎるのだと、ひびきは思う。御岳自身の中で導き出された結論と、それを導き出すための推論のどちらか一方しか口にしない。会話にならないほど言葉足らずで、ともすれば決定的な何かがずれている。だから致命的なまでのその『結論』を、ひびきが理解するまでに時間がかかった。

――魔術師が、魔法少女の成れの果てだということ。

それは一番憎んでいるはずのものに、自分もいずれ成り果てるということだ。大人に虐げられ、大人を憎む子供でさえも、いずれ同じ大人になるように。

「お前は考えたことがあるか?『想いの欠片』を集めることはできても、願いを叶えた者の話は聞かない。自分はどこまで、いつまで戦い続けるのか。戦いを止めて日常を受け容れることも、願いを叶えて世界を変えることもできなかった者が、やがて魔術師になる。ただの加齢によって私たちの『魔法』が失われることはないが、遅くても成人の前後には『翼』を失い、対価として『殺しの魔導』を手に入れる。それを『魔術師』と呼ぶ、それだけの話だ」

全身の力が抜けて、ひびきは地面にへたり込む。御岳は表情を変えずにひびきを見下ろして、地面に落ちたままだった参考書を拾って学生鞄を背負い直した。

――根源であるはずの『想い』を失って、『願い』も忘れて、それでも残る『魔法』の正体とは何なんだ?

そんな疑問が浮かんだが、呆然としたままのひびきの頭で考え続けることはできず、すぐに忘れ去ってしまった。そして決して読み取れない感情をその眼に秘めて、御岳がその後に口にした言葉は、ひびきの抱いていた御岳鶴来という人物像からかけ離れたものだった。

「お前達の戦いは、いつかは終わる夕暮れだ。雲にすら触れられそうで、星には決して手の届かない、そんなどっちつかずの戦場だ。今より多くのものを失ってから、叶わない願いを諦めて日常に戻るくらいなら。全てを失ってからも、忘れた願いのために戦い続けるくらいなら。今この場所で、地に足をつけて生きることを受け容れろ」

『夕暮れ戦争』が終焉を迎えずとも、いずれ自分達の戦いは終わりを避けられない。叶わない願いなんて星の数ほどもあるし、御岳のように全てを捨ててまで戦い続けられるほど強くはないと、既に思い知らされている。ならば今の現実を受け入れて、変えられない世界の中で生きろと語る御岳に、ひびきは返す言葉を持たなかった。

――より多くの『想いの欠片』を手に入れるためには、魔法使いの命を奪えばいい。

かつて御岳によって提示されたその選択肢を、ひびきは結局選び取ることができなかったのだ。御岳がそれを語った時のことを思い出して、ひびきは不意に浮かんだ問いを口にする。

「お前が今まで何百と殺してきたって言ったのは、魔術師のことだったのか?」

思い返してみれば、御岳鶴来が明確な殺意をもって襲い掛かってきたのは、ひかりと相対した時だけだった。学祭の時にも負傷者こそ多かったものの死人は出ていなかったし、何より『夕暮れ戦争』でそれだけの死人を出せば『しにがみさま』が動いていたはずだった。

「お前達を殺していれば、魔法少女ではそれが最初になっていた」

その簡潔な答えが、全てだった。ただ今までは殺す理由がなかったというだけで、邪魔する者を殺さない理由もなかったということだろう。だが、その後に続けられた言葉を聞いて、ひびきは再び御岳に問わなければならなかった。

「もう今では、篠崎ひかりを狙う必要もなくなったがな。私は『人喰い道化』という魔術師の業を隠すベールの向こうに、本当に殺すべき仇を見つけた」

「なんだって?一体、どうやって」

「ある魔術師が、それを知っていた。今回の一件に関与しないことが、情報を知る条件だ」

ひびきは御岳鶴来との戦いの後に襲来した、氷の翼を偽装した魔術師のことを思い出す。そして『扉』の向こうに連れ去られたという御岳が、その後も変わった様子もなく学校に通い続けていたということ。あの魔術師との間で、自分達の知り得ない交渉があったのだろう。

「魔術師を殺し続けていたお前が、魔術師の味方をするのか」

ひびきは信じられない気持ちで、用は済んだとばかりに歩き去っていこうとする御岳の後姿に声を漏らした。自分よりも何年も前からずっと一人で、ただ魔術師を狩るためだけに狂気的な意志で戦い続けていた『魔術師狩り』の少女。彼女がそれに与するということが信じられなかったし、その理由が分からなかったのだ。

「お前は、最初の『想い』を覚えているか?今この瞬間の感情とも、戦って叶えたい『願い』とも違う、己の行動の、全ての動機となるものだ。それさえ忘れていなければ、誰を殺すか、誰に与するかはその結果に過ぎない」

「……最初の、想い」

ひびきは今まで自分が『願い』を諦めて、立ち止まってしまうことだけを恐れていた。それは自分のこれまでの戦いと、犠牲にしてきたものを否定することになるから。届かない星を見上げ続けるくらいなら、ただ彗星のように真っ暗な宙を翔び続けて、そのまま燃え尽きてしまえばいいとさえ願っていた。

どうしてそう願ったのかさえ省みることなく、そして自分の『想い』がなんだったのかなんて、思い出そうともせず。そうして数年間戦い続けて、ひびきは自分がもう、何処から来たのかも思い出せないくらい遠くに来てしまったのだと思った。そして何処へ辿り着こうとしていたのかさえも、忘れてしまったのだとしたら。

「それを思い出せなくなった時に、魔法少女は翼を失って魔術師になる。もしお前が『想い』を失った燃え滓になったなら、復讐のついでに私が終わらせてやる」

今度こそ足を止めず、御岳は歩き去っていく。『夕暮れ戦争』の行く末に関わらず、彼女がその地へ足を運ぶことは二度と無いだろうと、ひびきは思った。雲にすら触れられそうで、星には決して手の届かない、そんなどっちつかずの戦場。御岳の語った言葉は、ひびき一人では背負いきれないものだった。


――夕暮れはじきに終わる。


道の両脇の街灯が灯り始める。凍える寒さだけは変わらないけれど、まだ仄かに空は紫のままだ。ひびきは白い息を荒く吐きながら走っていた。そこは数日前にともみとひびきが別れた場所で、約束もしていないその場所へ足を向けたのは、あの公園に留まり続けることが我慢できなかったからだ。ともみが居るとは思ってなかったし、明日くらいに情報を伝えるため、どうにかして学校帰りで捕まえるつもりだった。

「お互い、ここに来ると思ってたみたい」人気のない路上にぽつんと立つ人影を見て、ひびきは思わず目を疑う。前とは違うコートを羽織って、マフラーを巻いた制服姿。「前は集合場所も伝えずに悪かったわね、会えなかったらどうしようかと思ったわ」

ひびきにとっても、今あった出来事を共有できる相手が居るのは幸運なことのはずだった。だが、ともみらしくない殊勝な言葉に、嫌な予感だけがどんどん膨らんでくる。ひびきより先に、ともみが口を開いた。

「この街で最初の失踪者が出たわ。佐々木しおんって名前の隣町からの転校生で、わたしが聞き込みをした日の晩に連れ去られたみたい」


――


「わたしが隣町の連続誘拐事件について彼女から話を聞いた翌日、彼女は登校していなかった。なんとも嫌なタイミングだったから、盗み見した住所録から辿った家に実際に出向いてみたの。その晩家に誰も居ないのは確かだったから、失踪の可能性の方が高いわね」

「通報したりして、裏付けは取ってないのか?」

「私は誰にも伝えていないけど、じきに明らかになるわ。警察は失踪後七十二時間経つまで捜査しないけど、それとは別に手ぐすね引いて誰かが消えるのを待ってる連中が居る」

「誰なんだ、そいつは」

「『美化委員会』って連中よ。魔術師のこれまで起こした事件をどういうわけか勘付いていて、それを予防するための名目として街の治安改善を謳っている。早期下校とか見回りとかが効果のある相手かどうか分からないし、まだ『魔法』そのものには気付いていないみたいだけど。でも誘拐事件なんて起きたら、待ってましたとばかりに権限を拡大しに来るわ」

ともみの言葉には、相変わらずこちらに伏せてある情報の欠片が見て取れた。けれど敢えて気にしないようにして、ひびきは先刻の会話を余さずともみに伝えることにした。

「交換にこっちも話す、事件自体と関わりがあるかは分からないけど、情報は沢山手に入れた」

実のところ、それを話したのは『魔術師とは魔法少女の成れの果てである』という事実をひびきが引きずってるからに過ぎなかった。事件についての手掛かりの提供というより、その事実を誰かと共有せずにはいられなかったのだ。だからひびきは自分が話している最中の、ともみの表情の変化に気付かなかった。

「……とても多くの手掛かりね。ひびき、よく役目を果たしてくれたわ。わたしの『隣町の誘拐事件』の情報と、あなたの『夕暮れ戦争と魔術師』についての情報、一人の調査だけでその両方を知ることは不可能だったわ」

『魔術師』の正体について聞いた時、ともみに大きな動揺は見られなかった――まるで、そんなの些末なことだとでも言いたげだった。ともみの思い詰めた表情を見たひびきは、彼女がなにか決定的なことに気付いたようだと思った。

「陸號、なにか分かったのか?」

「あなたはもう自分で答えを言ったわ。魔術師はほとんどが社会的地位を持った大人で、そして複数人で連携するって」

「紛れ込んでるって一人以外は、『しにがみさま』が押さえてるんじゃなかったのか?」

「そう、日常に潜んで魔法を行使する魔術師は一人しか居ない。だけど『物理的に攻め込んで』来ない相手は、一人じゃなかったってこと。『夕暮れ戦争』を壊すのに、魔法なんて要らなかったのよ」

断定的なその口調。ともみの中で、予想より遥かに強固に、そしてろくでもない推理が組み上がっているようだった。思わずともみの肩を掴んで揺する。

「いい加減に全部教えろ、一人で終わらせられる話じゃあないんだろ」

「ええ、隠す必要なんて無かった、最初から敵は全部知っていた」

ひびきの肩を掴んだ手を振り払うこともなく、ともみは声の調子を変えないまま静かに言った。

「忍び込んだ魔術師は、一人で『夕暮れ戦争』をどうにかようとしてるわけじゃなかった。一人の魔術師が日常に紛れて魔法を使うことで、『美化委員会』はその予防と称してどんどん勢力を拡大できる。美化委員会と連続誘拐事件は、全部一つの目的のためのマッチポンプ。『大人』による、夕暮れ戦争の完全なる支配のための」

「……グルだってのか、連続誘拐犯とその美化委員会って連中が」

寒さのせいだけではない、じわりと背を這いのぼる冷気は、急に読み取れなくなった『魔術師による夕暮れ戦争の侵略』の構図と、それを把握しているであろうともみの、表面上は平静を装ってるけれど、隠しきれていない焦燥と絶望感のようなもの。そしてひびき自身の、気付いた時には取り返しのつかない場所まで追いつめられていたという予感によるものだ。

「『夕暮れ戦争』というシステムや、『しにがみさま』と直接対決を行わなくとも、その参加者である子供達を日常の側から全て管理下に置いてしまえば、『夕暮れ戦争』は思うがままになる」

社会的な権力によって『夕暮れ戦争』を支配できるという可能性を、今まで考えたこともなかった。それに対して『魔法』を使って反抗するわけにもいかないし、自分達は日常の側ではどうしようもないくらい非力で、社会に対して言いなりになるか、反抗することで輪から弾き出されるかしか選べなかった。

――自分達は今まで、『魔法』を使うことで、ようやく世界と戦えていたのだ。

抱いた苦しみの対価として与えられた、愛とか勇気とか友情でどうにかならないもののために行使される力。だから自分達は決して世界にとっての善や正義なんてものではなくて、ただ誰にも知られないことでだけ存在を許される幽霊のようなもの。もし日が当たれば、たちまち消え去ってしまうような。

「すでに敵は、想像以上に侵攻していることになるわ、今までの大人達の連続誘拐事件に対する動きは、全て『夕暮れ戦争』の侵略を目的としたもの。存在しない『人喰い道化』を名目に、設立された『美化委員会』。あなたが見たっていう公園での踊りや音楽を禁止する貼り紙だけじゃなくて、『駅向こう』の廃ビル群や廃工場にも立ち入り禁止のフェンスが立てられてる。そして早期下校とPTAの巡回によって、魔法少女が変身できるような時間の隙間や、人目につかない場所を潰していく。そして全生徒が家に帰っているかどうか、学校に来ているかどうかを監視することができれば、誰が魔法少女なのかも把握することができるわ」

『夕暮れ戦争』の終焉という、相手側の思い描く計画がこの上ない解像度をもって判明する。『侵略』とは、破綻させるのではなく明るみに出すこと。学校に通っていなくて何処かを歩き回っているひびきみたいな子供や、放課後に部活もないのに遅く帰ってくる大多数の魔法少女である生徒。親の無関心や放任、何らかの事情で明るみに出ていなかったものが、その制限の中で曝露される。これから変身することを控えたとしても、誰が魔法少女なのか知られてしまう。

「――『夕暮れ戦争』を魔法を使わず支配して、その後はどうするつもりだ?」

ひびきは、目の前の相手に答えを求められるはずもなく、けれど呟かずにはいられなかった。確かなことは一つだけだった。居場所を失った子供達による『夕暮れ戦争』と、魔法少女の織りなす夕景の星空。ひっそりと抱いた、言えない苦しみ、明かせない傷痕。寄り添う事も、混じり合うこともなく、ただ同じ空に輝き続ける痛みと悲しみ。その星の輝きは、あまりに儚く、ささやかなもので。暴力的な正義によって、それを白日のもとに曝してしまえば。きっと輝きは失われて、二度と戻らない。

「『連続誘拐事件』が『美化委員会』と同じ魔術師の勢力による純粋なマッチポンプなのか、別勢力の魔術師によるものなのか分からないけど、しおんの失踪が美化委員会側にとって予想できていた機会[チャンス]であったことは確かね。一人目の失踪者が出たことによって、事件が終息するまでと称してどんな強硬策でも採れるようになる」

ともみは冷静なように見えたが、そんな状況慣れっこだとでも言いたげな振る舞いが、本心のものなのかどうかは分からなかった。ともみは空を見上げて、微かに震える白い息をはく。つんとした鼻を上げて、背を反らして夜空を見上げる姿は、これから襲い掛かってくる『世界』そのものに対して、戦うことが当然と思っているようだった。

「きっと明日くらいにはしおんの失踪を明るみに出して、指定された通学路以外を使わせない集団下校くらいはやると思う。今日会えなかったら、お互い会うのは難しくなっていたわ。でも会うのは今日で最後よ、あんたも学校のある時間帯に『こっち側』を歩いてたら補導されるわ。『駅向こう』の隅々まで巡回するには人手が足りないと思うから、騒ぎが終わるまでは隠れていればいいわ」

「お前はどうするつもりだ」

「知っている人間の中で一人だけ、誰が『美化委員会』と繋がりがあるのか分かったってだけよ。もしかしたら魔術師かもしれない、わたしはその相手を捕まえる――お願い、あなたは来ないで、絶対に」

ひびきが次にいう言葉を見越したように、ともみは最後にそう言った。それ以上の質問も、説得も決して受け入れないような、頑なな瞳をして。ともみは弁が立つから、言い合って説き伏せられるとも思わなかった。けれどひびきは、足早に立ち去っていくともみの後姿に、問い掛けずにはいられないことがあった。

――お前はなんのために嘘をつくのか、なんのために本当のことを隠すのか、自分で覚えているのか?

それを失った時に魔術師になるという全ての動機、最初の『想い』を。


――


ひびきが街路の向こうに見えなくなったのを確認した時には、ともみは既に走り出していた。本当はひびきと話している間も、居ても立っても居られなかったのだ。高いコートが汗で蒸れて、慣れない生身の運動で脇腹の辺りが痛くなる。ともみは自宅の前まで一息に走り抜けたあと、冷たい空気に満たされきりきりと痛む肺を押さえて、マフラーを口許に当てて息を暖めた。

魔術師は群で行動する。日常でも表向きの立場を利用しながら、秘密裏に連携することで相手の正体を探り、寝首を掻こうとする。ひびきからその情報を聞くことができなかったら、自分が話した翌日にしおんが失踪したという事実から、彼女への疑いに繋げることはできなかっただろう。

ともみは暮町中学で『大人側と子供側のパイプライン』として、生徒にしか知ることのできない事情を教師に伝え、自ら模範として先に立つことで生徒を動かすことのできる少女を知っていた。


――人から愛されたいのなら、自分から愛されるような人間にならなければならない。

――何かを求めるのなら、その前に自分が何かを与えなければならない。


そんな言葉を、ともみは耳にしたことがあった。道徳の授業でそう語った教師は、けれど今のともみの事を、ただ厄介な生徒として扱っているようだった。そして、ともみは生まれてから一度も、自分が愛されていると思ったことはなかった。人肌の温もりと自己の肯定と、少なくとも自分の与えられていないものが、ともみにとっての愛だった。誰も彼もが己の欲望と目的のために周りに居るだけで、少なくとも味方なんてものは最初から居なかった。

けれど、だからこそ、ただ一人だけ。誰も信じられないとしても、同じ『誰も信じられない世界』を分かち合うことのできた相手である妹のことを、ともみはかつて己の半身のように思っていた。同じ日に生まれた、自分そっくりの姿の妹で、小学生のころの彼女は家の中でも、教室の中でも小さく背を曲げて、ともみの後ろにひっついているのだった。

妹はとても臆病で、誰かに向かってなにかを要求することができなかった。だから、ともみが本当の願いを言わずに、言葉によって誰かを動かそうとした時には、それは同時に後ろについてくる妹の要求の代弁でもあった。ともみはいつも、妹の前に立って何かを要求する役割を担っていた。

みともは小学校の高学年になるまで夜尿が治らず、朝にシーツを濡らしては打[ぶ]たれることを繰り返していた。思えば、それがみともの『何かを求めることができない』病状の原因だったのかもしれない。朝起きてシーツが濡れていた時に、親にそれを知られたら失望と嫌悪の目で見られ、その後打たれる。知られてしまったら、悪いことが起きる。何かを求めれば、助けを求めれば、失望され、嫌われ、折檻される。そして、わたし以外には『トイレに行きたい』とすら言えなくなった彼女は、授業中や、それ以外の時にも、わたしの服の裾を掴んで泣きそうな瞳で助けを求めてくるのだった。

「ねえ、お姉ちゃん」わたしは、あどけない声で、そう呼びかけられた時の鼓膜の震えを、今でもはっきりと覚えている。わたし達はよく、明かりを落とした寝室で、親に夜更かしを知られないように声を殺して語り合ったのだ。「『愛される』って、なんだろうね?」明かりを落とした部屋で、涙に濡れた黒目が、口元までを覆い隠した布団から覗いていた。わたし達は、それに飢えている。わたし達にとって、それだけが、愛というものについて定義できることだった。それのされ方も、仕方も分からなかった。そして、何度もその問いについて言葉を交わし続け、ある日、一応の結論が出たのだった。

「きっと、わたし達、居ていいよって、生きてていいよって、そう言ってもらえればいいだけなのよ」

そう言ったのは、みともだった。

「わたしが、わたしであるって理由だけで、他に何もしなくたって、期待に応えたり、なにかをあげたりしなくたって、そこに居ていいよ、生きてていいよ、って」

一度だけで良い。一瞬だけで良い。そう言って、優しく抱きしめてほしい。そして、それが如何に絵空事であるかも、お互いに、よく知っていたのだった。「きっと、わがままなのよ、わたしたち」「きっと、そうね」それ以来、二人で『愛』について語り合うことはなくなった。そして最後に、眠りに落ちる前、みともはこう言って笑った。

「無償の愛なんてないとしたら、愛のために払えるものがない人は、一生愛されないままね」

「ねえ、お姉ちゃん。わたしは、愛されるように頑張るわ」


――わたし達は歩んできた人生、観てきたものと積み重ねられていく記憶も、常に一緒だった。


「姉さん、早期下校するようにって学校から言われたばかりでしょう?父さんが怒っていたわ」

既に帰っていたみともが、息を切らして扉を開けたともみを見上げてそう言った。みともは持ち帰りの仕事らしい書類がいくつか広げられた机の前に座って、黙ったまま立ち尽くすともみに、思い出したような様子でこう質問してきた。

「佐々木しおんが今日休んでたみたいだけど、会った時に何か変なことしなかったでしょうね?」

「……ただ『隣町の誘拐事件』について話をしただけよ」

ともみは彼女が自分と同じように、自身の知りたいことを知られないように、本筋を避けて何かを聞き出そうとしていると思った。ふぅん、とどうでも良さそうに聞き流した後、みともは白々しくこう切り出した。

「佐々木しおんの家に連絡が取れないらしくて、もともと面談にも来てくれないような親だったから、何か知らないかって先生に相談されたの」

あの話を語ったしおん自身もまた、ある意味で『孤立した子供』だったのだ。本心から心配してくれる友人が居るかどうか、ともみはそう思った。

「家族のことは聞いてないわね、話したくなかったんじゃないかしら……ねえ、みとも」

「なに?姉さん」

ともみは改めて、目の前の少女の姿を見た。いつでも自分の後ろをついて歩いていた、ともみの前でだけあどけない笑顔を浮かべていた『あの頃』から、どうしようもない速度で変わり続けていく妹の姿を。猫背だった身体も真っ直ぐに伸ばして、自分と同じだった柔らかな長髪を今では横に結び、いつだって何かに怯えていた瞳の奥にあるものを、もう自分は知ることができない。

「みとも、あなたが『美化委員会』と繋がっていたのね」

互いが互いを嘘つきだと知った間柄では、表向きの言葉というものは殆ど価値を持たなくなる。本当のことを言うのに得がないのなら、いくら追及されても嘘を貫き通すだけだろう。そうだとしても、ともみはそれを口にせずにはいられなかった。

「……なんのこと?」

怪訝そうに眉をひそめるみともに、ともみは構わず質問を投げ掛ける。

「佐々木しおんを攫わせるために、あたしを彼女に会わせたの?」

佐々木しおんが失踪したと分かった時に、ともみは一つ疑問に思ったことがあった。何故自分が彼女に会ったその日に、しおんは誘拐されたのか。

――佐々木しおんは何処で魔法の『条件』を満たされた?

直接当人が満たす必要のない条件なんて幾らでもある、例えばひびきの脆化が発動するためにともみが剣を突き刺しても構わないように。佐々木しおんの存在を教えられた時、目先の目標が達成されたことに気を緩めて、しおんを紹介したみともの意図を読むことを怠っていた。

「佐々木しおんは昨日まで学校に来てたんでしょう?なぜ誘拐だと……姉さん、あなたは何を知っているの?」

ともみが思ってるより深く今回の事件に関係してるらしいことに、妹の側でもようやく思い至ったようだ。自分達は、お互いがお互いについて甘く見過ぎていたのだ。みとも自身に誰かを攫ったり、それを幇助する動機があるとは思えない。けれど周囲に愛されるような『良い子』であるためになら、みともは躊躇なく大人達に従うのだろう。『攫う』こと自体に目的はないとしても、そのために一人の生徒がどうなろうと関係ない。

「あなたは自分が『良い子』として扱われるためになら、なんだって犠牲にできる。一年前の『扉』の時、あたしを裏切ったのと同じように」

みともの表情が、目に見えて変化する。しおんも噂として知っていた『あの事件』こそが、二人にとっての隔絶そのものだった。ともみが居場所を失って、みともが今のみともになった、『扉』を巡る一連の騒ぎ。

「……誰が裏切ったですって?あなたが、」

「あんたにはあの時、既に『扉』が見えていた。それなのに『扉』なんて見えない、って今までずっと嘘をつきとおしていたんだわ」

みともが声を荒げて言い返そうとする、それをかき消すような声でともみは言った。みともが思わず言葉に詰まり、息を呑むのが見えた。あの時、最初に『扉』へ向かうと言ったのは、妹だったのだ。既に『扉』が見えていたとしたら、それは『魔法』の資格を持つ者だということだ。

ほとんどが大人であるけれど、子供でそれになっている者が居ないわけではない、例えば篠崎ひかりのように。そして心に壁を張りめぐらせ、偽りの振る舞いによって社会に溶け込んでいる。ひびきに聞いた話を思い出しながら、制服姿のみともを見る。彼女自身で早期下校と言ったわりに、また遅くまで学校に居たようだ。それに前までも、生徒会長としての仕事でかなり帰宅が遅くなることが多かった。

――みとも。あなたが遅くまで居たのは、本当に学校なの?

その問いを言葉にしたところで、返ってくる言葉を信じることなどできるはずもない。だから代わりに、ともみはみともに向かって静かに語りかけた。

「……わたし達は、最初からずっと一緒だった。ヒトを利用することしか考えていないことも、誰も信じられないから本当の願いなんて絶対に言わないことも。ただ私はあなたのことを半身だと思っていた、ずっと一緒だと思ってた」

けれど彼女は、自分のことを一度として半身だなんて思ったことはなかったのだ。分かりきっていたことじゃないか。それを一度でも、二人で心を通わせた温かな記憶として認識した事があったのは、自分一人だけだったということだ。

≪peacock’s fowl≫

部屋の中に響き渡る電子音声、辺り一面を照らし出す『想いの欠片』の光にみともが目を見開く。最初から、そうすることは決まっていた。ひびきの言う通りなら、『夕暮れ戦争』が中断されている今、夕刻以外での変身を制限していた『ルール』の効力も失っているはずだ。みともが『美化委員会』に属しているだけの普通の人間なら尋問するだけでいい、もしも『魔術師』であったなら戦うことになるだろう。お互いが決して本当のことを言わないのなら、真実を確かめるにはそうするしかなかった。

≪set up≫

『あの時』のことを、ともみは今でもはっきり覚えている。それは失われた温かな記憶の、最後の一つだったからだ。色々な習い事の予定も全部すっぽかして、学校帰りに二人で廃工場へと歩いて向かったこと。夕暮れの街並みと繋いだ手の感触、墜ちていく陽の眩しさと、怪物の死骸のようにそびえ立つ廃工場。手を引かれるみともが、空を見上げて眩しそうに目を細める。たった一人の半身、守るべき大切な妹、わたしは彼女の手の温もりに、心を安らがせる。

それから間もなくして温かな記憶なんて全てが嘘で、通い合わせた心なんて最初から存在しなかったことを思い知らされた。己さえも愛することができない者が、己の半身に対して抱く感情が愛などではないことを。わたし達が二人で廃工場に向かったその日、わたしは半身である妹を失ったのだ。


――


≪night maker≫

≪set up≫


――


暮町中学の保健室は明るい木目調の床になっていて、消毒液臭い真っ白な病室とは雰囲気が違った。一方の出入り口は運動場から怪我人をすぐ連れてこれるように外に面していて、そこからは朝の眩い陽射しが差し込んで、自分から少し離れた場所で、自分の知らない誰かの日常が送られていくのが聞こえてくる。

ひびきは一年ぶりに着た制服のスカートの慣れない感覚に、自分がその場所に居るのと同じくらい落ち着かない気持ちになる。本当はただ座っているか寝るだけしかできない此処は退屈だったけれど、なんでもないような顔をして自分の教室に入っていくのは、悪いことをしたつもりがなくても気が引けるのだった。

「東大寺さんね。ひさしぶりの学校で、困ったことがあればなんでも言ってね」

白いベッドに腰かけるひびきに、保健室に居た白衣の女性が優しげな声をかける。今日ひびきと言葉を交わしたのは、その『養護教諭』という役職名を持った彼女だけだ。あとは一限目が始まってそう時間も経っていない時に、自分より下の学年らしい生徒が、膝を擦りむいたとかで大きな絆創膏を貰いにきていたくらいだった。

「本当は、担任の先生とかもお話に来てくれるんだけど……なんだか今日は慌ただしくて。誘拐かもしれないなんて、物騒よねぇ」

ひびきは既に、暮町中学から二人の失踪者が出たらしいことを聞いていた。そのうちの片方が聞き慣れた名前だったので、ひびきは微かな絶望とともに、養護教諭の人に気付かれないように舌打ちをした。わざわざ『保健室登校』という手段をとってまで暮町中学に来たのは学校に通い始めるためにではなく、ともみの言った『美化委員会』の監視があっても連絡が取り続けられる唯一の方法だったからだ。

けれど当初の目的が果たされることはない――ひびきは先日ともみと交わした会話を、その思い詰めた表情を思い出す。ともみは一人で全部終わらせようとして、そして失敗したのだ。もう『美化委員会』も『連続誘拐の魔術師』も、完全に動き始めている。朝礼ではしばらく部活も中止しての集団下校がアナウンスされたらしく、ひびきが学校に来るときも登下校指導とかいう名目で駅前から暮町中学までの道中に点々と教師が立っていた。

――せめて、ともみが最後に掴んだ手掛かりを知らなければ。

このままでは、ともみの隠していた解決への糸口が、全て闇に葬られてしまう。そんな事を考え歯噛みしていたひびきの背に、遠慮がちな声がかけられる。

「ねえ、東大寺さん」

「……なんですか」

無視するわけにもいかず振り返ると、養護教諭の女性がじっとこちらを窺うような眼をしていて、言葉を選びながらといった様子でこう口にした。

「あのね、スカートが嫌なら、男子用の制服を使ったって構わないのよ?過去にもそういう人は居たから、あなた一人だけがそうだってわけじゃないの」

ひびきが言葉の意味を理解したのは、一瞬遅れてからだった。そして強く言い返しそうになったのを咄嗟に抑えて、ひびきは顔を逸らす。

「――別に、そんなんじゃない、です」

自分が嫌なのは、自分に向けられる眼であって、自分のさせられる格好じゃない。それは不用意にひびきの内側へ踏み込む言葉で、けれど自分への思いやりから出たものだと分かっていたから、撥ね退けるわけにもいかなかった。そして折よく昼休みの始まるチャイムが鳴ったので、ひびきは一礼して保健室を出ることにした。


学食に向かう生徒たちの流れに逆らって、ひびきは昼休みの賑やかな廊下を歩いていく。周囲の人でごった返す喧騒は『駅向こう』の繁華街のそれを消毒殺菌したようなもので、ただ街中と決定的に違うのは、ここに居る自分以外の全員が、ここに居る誰かと友達だということだ。

けれど人ごみの中に混じって他の生徒と同じようにしていれば、歩いているだけで後ろ指を指されたり、妙な視線を向けられることもなかった。もともと学年内でも言葉を交わしたこともない他人の方が多いのだから、一人くらい見知らぬ人間が混ざっていたって誰も騒いだりしないのだ。世界は良くも悪くも自分に対して、思ったより無関心なのかもしれない。ひびきは三年生の教室が並ぶ階に向かいながら、そんなことを考えた。

「ああ、陸號ともみだろ?三組だったかな」

三年生の廊下についてから、近くを歩いていた生徒にともみの事を聞くと、最初の一人目でともみのクラスまで分かった。「でもあいつが帰ってきたらすぐ分かるよ、また前みたいな騒ぎになるだろうしな」ひびきは、その三年生が続いて吐いた笑い混じりの声に、何か仄暗いものを感じた。それは腕から背中にかけて皮膚がこわばるような、嫌な寒気だった。

そして、ひびきは三組の教室の出入り口まで辿り着いたところで、途方にくれることになった。教室に残って弁当を食べたり話したりしている上級生、その中の誰に、どう声を掛ければいいのか分からなかったのだ。ひびきにとっては久しぶりの学校で、ここ一年くらい家族と数人の友達を除けば誰かと話すこともなかったし、さらに上級生に話しかける理由が誘拐のこととなれば、自分は不審者そのものだ。

「ねえ、きみ」

教室の中を窺いながらうろうろしていたひびきは、唐突に後ろから声をかけられて思わず飛び上りそうになる。慌てて振り返ると、上級生の一人らしい少女が、こちらを覗きこんでいた。彼女は何処かから戻ってきたのかノートを小脇に抱えて、うなじを隠すくらいの長さの髪とフレームの赤い眼鏡が知的そうな佇まいをしていた。

「どうしたの?何か困ってるなら、聞かせてもらっても良いかな?」

少女はひびきと目線が合うように少し膝を曲げて、警戒させないように笑顔を作っていて、どうやら小さい子と話すのに慣れているようだ。けれど少女は前髪に隠れたひびきの顔を覗きこんだ後、ちょっとだけ呆然としたような表情で固まってしまう。ひびきは彼女の眼に映っているのが自分のアイスブルーの瞳だと分かって、いつもながら居心地の悪い思いをした。

「あー、あの、陸號ともみって人が通ってたの、このクラスで合ってますか」

ひびきがそう口に出すと、少女ははっと我に返った後、今度はちょっと困ったような顔になった。もしかしたら誘拐の件で、他の教室から興味本位の生徒がよく来ていたのかもしれないと、ひびきは今更ながらに思った。

「うーん、そうだけど。どんな用で来たの?」

どんな用、と聞かれて、ひびきはまた言葉に詰まる。嘘は苦手だった。知られたら困ること、言いたくないことを伏せた上で、後は本当のことを話す以外にできないのだ。黙り込んだひびきを見て、上級生の女子はちょっと思案した後、また笑顔を作ってこう言った。

「言いたくないことは聞かないよ。でも、教えてくれれば力になれるかも」

「……ともみは、なんで誘拐だってことになったんだろう?って思ったんだ。その、陸號さんとは、昨日の帰り道で会って話したところだったから」

ひびきは目の前の女子が、年下との話し方をよく心得ているらしいと分かって助けられたような気分になった。彼女は単純に、『相手が話すきっかけ』になる問いかけをするのが上手いのだ。

「あー、あの子のとこ、すごい金持ちで市長もやってる家だからね。居なくなるたびに親が万が一のことがあったらって騒ぐから、学校側も重く受け入れざるを得ないんだってさ。だから、たぶん誘拐とかじゃないと思うよ」

ひびきには、ともみが誘拐だと思うだけの理由があったのだけれど、それを口にするわけにはいかなかった。上級生の少女はそこで素に戻ったように、ちょっと愚痴っぽい様子で続けた。

「でもそのせいで集団下校だし部活まで中止してさ、今が大会とかある夏じゃなくて良かったよ。下級生の子は本当に行方不明らしいけど、ともみは前のがあるからね……その日家でなんかあったらしいし、悪くてまた家出ってくらいじゃない?」

「わ!ちょー美人じゃん、カルナいつ知り合ったんよ?」

そこまで言い終わったところで、少女は急に後ろから抱きつかれて眼鏡を落としそうになった。カルナと呼ばれた少女の肩越しに、友達らしい別の女子がひびきの顔を覗きこんでくる。「こら危ない、前に眼鏡割ったの忘れたの?あと、この子は初対面!」「カルナってば本当に年下には節操ないよね、ジゴロってやつ?」「う、る、さ、い!」急に賑やかになって思わず後ずさろうとするひびきに、友人の方がカルナに頬をつねられながら、なんでもないような顔で「あ、この子の名前ね。逆凪[さかなぎ]ルナだから、略してカルナって呼んでんの」と紹介する。ひびきからも一目瞭然なくらい、目の前の二人は仲が良さそうだった。

――それは自分の送らなかった、楽しそうな学校生活の一場面で。

――そして、まるで事件なんて起こってないような、つつがない日常の中の一幕で。

ひびきは、誰もともみのことを心配なんてしていないのだと、ようやく気づく事ができた。

「……その、陸號さんと友達かなんかだったりする?」

ひびきの様子に気付いたカルナが、遠慮がちな声をかける。「それとも何か貸したままだとか用事があったとか?だって凄く焦ってるし、深刻そうな顔してる」ひびきは答えることができなかった。自分もまた、決して心配からともみの行方を探そうとしているわけではなかったし、『夕暮れ戦争』で繋がった奇妙な間柄を『友達』と呼ぶのも抵抗があった。

「へぇ、陸號の姉さんの方と友達なの?」カルナの友人は二人の沈黙を気にした風もなく、興味津々といった様子でひびきに話しかける。「あの子自分から友達探しに行くタイプにも思えんのだけど、まあ下の学年なら気が置けない間柄になれたりするんかな、ねえカルナ?……あだっ」

「空気読め、このばか」友人に軽く拳骨を入れて押しやってから、カルナは改めてひびきの方に向き直る。少しだけばつが悪そうに笑って、カルナは口を開いた。「……まあ、そうだね。わたしも前は、あの子とよく話したりしてたんだけどね、小学校同じだったから」

ともみが学校での話を口にすることはなかったし、ひびきが聞こうとすることもなかった。けれど、ともみが教室内でどういう立ち位置だったのか、今の二人の会話でどうしようもないくらい明らかになってしまっていた。

「別に、あの子がいじめられてたとかじゃないっていうか、誰も仲間はずれにしようとしてたわけじゃないの。陸郷のお姉ちゃんの方だけ、中学に入ってから何か変わっちゃってさ。みんなのこと遠ざけて、あの子の方が一人で孤立していったんだ……もし仲良くなりたいって本当に思ってるなら、もし自分から話しかけるのが難しくてもさ、話しかけられた時に邪険にするわけないじゃん?」

きっとカルナの口にしていることは、どれも嘘ではないのだろう。ひびきは、ともみと二人きりで話した時に、カルナと同じような印象をともみに抱いていたことを思い出した。

――色んな人になれるのに、何故相手に好かれるような人を演じないのだろう?と。

誰にも立ち入らせまいとする、ともみの頑なな拒絶の言葉。まるで周囲のあらゆるものを敵とみなして、世界の全てに背を向けるような。そうしたのは、どこまでも彼女自身だ。けれど、彼女にそうさせたのは、一体なんだったのか。

「学年が上だと、どんな人でも大人っぽく見えたりするかもしれないけどさ。でも、あなたは今まで、あの子になにかをしてもらったことがある?」

カルナは少し考えた後、真剣な表情でひびきに言った。それは例え不快に思われて、自分が嫌われたとしても構わないと、本心からの優しさと心配でされたような問い掛けだった。その問いに、そしてカルナの思い遣るような表情に、黙って顔を逸らすことでしか、ひびきは応じることができなかった。

――当たり前だけど、此処に居る人たちは、みんな自分の生活をしている。

授業を受けて、休み時間は友達と話して、放課後に部活をして、家に帰ったら宿題とか趣味の時間。そうやって組み上げられてきた生活の中に、親しくもない他人のために差し出してやれるような時間の隙間や心の余裕なんてあるはずもない。まして此方が割いた時間や心を、相手に無碍にされる可能性の方が高いなら、歩み寄るべき理由なんてあるはずもないのだ。

「なんで探してるのか分からないし聞かないけど……でもまあ大丈夫だよ。どうせ前みたいな家出で、少し待ってれば、すぐ帰ってくるって」

それが自分を心配させないために発された言葉だということが理解できたから、ひびきは取り敢えず、その場では頷いて信じたふりをすることにした。そしてカルナの口にしていた『前の家出』とやらについて聞きたくもあったけど、一刻も早くこの場所を離れたい気持ちが勝った。ひびきはカルナに見送られながら足早にそこを立ち去って、抜け出してきた保健室へと戻る道のりを急いだ。

カルナ達は仲が良さそうで、ともみに対して能動的な悪意なんて抱いていなかったし、そのクラスの輪の中に招き入れようとした者が誰も居なかったわけじゃないのだろう。そして消えてせいせいするとか、帰ってくるなとも思ってない。ただ、少なくとも大多数にとって、良くも悪くも自分の生活がつつがなく続いていくなら、それ以外のことをしようとは思わないのだ。まして誰かの失踪なんていう何もできないような出来事について、何かできることを探そうとする程の事ともなれば。


ひびきが保健室に戻ったのと入れ違うようにして、ひかりは昼下がりの学校の裏門をくぐった。ここまで送ってくれた母の車を降り立った時、一週間ぶりに浴びた冬の日差しを眩しく感じて、ひかりは思わず目を細めた。ずっと家の中で安静にしていたから、外に出るのも久しぶりだった。

賑わう廊下を抜けて自分の教室の前に着いた時、ひかりは扉の窓から教室の中を覗きこんだ。そして少し経ってから、ひかりが扉を引き開けようとするよりも早く、教室で弁当を食べていたリノンとつばめが、椅子をがたんと揺らして勢いよく立ち上がった。

「……ひかりっ!?」

つばめが珍しくちょっと裏返ったような声を出したので、教室に居た他の生徒たちも入り口の方に目をやった。そこにはいつも通りの、所在なさげな落ち着かない仕草の、当人のことでも部外者のように興味のなさそうな表情の、篠崎ひかりが立っていた。

「ひかりぃ~……」

ひかりは教室の中へ踏み込むよりも早く、真っ先に走り寄ってきたリノンに抱きつかれる。「どうしたの、リノン?」ひかりは目を丸くして、胸元に顔を埋めてきたリノンを見下ろした。鼻をぐすぐすいわせて、リノンは泣いているようだった。

「どうしたの、じゃないよもう!急に体調不良で学校休むって連絡来て、それから一週間も来なかったんだから、誰だって心配するよ!」

「ああ……心配かけてごめんね、二人とも」

ひかりはようやく合点がいったようで、いつも通りの笑みを浮かべる。御岳との戦いの後に倒れた時のことは火ヶ理が上手く誤魔化してくれたようだけど、最初の襲撃で休んだ時の理由は曖昧にしか学校にも伝えられていなかった。そしてひかりは御岳の最初の襲撃からずっと学校を休んでいたから、つばめ達はひかりの欠席の理由を、最初の曖昧な理由でしか知らなかったのだ。

「これ、休んでた分のプリントだから……本当にもう大丈夫なの?もう危ないこととかしちゃ駄目だよ、ひかり」

「行きはお母さんに車で送ってもらったけど、明日からは普段通りに登校して良いって。それにわたし怖がりだから、危ないことなんてするわけないよ」

一週間の欠席は、インフルエンザの診断書をでっちあげての登校停止措置ということにしてもらっていた。最初からそれで学校を休んでいたのだということにしようとしたひかりに、つばめが「でも休む前日まで体調悪そうにも見えなかったのに……」と首を傾げる。けれど昼休みの終わりを告げるチャイムが折よく鳴ってくれたので、それ以上追及されることもなかった。

そうしてひかりは何も変わらない、授業の終わりを待つ日々に戻った。周りのみんなも特に変わった様子がなかったし、授業が始まる頃にはひかりも前までと同じようにクラスの中に溶け込んでいた。佐々木しおんの席が空いてることなんて、気にも留めないで。


「ひびきも来たんだ!なんか学校で会うの久しぶりだねー」

昼休みの後の授業が一コマ終わった後、何処から聞きつけたのかリノンが保健室にやってきた。「ちょっと用事があって来ただけだよ」と言ったひびきに、リノンは「でも、ひびきと会えて嬉しいよ」と笑う。ひかりが久しぶりに登校したらしいことも、ひびきはリノンから聞いた。

「授業はいいのか?」

「別にいいよ、ちょっとくらい」

リノンは学校で普通の人の中に溶け込んで生活しているけれど、たまに日常の外側に顔を出す。こうやって授業を抜け出して、それか何かあった時に家を飛び出して。その『非日常』の役目が自分なのだと、ひびきは学校に来てなんとなく分かった。少しくらいの痛みや苦しみを隠していたって、そうやって一人でも曝け出せる相手が居れば、昨日と変わらない毎日の中を生きていけるのかもしれない。

「お友達とまた一緒に学校に行けるんだから、嬉しいわよね」

保健室で書き物をしていた養護教諭の先生は、授業を抜け出してきたリノンを咎めもせずに、にこやかに言った。そしてリノンも、「うん!」と満面の笑みで答える。養護教諭の先生は「わたしも、学校に通えるようになる子が増えるのは嬉しいわ」と優しげに頷く。そして「クラスの先生に、高木さんは保健室に行ってるって伝えておくわね」と言い残して、書類を片手に出て行った。そしてリノンと二人きりで保健室になった時、

「……用事って、『夕暮れ戦争』のこと?」

とリノンは遠慮がちに切り出した。「『扉』、見えなくなってたから」と続けられた言葉を聞いて、ひびきは言葉少なに「ああ、そうだ」と肯定するしかなかった。例え魔法少女でなくとも『扉』が見えていた子供達には、その意味が分からなくとも、なにか異変があったことは理解できるのだろう。

「ひびきが何のために学校に来たのか分からないけどさ」

そこでリノンは、一度言葉を切った。保健室は仮眠を取れるように明かりが落とされていて、早い日没に向けて傾いていく外の陽だけが唯一の光源だった。薄暗い部屋の、更にパーティションに仕切られた内側で、少し改まった表情のリノンが、ひっそりと切り出した。

「今のことが終わったら、もう一度学校に通ってみない?」

ひびきにとっても、リノンから聞くことになるだろうと思っていた言葉だった。保健室と休み時間の廊下、そして上級生たちとの会話。たった一日だけだったけれど、ひびきにも幾らか分かったことがあった。

――誰が笑っても泣いても、変わらず続いていくものをこそ『日常』と呼ぶのだ。

たぶん、たぶんだけど、自分一人が戻ってきたところで、この『つつがなく続く日々』とやらは、壊れることはない。だから素知らぬ顔で戻って、最初はちょっと戸惑うことがあっても日常の一員として過ごしていれば、いつかは普通に学校に通うことだってできるだろう。

「……うん、もう学校に来ることなんて無いって思ってたけど、来て良かったよ」

ひびきは包み隠さず、素直に言った。その後に続けられた言葉も含めて、それはどこまでも偽りのない本心だった。

「――そこまでして戻りたい場所じゃない、って分かったから」

この日々は、ともみが消え去った後も、少しだって変わることなく続いている。誰か一人くらい居なくなっても、誰もわざわざ自分の日常を変えてまで、連れ戻そうとはしないのだ。自分から戻ってきた人だけがその日常に戻れて、戻らないのは相手の選択だからしょうがない。その通りの正論で、だからくそったれだ。

リノン食い下がることも、理由を聞くこともなく、少しだけ残念そうに「そっか、」と笑った。願った未来を諦めることと、今ある現実を受け入れて生きていくことは、似て非なる別の行為だ。リノンは『ここではないどこか』を求めるのを止めて、現在[いま]この場所を生きている。みんなと心の底から笑い合える生活を求めて、決して誰かを傷付けることなく、日々の中に砂金のように散りばめられた幸福を、大切に大切に採り集めている。

――それがきっと御岳鶴来の言った、魔術師になる前に『夕暮れ戦争』を去るということだ。

ひびきは僅かな躊躇いの後、リノンの眼を見据えて言った。それが誰かを傷付けるかもしれない選択だと、ともみと交わした『知らせない』という約束を破るものだと知った上で。

「ひかりに、話がある」


「ねえ、つばめ……集団下校って、どういうこと?」

最後の授業を控えた休み時間、リノンは何処かへふいと姿を消してしまっていたので、ひかりは残っていたつばめに聞いた。ひかりは放課後、ともみに無事学校に行けるようになった事を伝えて、御岳の動向について聞くつもりだったのだ。

「そっか、ひかり朝来てなかったから知らないんだね……しおんと、上級生のともみって人が誘拐されたかもしれないんだって。ほら、生徒会長のお姉さんの」

「ふーん、そうなんだ……ねえ、つばめ。つばめって、陸號さんのこと知ってるの?」数秒考え込んだ後、ふと思いついたような調子でひかりが尋ねると、つばめは「お姉さんの方じゃないよ。妹の、みともさんの方」と慌てて付け足した。

「生徒会のお仕事、たまにお手伝いしてるの。だから、生徒会長のみともさんとは時々話すんだ。それで今日ね、ともみさんが帰ってこないから家が大騒ぎだって聞いたの」

つばめ曰く、ともみは前にも一度家出をしていて、その時は朝学校に行かずにどこかを歩き回って、陽が沈む頃になって補導員に連れ戻されてきたらしい。そういえば、とひかりは思う。自分はともみのクラスも知らないのだった。もっとも、今までは知る必要がなかったのだから、なにもおかしいことはない。

「今度は昨晩家を飛び出したっきり、朝になっても帰って来ないんだってさ。また家出じゃないかって話にもなったけど、あんなお嬢様が一人で野宿なんてできるわけないし、泊まる友達なんて居るわけないし。しおんの家にも連絡取れないから、もしかしたら二人とも誘拐されたのかもしれないって話になって、それで集団下校になったらしくてさ。わたしのお父さんも今、大忙しだよ」

つばめは冗談めかして笑ったけれど、珍しく翳った表情を隠しきれてはいなかった。ともみに妹が居ること自体、ひかりには初耳だった。全校集会だったりで目にしたことはあるのだろうけど、その顔や声を思い出すことはできなかった。退屈な授業をほどほどに聞き流すのと同じように、周りに溶け込むために必要のない情報は、すぐに忘れてしまうのだ。

「ひかりにわたしの事聞かれたの、これが初めてかも」

つばめが不意にそんなことを言ったので、「そんなこと、ないと思うけど」とひかりは笑って返そうとした。そんなひかりを前にして、つばめは少し遠い目をして、微かに笑みを浮かべて言った。

「ひかりはさ、あんまり他人[ひと]の事に興味がないよね」

「……そうかな?」

「ほんとは出会った時から、ずっと思ってた。昔と違ってよく笑うようになったけど、自分から誰かに話しかけることもないし、話してる相手がどんな人かなんて気にしないで、その時その場所でとりあえず変に思われないような言葉を選んでるみたい」

ひかりは気付かれないように握った手の中で、じわりと汗が滲むのを感じた。つばめは向こう見ずなだけで、綺麗な世界を信じているだけで、決して盲目なわけではない。むしろ自分より遥かに聡明で、そして自分の近くに居る人間がどんな風に自分を見ていたかさえも気付かなかった理由は、つばめの言う通りなのだろう。

「そのくせ急に何処かに行ったり、危ないことしたりするし……まるで今話してるひかりと、何かを考えたりしてるひかりが別の場所に居るみたいだって思ってた。ううん、別にそれが悪いって言おうとしてるんじゃないの」

つばめはそこで言葉を切って、自分の心を言い表す言葉が見つからないような、もどかしげな仕草をした。その時のつばめの表情は年相応の、知らないものに対する困惑のような、自分の抱いた感情の取り扱いに困っているような、数年来の付き合いの中で初めて目にした表情の気がした。

「……今までは正直、なんとなく遠ざけられてるように思ってたんだけどさ。ひかりは誰かの悪口とか言わないし、誰にも偏見とか持たないで仲良くできるのも、そのおかげかもしれないって思ってね。そしたら、関心がないのも悪いことじゃないのかもしれない」

成長とともに視野が広がることで、己の観る『世界』の裾野は広げられて、その淵からは新たなる未知なるものが現れる。そして今まで積み上げてきた経験の通用しない、学んできた法則とは異質なもの達が現れた時、ヒトは年齢に関係なく、無知で無力な子供に戻る。それらの排除された世界の中に籠っていれば、その中においてのみ全ては既知で、何一つとして自分を脅かすものはない。それは狭くて、自分と相容れないもののない、完璧な世界だ。

けれど『異世界』は既に存在している、その善悪に関わらず。閉じた世界での全能感と、開かれた世界に対する不安感の間で揺れ動き、これから自分がどう変化していくかも分からない。『夕暮れ』に足を踏み入れた者でなくとも、自分達にとって今はそういう時期なのだと、ひかりは思った。「ありがとう、つばめ」そして、ひかりはどんな言葉を返せば良いか分からなくて、『とりあえず』の言葉を返したのだった。

「間違ってるものは、正さないといけないと思う。そうすれば、もっと世界は良くなるはずだから……でも、正しくないことは必ずしも間違ってはいなくて、それじゃなきゃ助けられない人も居るんだね、『こんな世界』でなら」

「……こんな?」

つばめが翳った表情で呟いた、最後の言葉を問い返そうとした時、「あっ、ひかり!」ひかりは背後から声をかけられて、思わず飛び上りそうになった。

「リノン何処行ってたの?」

「んー、ちょっとね」

つばめの質問を軽く流しながら、リノンはひかりの耳元で囁いた。それは最後の授業が始まりを告げるチャイムが鳴るのと同時で、そして先生はまだ教室に入ってきていなかった。

「ひびきが、なんか話があるって。保健室で待ってる」


――ひかりが初めて『魔法』を目にした場所は、『扉』の向こう側だった。

そこはコールタールを煮詰めたような真黒の闇に満たされて、無数の【それ】が獲物を探して彷徨い歩き、きっと迷い込んだが最期、本来は生きて帰ることはできない。


ひかりは『扉』の向こうで見たものを今まで、それを廃工場に向かった時に見たことさえ、決して口にする事はなかった。それは日常の中で『扉』が見えると決して言わないのと同じで、自分が『普通でない』と見なされることを避けるためだった。

しかし、ひかりは『魔術師』のこと、そして『扉』の向こうの闇とは、やがて『夕暮れ戦争』の魔法少女が至る『夜』に過ぎず、ともみ達が日常の中すら支配しつつある『美化委員会』への抵抗を試みて、全てが失敗に終わったということを、ひびきから知らされるのだった。

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