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第四話:『炎と刃』

次が最終話、その後にエピローグで完結です

――


――魔法少女は皆、人には言えない秘密を隠している。

それは普通の子供とかけ離れた何かで、負うはずのない苦しみで、それを口にしないのはできないからとは限らない。言わない方が良い――言ってしまったら、良くないことが起こる。あまりにも常識とかけ離れたものは、いつだって遠ざけられてしまう。それが自分の行動、感情、言葉、人格、人生――全ての根元にあるようなものであったとして、それを否定されるかもしれないと考えたのなら、きっと誰だって口をつぐんでしまう。

「わたしはね、何もかもが怖いんです」

夕暮れの裏路地、冷たく乾いたコンクリートに囲まれて、オレンジ色の光が差し込むその場所には二人の少女しか居ない。篠崎ひかりと、真っ白な少女。沈む太陽に面した通りの出入り口から、真黒に燃える廃工場が覗く――そして、『扉』。

「どうしてかは、自分でも分からない。普通に暮らしている時でも、死ぬことや傷付くことを考えて怖くなるんです。喜んだり、幸せな気持ちになったりすることさえ、どうしてか怖い。人に自分をさらけ出すことも、何か自分から何かをすることも怖くて仕方ない」

ぽつりぽつりと紡がれる言葉は、目の前の真白の少女に吸い込まれて消えていく。少女は深い井戸の底のように、何も反応を見せないまま静かな微笑を湛えていた。

「いつだって怖い、何が怖いのかも分からなくなって、それで余計に怖くなる。だから、ずっと遠ざけてきたんです。こんなの普通じゃないって分かってるから、他の人も立ち入らせないようにして――きっと、今も」

話しているだけで息が苦しくなってくる。ひかりの不安と苦しみを和らげるように、少女は虹色の瞳で微笑んだ。少女の周囲に漂う淡雪のような光が、ひかりの呼吸を少しだけ楽にする。

「だから、授業が終わるのを待つんだって。学校に行かないことも、学校を楽しむ事もせずに。そうやって、今まで、生きてきたんです」

ひかりは眼を閉じる――胸を強く押さえる。

いつだって、忘れた事は無い。恐怖は巨大な金属の回転体の形をしていた。眼を閉じると、金属の高速でこすれ合う音が聞こえてくる。それはきっと、凄絶な最期を迎えるヒトの絶叫に似ていた。金属の散らす火花の、断続的な光の瞬き。夜に建物や木々の向こうで、遮られながらも断続的に瞬く車のヘッドライトのような。眼を閉じれば、いつだってそれが蘇る。

恐怖のボルテージが上がると、金属はどんどん大きく、近く、そして回転数を増していく。瞬きは立ち眩みのような閃光になり、金属音は鼓膜の奥を震わせる。そしてひかりは、恐怖が耐え切れない程になったら、胸を押さえるのだ。そこにはいつだって静寂と静止があった。

「今までも、ずっと怖かった。初めて戦った時も、ともみちゃんに友達になろうって言った時も、ひびきと話してた時も、魔法の力が、自分の隠したものから生まれるんだって知った時も、それよりずっと前、自分が覚えている頃からずっと、怖くない時なんてなかった」

開いた瞼の向こうで、景色が歪む。涙の膜に覆われた景色の中で、白い少女と沈む夕陽の赤、廃工場の燃え盛る黒色が輝いていた。

「だから、ね」

恐怖に溺れて助けを求める自分が、今でも心の中のどこかに居る。全てを恐れて、安心を求めて彷徨う自分が居る。自分はなにも、なにも変わってはいない。

「だから――」

ひかりは、嗚咽に消えそうになる声で、懸命に言葉を紡ぐ。


――第四話『炎と刃』――


 私の心臓は、憎悪で動いていた。


――『扉』が現れた。

魔法が発動する時と同じように、光の粒子がどこかから集結して、『扉』の輪郭を形作る。その後、内側にゆっくりと『扉』の実体が作られていくのだ。ひかりはその光景をぼんやりと眺めながら、人気のない校舎裏へと走る。つばめとリノンと話していたから、少し約束の時間に遅れてしまっていた。

「遅いわよ!」

腰に手を当てて叫ぶともみ――その周囲に山吹色の光が集まっている。もう変身の準備はできているようだ。ひかりは肩からずり落ちそうになった鞄を掛け直す。そして、キーコードを唱えると灰色の光が周囲を包み込んだ。

≪rejecter≫

空には『星』が増えてくる。静かに、そしてなんの前触れもなく。本当の星が現れるのと同じように、どれが一番星かなんて分からない。色とりどりの魔法少女の纏う光が、原色に近い赤の空に舞い踊る。ひびきとの一件があってからも、ともみと一緒に『それ』を倒し続ける日々は変わらない。ひかりが初めて【それ】と出会って、あの真っ白な少女の力に魅入られてから、もうすぐ一ヵ月が立とうとしていた。

≪set up≫

立ち並ぶ屋根の上に薄く積もった残り雪は、真っ白なキャンバスのように夕陽の絵の具で染められている。辺り一帯には目立った施設や大通りもなくて、遠くからでは地面の隙間も見えないくらいに民家の屋根が連なっている。ありふれた住宅街の光景で、それは低空を主戦場とする魔法少女たちにとって格好の足場となっていた。

三角屋根の瓦を飛び石のように踏み割って、『それ』は追いすがる二人の魔法使いから逃げ回る。黒い流体のような皮膚から硬化した羽が抜け落ちて、その痕が徐々に塞がっていこうとする瞬間、ともみの放った羽弾が『それ』の着地しようとしていた瓦を砕く。外れた瓦に足を滑らせて転落した無防備な『それ』を、ともみの巨大な爪が切り裂いた。

≪rejecter≫

そして勢い余って家屋に衝突しかけたともみの前に『書き足された』黒い壁が、二人をクッションのように受け止める。それが今日の夕暮れ戦争で、初めてひかりの使った魔法だった。身を護ることしかできない『壁』は、おおよそ手持無沙汰になることの多い固有魔法だ。けれど魔法は『不可能』と切り離せないものだと、今のひかりは知っていた。それは足りないもの、失ったものの対価でしかないのだから。

――『ここではないどこか』へ行ったって、自分の心からは、どうやったって逃げられない。

誰だって分かってる。自分を変えるなんて、口で言うほど簡単なことじゃない。おとぎ話じゃないんだから、障害は乗り越えられるものとは限らない。失ったもの、最初から欠けていたものが取り戻せるとは限らない。友情とか愛情とか、優しさとか善意だとか、正義だとか勇気だとかで、悲しみや苦しみが消え去るのなら、きっと『夕暮れ戦争』なんて要らないのだ。

「ねえ、ひかり?あんた最近元気ないじゃない」ひかりを抱えたまま飛んでいる、ともみの声が聞こえた。視界の下へと流れ去っていく夕日に照らされた街には、今でも胸が高鳴る。けれど、初めての時のような高揚と不安は、もう感じることができなかった。「勘弁してよね!あんたがぼんやりしてたら、危ないのはこっちの方なんだから」ひかりは首筋に温かい息がかかるのを感じて、上の空のまま小さく頷いた。

そして二体目の『それ』と、その心臓部を縫い止める蒼い剣の主を見つけたのだった。ひびきは『想いの欠片』を手に取った後に二人に気付いて、露骨に顔をしかめて「……うげぇ」と声を上げた。

「……東大寺さん」

ひかりは出会うことも予期していた。気配を感じ取ったわけではなく、辺りにひびきの透明な『想いの塵』が見えたからだ。同じ階層の魔法少女が近くに居る時、放出された光の粒子が漂ってくることがある。そしてその日、それ以外に妙な魔力放射――色のついた『想いの塵』は漂っていなかった。至って静かなもので、いつぞやの【それ】が現れた時のような不穏な空気は微塵も感じられなかった。

「名前で呼ぶな、誰が聞いてる分からないだろ」

あの一件以来、ひびきと『夕暮れ戦争』の中で出会っても刃や剣呑な言葉を投げられることはなくなった。代わりに彼女は気まずそうな顔をして、『それ』もほっぽり出してどこかに行ってしまうのだった。だが今日は珍しく、ひびきの方から妙な問いかけをしてきた。

「最近、『星』が減ってる気がするんだ。何か知らないか?」

異なる世界を隔て、そして繋げると言われる『扉』。本来出会わないはずの人間が出会うことになる『夕暮れ戦争』の場を形作る基本となるもの。それを中心として夕空に広がるの星々は、言われてみれば数が減っているようにも見える。

「ううん、知らない……」

「ならいい、曜日でも『星』の数は変わるからな」

「なによ、それだけ?」

「仲良くおしゃべりするような仲になった覚えはないぜ。それともまさか、あれでお友達になったつもりか?」

――それこそ、まさかだ。そんな訳あるはずない。

そう考えていたひかりを、ともみが引っ張って抱き寄せる。ことによると、ひびきに取られまいとでもするように。その仕草はぬいぐるみを抱き締める小さい子供のようで、ひかりも無抵抗のまま、人形のようにがくんがくんと首を揺らされる。ちょっと引いた様子のひびきは、別に要らねーよ、と言いたげだ。

「あんた生意気ね、一匹狼気取ってカッコつけてるつもり?」

ひびきは頭をガリガリと掻いて、うんざりしたようなため息をつく。

「テメーの知り合いの手前、我慢してやってたんだけど……お前、友達居ないだろ」

「なっ、」

ともみは自分のプライドを傷付けられることに我慢ができないし、ひびきの事を刺々しい振る舞いでしか知らない。そしてひびきも、無遠慮に触れば噛み付き返してくる野犬のような性格だ。ただでさえ相性が最悪の二人は、一触即発の空気で睨み合って、やがて言い合いを始める。

ひかりは、何をするでもなくそれを眺めていた。このままだと、二人は戦うことになるだろう。そして、それを止めようという気にもならなかった。

「なんだよ、やるのか?」ひびきは剣を、ともみは巨大な爪を両手に呼び出した。少なくとも、ともみの目にはもう、ひかりは写っていない。「どっちが上か、いい加減確かめてみようぜ」ひびきは一瞬、ひかりの方を見る。なんで止めないんだ、と蒼い眼に書かれているようだった。ひかりは、二人の向こう側を見ていた。

――何かが足りない。

ひかりは、かつて学校で友達が居らず、一人で帰っていた時のことを思い出していた。いつの間にかリノンとつばめ、三人で帰ることが日常になっていた。『夕暮れ戦争』もまた、その中に入ってしまえば、一つの日常[へいおん]の形となる。プランクトンを食べる小魚のような役割の『それ』を狩って、『想いの欠片』の集まる秘密の場所を探す。そこには歩くべき道も、立ちはだかる壁もなく。呑まれるような闇も、焦がれるような光もなかった。

――何が足りないのか、分かっている。口にするのがはばかられるだけで。

ひかりは、求めるものを小さく呟いた。誰にも聞こえないように、祈るように、密やかに。緩やかな死を壊すもの――打ち砕くものを。絶望を打ち砕くもの。日常を破壊するもの。退屈に過ぎていく平和な日々も、平穏に過ぎていく無為な日々も、なにもかもぶち壊して、なにもかも変えていくものを、ひかりは探し求めていた。


そして、それは現れたのだった。ひかりの願いを、何か超常の者が聞き入れたがごとく、二人は、同時に互いを見出した。


――


膨大な魔力放射を自身の固有魔法によって打ち消して、決して気取られる事なく標的を見つけ接近する。そして相手は襲撃の直前まで一切の予兆を感じ取れず、命を奪われるその瞬間まで気付かない。見えず聞こえず、しかし着実に、一方的に訪れる致命の一撃。絶対的な死とは、時にそういう形態[かたち]を取るものだ。

だが最高加速に至るために、巨大な噴射炎が『黒い翼』を形作ることだけが、唯一の彼女を見分ける特徴となる。もっともそれを目にするのは、防御も逃走も反抗も決して叶わない、全てが手遅れになってからだが。その少女は正真正銘、『夕暮れ戦争』の頂点に君臨する最強の魔法少女だった。


ひかりは燃える空に浮かんだ、星の輝きになるほど遠くはない小さな黒点に気付いた。そして焦がれるように、惹かれ合うように、それぞれの欲求によって、それぞれの願望によって、二人はそれが探し求めていたものなのだと、理解した。

≪B-BLADE/B-BLAZE≫

ともみとひびきが気付くよりも早く、黒点の背からは黒い爆炎が吹き上がる。数秒の後、ひかりの視線が釘付けになっている方向に、ようやく二人の魔法少女が目をやった時。既にその顔の造作すら見て取れるほどの近さに、天を衝くように艶めく黒の翼があった。赤、白、黒で構成された衣服。眩い白の光を放つ、真紅の刃。そして夕陽を背にして昏く輝く、殺意に満ちた金色の眼光。

「あ――」

ひびきが何か叫ぼうとする。ともみは混じり気の無い完全な殺意に、思わず竦みあがる。そして少女の【それ】すらも上回る膨大な魔力が解き放たれ、衝撃波のように三人の五感を激しく叩きつけ、その意志に反して身体を動けなくさせる。少女と三人の距離は、おおよそ50m。そして少女の黒い翼が一段と大きくなり、最後の加速をした時、

≪rejecter≫

ひかりは、自分でも信じられない程の速度で手を掲げていた。そして呼応するように、目の前に障壁が立ち上がる。立ち上げた障壁ごと、ひかりの右肩が紅い刃に貫かれる。あと一瞬でも障壁を立ち上げるのが遅ければ、ひかりは殺されていただろう。

襲い来る少女の視界を黒い無骨な鋼板が妨げる。同時に巡航ミサイルのような勢いで激突した少女の自動障壁が、ひかりたちを地盤ごと空中へ巻き上げる。そして、その一瞬の間に、ひかりだけが理解した。この少女の、真に恐れるべき特質を。今まで彼女に本当の意味で狙われた全ての者達が、それを理解する前に敗北――つまり、命を奪われたような能力を。物語やゲームの世界では、その能力を持つ強敵はとても少ない。あまりにも一方的すぎて、倒しようがないからだ。

それは単純な魔法の性能ではなかった。あらゆる魔法を無効化し、貫通する刀――それすらも、真の特質を作り上げる要素の一つに過ぎない。馬鹿げた出力の自動障壁、巨大な翼による超加速――それも大きな要因だが、まだ足りない。

それは『スピード』だった。単純な『移動速度』ではない。移動から攻撃に移る動作、攻撃そのものの動作、ありとあらゆる行動にかかる時間が異常な程に短いのだ――本来なら、反応すら間に合わないほどに。実際に、ひかりも刀を振りかぶる瞬間すら見ることができなかった。少女が加速した瞬間に、反射的に障壁を立ち上げなければ、恐らく障壁を立ち上げ始めるまでに斬り裂かれていただろう。そして特殊な刃によって、間に合う防御では防げない。分厚い自動障壁によって、間に合う攻撃では傷一つ付けられない。それらの要素が組み合わさって、対抗策のない一方的な殺害を可能にするのだ。

≪fragile≫

地面に落ちていた細身の剣が砕け、同時に岩は砕けて石片に、石片は砂塵となって視界を覆い隠す。そして煙幕が自動障壁によって弾き飛ばされる一瞬の間に、ひびきは建物の隙間を縫うようにして逃げ出していた。再び、ひかりと紅い少女の目線が合う――直前に、再びひかりが障壁を立ち上げる。次に遮る物がない状態で目があえば、それが自分の最期だと分かっていた。他の魔法少女のことなど意にも介さず、少女は真横に飛んで視界を遮る障壁から離れる。

篠崎ひかりの魔法が『障壁』でなければ、最初の時点で全てが終わっていただろう。攻撃力を持たない代わりとしての、防御力と防御速度の両立。有無を言わさぬ巨大な壁――立ち上げさえすればいい、面による絶対防御。そして、防御を抜く攻撃が万が一存在したとしても、攻撃の持ち主が通り抜けることはできないからこその『壁』だ。互いに、障壁の向こう側の敵を見ることもできない。回り込むか、障壁を切り開くかの二択――どちらにせよ、時間を奪う行為だ。逃げるための時間稼ぎとして、これ以上の適任はない魔法。だとしても、このままだと逃げ切ることは不可能だった。

一瞬でも互いの間に障壁が無くなれば、瞬間移動にも等しい速度で距離を詰められる。そして一度刃の間合いに入ったが最期、今度こそ、その斬撃を防ぐ方法はない。ひかりは強く強く、自分の胸の辺りを押さえた。生きる意志すらも萎えてしまいそうな恐怖に、そして、(――やっと、見つけた)感動にも、安心にも似た、悦びの感情に。

≪sphere shield≫

今まさにひかりに飛び掛からんとしていた少女の周囲を包み込むようにして、球状の障壁が生まれる。ひかり以外の全員にとって、その魔法は全く想定外のものだった。そして、僅かに見えた活路に縋るように。獣化した脚で跳んできたともみが、ひかりの首根っこを掴んで全速力で空へ飛び上がる。

すぐさま刃で障壁を切り開いた少女の視界の先で、ひかりとともみがぐんぐんと遠ざかっていく。それでも本来、少女が飛行中の二人に追い付くことは造作もなかった。互いの間に障壁はなく、少女はひかりが既に固有魔法を撃てなくなっていると分かっていた。

「――時間切れか。いつもより早いな」

少女は黒い翼を背に収め、衣装がゆっくり黒い粒子へと還元され、変身が解かれていく自身の身体を見下ろした。青紫の空からは『扉』が消えつつあり、じきに『夕暮れ戦争』という戦場そのものが閉じられることを少女は知っていた。少女は周囲を見回し、変身を解除する。

少女を包んでいた黒い光が解けた時、そこには暮町高校の制服を着た少女が佇んでいた。黒い瞳に知性の光を湛え、流れ落ちる黒髪を結い上げた少女。その顔の造作は彫像のようで、整っているが感情の存在を読み取れない。そして御岳鶴来は、地面に広がる小さな血だまりを、無造作に指で掬い上げる。刃に貫かれた傷から噴き出した『翼の無い少女』の血。それが今日の唯一の収穫であり、御岳は己の口腔の中に指を入れて、その匂いと味を記憶する。そして一言、「本当に、子供なのか」とだけ呟いた。


ともみとひかりが夢中で逃げ続けて、何処とも分からない薄暗い裏路地に辿り着く。『夕暮れ戦争』が終わって変身も解けた後、帰る手段は徒歩しかない。それでも二人はまだ、帰り道の心配などしている余裕もなかった。路地の向こうの夜空のどこかに『黒い翼』が見えるのではないかと、怯えて辺りを見回す。

ひかりの肩に残された傷痕は、夕暮れ戦争が終わってもすぐには治る気配を見せず、恐怖で激しく打つ脈の周期に合わせて、どくん、どくん、と暗く鮮やかな赤色の液体を吐き出している。超音速の刺突による衝撃でその周囲の組織も破壊され、そこから先に伸びている腕は指一本動かせずだらりと下がっていた。貫通した傷痕の中までは血で汚れて見えなかったが、わずかに見える肉のピンク色が見えた瞬間、ひかりは全身の力が抜けて立っていられなくなってしまう。

戦いの高揚が消え去った後の恐怖。それはちょうど、大きな出血で全身が熱くなって、少し時間が経ってから、歯の根の合わない程の寒気に襲われるのと似ていた。自分から大量の血液が失われている。それだけのことで、頭が一切回らなくなる。目の前のともみも同じように泣きべそをかいていた。そしてひかりは、ようやく理解したのだった。あの距離、あの一瞬で、これだけの傷を与える化物じみた相手が、明確に自分の命を狙っていることを。

ひかりはともみと別れて、どうにかして家に辿り着いた後、すぐさまベッドに飛び込んだ。今日は母が帰ってこない日だ。何かを気取られる心配もないが、不安や恐怖を忘れさせてくれることもない。布団を頭から被って、半端に治った傷と、痛み震える身体を抱き締める。

ひかりは何度も、浅い眠りから覚めては飛び起きた。暗闇の中で、ひかりは胸を強く、強く押さえる。乱れた息を、唇を噛んで抑えつけようとする。何度目を閉じても、瞼の裏に焼き付いた少女の姿が蘇る。

そして翌日、ひかりは学校を休んだ。


――


日が昇りきってから、火ヶ理が帰宅する。そして布団から出てこないひかりの様子を見ると、何も聞かずに体調不良で休むと学校に連絡してくれた。間もなくして、リビングに置かれたソファの方から火ヶ理の大いびきが聞こえ始める。寝室のカーテンを開け放った窓から、珍しく雲一つない青空が見えていた。ひかりは緊張の糸が切れたように、少しだけの間、夢を見ない眠りに落ちた。

そして次に目が覚めた時、自分が寝室でない場所に立っていることに気付いた。いつの間にか真っ赤に焦げ付いたような沈みかけの夕陽、その光が差し込む冬の冷たく乾いたコンクリートの壁に挟まれた裏路地。昨日、自分とともみが命からがら逃げてきた場所だ。そのことに気付いて、思わずひかりは胸の辺りを押さえる。太陽の根元には真黒に燃える廃工場、そして『扉』。

「……ここは?」

誰に向けてでもなく呟いた言葉。それに応える者が居ることに気付いて、ひかりは思わず飛び上りそうになった。

「君の夢の中だよ。そう思えばいい」

あの時、腕を治してくれたのと同じ、真っ白な少女がそこに居た。ひかりは路地の入口から吹き込む寒風に思わず震えて、自分が寝入った時のパジャマ姿であることに気付く。

――本当に、ここは夢の中なのだろうか?

その疑問を飲み込んで、ひかりはより重要なことを尋ねた。

「どうして、ここに?」

ここが夢の中であるなら、あなたが。ここが夢の中でないのなら、わたしが。その言葉は、言わずとも分かるだろう。夢であろうとなかろうと、今この場所に二人が居るのは、きっとこの少女の仕業だ。

「『魔法の根源』についての話は、東大寺くんから聞いたみたいだけど」ひかりはその言葉で、この少女が何を聞こうとしているのか理解した。「君について聞きたいんだ。君の根源となる、心の奥底の秘密について」

「秘密は、言えないから秘密なんですよ」

ほとんど無意識に返したその言葉を聞いて、少女は意表を突かれたように眼を丸くした。けれど、結局ひかりはその秘密を話すことになった。

「僕はね、いどなんだ。『王様の耳はロバの耳』って、叫べばいいのさ。」

少女は、おどけたようにそう言った。少し癖のある短い白髪が、冬の風に吹かれてふわふわと揺れる。

「助けることは出来ない、そういうルールだから。けれど、君が明かした秘密によって傷付けることもない。ただのいどだよ、君を動かすことはあっても、僕が動いて君に働きかけることは許されていない」

ひかりは、その秘密を誰にも――母にさえ、話したことがなかった。少女の言葉の後で、その秘密を話したくて仕方がない自分に気付いて驚きもした。『王様の耳はロバの耳』――誰にも言えない秘密を吸い込んでくれる、何も言わない底無しの穴。そしてひかりは、ゆっくりと口を開いた。

「本当はわたしに、戦ってほしいんですか?」

少女はなにも答えないまま微笑んで、ゆっくりと首を傾げる。そしてひかりは、言葉を続ける――君の自由、とこの人は言った。けれど、干渉してくる必要性が、それ以外に見えなかったのだ。

「……ああ、そうだね。こういうのは本来、僕の役目なんだけど……少し個人的な理由でね、あの子とはあまり顔を合わせたくないんだ」

少女は困ったような微笑で、こう続けた。

『黒い翼』の彼女は、夕暮れ戦争の『星』を一日に十数個の勢いで墜としている。これまでの夕暮れ戦争で、彼女はあんなに大々的に動くことがなかったんだけどね。彼女は、僕や君のような翼の無い魔法使いを探しているんだ。彼女には認識阻害による『チャンネル分け』も、斬られた相手の自動治癒も無効化する力を持っている。放っておけばじきに『夕暮れ戦争』は破綻するだろう。

「わたしは、あなたに秘密を話します。もし、あの人に勝ったら、教えてくれますか。夕暮れ戦争のこと……そして、あなたの名前を」

「踏み込むのは怖いんじゃなかったのかい?」

「何もわからないまま、思い通りに動かされるのと同じくらいには」

ひかりは、少女の瞳を真っ直ぐに見つめた。赤から蒼へ、緑から黄色へ、次々と遷移していく虹色の瞳を。そして少女は変わらぬ微笑を浮かべたまま、ゆっくりと頷いたのだった。

「うん、いいよ。言っても利点はないけど、困るほどでもない」

そしてひかりは、今度こそ話し始めた。自分の秘密――自分の全てを構成する、一つの感情を。

「わたしはね、何もかもが怖いんです」


――


「今までも、ずっと怖かった。初めて戦った時も、ともみちゃんに友達になろうって言った時も、ひびきと話してた時も、魔法の力が、自分の隠したものから生まれるんだって知った時も、それよりずっと前、自分が覚えている頃からずっと、怖くない時なんてなかった」

篠崎ひかりの話した事実は、少女にとっては全て既知のことだった。『夕暮れ戦争』に参加する子供たちを、たった一人を除いて余すことなく、その根源に至るまで知り抜いている少女にとっては。ひかりと同じような根源を明かした子供達を、幾度となく目にしてさえいた。

「だから、ね」

だからこそ、そこから続けられた言葉に、少女は初めて驚きで表情を変えた。

「だから――あなたに出会った時に、わたしは生まれて初めて、この真っ暗闇の人生の中に、光を見た気がしたんです」

ひかりは少女の反応にも気づかないまま、顔を真っ赤にして小さな声で続けた。愛の告白をする、恋に不慣れな少女のように。

「あんな風に、強くなりたい。変わりたいって、初めて思ったんです」

それは憧れと呼ぶにはいささか醜く、初恋と呼ぶにはいささか激しすぎるような、そんな衝動だった。ひかりはあの時、生まれて初めて欲望を感じたのだ。

「うまく、言葉にはできないけれど……変わりたい、少しでもいいから、前に進みたい。届かなくても、手を伸ばしたい。わたし、こんなのだから」

ひかりは自分の胸に手を当てながら、そう言って笑った。その目尻から、また涙が零れ落ちる。

「その方法も、道筋も、まだ分からない。でもね、歩き出せたんです、わたし。こうやって、自分の意志で、戦いを始められた。だから、まだ、歩いていたい」

そして二人は少しの間、無言で見つめ合っていた。白い光の粒を纏った、虹色の瞳の少女。髪を降ろした、パジャマ姿のままのひかり。沈みかけの夕陽が、二人の横顔を照らす。裏路地の出口から見える夕暮れの街には誰も居ない。それは赤く染まった空と、黒い影になった廃工場だけが映る、奇妙な風景だった。

「わたしは、夕暮れ戦争を続けたいと、思っています」

少女はひかりを見て、なぜか眩しそうに目を細めた。


――


「お前……夕暮れ戦争を続けるって、どういう事か分かってんのか」

ひびきは『信じられない』とでも言いたげな様子で、隣に座るひかりの顔を見据える。ひかりは黙ったまま俯いて、膝元に置いた手の指を組んだり解いたりしている。日が沈みつつある公園の、中心に位置する高台。その一角に置かれたベンチに、二人は並んで座っていた。

「あの魔法少女は、なんでか分からないけどお前を狙ってる。端的に言って、化物だ。何一つとして、オレ達に勝てる要素がない。それにお前が変身してる限り、どっから襲ってくるかも分からない」

夕暮れ戦争を続ける限り、あの魔法少女との戦いは避けられない。あえてそう続けなかったのは、ひびきの目にもひかりがそれを十分に理解した上で来ていることが明らかだったからだ。ひかりは誰が見ても分かるくらいに怯えて、華奢な身体を熱病に侵されたように震えさせていた。

ひかりはあの夢かどうかも定かでないような場所で、白い少女と言葉を交わした後、眠ったままの火ヶ理を起こさないように抜け出して、公園まで歩いてきたのであった。

――ひびきに会おう。

ひかりは目覚めたとき、それだけしか考えられなかった。とんだ向こう見ずだ、と自分でも思っていた。けれどその先、自分が飛ぼうとしている向こう側を見てしまったら、きっと動けなくなると分かっていた。なによりも、足を止めてしまうことが怖かった。一度足を止めてしまえば、きっと二度と動けなくなる。

――『これから、どうしたい?』

一歩目は、それだけでよかった。これから歩き続けるためには、今迫っている脅威に立ち向かわなければならない。戦うことは怖かったし、傷つくことはもっと怖かった。それでも、忘れてはいけない。それを忘れた時に、きっとわたしは前の自分に戻ってしまう。

「わたしは、夕暮れ戦争を戦い続けたい」

忘れないために、口に出す。消え入りそうな声で、それだけ呟いたひかりを、ひびきは不機嫌そうに見つめていた。

「お前と一回目に出会って……最初にアイツと出くわしてから少し経って、オレはもう一回アイツに襲われた。次にお前と会った時、怪我してただろ。んでもって、お前の事を聞かれた時に、オレは知らないって言った……あん時は本当に知らなかったんだ。公園で出くわした意気地なしってこと以外はな」

ひびきはそこで言葉を切って、ひかりをじっと睨む。ひかりは彼女の蒼い瞳の中にある感情を読みかねる。

「でも昨日、お前と一緒に居るところを見られた。たぶん、嘘をついていたと思われた。あんなおっかねえヤツが、次に見逃してくれるワケもないだろうな。それに変身を解除させられて、いつものオレの姿も見られてる」

「……えっと、ごめん、なさい?」

「違うだろ……」

ひびきは、一度だけ顔を逸らしてボリボリと頭を掻いた。そして、ひかりが何を言っていいか分からずに黙り込むと、ひびきは顔を突き合わせてこう言ったのだった。

「オレ達二人とも、続けるのなら、アイツをどうにかするしかない。そして、二人とも、諦める気は無いみたいだ。お前が来なかったら、オレの方から会いに行ってたよ。責任取れとでもなんでも言ってな」

「それじゃあ、」

顔を上げたひかりの前に、ひびきは広げた掌を突き出す。

「言っとくが、仲間とか友達だなんて願い下げだ。夕暮れ戦争の中でそんなの作っても、結局後悔するだけだ。だから、これはただの協力関係だ――アイツと戦うための」

「うん、それでいい。お願いひびき、わたしに力に貸して」

ひかりは、ひびきの前に手を差し出す。

「お前らと違って三年も戦ってたんだ、そう簡単に退けるかよ」

ひびきは小さく舌打ちしてから、眼を合わせないようにしてその手を軽く握り返した。そしてひかりはひんやりと冷たい手の感触を味わいながら、「あのバケモンは、何年間戦ってきたんだろうな」とひびきが呟くのを聞いた。そして不意に出されたある名前を聞いて、ひかりは強く胸を押さえた。

「オレ、アイツの変身解除した姿見ちまったんだ。変身する前の人間には攻撃できないから、結局そいつと街中で出くわさないようにするくらいしかできないけど……名前だけは分かった。御岳鶴来、ってやつだ」


――


ひかりが家に帰ると丁度、部屋着にエプロン姿の火ヶ理が夕食を並べている所だった。玄関にまで流れ込んでくる、こんがりと焼けた肉の香りに、ひかりのお腹がぐうと鳴る。

「おう、遅かったな」

どこに行っていたと問い詰めることもなく、火ヶ理はいつもの調子でそう言ったのだった。今晩の食事は手ごねのハンバーグだ。火ヶ理のレパートリーの一つで、ひかりの好物の一つだった。

レトルトにありがちな、半生のパテのような触感のハンバーグが最悪だ。黒に近い焦げ目が僅かについて、少しパサつくくらいに水気の飛んだものが良い。それにケチャップと肉汁から作った簡単なデミグラスソースをかけたものが一番、肉の旨味を感じられる――というのは全部、火ヶ理からの受け売りだった。ひかりはこれ以外のハンバーグを知らないのだ。

「……ねえ、母さん」

ナイフを前後させて、規則正しい動きで肉を分割していく火ヶ理に、ひかりは遠慮がちに声を掛ける。

「御岳が道場に来た時のこと?」

「お母さん、学祭の時にあの人の昔の話、してたから」

粗い断面が覗く、山岳の腐葉土のように豊かな色の肉を口に放り込みながら、火ヶ理は懐かしむように眼を閉じる。

「よく覚えてる。あいつが来た時、今のお前よりも歳下だった。お前みたいに細っちい身体で、竹刀一本構え続けるのもできないくらい貧弱だった。だけど眼だけがぎらぎらと、真っ黒に燃えていたんだ」

「どうして御岳さんは、母さんの道場に来たの?」

ひかりは思わず身を乗り出す。それはきっと『王子様』としての御岳鶴来ではなく、魔法少女としての御岳鶴来を構成する来歴だった。

「昔過ぎてお前は覚えてねえかもしれんが、『人喰い道化』っていうのが居てな。あいつはそれに友達を殺された後、『強くなりたい』って言って道場に転がり込んできたんだ。漫画の主人公かなにかみたいで、思わず面白くて笑っちまってよ。月謝はアタシ持ちで教えることにしたんだ」

ひかりは食事の手を思わず止めて、火ヶ理の顔を見上げた。火ヶ理は天気でも話すような気軽な口調で、どこか楽しげな表情をしていた。

「根性が据わってるっていうか、まあ正直、普通じゃなかったな。なにかに取り憑かれてるみたいだった。どんなに厳しい練習でも泣かなかったし、少年剣道の時間以外でも狂ったみたいに練習してた。他の大人連中は気味悪がってた、まるで自傷だって」

「復讐のために、強くなりたかった?」

「かもな。守れなかった自分の弱さへの嫌悪か、お友達の死に罪を感じての代償行為か、はたまた殺した者への復讐か。だが『ヒト』も『想い』も、それがどういう生まれであれ、現状として己を利するものであるなら、取り除かなくてもいいだろう?あれは恐ろしいほどの早さで強くなったよ、そうでもしないと生きられなかったのかもな」

ひかりは学祭の時、火ヶ理と話していた御岳の姿を思い出す。そして彼女が、『王子様』と呼ばれていた事も。

「前に学祭で会った時の……今の御岳さんは、そんな風には見えなかったけど」

「ああ、抜き身の刃はすぐに錆びつく、硬い鉄はすぐに砕ける。だから私が彼女に教えたのは、硬い芯に柔らかい鋼を巻くことと、綺麗な鞘をつけることだった」

なるほど、とひかりは思う。何を考えているかを見通せない、そして何もかもを見透かしてしまうような、火ヶ理の真っ黒な瞳。そして御岳と火ヶ理の纏う空気に、どこか似たところがあるのを思い出した。

「お母さんのそれも、『鞘』なの?」

火ヶ理はいつものように微笑んで、こう返した。

「言ったろヒカリ、今がどうであるか、これまでどうだったかなんて、どうだっていいのさ。」

火ヶ理ならそう言うだろうと、ひかりも分かっていた。それでも、ひかりは知りたかったのだ。御岳鶴来が今の場所にまで上り詰める前に、どれだけの壁を乗り越えてきたのかを。

「明日、お母さんについていってもいい?」

明日は学校も休みで、火ヶ理が毎週道場に出かける曜日だった。少し目を丸くしたあと、火ヶ理は笑って頷いた。

「……おう、構わんぜ」

ひびきから御岳鶴来の名前を聞いて、動揺した。でもそれ以上に、あの人が魔法少女であることを知って、生まれた希望があった。あの人だって、同じように何か隠した苦しみを抱えて、それでもあんなに強く、綺麗に生きているのだとしたら。人殺しだとか、自分を狙っていることだとかよりも、その事が重要だった。

――知りたい、あの人の辿った道筋を。

「ごちそうさま」

きちんと手を合わせてから、そう言って火ヶ理が席を立つ。『いただきます』『ごちそうさま』というのは良い言葉だ、と火ヶ理は言ったことがある。食材となったものへの感謝と謝罪、なによりも『お前の犠牲を無駄にしない』という意思表示を、たった二つだけにまとめ上げた。生きていれば誰かのリソースを奪うことは避けられないし、往々にして強いる犠牲よりも手に入れるものの方が少ない。それを罪と考え苦しむのも結構だが、犠牲を無駄にしないように進まなければならない。『いただきます』『ごちそうさま』と言ったのなら。

自分の命を狙う敵からだって、何かを手に入れられないわけじゃない。盲信して染められるわけではなく、拒絶して信じないわけでもなく。自分が前に進むための『糧』を、あの人から手に入れる。


――


街の『こちら側』は、子供が居る場所でもなければ基本的に静かだ。だが、ひかりが訪れた道場は、その中でもとりわけ不思議な静けさが漂っていた。ひかりが手を引かれながら木製の門をくぐると、白い砂利が敷かれた駐車場の向こうに寺のように壁の一面が大きく開いた建物があった。寺ならお堂にあたる内部の場所では、高校生くらいから老年の人までが防具を並べたり、竹刀紐を確かめたりと準備をしている。決して少なくない人数が集まっていたが、道場に入る時の挨拶や、散発的に起こる会話以外の時には、ほとんど静かな時間が流れていた。そしてこういった静寂が、大人が快楽や金銭のためではなく、自らの意志で訪れる場所によくある嵐の前の静けさだということは、ひかりにはまだ分からなかった。ただ、ひかりはこれも『別の世界』――今まで自分が訪れた事のない、知らない世界だ。そんなことを思ったのだった。


「……御岳さん?」

道場に入った瞬間に足を止めた御岳を、後輩である皇后は不審に思って声を掛ける。全ての殻が剥がれ落ちたような無表情。真っ黒に燃え盛る臓腑が、その目の奥に見えるような。后はほんの一瞬だけ、今までに見たことがないもの、全ての外面を忘れた『御岳鶴来』の姿をそこに見た。

そして后はその視線の先、道場の隅の方に見覚えのある子供が座っていることに気付いた。その少女は二つのおさげを揺らして、冷たい床にぺたんと尻をつけて女の子座りしていた。中学生になりたてくらいの、御岳とは違う意味で、骨ばって硬そうな子供の身体。まだ体毛の手入れもしたことがないような、素朴であどけない顔。后の好みではあったが、別段美人でもないありふれた容姿だ。

御岳はその女の子のところへ、何の前触れもなく歩き近付いていく。女の子は唇を薄く開いたまま、ようやく御岳に気付いたように顔を上げた。

「怪我をしているね、血の匂いだ」

見つめ合うのも一瞬だった。ひかりは『自分が誰なのか』を御岳に気取られたことを悟っていた。彼女にとって自分は火ヶ理の娘であり、先日肩を刺し貫いた相手で、恐らくは殺すべき対象だった。交差する黒々とした瞳の奥を、二人は互いに見透かすように覗きこみ、そして見通せないように心を閉ざした。

「……あなたからも、同じ匂いがします」

交わす言葉は、それだけで十分だった。何もなかったように、御岳は練習のための準備を始める。他の人々もそんな会話を気にも留めず、ひかりもまた座ったまま微動だにしない。二人だけが、その会話の意味を理解していた。御岳が普段、決して気取らせないようにしている鉄錆の匂い。血塗られた闘争の匂い、彼女の歩んできた人生の匂いだった。


「身体慣らしのあとに技の稽古、それから一度休憩を挟んで地稽古――試合を模した稽古をする」

どこかで手早く着替えてきた火ヶ理が、練習が始まる前に、ひかりに道場の端で見ているように言った。ひかりが見ていたからといって、御岳がいつもの練習をやめたり、変化を加えることはなかった。ただ視ただけで対策できる程度のものを武術と呼ばず、知っただけで攻略できるようなものは競技になり得ない。

そして一定の修練を積み上げたものにとって、技稽古は技そのものの鍛錬であると同時に、これから始める『戦い』に向けた動作の確認でもある。狙撃手が己のライフルを分解して、その部品を一つ一つ点検していくように、体の各部の瞬間ごとの動きをつぶさに確認していく。そしてひかりは練習が始まってすぐに、魔法少女としての御岳の持つ『速さ』の源泉を知ったのだった。

竹刀を正眼に構えて向かい合った、大勢の発声で木張りの床がびりびりと震える。そして次の瞬間、面を叩く破裂音、速さに霞んだ竹刀、それらを認識してからようやく、ひかりは『打っていた』という事実を理解することできた。真正面にゆったりと構えた姿から、斬りかかるまでの数瞬を消し去ったように、その斬撃は目の瞬きよりも早く命中した。

「『威力』は大体筋量に比例するし、本物の刀で斬られたりしたら大体は致命傷ですからね。同じ威力を保ったまま、どこまで所要時間を縮められるか、それが『速さ』なんです」

休憩時間になってから、ひかりに紺色の道着姿の少女がそう説明してくれた。大きな防具袋と竹刀入れを背負って御岳に付いて来た、学祭の時に出会った皇后という少女だった。


振り上げる予備動作や動き出す瞬間の筋の硬直を削り取り、代わりに脚での踏み込み、斜め下方向への体重移動、手首の捻りと左右上腕の異なる動きといった複数の動作の組み合わせによって、同じ威力を瞬時に生み出すことができる。

面、小手、胴打ち、そして突き。決して鍛錬の怠られることのない一つ一つが、最も基本となる技であり、それらは同時に必殺の一撃となる。そして何よりも、あらゆる戦術、フェイントやカウンターは打突の『速さ』を基礎として発展する。御岳鶴来が翼を持ち、彼女の刀そのものが特殊な効果を持っていたとしても、あの『速さ』の仕組みは間違いなくこれだった。魔法とは関係のないところにある、現実世界での技量。変身して翼を生やし、筋力を書き換えようとも、その差は歴然だ。

現存する数少ない武術としての蓄積と、競技としての試行錯誤による発展を持ち合わせた、最大規模の体系を持つ武器術。この世に誰も知らない『戦い』があったとして、何よりも早く強くなる事を求めている、才も血筋も持たない『普通の人間』が居るとしたら、これほど適した場所もないだろう。

「支天先生が呼んだんですか?あんまり、こういうの好きそうな子じゃないと思ったんですけど」

后は休憩時間が終わる少し前、肩を並べて立っている火ヶ理と御岳の交わす会話を小耳に挟む。

「いや、お前に会いたくて来たみたいなんだ」「へえ、私に?」

火ヶ理も御岳も似たような笑みを浮かべていたが、その実御岳は火ヶ理の意図を推し量りかねていた。火ヶ理が世間話などで誰かを呼び出したりしないことを、御岳鶴来はよく理解していた。

「ひかりちゃんの事も、后が見てくれてるみたいでしたよ。あの子、子供好きですから」

「罪深いやつだな、后も練習っていうよりは、お前に付いて来ただけだろう……ああ、ひかりのことはお手柔らかに頼むよ」

その言葉を、御岳が笑って流そうとした瞬間に、火ヶ理は口を開いたのだ。

「お前、子供嫌いだからなあ」

そう言われた時、御岳は表情を崩さなかった。代わりに、自然な表情の動きも消えた。少しの静寂の後、根負けしたように口を開いたのは御岳の方だった。

「……養子ですか。篠崎ひかりは」

「おうよ」

火ヶ理は短い返事をしてから、思い出したように「お前は、あいつの友達だったな」と言った。

「あれの面倒見てるのは、支天遥花の代わりや、償いのつもりじゃない。然るべき理由があって、篠崎ひかりの面倒を見てるんだ」

「安心しました」

御岳はそう言って、静かに微笑んだ――違和感のない笑顔を作った。

「しかし本当に、ひかりがあんな事言い始めるなんてな……自分から、何かをしたいだなんて。一時期は、飯も食えなかったんだ」

火ヶ理は御岳の方に目をやらず、まるで独り言のように続けた。

「他人とか、社会とか、人類とか、知らん。正しい世界だろうが理想の社会だろうが、生き辛い奴の一人や二人くらい居るだろう。今この場所でならきっと、もっとたくさん居る。そいつらが、目の前のとてつもなく大きな壁を前にして、進むために必要なものってなんだろうな。御岳、お前になら分かるんじゃないか?そういう子供がさ、自分の足で立ち上がって、歩き出すってのが……どれだけ難しいことか」

そして御岳は、微笑を浮かべたまま静かに首をかしげて、火ヶ理への返答としたのだった。


稽古が再開される――老年の剣士のもとに若い人が、或いは同年代の大人同士で向かい合い、試合を模した稽古が始められる。太鼓が打ち鳴らされると、甲高い気合の声とともに。防具姿の人々が動き始める。ひかりはまた、一人で道場の端に座ってその様子を見ていた。静かに刃を交わす火ヶ理と御岳、その体幹を使った精緻な足捌きと、手首の先を用いた目にも留まらぬ剣捌き、そして静かな息遣いを。

竹刀を構えた時点で身体の重心は限界まで前倒しになっていて、前に出した右脚の支えがなければ転倒してしまう。その姿勢から跳躍の瞬間、突き出した右膝から倒れ込む勢いのままに、限界まで溜められた左脚のエネルギーが解き放たれる。そしてバネ仕掛けのような無拍子の踏み込みと、真正面に伸ばした腕で、一刀身分遠い場所への、0.1秒にも満たない時間での打突を可能とする。常に正眼に構えた姿勢そのものが、限界まで引き絞られた弓となる。

試合において構え合ったまま動かない状態とは、引き絞った弓を互いに向けあっている状態に等しい。一時でも狙いが逸れればその瞬間に撃ち抜かれ、時を逸れば放った矢もろとも撃ち落とされる。限界まで張りつめた空気の中でも、一切乱れることのない二者の呼吸。そこに憎悪や怒りはなく、あるのは己の技を如何にして磨き上げるかという問いと、目の前の相手との静かな『機』の読み合いだけだった。例え誰かを打ち負かしたいという欲求や、誰かへの憎悪から剣を取り、或いは命を奪うために振るわれる刃であったとしても、それを持つ手は無心でなければ剣筋が鈍る。

感情と目的は切り離せない。感情や欲求から目的が生まれ、人はその目的の為に動き始めるものだ。しかし目的を達成するための手段は、感情に縛られてはならない。刃を握る理由がどれだけ歪なものでも、刃を振るうのは技と理性だ。

ひかりは今まで火ヶ理の練習についていったことがなかったし、火ヶ理本人も連れていこうとはしなかった。そしてひかりは今も、武道そのものに興味を抱いているわけではなかった。ひかりは御岳の積み上げてきた『武』に、学祭の時に見たダンスと、真っ白な少女の放った対物銃の弾丸と、同じものを見ていた。『どうであるか』の分類ではなく、ただボルテージの高さとして表現されるもの――『力』を。圧倒的な熱量[エネルギー]と、その精緻な制御[コントロール]を。

それは『炎』のようなものだ。何かを切り捨ることで鋭くなっていくのでもなければ、大海のように、あらゆる要素を受容して己の一部とするのでもない。己の触れた全てを触媒として、ますます燃え盛る『炎』という純粋な現象。全ての要素をたった一つの目的、己の為すと決めたことの原動力にする。自身と異なるものに対して、染まるのでもなく、隔てるのでもなく、燃やすのだ。己という炎を一切変えることなく、己という炎の触媒に、己の行動の手がかりにする。

そして、御岳が跳んだ。前の戦いで、障壁が立ち上がりきるまでの一瞬に見えた斬撃と、寸分たがわぬ打ち。少なくとも、ひかりにはその兆しが分からなかった――しかし既に、火ヶ理は動いていた。面を打つために僅かに上がった、御岳の右籠手。そこに、火ヶ理の竹刀の先端が、一瞬の間に炸裂した。


――


道場の壁とコンクリート塀によって囲まれ、道場から伸びた屋根に雨と視界を遮られている細い通用路。不潔ではないがいささか埃っぽいその場所が、昔ながらの道場で、女子の更衣室代わりになっていた。

「惚れちゃいましたか?『王子様』に」

后は連れてきた少女、篠崎ひかりにそんなことを聞いた。最後の言葉は少しだけ皮肉っぽい響きが混じってしまった、と后は思う。少し離れた場所で着替えている御岳の肢体が、視線の先で仄暗く浮かび上がる。暮町高校の生徒の半分は、恋というものを『王子様』にするんじゃないだろうか。それもきっと大げさな言葉ではないはずだ、と御岳について皇后[スメラギコウ]は考える。眉目秀麗で文武両道、そして凛々しい佇まいの中に、どこか憂いを帯びた静けさを纏う彼女は、『王子様』として異性同性問わずに惚れ込まれている。きっと御岳にとっては自分もその一人で、そしてただの後輩部員でしかないのだろう。

「――あの人は、王子様なんかじゃないと思います」

后はひかりの返答に、思わず言葉を失った。それは恐怖と畏敬を併せ持った呟きだった。そして后がずっと御岳に対して抱き続けていた想いそのものだった。

「すいません、変なこと言って」

「わたしが、あの人にとって必要な何者かになることはきっとない。それを辛いなあって思っても、それまでなんですよ、わたしには」

不意にそんな言葉が、后の口をついて出る。たった二度顔を合わせただけの相手に、誰にも言わないはずのことを明かしていた。ひかりが共通の知り合いも居なければ、もう二度と会うことがないと分かっている、秘密を明かしても困らない存在だったからだ。

「あの人の一番になるために、他の人を蹴落としたり、選ばれた誰かを妬んだりしないから……あの人の害になることはないから。だからわたしは、あの人の後ろを歩くことを許されたんです」

目の前の少女は、王様の耳はロバの耳、そう叫ぶための井戸だ。篠崎ひかりに望むことは、何もなかった。ヒトの柔らかい肌と、全てを断ち切る刃がぶつかるその瞬間に、刃が折れることを心配する人は居ない。もしひかりが急に行方不明になったとしても、后は気にしないつもりだった。御岳鶴来を近くで見ていることができれば、それで十分のはずだった。

「あなたは、あの人の前に立つんですね……」

着替え終わった御岳に駆け寄っていく直前、后はそう言い残した。差し込む夕陽からの逆光で、ひかりの方からは、その時の后の表情を読み取れなかった。


雲と重なった赤紫の夕陽が、『扉』と重なって鈍く輝く。雲を透かして肉眼で見える程には弱まった光と、背景となった青とピンクがかった灰色の空。ひかりとひびき、ともみの三人は、初めて御岳と対峙した駅裏の公園に集まっていた。

「本当に、やるのか?」

ひびきの言葉はまだ確認ではなく、疑問と困惑を織り交ぜたようなものだった。口を引き結んで、小さく頷くひかりの横で、ともみが不機嫌そうに腕を組んでいる。ひかりが、ひびきと組んで戦うと言った時、当然ともみは怒った。あの化物相手に、戦いを挑むこと――よりも、先にひびきにそれを話したことについて怒っているらしかった。

「おい陸號、嫌なら付いて来なくてもいいんだぜ?」

ひびきが茶化すように言った。それは困る、とひかりが慌てて言おうとしたが、それより先にともみが噛みつくように言い返した。

「あんたは黙ってなさい!」

そして、ひかりの方に向き直ると、指を突きつけてこう叫んだ。

「ひかりの友達は、あ!た!し!勝手に二人で戦ったりなんて、許さない」

ひびきが聞こえるか聞こえないかくらいの声で、「……うわ、うっぜぇ」と呟いた。このままだと、また言い合いになりかねなかったので、ひかりは「そろそろ、行こうか」と言った。

これまでひびきが見張ってくれていたので、御岳の変身するおおよその場所も分かっていた。変身前に攻撃することはできなくても、奇襲を避けてこちらから仕掛けることはできる。そして、作戦はあった。けれど相手の底はまだ見えていない。

「怖いのか?」

ひびきが、ひかりの表情を見て言った。ひかりも、素直に頷いた。ここに立った時から、ずっと足は震えている。つい今しがたまで、御岳との越えがたい力の差を余すことなく見てきたのだ。油断すれば歯の根がかみ合わなくなって、まともに喋れなくなりそうだった。

「……うん、怖いよ」

ともみも、ひびきも、ひかりが夕暮れ戦争を辞めてもしょうがない――むしろ、その方が良い、とさえ思っていた。二人から見ても、ひかりは怖がりだったし、まして今のひかりの状況にあったとして、二人が戦うことを選択するかどうかも怪しかった。

「でも、ひびきは、わたしが戦わなくても、『夕暮れ戦争』に行くんだよね」

ひかりは、ひびきにそう問いかけた。戦うことも、死んでしまうことも怖かった。それでも前に進むための、きっかけが欲しかった。

――なんでもいい、糧も、行動する理由も、きっかけも。

「……ああ」

ひびきの短い返事を聞いて、その答えを待っていたとでも言いたげに、ひかりは頷いた。

「じゃあ、戦おう」

「じゃあ、って、なんでよ!?」

一人、歩き出したひかりの背に、ともみの困惑した声が投げ掛けられる。ひかりは一度だけ足を止めて、振り向いて言った。

「怖いから、戦うんだよ」

二人の眼には、ひかりは恐怖の中に覚悟が入り混じったような、不思議な表情をしているように見えた。


そして、戦いが始まった。前に進むための、命を懸けた戦いが。


――


ひかり達が変身したのと同時刻――赤紫の夕陽が差す横断歩道。薄暗くなっていく街路の中に、街灯と信号の明かりがぽつぽつと灯っている。練習帰りで、大きな防具袋と竹刀入れを背負って歩く后が、ふと口を開いた。

「わたしね、今くらいの時間が好きなんです。こうやって日が沈みかけて、街灯が点り始めるとね。ああ家に帰らないと、って思うんです。小さい頃に習い事とか友達と遊んだりとかしてると、このくらいにお父さんが迎えに来てね」

――少し、寄っていく場所があるから。

明日の部活でも使うはずの防具袋を、御岳は道場に置いてきた。そして不思議に思った后が問い掛けた后に、そんな答えが返ってきたのだ。それは御岳の、これ以上はついてくるな、という意思表示でもあった。后はまた、御岳の斜め後ろを影のように付き添って歩き始めた。

「火ヶ理さんの娘と、何を話していたんだ?」

「空や星は、こんなにも遠いからこそ、綺麗なんだって……そういう、大したことのない話ですよ」

いつも后は御岳へ一歩踏み出そうとするたびに、彼女を覆う透明な薄膜を感じていた。あの人は決して誰にも越えられない一線の先、世界の全てを呑みこむ程に大きな暗闇を抱えている。日常の振る舞いの全ては秘めたものを覆い隠すための鞘であり、その中身に触れさせないための鎧でもある。后はそんな彼女にこそ、どうしようもなく恋い焦がれていたのだ。

「――かもしれないね」

御岳の微笑みに、夕陽の影が差す。そして后の背中が消えるまで見送ってから、御岳は背後へと振り返る。少し前から自分をつけてきていた、黒髪に蒼い瞳の少年が、どこかへと駆けだしていく。どこかに誘い込もうとしている――それを理解していて尚、自分の正体を知る者を、見逃す選択肢は御岳には無かった。建物の隙間から覗く空の『扉』を見据えて、御岳は手を掲げる。そして彼女は、ただ一言で自らを表す『鍵なる言葉[キーコード]』を呟いた。

≪B-Blades/B-Blaze≫

御岳を包む紅い光が解けて、白い上衣と真紅の袴、黒いインナーを衣装とした魔法少女の姿が露わになる。御岳の中の全ての雑念は消し飛び、燃え上がる一つの意志が、それ以外の感情を全て焼け焦がす。巨大な漆黒の翼が夕空に広げられ、ただ殺す為の知性だけが、刃のように鋭く研ぎ澄まされていく。

≪set up≫

そして電子音声が、戦いの始まりを告げた。生きるために、命を奪う戦いの。


――


『駅向こう』の活気に溢れた繁華街から、ほんの数個の通りを隔てた場所にある廃ビル群。その中の一棟が、ひかりが選んだ戦場だった。ひかりはコンクリートの壁を隔てた向こう側で、目論見通りに追いかけてきた御岳の気配を感じる。大気を震わせる混じり気の無い殺気に、ひかり達は息を殺して手を握り合う――不安や恐怖のためではなかった。御岳が埃と瓦礫の降り積もった廃ビルの廊下を、ゆっくりと音を立てずに、三人の魔法少女を探して歩いているのが分かった。ひかりは衣服の胸の辺りを握りしめて、恐怖が過ぎ去るのを待ちたくなる衝動に抗った――決して、恐怖していないわけでもなかった。

『恐怖』という感情が生まれたのは、動物が危険を察知するためだ。ひかりはその恐怖――野性の直感によって、御岳鶴来がすぐ傍まで来ていることを感覚した。壁の向こうで同じように、御岳も狩る者の野性による超感覚で、息を殺していた獲物の気配を知覚していた。

――そこにいる。

それは全くの同時だった。ひかりは声を出さずに、ともみとひびきの手を握る。歩を進めていた御岳は、唐突にバネ仕掛けのような速さで、なんの変哲もない真横のコンクリート壁に刃を向けた。

≪fragile≫

突如として、御岳が刃を向けた先の壁が砕ける。巨大な穴によって繋げられた部屋の、さらに向こうの区画から剣と羽が御岳に向かって降り注ぐ。御岳は一瞬早く、刃を前に掲げながら穴の場所から身を離す。ともみの放つ硬化した羽の散弾が、御岳の肌を薄く切り裂く。それは御岳が『夕暮れ戦争』の中で傷を受けた、初めての瞬間だった。

ひかり達は深追いせずに、むしろ御岳が反撃の体勢を整えるまでに蜘蛛の子を散らすようにその場から逃げ去った。ひびきは迷路のように入り組んだ通路を、直角に折れ曲がりながら飛翔して姿を消す。ともみは脚を獣のそれに変化させて、ひかりを背負ってその場から走り去った。背後に流れ去る廊下――その隅に積もった灰色の埃と瓦礫を、差し込む夕陽が赤く染め上げている。御岳の気配が、確実に遠ざかっていく。

――恐怖を『乗り越える』必要はない。

誰だって分かってる。『ここではないどこか』へ行ったって、自分の心からはどうやったって逃げられない。自分を変えるなんて、口で言うほど簡単なことじゃない。だから、その事実を『受け入れて前に進むのか、立ち止まって抗うのか』を、選び続けなければならない。生きる道は、そのどちらかにしかない。

ひかりは己の欠落に、立ちはだかる困難に対して、選択を下していた。消えない恐怖を受け入れて、それを抱いたまま前に進む。それでも自分が戦うこと、思考することだけは、恐怖によって忘れてしまわないように。

≪ひかり、聞こえるか!≫

遠く離れたひびきの声が、ひかりの脳に伝わる。遠隔通信の魔法[テレパス]――ひびきが使い方を教えてくれた、敵に察知されずに意思疎通を取れる魔法だ。

≪アイツは防がずに避けたぞ、オレの剣の効果を知ってる≫

≪大丈夫、それならともみの攻撃が当たってるはずだから≫

ひびきの剣は、その効果故に自動障壁で防ぐのは致命的だ。そして防がないのなら、ともみの羽の散弾の連射は避けれない。そして御岳の狙いがひかりだけであるにしても、圧倒的に逃げ足で劣るひびきを追わなかったことには理由があった。御岳は先ほどから、床に大穴が空いていることに気付いていた。それは純粋な運動量によるものでもない奇妙な、ひびきのフラジール[脆化魔法]による破壊の痕だった。戦いが始まる前に廃ビルの足場を壊しておいたのは、蹴りつける地面を奪うことで御岳の脚力による加速を半減させるためだ。そして御岳の巨大な翼は、狭い室内では動かすことができないはずだ。同じような翼を持つともみの魔法は、あくまで動物の特質を取り込んで『自分の身体を書き換え』変身する魔法で、翼を畳んでもその機動力が衰えることはなかった。徹底的に『速さ』を潰すこと――それだけを目的に、この場所を戦いの舞台に選んだのだった。

御岳は手近な部屋に飛び込み、壁を背にして周囲を警戒しようとする――その瞬間に、背後の壁が砕けて数本と投剣が降り注ぐ。壁を破壊しての攻撃を予期していた御岳は、腰を捻って刀を振り抜き、放たれた剣を全て叩き落とす。真反対からの羽弾は自動障壁によって弾かれていた。飛び去ろうとするひびきを、御岳は脚力のみによって追い、斬り裂こうとする。

≪rejecter≫

廊下を完全に塞ぐ形で、黒い鋼の障壁が立ち上がる。御岳は咄嗟に魔法が放たれた方角に振り向くが、そこにも同じような障壁が立ち上がり、出入りが不可能になっていた。

≪あっぶねえ……≫

≪別方向から攻撃したら、別の方法で防がれる。三人とも同じ場所に集まった時に、攻撃を仕掛けるようにして≫

≪そんなこと続けてたら、いつか一網打尽にされるぞ≫

≪同じだよ。誰か一人でも落とされたら、わたし達は勝てなくなる――ひびき!≫

唐突に声を強めたひかりの意図を、ひびきは理解する。御岳が、ひかりの方角に立ち上げられた障壁を刃で斬り裂く――その瞬間を狙って姿を現したひびきが、投げつけられる限りの剣が御岳の背に投げつけられた。ほとんどは逸れるか避けられるかしたが、そのうちの一本が必中の軌道となり、やむおえなく御岳は自動障壁でそれを防ぐ。

≪fragile≫

ひびきの脆化魔法が発動する。御岳の障壁に、微かなヒビが入る――が、それだけだった。

≪マジにバケモンかよ……≫

ひびきの心底、嫌になったような声。ひかり達は今のところ距離と遮蔽物を保ち、一方的に障壁を削っている。だが、全く圧してはいない。こちらの攻撃は豆鉄砲に等しく、相手に一撃を受ければ、それで終わる。それを理解していて、ヒットアンドアウェイに徹しているのだ。

そして一方、御岳も今回の敵が一筋縄ではいかない、少なくとも今まで夕暮れ戦争で戦った中で最も厄介な敵であることを理解した。御岳は今、三人の魔法少女が組み立てている作戦を、発案者と同じほどに把握していた。

ひかりの魔法[リジェクター]で通路を『塞ぎ』、ひびきの魔法で壁を『開く』――この廃ビルは、彼女達の手でリアルタイムに書き換えることのできる巨大な立体迷路と化していた。その迷路の中を、彼女達は意思疎通を取りながら縦横無尽に駆け回り、御岳の攻撃可能な方向、位置には決して姿を現さない。利点を一つずつ潰し、自らが勝る部分での勝負に持ち込む――この上なく単純なセオリーに基づいた作戦を組み立て、指揮しているのはあの『翼のない魔法使い』だと、御岳は確信を持っていた。


ひかりは、そのセオリーを理解していなかった。ひかりは、少なくとも『夕暮れ戦争』に踏み込むまで、欠けている所は多々あれど、突出したものなど何も持たない、ただの子供だったのだ。大人より頭が回るわけでも、突拍子もない飛躍した思考を持つわけでもなかった。

――全てを糧にしろ。

――刃を振るう理由がどんなものであろうとも、その邪念を刃に込めるな。

――感情に乱されず、機械のように正確に、そして効果的に。

ただ、ひかりは恐怖で思考という刃を鈍らせないように、『立ち止まって抗うか、受け入れて前に進むか』のセオリーに則って考えただけだった。

近接戦闘で勝ち目はない――その事実を、『受け入れて前に進む』。徹底的に距離を保ち、何があっても近距離戦闘を行わないようにした。遠距離においても、一直線に開けてしまえば一瞬で距離を詰められて終わる。だから、前の戦いのような開けた場所での戦闘を避けた。この戦いに勝ち目はない――その事実にだけ、『立ち止まって抗う』ことを決めた。何か、僅かにでも勝ち得る部分、状況、可能性を模索し続けた。その結果が、ひかりの魔法と、三人の意思疎通によって成り立つ、地形そのものの任意での改造という手段だった。

御岳が物音を追って部屋を出れば、つい先ほどまで壁があった場所には大穴が開き、奇襲に退路を探せば先程までの通路には黒い壁が立ちふさがっている。無論斬り落とされれば通り抜けられてしまうが、通り抜けられる形に斬り裂く時間を作ってくれるなら、また新たな壁を生み出すことも、その隙をついて新たな攻撃を加えることもできた。御岳の身体には羽弾を避けきれずについた擦り傷が、自動障壁には剣を防いで生まれたひび割れが、着実に蓄積されていく。

それでも、作戦には完璧などない。ひかりは自分の考えた通りに、全ての事が運ぶことなど期待してはいない。ここは、お伽噺の世界じゃないんだから。そして、ひかりはそれすらも『受け入れて前に進んだ』。ミスを無くすことに血眼になるようも、作戦がどこかで破綻するその瞬間までに、御岳をどこまで削れるかを追求したのだ。どこか一か所で良い――皇后が言った通り、四肢と体幹の全てを余すことなく使い、あの速度の斬撃が成り立っているのだとしたら。一か所でも動かなくさせてしまえば、御岳の『速さ』は格段に落ちる筈だ。

そして、その瞬間――作戦の破綻を、御岳が自身の力で呼び寄せた。羽弾をガードしている御岳の背を狙って、ひびきの剣が投げつけられた瞬間。御岳は障壁を突然消し去り、背後から飛翔する剣の一つを見据え、羽弾をその身に受けながらも掴み取り――脆化の魔法が発生するよりも早く――障壁に突き立てたのだ。

≪fragile≫

ひびきの魔法の効果が発動して、障壁が砕け墜ちる。完全に無防備な姿のひかりとともみの姿が、遮蔽物のない状態で御岳の眼に映る。ともみの悲鳴の中で、ひかりはただ通路が『一直線』につながったことだけを認識する。

御岳は刀一本分遠い相手を、0.1秒で斬りつける。今の二者を隔てるのは、それよりははるかに長い距離、そしてその分必要な時間も長かった。0.1秒目――御岳とひかりが、彼我の距離を知覚する。0.2秒目――御岳が無理矢理距離を縮める為に、跳躍の準備として前傾になりつつ、脚がたわむ。狭い廊下を覆い尽くすように、炎のような翼が広がった。0.3秒目――≪ひびき!!≫ひかりの出せる限りの声量で叫んだ声が三人の脳に響き渡る。0.4秒目――御岳の腕がゆるやかに、ひかりの頭頂きっかりの高さを目掛けて伸び始め、その脚は限界まで溜めた力を解き放とうとする。そして、0.5秒目――御岳の身体が、床を砕くほどの力で蹴り出されようとしたとき、≪fragile≫突然、御岳の左足が床にめり込んだ。

「っ――!!!」

御岳は声こそ上げなかったものの、完全に不意を突かれた表情をしていた。床の『強度』が突然下がり、御岳の跳躍の為に蹴り出した脚が、割れた地面を突き抜ける。勢いのまま御岳は後ろ向きに体勢を崩し、そして見た。自身を狙って飛翔する、今までで一番多い羽弾と剣の群れを。

ひびきの羽は重力に影響されない『自身の速度の書き換え』であり、上下方向の素早い移動を可能とする。ひびきは自分の明けた大穴を伝って建物の階を行き来しながら、階下の天井に自身の剣を仕掛けていたのだった。

確実に障壁を割り、御岳に手傷を負わせるための、ひかりの作戦だった。ひたすら壁の作成と破壊に徹することで、御岳の意識を『前後左右』に集中させ、『足場の破壊』という可能性を彼女の思考から追い出したのだった。

御岳は咄嗟に身体の正中線を護るようにして剣を斜めに掲げる――その背を羽弾が穿つ、そして一切頭部や胸部を狙わず、ひたすらに四肢のみを狙ったひびきの投剣の一つが、御岳の右脚に突き刺さった。

≪……やったか!?≫

御岳がその場で膝をつく。脆化魔法[フラジール]を発動すれば、すぐにでも御岳の脚を破壊できる。いつでも脆化魔法を発動できるように構えて、ひびきは御岳の前に姿を現した。

≪なにやってんの!危ないわよ!≫

≪別に親切心から手伝ってたんじゃねーぜ、オレにも一つ知りたいことがある≫

ひびきの予想外の動きに慌てて叫ぶともみのテレパスに、ひびきは振り向かずにそう返す。ひかりとともみはどんな事態にでも対応できるように、背後の壁に隠れて御岳の動向に目を凝らす。そして、ひびきは口を開いた。

「……なぜお前は、『願い』を叶えていない?」

御岳を睨み付けながら、ひびきの声は微かに震えていた。その胸倉に掴みかからないのは、まだ御岳が刀を手放していないからだ。辛うじて自制を保って、数メートル離れた場所から、しかし声を荒げてひびきは問い掛ける。

「最強の魔法少女なんだろ!?何年も戦って、沢山の魔法少女を殺してきたんだろ!?なんで『リライト』をして願いを叶えて、『夕暮れ戦争』から去らないんだ!?」

ひかりは考えたこともなかった。もし『想いの欠片』を集めて願いが叶うのだとしたら、一度に十数の魔法少女を倒すことが出来る御岳が、願いを叶えていないはずがない。ひかりを狩るために御岳が襲ってきたという事実があり、御岳は『夕暮れ戦争』を続けた先のことを考えていて戦えるような相手でも無かった。

「私は『想いの欠片』に興味はない、願いは己の手で成し遂げる。それに私は、『魔法少女』を殺した事はない。今までは、そうだった」

「……なんだって?」

その場で膝をついた御岳の口から続けられた言葉は、問いかけへの答えではなかった。追い詰められているにも関わらず、異常なまでに静かな声に、ひかりの背筋が粟立つ。

「残念だよ、東大寺ひびき。お前が二度と姿を見せないのなら、追うつもりはなかった」

その声に含まれている感情は、躊躇いではなかった。哀惜や憤怒でもなく、ただただ静かに、そして荒涼とした――

≪ひびき、今すぐ脆化魔法を!≫

≪fragile≫

ひかりのテレパスよりも早く、ひびきの魔法の電子音声が響き渡る。そして御岳は、一切ひび割れる事のない右脚に突き刺さった剣を、ゆっくりと引き抜いた。剣だけが砕け散り、御岳の傷口は瞬時に修復される。

――御岳鶴来の『固有魔法』は、全ての魔法を無効化する刃だ。

御岳の襲撃を受けた者の全てが、そう考える。その攻撃の激しさに、それ以外の致命的な事実を見落としてしまうのだ。

『刃』とは鋭さだけでなく、その激しい激突に耐えうる強度を持つ鋼であることを、『炎』とは触れたもの全てを焼き尽くすだけでなく、それらを喰らってますます激しく燃え盛るものであることを。彼女はただの『不敗』ではなく、数多の戦いと敗北の末に辿り着いた『最強』であることを。それが行使するのは傷つけるだけの『暴力』ではなく、目的を達成する『力』であることを。

≪『書き換え』は発動したんだ。アイツの身体そのものにも無効化魔法が――≫

ひびきは絶望の滲む声で言った。ひかりの手を握るともみが、カタカタと小刻みに震えはじめる。御岳は何もなかったように、再び立ち上がる。そしてもう二度と、同じ攻撃を受けはしないだろう。

御岳鶴来の固有魔法。『魔法』を打ち消す力を持つのが、その刃だけであるという致命的な誤解。その刃が触れたものは発生の事実から打ち消されるが、それより数段低い効果でありながら本体もまた無効化魔法を持つ。ただ『己を対象とした書き換え』を受けないというだけの小規模な無効化。だがそれ故に、長い道程を経て御岳鶴来に一撃を与える機会を得たものだけが、その攻撃の失敗とともにそれを悟ることができるのだ。

「『人喰い道化』だ、火ヶ理から聞いたんだろう?私は、それを狩る」

その場に、その言葉の意味を理解できる者は少なかった。ただそれは憎悪の言葉ではなく、むしろ静かな宣告だった。これから相手が辿る末路の宣告であり、確実にそれを成し遂げるという意志表示。

あらゆる『書き換え』による現象を消滅させる防御不能の刃と、自身を対象とした『書き換え』を受け付けない身体。攻撃を受けてからか、辛うじてて攻撃を当ててからか、いずれにせよ手遅れになってから判明する、その二つの『無効化』が御岳の固有魔法だった。

「誰にも私を止められはしない……それが、私の魔法だ」

それと同時に、周囲に漂い始める可視化するほど濃密な魔力の波。それは触れたもの全てを焼き尽くす、真っ黒な『想いの塵』だ。御岳はゆっくりと手を掲げ、『鍵なる言葉[キーコード]』を唱えた。

「――“私の心臓は、憎悪で動いていた”」

御岳の黒い翼が、影や蜃気楼のように揺らぐ。辺り一帯に、大気の焦げ付いたような臭いが立ち込める。それが『炎』だ、とひかりは気付いた。あれは翼であって翼でないもの。羽ばたくための翼ではなく、ジェット機の噴射炎と同じようなエネルギーの出力そのものである『現象』が、漆黒の翼という姿を取っているだけだ。

≪B-Blades≫

そして、血色[バーガンディ]の刃が、

≪B-Blaze≫

燃え立つ黒色[ブラック]の翼が、

≪set up≫

突如として、眩いほどの白い輝きに包まれる。

「――逃げるよ!」

自失から誰よりも早く復帰したのは、ひかりだった。はっと我に返ったともみが、ひかりを抱えて一番近くの窓枠から飛び出す。そして追従するように、ひびきも窓枠から翼を淡く輝かせて飛翔する。

≪ひびきも一緒に連れていって!あの子の翼じゃ逃げ切れない!≫

≪あー、もう!≫

苛立たしげな声を上げながらも、ともみは空いた方の手でひびきの手を握る。ひびきも今度ばかりは憎まれ口を叩くこともなく、自身の速力の限りに御岳から遠ざかろうと飛んだ。

≪これじゃ重くて逃げきれないわよ!≫

速力で劣るひびきの手を引きながら、ひかりにしがみつかれた状態で飛ぼうとしたともみは、明らかに今までよりも遅くなっていた。それでも、ひかりは言った。

≪大丈夫、わたしが居る≫

≪rejecter≫

変身を完全に終えた御岳が飛び出そうとした窓を、目張りするよう黒い障壁が立ち上がる。それに、まだもう一つ、作戦[ここでやること]は残っていた。

≪fragile≫

一階の全ての支柱に仕掛けられた脆化魔法が発動する。突如としてビルが傾き、轟音を立てながら崩れていく。地形戦がなんらかのアクシデントで失敗した時、或いはこの場所を放棄して逃げざるを得なくなった時、このビルごと御岳を生き埋めにする次善の策だった。そして、ある程度の距離を稼いだと感じたあと、ひかりは後ろを振り返る。そして見た――先程とは比べ物にならないほど巨大な自動障壁、それを纏って崩れゆく床を蹴る御岳、その勢いとともに、散弾のように打ちだされるコンクリート片を。

御岳は馬鹿げた硬度を誇る自動障壁を纏ったまま『翼』の速力で壁に突進し、攻性の壁として使用――ダンプカーの突進のような勢いで、そのままコンクリート壁を破壊し撃ち出したのだった。そして瓦礫の弾丸は、ひびきの薄い自動障壁をたやすくぶち抜いて、ひかりの右手首から先を持っていく。

「ひかり!」

テレパスにするのも忘れて、ともみが叫ぶ。

「なんだありゃ!冗談も大概にしろよ!」

ひびきの罵声――もしビルに留まっていたら、おそらく壁や床ごとプレスされて全滅していただろう。けれど両者の間に遮るものもない、そして飛行速度ですら明らかに御岳に劣る現状は、限りなく全滅への道を辿っているに近かった。それを理解しながら、ひかりは左手と右肘だけでともみに掴まって、静かに言った。

≪ともみ、今は全力で逃げ続けて――生き延びる為に≫

赤紫に染まった空に、『扉』はまだ残っている。そして沈みゆく太陽を背にして、燃え立つ黒の翼が追ってくる。


――


≪rejecter≫

東から徐々に夜色に染まっていく空。その茜に染まる雲ほどに高い位置に、突如として巨大な正方形の障壁が出現する。同等かそれ以上に大きな黒い翼の持ち主が、続けて出現する相似形の障壁も難なく回避し続けながら障壁の主に追い縋る。それは雲の下で輝く『星』たちの交錯の一つであり、普通の人間の眼には映ることのない、命を懸けた全身全霊の戦いだった。

ひかりの障壁魔法[リジェクター]は今、かつてないほどの冴えを見せていた。障壁は空中に固定した状態だと、御岳に容易く斬り開かれてしまう。そのため、一枚目の障壁の陰になるようにして、もう一枚の重ねて置くようにした。あわよくば、刃を振りきった後の無防備な御岳が激突するように――つまり、障壁そのものを攻撃手段にするつもりで、ひかりは障壁を生み出していた。御岳鶴来がつい今しがた、やってみせたように。実際、御岳は障壁を抜け切れずに、やむなく自動障壁で跳ね飛ばすことで大きく速度を奪われていた。

戦っている最中に、作戦を立てる余裕などあるはずもない。ただ、己の知る限りの技をミスのないように、そして相手の動きや技に対応できるように、気力を振り絞らなければならない。あらかじめ立てた『作戦』が破れた今、戦いを決める要素は心技体――つまり、己の心と魔法の技量、そして変えようのない『魔法』そのものの差だけだった。そして、ひかりは『心』が御岳に勝っているとも思わなかった。御岳が自身の『技』を身につけるまでの、火ヶ理の語っていた狂気じみた努力――その証明としての現在の強さに、『心』について己が勝るなどと言えるわけもなかった。

御岳の戦う動機が憎悪であり、目標が何者かへの復讐であるとして。ひかりにその真偽を推し量る余地もなかったが、彼女がそのために、そしてそれ故に、ここまで強くなったのだと理解することはできた。ひかりはそれを『糧』に――己の歩む道標にした。自分は、怖いからこそ戦うのだ。己にそう言い聞かせることで、乗り越えられない恐怖を抱えたまま、『心』において御岳と同等に立った。

『技』と『体』では、それでもまだ遥かに劣る。彼女の積み重ねた戦いと研鑽の歴史を、そして彼女を組み上げた『刃』の理念を、たかが二ヶ月ほどの戦いだけで乗り越えられるとも思っていない。だが、こちらは三人だった。

縦に二枚並べられた障壁の隙間を、御岳は翼を畳んで、僅かに高度を落としながら通り抜ける――僅かにだが、加速が止まる。そして御岳が畳んだ翼を解き放って、一気に距離を詰めようとした瞬間を狙って、ひびきの剣が投げつけられる。全力で投擲された複数の剣は、さすがに御岳も手や剣だけで払いのけるわけにもいかず、自動障壁で一本を防ぎ、さらにもう一本は身体を捩じって回避する。

≪fragile≫

御岳の巨大な自動障壁では、一本分の脆化魔法ではヒビ一つ入れられずに弾かれてしまう。それでも、衝撃を与えて速度を殺すには十分だった。ともみは御岳の翼よりも更に巨大な、普段の二倍ほどの大きさの猛禽の翼で飛翔する――持ち得る限りの魔力を、全て飛行能力にだけ費やして。作戦の失敗、建物の倒壊から十分にも満たない攻防は、三人にとって日が昇ってから沈むまでよりも長い時間に感じられた。そして、まだ自分が生きているという奇跡――いや、篠崎ひかりの尋常ならざる障壁遣いの腕前に、ともみとひびきが心の中で感謝せざるを得なかった。

≪おい、どこに行くか決めてんのか!?≫

≪どこでもいい!開けた場所――だけど一瞬だけ、御岳が追い付くまでの一瞬だけ、少しでいいから身を隠すことができる場所!≫

≪もうっ、重いのよ、ひびき!さっさと、降ろさせてよ!≫

≪るっせー、駄賃替わりに足止め手伝ってやってるんだから黙って飛びやがれ≫

御岳の攻撃の合間を縫って口々に交わすテレパスの中で、ともみの声だけが途切れ途切れだった。限界が近い――魔力の消費という点に関していえば、ひかり以上に消耗していたのだ。

≪もうすぐ廃工場に着くから!≫

三人は、ひたすら『扉』の方角へと飛び続けていた。『扉』は蜃気楼のように、近付けば近づくほど遠ざかっていく。これ以上逃げ続けても、勝機は見えない――そう判断したひかりは、目下に廃工場が見えてくると同時にそう言った。

≪rejecter≫

ともみが高度を落とし始めると同時に、ひかりは地面と平行になるように、上下で御岳と自分たちを隔てるように障壁を生み出した。減速の隙を突かれないようにするため、そして目くらましの意味もあった。廃工場の中に身を隠し、次なる策を編み出す時間をつくるための。今度こそ決着をつけることになる――確かな予感が、ひかりの胸の内にあった。


――


三人とも、暮町の廃工場の中へ入るのは、これが初めてだった。外も薄暗くなってきているが、中ほどではなかった。平時であれば不安を掻き立てるような暗闇も、今は襲撃者から身を隠すための安息の場所となっていた。ひかりは両隣の二人と同じように膝を抱えて座り込み、息を整えながらも、自分の限界まで頭を回転させて勝利への道筋を模索していた。

やはり『立体迷路』だ。御岳の名前も知らないまま襲われた、最初の戦いから考え続けていた。それ以上の策は浮かばない――少なくとも今、御岳が自分達を見つけるまでの短い時間では。

もう一つ、今の戦いを通して得たアイデアが一つあった。しかし、それを実現し得る状況に持ち込むためにも、作戦が必要だった。もっとも地盤の上に立ち上げた障壁でも、御岳の自動障壁による突進で根元から吹き飛ばされてしまうだろうから、先程の作戦をそのまま流用することはできないだろう。考えろ、考えろ、考えろ――

そして、ひかりはふと、隣から小さくしゃくりあげる声が聞こえることに気付いた。

≪もうやだぁ……なんで、なんでこんなことになってるのよ……≫

ともみは膝の間に顔を埋めるようにして、震えながら泣いていた。ひびきもそれを責めることもなく、精根尽き果てたような表情で俯いている。

≪あんなやつと戦うなんて、最初から無理だって分かってたじゃない……≫

喚かずにテレパスを続けるくらいには自制も保てている。けれどそれもいつまで続くか――といった状態だった。もはや限界が近いか、とうに限界など越えて、己の中にある意志も枯れ切ったような、沈鬱な空気が廃工場の一角を支配する。そしてひかりは、ともみの涙が伝う頬に、そっと手を触れた。

≪……ね、ともみ。それに、ひびきも≫

頭で考えて、話し始めたわけではなかった。ひかりの中の、自分では気付かない無意識の想い、これまでに辿ってきた道筋、或いは手に入れた『糧』。無秩序に散らばったそれらが、言葉にすることで自然と繋がっていったのだ。

≪わたしね、怖がりなんだ。きっと、あなた達とは比べ物にならないくらい。勇気なんて、一度も持ったことがなかった――今も、そう≫

今までずっと、今と同じくらいの激しさの、理由のない恐怖のなかで生きてきた。そしてようやく、それを乗り越える何かを手に入れたのだ。そんな実感が、ひかりの脳裏に閃いた。

――無駄なものなんてない、全てが肯定される。

――そんな言葉、信じてない。ここはお伽噺の世界じゃないんだ。

違う、『糧にする』のだ。全てを糧に。自分の経験した正も負も、敵も、意味があるのではなく、自らが意味を与える。前に進むためのヒントや鍵、突破口として利用する。それが、どんなものであろうとも。全てを、進むための意志、燃料として。

≪わたしはね、強くなりたくて、自分を助けてくれた強い人に憧れて『夕暮れ戦争』を始めたの。御岳鶴来と戦うことを選ばなかったら、きっと前の『居ても居なくてもいい自分』に戻って、諦めた自分から逃げられないまま生きることになってた≫

そして、今この瞬間に戦うことをやめれば、待っているのは至極単純な死という結末だ。ひかりを未だ戦いに突き動かし、希望を捨てさせなかったのは、それでも『恐怖』だった。眼を逸らし続けていた弱い自分は、今も自分の中にあった。それを乗り越えるのでもなく、否定するのでもなく、自らと切り離せないその根源こそが、ひかりの意志の火をより強く燃え上がらせる。

≪怖くても、怖いからこそ、戦うの≫

――変われるのなら、変わりたい。

――そのための『きっかけ』はなんだっていい。

いつか、火ヶ理と交わした言葉が思い出される。

≪そう、わたしは怖い。自分が死ぬのも、傷付くことも、怖くて死にそうになるくらい。けど、知っている人が死んだり傷付いたりしてしまうのは、もっと怖い。初めて手に入れた希望を、諦めて前に戻ってしまうことも≫

自分はかつて、歩き出すことを拒絶[reject]していた。今は、止まることを拒絶[reject]している。前に戻ることが、怖い。綺麗だと思ったから、それを追いかけ続けていたい。たとえ、死んでしまったとしても。

≪ともみ、ひびき。あなた達と出会って、話して、戦って――わたしね、はじめて、友達ができたと思ったの。わたしのせいで、友達が傷付くのが怖い。だから、戦うの≫

光を諦めて、あの終わるのを待つだけの死んだような日々に戻るくらいなら。そんな自分に戻って生き続けるような寿命、消えて無くなってしまっても構わない。そんな、いっそ破滅的とさえ思えるような恐怖さえ、ひかりを突き動かしていた。

≪わたしは、怖いよ。戦うのが――それよりもっと、戦えなくなることが怖い。わたしはね、今の自分を変えたくて、戦っているの≫

ひびきが顔を上げる――ひかりは初めて、自分の戦う動機を彼女達に明かしたのだ。

――誰か助けに来てくれるわけでもない。待ってたって、手を差し伸べる人も居ない。

――自分に特別秀でた才能があるわけでもない、むしろ欠けているくらい。

――しどろもどろで、失敗ばかりで、知識があったり、機転が利く訳でも無い。

――それでも、変わりたい。前に進みたい。その気持ちに、嘘はない。

≪行こうよ、ここじゃないどこかへ――もっと前に、進もう≫

『ここではないどこかへ』、その言葉に、新たな意味が与えられた。逃避ではなく、前進の。

――変わりたい、もっと、今よりも明るい場所へ。

そしてひかりは、自身が『変わった』ことを知覚した。最初の一歩を踏み出すのは自分だ。仲間、機会[チャンス]、才能と呼ばれる、予め持っていた力、全て、自分の手で掴み取るものだ。誰の言葉を聞いたとしても、『こちら側』や『あちら側』、どんな『世界』に生きているとしても、踏み出すのはいつだって自分だ。ひかりは確かな意志で、叫んだ。

≪――勝とう!≫

言葉が返ってくることはなかった。それでも二人にかがり火のような、微かな戦意の炎が息を吹き返すのが分かった。どれだけ小さな火でも、明確な火種があるのなら、風に吹かれたくらいで消えはしない。


――そして、その言葉を待っていたかのように。

≪B-Blades≫

――戦意の炎を跡形もなく押し流す津波のように。

≪B-Blaze≫

唐突に、取り返しのつかない程の近距離で、電子音声と、

「――“私の心臓は、憎悪で動いていた”」

秘められた暴虐性と裏腹に静かで、落ち着いた声音の≪キーコード≫が響き渡る。

≪ひかり、ともみ、後ろの壁の向こうだ――!≫

真っ先に気付いたひびきが、声を張り上げる。それでも、もう、手遅れだった。

≪こっちの隠れてる場所は、とっくにバレてた!ヤツは変身を解除して魔力放射を消したまま、確実に倒せる位置に移動していただけ――≫

突如として、三人が背を預けていた金属の壁が膨れ上がり、破裂する。

≪set up≫

破れた壁の向こうから姿を現した御岳は、まるで赫色の悪魔のように――これから夜が来る、それこそが自らの時間だとでも言うように、昏く、眩く[くらく]、黄金色の瞳が輝いている。その姿をはっきりと見ることは叶わなかった。立ち上がり、振り向こうとした三人を、自動障壁の発生とともに津波のように捲れ上がった金属の床が撥ね飛ばしたのだ。

≪rejecter≫

ひかりは絶望に満たされながらも、それでも戦う意志を失わなかった。薄れかける意識の中で、己の放ち得る限りに巨大な障壁を、立ち上げられる限りに立ち上げたのだ。


――


≪――篠崎、おい、篠崎!≫

ぱらぱらと降りかかる瓦礫の粉と、テレパスの主が見下ろす顔――数十秒後に意識を取り戻したひかりが、最初に気付いたことだった。そこは先ほどの場所から少し離れた工場内――半分ほど崩れてはいるが、まだ身を隠すことのできる場所だった。そして次に、そこに居るべき者が欠けていることに気付いた。

≪ともみは!?≫

がばりと身を起こしてそう問いかけると、ひびきの顔が一瞬だけこわばった。

≪――まだ、生きてる≫

その声に含まれた溜めと、苦々しい口調の意味を、ひかりはすぐに理解することとなった。

「聞こえるか、篠崎ひかり」

その声は、工場の外の開けた土地から聞こえた。御岳鶴来の、その力と脅威に不似合いなほどの静かな声。

「三十秒以内に出てこなければ、こいつを殺す――お前以外は、見逃してやる」

そして、ひかりは見た――御岳の刀に脚を貫かれ、悲鳴を押し殺しながら涙を流す、ともみの姿を。彼女の変身は解かれていた。刀によって自身の『書き換え』――変身を打ち消されたのだと理解した。立ち上がったひかりの背に、ひびきが遠隔通信魔法[テレパス]で叫ぶ。

≪篠崎!お前、言ったよな。“戦おう、前に進もう”って≫

それは祈るような、縋るような声だった。ひかりは一度だけ振り返って、いつものように小さく微笑んだ。

≪――あとでね≫


ひかりは両手を上げたまま、ゆっくりと御岳の方に歩み出す。木枯らしが衣服の中へと滑り込んでくる。かつて、初めてこの廃工場へ訪れた時のことを思い出す。けれど、脚の震えが止まらないのは、寒さのせいではなかった。

――怖い。

御岳はずっと前から気付いていたように、ひかりの方を向いて刃を突き出していた。抵抗することは許すが、逃げる事は許さない、そして自分は必ずお前を殺す、とでも言いたげな姿だった。

「わたしは、怖い」

今度は、口に出して言った。眼があった瞬間に切り捨てられる、といった、恐れていた事態は回避できたようだ。だから、あとは御岳に意図を理解されるまでに間に合うかどうかだった。

「生まれてからずっと、怖くないものなんて無かった。だから、ずっと、『居ても居なくてもいい自分』のまま生きて、授業が終わるのを待つみたいに、わたしの命が終わるまで待ち続けるつもりだった」

ひかりは御岳鶴来の姿を見る。己を殺そうとする、圧倒的な力の持ち主を。そして白い少女とそれに連なる全ての『ボルテージの高さ』を持つ人間達のことを結び付けて、その姿に『美しい』という純粋な感動を覚えた。

「でもね、わたしは憧れてしまった。『力』に、『強さ』に、焦がれてしまった。生まれて初めて、そこに光を見たんです。今は、諦めること、止まってしまうこと、前に戻ってしまうことが、なによりも怖い」

今や一人、御岳と正対して立つひかりは、己の魂のままに言葉を紡ぎ出す。御岳はひかりの言葉を撃ち切る声も、刃も、投げ掛けることはなかった。篠崎ひかり――いや、『翼の無い魔法使い』について御岳もまた知らなければならないことがあったのだ。ひかりがそれを知ることになるのは、もう少し後の話になるのだったが。

「だから、戦う。友達が傷付くのが怖いから、護る。止まってしまうのが怖いから、あなたを倒して前に進む。そのために、この『恐怖』さえも燃やして――前に進むための力に換えるんです」

ひかりの語ったそれは、『糧』よりも進んだ、次の概念だった。それは『魔法』という現象そのものと本質的に同一なものだった。『魔法使いの条件』――誰にも見えない、分かり合えない孤独な苦しみや、あまりにも早く知ってしまった、未来永劫抱えていく事になる癒えない傷痕を。『書き換える』力――それでも自らを、或いは世界そのものを変えるための、原動力にする。

――燃料にするんだ、どんな痛みも欠落も。最適な手段を選び取るために、『刃[しこう]』を鋭く研ぎ澄した上で。己の目的のために、燃や[Blaze]してしまえばいい。

「――“ここではない、どこかへ”」

ひかりは、鍵なる言葉を唱える。その魔法を使うのは、『明かす』ことが条件だとひびきは言っていた。御岳もようやくひかりの意図を理解し――己の失策を悟り、全速力でひかりの頭部を叩き割ろうとする。が、それよりも、ひかりのその魔法の方が早かった。

「――“もっと前へ”!!!!!」

≪cord release: rejecter≫

――自分の限界を一時的に取り払って、真の力を発揮するための『最後の魔法』だ。

ひかりのそれは、障壁そのものの特性や、性能を変化させることはなかった。ただ、ひかりの望んだ通りに、常軌を逸したほどの馬鹿げた魔力量――己の『恐怖の大きさ』そのものを『燃やし』、『ボルテージの高さ』へと変化させる魔法となっていた。

≪“The Maze”≫

その魔法が発動すると同時に、廃工場の天辺にまで届くほどの、数十もの巨大な障壁が立ち上がる。それらは途中で枝のように垂直方向に新たな障壁を発生させ、迷路のように深く、深く組み合わさっていく。ひかり、ともみ、御岳、ひびきの四人ともを隔てた障壁の森は、ひかりを中心に廃工場そのものさえ覆いかねない程巨大な立体迷路に成長していく。

≪――ひびき!≫

ひかりはテレパスで、姿を隠していた仲間に叫ぶ。どこかへ逃げてしまったのではないか?もう一度御岳へと立ち向かうことを、拒否してしまうのではないか?そんな不安は、

≪――ったく、どこまでも付き合わせやがる≫

すぐ近くで響いた、いつもと変わらない悪態のおかげで消え去ったのだった。


――


圧倒的なエネルギーと、その精緻な制御――『炎』と『刃』。ひかりは己が憧れたそれを、一時的にであれ手にしていた。障壁は2m×2m×2mの立方を一つの区画[マス]として、時に隣の区画と壁で隔たり、時に壁を取り払って繋がり、ひかり個人の演算だけでリアルタイムに書き換えられ続ける大迷宮。全てが御岳の自動障壁ですら弾けない分厚い鋼板で構成され、総質量は優に一万トンを超える。それがひかりの魔法、『The Maze』の力だった。

その中を、ひびきと御岳が疾走する。マスごとの移動速度は、ひびきが御岳の倍以上を保ち続けている。鋭角の軌道が可能なひびきの翼の相性だけではなく、ひびきが通るためのルートをひかりが次々と開けているのだ。ひかりは、御岳の位置を知覚することはできなかったが、彼女が壁を通る為に放った斬撃と魔力無効化の刃のおおよその位置を推測して、その近辺を全て壁で塞いでしまうことは可能だった。

≪ともみは迷路の外に引っ張り出したぞ!≫

≪ありがとう、それじゃ――≫

≪おい、一回逃げて、ともみが戦えるようになるまで待った方が良いんじゃないのか!?≫

≪駄目だよ、ここで逃したら、きっとこの魔法にも対策を立てられる。今ここで、勝負を決めよう≫

ひびきとテレパスのやりとりを続けながらも、ひかりは迷路の演算を止めなかった。一つでも区割りの設定を間違えれば、それが死に至るミスになる。御岳鶴来は迷路の中のひびきには構わず、迷路が発生する前のひかりの位置を目指して一直線に進んでいるのが分かった。

――プレッシャーで、思考を乱すな。

――それすらも意志の力[エネルギー]に変えろ。

――そして思考は鋭く、研ぎ澄ませ。

次々と障壁を斬り開き、こちらに突進してくる巨大な力の濁流――御岳鶴来の気配を、ひかりは静かに知覚した。もうじき、自分の居る迷路の外側に辿り着くことも分かっていた。決着は近い――演算と魔法の力に耐え切れず、ひかりの視界は微かにぶれ、鼻血が噴き出した。その一瞬の隙を狙い澄ましたかのように、閉鎖が間に合わなかった区画の壁が閉じ切るまでに潜りぬけ、御岳は十数の区画を一気に通り抜ける。そしてひかりの場所へ至る為の、最後の障壁――迷路の出口を斬り開いた、その刀が振り切られて無防備な瞬間を狙い澄まして。

「おおおおるるるるるぅあああああっ!!!!」

障壁の向こうから飛び込んできたひびきが、全力で剣を振りきった。御岳はのけ反って、咄嗟に致命傷を防ごうとする――ひびきの斬撃は、御岳の右腕を斬り飛ばす。

≪――やった!≫

これで御岳の、瞬速の斬撃は奪われた。そう思ったのもつかの間、御岳はその場で独楽のように身体を傾けながら、超速で回転する――その回転の終点、刃にだけ気を取られていたひびきの顎を、御岳の後ろ回し蹴りが薙ぎ払った。

「…っがぁ!」

うめき声を上げて、迷路の壁に叩きつけられたひびきは、辛うじて残っていた意識を振り絞って叫ぶ。

≪ひかり、逃げろ――!≫

御岳鶴来は、迷路の外に出ていた。御岳の脚は奪われていない、障壁で彼我の位置を隔てるのは間に合わないだろう。その中で、ひかりは一切取り乱さず、想定内の現状と、最後の『策』のために必要な条件の達成の仕方を考えていた。刃のように鋭く、そして冷静に。

条件1――近接戦闘の間合いであること

条件2――最初の一撃を防ぎ、次の攻撃を放てない状況に持ち込むこと。

条件3――気付かせないこと。気付いた時には、逃げられないようになっていること。

≪rejecter≫

ひかりが障壁を立ち上げる。御岳はそれよりも早く、ひかりの懐に潜りこんだ。篠崎ひかりは誰かと組んで、障壁によるサポートを行う以外に勝ち方が無いと、ひかりの仲間ですらそう思っていた。そして吹き飛ばしたひびきと、救出されたともみが戦線復帰するまでに決着をつけなければならないという思考が、御岳の用心深さをいくらか奪っていた。御岳は立ち上げた障壁の、こちら側に居る――既に条件1と3を満たしていた。

――そして、条件2。

片手で振り上げられた御岳の刀は、それでも尋常ならざる筋量によりひびきの斬撃の数倍の速度を誇っていた。その斬撃は、ひかりの斜め上から袈裟斬りに侵入し――そして、その肩口に数センチほど食い込んだ所で止められた。

「……っ」

御岳が声にならない声を漏らす。全ての防御を無効化する、最強の刃――止められたのは、それを持つ片腕。御岳の手首を抑えつけるように、小さな障壁が立ち上がっていた。そしてその障壁は、ひかりの破砕された片腕の先、身体そのものから立ち上げられていた。

――これで、条件は全て満たされた。

御岳鶴来は初めて、少女の眼を見た。ただの子供としてでも、『翼の無い魔法使い』としてでもなく、篠崎ひかりという少女の眼を。見開かれたその眼は、『倒すこと』に没頭していた。真っ黒な瞳は、まるで猛禽のような、『目的を遂げるため』だけに相手を見る眼だった。少なくともヒトのものでは、そして喰われる者の瞳ではなかった。御岳鶴来の姿を食い入るように見つめているその瞳に映るのは、憧憬、感動、或いは――欲望。ただ、『糧』を求める眼だった。

――【いただきます】と【ごちそうさま】を忘れずに。

ひかりは、その一言を思い浮かべながら、その魔法を打ち放った。

≪rampart≫

ビル一個ぶんくらいありそうな巨大な障壁が、御岳の身体に直接ぶち当てられる。揺るがぬ大地を支えとして斜め上方向に『書き足され』る障壁は、生成されて立ち上げられる勢いと数トンの重量をそのままに、全ての防御を打ち砕く破城鎚と化す。それは御岳の使った攻性の壁――自動障壁を纏ったまま翼の速力による突進で、コンクリートの壁を打ち砕いて射出、己の片腕を破砕した技を『糧』としたものだった。

ジャンボジェットの直撃に等しい運動エネルギーが、御岳の強化された身体の筋線維と骨を粉々に砕き、そして宙へと撥ね飛ばす。或いは御岳が上げたかもしれない呻き声や悲鳴は、障壁の轟音にかき消されて聞こえなかった。

≪――やりやがった≫

ただ、辛うじて立ち上がっていたひびきが、呆れたような声でそう言ったのが聞こえた。


――


「大丈夫か!?」

ひびきの声で、ひかりはようやく我に返る。

「すぐに御岳を……」

弾き飛ばされ、地に落ちた御岳は満身創痍の状態だった。翼はもげ、脚はあらぬ方向へ折れ曲がっている。だが意識を取り戻して、自動治癒によって再び動けるようになるのも時間の問題だった。或いは今も気絶したふりをして、攻撃の隙を伺っているのかもしれない。

「……どうする」

ひびきはそう問いかける。その意味は明白だった。一度戦闘不能にした所で、御岳の襲撃が止むわけではない。どうにかしてこれ以上こちらを襲ってこないように説得するか、そうでなければもう二度と戦えないようにしなければならない。それは恐らく、御岳の命を奪う以外の方法では不可能だった。


――御岳が『翼の無い魔法使い』を狙い、狩り続けていた理由。

そして今の『御岳鶴来』を作った根源である『人喰い道化』の事件について、ひかりは気にも留めなかった。戦いのために必要でないことを考えていて、生きて帰れる相手ではなかったからだ。それらを一繋ぎの事実として考えられる手がかりを持っていた陸號ともみは、まだ御岳の過去について聞かされていなかった。

「御岳鶴来は一体、『何』を狩ろうとしていたんだ……?」

ひびきだけがようやく、それが篠崎ひかりという個人でないことに思い至る。そして、ふと生まれたその疑惑に、ひびきは背筋が寒くなるのを感じた。

「ひかり、お前はこいつと因縁なんて無いんだろ?じゃあ、『翼の無い魔法使い』って何なんだ?」

自分達は確かに、『最強の魔法少女』を倒した。だが『最強』であるはずの御岳は、何故あそこまでひかりに執着し、警戒していた?この先には何が待っている?『夕暮れ戦争』を続けたこの先に。

「……魔術師だ」

一瞬だけ意識を取り戻した御岳が、辛うじて呟くのが聞こえた。空には一点の黒い影があった。

≪――≫

ひびきが一瞬早く、微かに響いた電子音声に気付く。

「危ねえっ!」

ひかりが手を引かれて後ろに下がった直後、目の前に巨大な氷柱が突き立つ。それは、二人が一度目にしたことのあるものだった。轟音と地響きを巻き起こす巨大な質量、土煙が巻き起こり、晴れたその場所に御岳の姿はもうなかった。

御岳を抱え上げる、氷の翼を持った一人の少女が目に映る。氷を操り、喪服のような黒いドレスを着たその少女と、ひかりもひびきもかつて戦ったことがあるのを思い出す。

「おいっ、獲物を横取りする気か!『想いの欠片』を――」

ひびきが焦ったように叫ぶ。横取りした御岳に、とどめを刺すつもりだと考えたのだ。しかし、そうではなかった。

≪Grand Guignol≫

少女の、氷の翼が溶け落ちる。御岳との戦闘で砕けた廃工場の瓦礫が、ひとりでに浮き上がる。そして空を埋め尽くす数百の礫片は巨大な氷を纏い、その巨大な質量のままひかりとひびきへと切っ先を向ける。

「……翼の無い魔法使い」

ひびきがその名を口にすると同時に、数百の氷の弾丸が放たれた。ひびきは咄嗟にひかりの首根っこを掴んで、自身の『翼』によって後ろへと飛び下がる。氷に包まれ、不可思議な力で叩きつけられるコンクリート片や鉄骨の弾丸に、ひびきの薄い自動障壁がみしみしと音を立てて砕けていく。

ひかりを抱えたまま追尾する弾丸をかわしきれるほど、ひびきの『翼』は強くない。『障壁[rejecter]』の魔法がなければ、自分達はあと数秒もしないうちに氷塊に押し潰されて死ぬだろう。ひかりにそう言おうとして、ひびきはようやく腕の中の少女の様子がおかしいことに気付いた。

「おいっ、どうしたってんだ!?」

ひかりの腕の先も、既に自動治癒によって元通りになっていた。残っているのは最後に受けた肩口への浅い傷だけで、それにしては不自然なほどひかりは消耗して、ぐったりとなっていた。≪fragile≫ひびきは毒づきながら剣をやみくもに投げ放ち、迫り来る礫片をいくつか『脆化』によって粉々に砕け散らせる。だが氷の弾丸はあまりにも数が多く、そしてその全てが寸分たがわぬ追尾で、ひびきの自動障壁を削っていく。

「分からない……」

不思議そうに口を開くひかりの眼は虚ろで、荒い息とは裏腹に、その肌はまるで氷のように冷たくなっている。それが御岳の一撃によるものであることだけは、ひかりにも分かっていた。そして目の前の氷を操る『翼の無い魔法使い』が、御岳との戦いで自分がこうなるのを待っていたらしいということも。

その『氷の弾丸』使いは、決して御岳鶴来よりも強いわけではなかった。だが自らを死に追いやるものが、必ずしも自らより優れているわけではないのだ。それは防ぐことも避けることもできない、ただ相手を殺すという性能に特化した『魔法』だった。能力の高さや戦闘経験の積み重ね、読み合いや意志のぶつかり合いなどを排除して、ただ単純に、それ一つだけで人を殺すに足る、余りに異質な武装[まほう]。

ただ一度だけ耳にしたことのあるその魔法の名を、ひびきは最後に呟いた。

「殺しの魔導[キリングマジック]……」

正体も分からない魔法に、わけもわからないまま殺される。それが『現実』だ、『この世界』だ、とでも嘲笑うように。コンクリ壁の骨組みとなっていた錆びたボルトが、ひびきの喉元に迫る。既に自動障壁はなく、それの到達が自分の余命だとどうしようもなく、分かっていた。そして「……ああ、くそったれ」ひびきが眼を閉じようとした、その時だった。

≪sepia note≫

たった一瞬にして、全ての瓦礫が撃ち落とされる。突如として空中に現れた数百丁の対物ライフルが、一切の狙いを外さず同時に、ひとりでに火を噴いたのだ。白い光を纏った少女が、ひかりとひびきの前に降り立った。「ここから先は、僕の仕事だ」少年のような線の細い顔と、すらりと伸びた腕にそぐわぬ重厚な銃を抱えて、白い少女はそう言った。

「篠崎ひかりを、お願いするよ」

翼のない魔法使いは不利を悟り、御岳を脇に抱えて飛翔して遠ざかろうとする。その背に向けて数十発の弾丸が放たれるが、全てがその馬鹿げたスピードと、礫片を浮き上がらせ凍らせた不可思議な力によって回避される。ひかりを背負い上げて、ひびきは辺りを見回して歯噛みをした。御岳が撥ね飛ばされたのを追って来たここは、廃工場から少し街に近くなった道路沿いだ。けれども行き交う車はほとんど無く、変身を解いたとしても呼べる助けもない。

「どうする、救急車――」

ひかりは相変わらず苦しげな表情で荒く息をしているが、その鼓動はひびきに感じられないほど弱々しかった。「病院はだめ、母さんに……」ひかりが呟くが、ひびきにその言葉を妙に思っている余裕はなかった。

「――ひかりは!?」

ようやく回復して追いかけてきたらしい、ともみの声が後ろから聞こえてくる。ひびきは開口一番それか、と呆れながら振り向いて今起こったことを簡略に伝えた。そして聞き終えるとすぐに、ともみは奪い取るようにしてひかりを抱え上げ、巨大な『翼』を広げる。

「ひかり、家の場所を教えて!」

ひびきは力強い風圧に目を細めながら、ただ言い様のない違和感を感じて、空を見上げていた。夕陽は既に沈んで群青の空が頭上に広がっている、いつもなら『扉』が消えて、自分たちの変身も解けているはずの時間だった。魔法少女の纏う光も、本当の星も見えない曇り空。


不意にひびきの頭上で、金属の擦れる甲高い音と、空間の揺れるような重い鳴動が起こる。廃工場の上空にそびえる『扉』が大きく開け放たれて、その向こうからコールタールのように真っ黒な闇が覗いていた。ひかりだけが目にしたことのあるその光景。前と違うのは、自らが引き込まれるのではなく、そこから現れるものがあったことだ。『扉』の向こうからは、真っ黒な何かが空を染め上げるように溢れ出していた。

「……何が起こっているんだ?」

光を曳いて空を駆け抜けていく、翼を持たない二つの星。恐ろしい何かが始まるような、そんな予感にひびきは背筋を粟立たせる。

――最強の魔法少女を倒して、『夕暮れ戦争』を続けた先に待つもの。

ひかりもひびきも、その果てに待つものなど考えず、ただ一心に己の願いのために戦い続けていたことだけは共通していた。彗星のように行く先も決めず、ただ光を求めて飛び続けるイカロスのように、やがて燃え尽き、墜ちて死ぬならそれでも構わないと。

――そしていつの間にか、取り返しのつかない所まで来てしまったんじゃないか?


/第四話:『炎と刃[B-blaze/B-blades]』


⇒最終話:『魔術師[night maker]』

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