第二話:『始めの第一歩』
――
『夕暮れ戦争』が終わり、夜が明けて、次の日を迎える。人々の日常も、そして『夕暮れ戦争』も何も変わることなく、ただ時だけが過ぎ去っていく。夕暮れ戦争は篠崎ひかりのために起こった大事変ではなくて、これからも彼女が居ても居なくても、変わらずに行われ続ける。ひかりが魔法を知るきっかけになったあの白い少女にとっても、ひかりはただ通りすがりに助けた一人でしかないのだろう。
自分が居ても居なくても世界は変わらない、そういう風に生きてきたのなら、これからもずっとそうなのだろう。自分だけを必要としてくれる人も、自分をここではないどこかへ連れ出してくれる特別な人間も居ない。突出した才能を持っているわけでもなければ、退けない理由や何かを守りたいという意志を持っているわけでも無い。ただ一度憧れた力は、自分には決して届かない場所で、星のように輝き続けるだけ。ひかりが夕暮れ戦争に参加したのは一度きりだし、参加する時に手続きや契約があったわけでもない。あとはひかりが自身の叶うはずのない願い、届くはずのない憧れと、瞼の裏に焼き付いた夕暮れ戦争の景色、心に刻み込まれた高揚を、忘れ去ればいいだけのことだった。
暮町の静かな街並みの一角、昨日の『夕暮れ戦争』の主戦場となった駅裏の古びた公園にも、いつもと変わらず真昼の明るい陽射しが差し込んでいた。あるのはシーソー、ブランコの支柱、滑り台やジャングルジムといったありふれた遊具の塗料は剥げて、生垣のコンクリには苔が生している。その公園の中心に位置する場所にはマンションの一室くらいの広さのコンクリート台があり、音量を絞れば音楽を流しても高台を囲む柵と公園の周りの樹木に遮られて外には聞こえないことから、かつては集会やラジオ体操に使われていたらしい。今では治安の悪さから子供は寄りつかなくなって、陽が傾くまでは誰も居ないと思われていた夕暮れの公園に、いつもと変わらず一人の男の姿があった。その長身痩躯の男は小さなラジカセから流れる、リズミカルなドラムの音に合わせて踊っていた。人気のないその場所で男の脇にもう一人、小さな少年がその踊りを見ていた。
――最初にそれを見たのも、同じ場所、同じような時間だった。
東大寺ひびきは額から流れる汗を手で拭いながら、そう思い返す。床に敷かれたマットから垂直に伸びあがる細く、けれど筋肉質に引き締まった腕が、男の身体をたった一本で支える。反対の手と身体全体でバランスを取りながら、片手で倒立し身体を浮き上がらせる。その踊りはタービンのように鋭く、風に舞う花弁のように軽やかだった。
曲の進行に合わせて踊りは様相を変え、右手、左手、右足、左足、頭部に背中、次々と接地する部位を切り替えながら独楽のように回転し、ふとした拍子に浮き上がりながら幾何学的な軌道で宙を舞う。重力を感じさせない無駄のない動きで、その男は軽快な音楽に乗せて舞い続ける。
――けれど、そんなのはただの言葉、ただの動作の説明だ。
別にその動きが、その技が出来たから魅せられたんじゃない。初めて見たときは、踊りの知識なんて欠片もなかった。そして彼の踊りの、見たこともない動きの物珍しさだけなら、こうやって何度も通ったりはしない。ただ、胸を打ったのだ。説明する言葉も見つからない、何も知らないまま見たその踊りに。踊りの中の、言葉にできない、けれど確かに存在する。そんな何かに。
「……すげぇ」
ひびきは圧倒されて、思わずそう呟いてしまう。初めて見た時から何度も、公園に通っている。それはきっと彼の踊りに、生まれて初めての『憧れ』という感情を、持ってしまったからだった。
音楽が止んだ後、男は曲の最中にしていた動作をいくつか繰り返してから、自販機で買ってきたペットボトルをひびきに差し出した。
「飲むか?」
「ああ……サンキュ」
動いた後は、スポーツドリンクの甘さと冷たさが染み込むようだ。ひびきは半透明なペットボトルの中身をごくごくと飲み干しながら、ふと街外れにある廃工場に目をやった。冬の訪れを示す曖昧な灰色の空の向こうに、ぽつんと立つ廃工場。平日の昼、二人の他に誰も居ない公園から眺めるその景色は、肌寒くなってきた空気と相まって、少し寂しげなものだった。
「なあカイザー、今はなんの練習してるんだ?」
ひびきの声に、カイザーと呼ばれた男が振り向く。
「珍しいだろ、あんたがショーケース(予め決められた曲と振付で行う踊り)の練習なんてさ」
ひびきの背丈は、カイザーの胸の高さほどにもない。その歳の差をまるで意識していないひびきの口調は、ある意味見た目相応でもあった。穴の開いたジーンズと、サイズの合わないぶかぶかのパーカー。見る者の目を否が応でも引きつけてしまうような北欧風の青白い美貌を、伸びっぱなしの黒髪で半分ほど覆い隠している。
中性的で浮世離れしたその顔立ちに反して、服装も口調も柄の悪い少年のそれだ。東大寺ひびきは暮町の駅を隔てた南側、すなわち治安の悪い『駅向こう』に住んでいる人間だった。
「あー、学祭でやることになっててなぁ。相方がいっつもショーケースやっとるからそれに合わせるんや」
カイザーはベンチに腰掛けて、事もなげにそう話す。カイザーは、ワックスを効かせた金髪に色白の顔をしていて、全体的に輪郭が細長い。やや訛りの入ったその言葉を聞いて、ひびきは少し驚いたような顔をした後、彼から顔を逸らして言った。
「……なんだ、高校行ってたのかよ」
「いんや、ほとんど行っとらん。月に二回も行きゃ多い方や。学祭も出るつもりなかったんやけど、ダチに頼まれてもうてな」
ひびきはカイザーについて、ほとんど何も知らない。カイザー自体が『知らない』の塊のような人間だった。どこの国から来たのかも分からなければ、どういう素性の人間なのかも分からない。カイザー自身もテレビや新聞を見ないらしく、最近何が起こっている、なんて話題を出されても分からないし、芸能人の名前も一人も知らない。
ひびきは知らないことだが彼は小学校も中学校も行っておらず、日本に来てから通い始めた高校の授業もまったく聞いてない。たぶん、知っていることの数から数えた方が早い。まるで未開の奥地から出てきたような人間だったが、踊りを躍らせたら、どんな人が見てもそれと分かる一級品だった。
「……なんや東大寺、なんで機嫌悪うしとんのや」
「別に、なんでもねえよ」
周囲の人の見よう見まねで覚えたらしい方言が混じりの言葉でカイザーが問い掛けるが、ひびきはそっぽを向いたままだ。カイザーは困ったように頭を掻くそして二人の額に浮かんだ汗が、冷たく乾いた風に浚われていく。東大寺ひびきは魔法少女だ。その呼称が正しいかは置いておくとして、少なくとも『夕暮れ戦争』に参加する人間の一人だ。日常に居場所がないものだけが訪れることのできるその戦場を、カイザーこと伊藤・K・ドルムメバティが知る由もなかった――昨夜の『夕暮れ戦争』の傷が癒えないままカイザーの練習場所に訪れた時も、ケンカか?と聞かれたきりだった。
「なあ東大寺」
「なんだよ」
不機嫌そうな顔のまま振り向いたひびきに、カイザーはラジカセを掲げて言った。
「踊ろうや」
「……はぁ?」
「なに怒っとるか知らんけど、踊りゃ大体の嫌なことは忘れるで」
悪びれもせずそう言ったカイザーに、ひびきは少し笑って、呆れた声で返した。
「あんたは、いっつもそれだな」
そもそも普段から、二人はあまり互いのプライベートな部分に立ち入ることがなかった。というよりは、カイザーが踊り以外のことに興味を持っていないのだ。彼が話すことと言えばダンスの技と、路上やクラブでしたパフォーマンス、そして別のダンサーの友人のことばかり。
けれどひびきは不思議と、何も知らない彼と過ごす時間が嫌いではなかった。平日の昼、普通の子供は学校に行っていて、普通の大人は働きに行っている時間。他に誰も居ない公園で、ひびきは彼の踊りを真似て練習したり、ダンスのことについて延々話し続けたりするだけ。ただそれだけの、それ以外のなにもかもを忘れていられる、心地の良い空間。最初は『夕暮れ戦争』までの時間潰しに過ぎなかったそれも、今ではひびきの生活の安らぎになっていた。
「なあカイザー、あんたはさ……」
ひびきは空を見上げたまま、小さな声で呟く。聞こえなければそれでもいい、とでもいうように。この男のことを少しだけ知りたい、と思ってしまったのかもしれない。
「あんたさ、嫌なこととかってあるのか?」
「黙って人の話聞いたり、座ってオベンキョーするのは苦手じゃ。だから学校も行っとらん」
「そういうんじゃなくてさ……」
そしてひびきは、その後に続く言葉を飲み込んだ。この居心地の良い場所を、壊してしまうのが怖かったから。ひびきは数年間、果ての見えないまま戦い続けていた夕暮れ戦争のことを考えていたのだった。そして黙り込んだまま俯くひびきの短い、柔らかな黒髪をくしゃくしゃと撫でて、カイザーは笑う。
「なんだよカイザー」
「だんまりで考え込むなや、ひびき」
そして逆立った金髪をなでつけながら、カイザーはさも当然といった風にこう答えた。
「うんにゃ、人間やから嫌な事くれぇあるし、けど踊るし、踊ってるうちに忘れる。俺、アホやしな。どういう風になりたいとか、誰かみたいになれるかどうかとかも、考えたことねーわ。ほら歯磨きとかと一緒や、やるのが習慣になっとる」
彼を見上げて、ひびきはただ『眩しい』と思った。踊る以外のことなんて知らないから、踊り続けるし、踊っているうちに忘れる。知らないし、知る必要なんてない。届かずに燃え尽きることになろうとも、立ち止まるという選択肢だけは持ち得ない。
「……はは、分かんねー」
彼はきっと、地上から見上げた彗星のようなものだ。生きている人をそんな風に表現するのは、少し変な気もするけれど。地表の自分からは手の届かない、ずっと遠い場所に居て、そして決して追い付けないスピードで、前へ前へと進み続けている。進む理由も考えず、だから決して止まることもない。どこに辿り着くかなんて考えず、だから悩む必要なんてない。彼は自分が自分である限り、ずっとその身から熱を放ち、周囲を照らし輝き続けるのだろう。
今、自分とカイザーがこうやって一緒に居るのは、たまたま頭上を彗星が通りかかっただけのような、一瞬のことなのだ。きっと彼は、すぐに居なくなってしまうだろう。地上に居る自分には決して手の届かない、遠くどこかへと去ってしまうのだろう。そんな気がした。
「踊ろうぜ、カイザー」
「おうよ」
カイザーは、何も聞かなかった。ラジオのスイッチが入る、二人はまた、踊り始める。
そして差し込む陽の熱が弱まり、空が黄金色に染まり始めた頃、ひびきはふと空を見上げて踊るのをやめる。公園の樹木に止まっていた鳥たちが、何かに驚いたように一斉に飛び立つ。カラスの慌てふためいたギャアギャアという叫び声が、公園の中に響き渡る。そして同じように空を見上げていたカイザーが顔を戻した時、隣からはひびきが消えていた。
「おい、どないしたんや」
高台から降りる階段の近く、出し抜けに駆けだしていたひびきにカイザーが声を上げる。ひびきは足を止めずに振り返って、カイザーに言った。
「悪い、そろそろ時間だ!」
『夕暮れ戦争』の時間だ。ひびきはいつも、夕刻になる前にはここを去っていた。
「今日は早いな、母さんの見舞いか?」
それには答えず、ひびきは階段を降りる前に一度だけ振り返ってカイザーに手を振る。
「なあカイザー、学祭頑張れよ!」
そしてカイザーは、ひびきが帰った後も踊り続ける。練習が終わったならクラブハウスに行ったり、路上でパフォーマンスをしたり、それが終わったらまた練習して。なんの苦も無く当たり前に、それが彼の日常だった。
「こりゃあ、一雨きそうやな」
傾いた陽とそれを背にした廃工場の向こうから、橙の空を覆うように黒雲が流れてくる。カイザーには知る由もないことだったが、時を同じくして廃工場の天辺には、限られたものにしか見ることのできない『扉』が現れている。そして、ひびきもいつものように『この世界』の何処からも姿を消していた。
『扉』のない時間であっても、『夕暮れ戦争の世界』は現実の裏側に存在し続けている。『想いの塵』や、『それ』といった魔法の産物、そしてそれらを認識させず、存在した痕跡を消し去る魔法もだ。暮町に降り注ぐ夕陽を遮って、巨大な影が街中を横切っていく。【それ】はただ存在しているだけで大気を震わせ、漏れ出す気配を恐れて動物たちは逃げ惑う。そして魔法少女たちは変身せずともその気配を感じ取り、大きな獲物の予感に心を滾らせる。東大寺ひびきも例外に漏れず、いつもより早くカイザーと別れて【それ】を追い始めたのだった。
「……大物だ」
『それ』は強力であればあるほど、倒した時に得られる『想いの欠片』の量も多くなる。微かな気配の残滓を追って、ひびきは人気のない裏路地を駆ける。かつて学校に行くときにだけ訪れていた、今ではもう足を運ばなくなって久しい、暮町の北側の街並みを。
「“硝子の脆きを愛でるのは――”」
≪”fragile”≫
そして廃工場の上空に『扉』が現れてすぐ、ひびきが唱えた『鍵なる言葉』に応じるようにして、その頭上に電子音声とともに光り輝く『想いの欠片』が現れる。微かに青みがかった丸い水晶のようなそれは、ひびきが手をかざすと同時に砕け散り、無数の蒼い光の粒子となって身体を包み込む。
≪set up≫
黒いローブが、半透明の菱形の翼が、光の解けたひびきの周囲に現れていた。間髪入れずにひびきは、地を蹴り飛翔する。そう間を置かずに、空に立ち込めた灰雲の中で、色とりどりの星たちがおぼろげに瞬き始める。空に向かって飛び立つひびきの纏う蒼い光は、彗星のように尾を曳いて、すぐに雲に隠れて見えなくなってしまう。そして普通の人間には見えない『想いの塵』の残滓だけが、雲の切れ間で微かに、星のように瞬いていた。
――第二話:『始めの第一歩』――
薄黒い雲が、傾いた陽を覆い隠すように広がり始める。湿気を纏った空気が、窓の向こうから漂ってくる。窓に鼻をくっつけるようにして外を眺めていたリノンが、教室の方を振り返って言った。
「わー、雨降りそうだよ!」
ホームルームが終わってから少ししか経っていないのに、教室にはほとんど人が残っていない。傘を持ってきていない生徒たちが、雨が降る前に帰ろうと我先に駆け出していったのだ。リノンと同じく掃除当番の生徒、佐々木しおんが疲れた声を返す。
「なんで楽しそうなんですか……」
しおんは箒を抱きかかえるようにして、半分眠るように机に腰掛けている。うなじを隠すくらいまで伸びた黒髪が、俯いた顔と眠たげな瞳を覆い隠していた。
「あたし雨の日って好きだなー。なんかねー、ワクワクするもん」
しおんは底抜けに明るいリノンの笑顔を見て、呆れたようにため息をつく。実際、リノンが雨の日に長靴とレインコートでそこかしこを駆けまわる姿は、彼女と親交のある人間ならば何度か見ている光景だった。
「高木さんが嫌いな日なんてないでしょう」
「ほら、二人ともちゃんと掃除しなよ。リノンも、委員長も!」
掃除当番でもないのに一人で教室を掃き回っていたつばめが、しおんの言葉に被せるように声を張り上げる。「はーい!」と元気な返事をしてリノンが掃除を始めた後、しおんがのろのろと動き始めるのを見て、つばめは頬を膨らませる。
「ねーつばめ、あたし今日他の子の家に遊びに行くからね、先に帰ってていいんだよ?」
「じゃあ掃除終わらせたら帰るよ。二人だけじゃちゃんと綺麗にしてくれるか分かんないでしょ?」
「んもー、信用されてないなー」
そしてあらかた掃除が終わった頃、とうとう窓の外で雨が降り始めた。帰り支度をしている最中のしおんが、ふとその動きを止める。
「……あ、傘忘れた」
「えー、天気予報見てなかったの?」
「うーん、見てたんだけどな……入れるのを忘れてたみたいです」
風に吹かれた雨が、窓ガラスに打ち付けられてざあざあと音を立てる。雨具がないまま歩いて帰れば、数秒もしないうちに下着までずぶ濡れになってしまうだろう。
「まあ別にいいです、濡れても死ぬわけじゃないですし」
けれどしおんは迷う素振りもなく、足早に出て行こうとする。そしてしおんが扉に差し掛かる直前、つばめがしおんを呼び止めた。
「ねえ委員長、わたしの貸したげるよ」
しおんは不思議そうに首を傾げる。
「いいですって、鷲尾さんも一つしか持ってないんでしょう?」
「大丈夫、二人で入れば問題ないよ」
そしてつばめは、掃除が終わるまで扉の脇で待っていたひかりの方に振り向いて言った。
「いいでしょ、ひかり?」
「……うん」
いつものように笑って、ひかりは小さな声で頷いた。
「……そういうことなら、ありがたく貸していただきます」
「うん、明日返してね!」
そして、つばめとひかりが連れ添って教室を出ていく。机に腰掛けて片膝を抱えたリノンが、ひかりの後姿を見つめながらぽつりと一言呟いた。
「ひかり、どうしたんだろ。最近、なんか元気ないよね」
「低気圧じゃないですか?」
しおんが鞄を背負い直しながら、気のなさそうに付け足した。
「それにいつものことでしょう、篠崎さんに元気がないのは」
そして、教室からは誰も居なくなる。最後に出ていくリノンが蛍光灯のスイッチを切ると、差し込む陽のない教室は夜の湖のように暗く静まり返る。リノリウムの床が灰色の空の微かな光を反射して、泥水のように鈍く輝いていた。
一瞬だけ、リノリウムの床に映った窓の外のおぼろげな景色の中を、黒く巨大な何かが横切っていく。しかし窓の外には何もなく、ただ強い風が窓ガラスをガタガタと揺らしただけだった。
――
ひかりはふと空を見上げ、物思いにふける。こんな雨模様の空でも、もし変身すればあの星たちが見えるのだろうか。見えるだけで決して自分には手の届かない、翼を持つ少女たちの彗星のように舞い踊るあの光が。
コンクリートブロックで模様を作った歩道には、雨でくすんだ黄色の葉が散っている。ひかりがつばめの歩調に合わせてまばらな落葉を踏み歩くと、二人で寄り添うようにして持った傘が揺れて、ぱらぱらと水滴が零れ落ちた。
「ひかり、どうしたの?」
足を止めそうになったひかりに気付いて、つばめはひかりの顔を覗き込む。同じ傘に入っているせいで自然と顔の距離が近くなり、つばめの暖かい吐息がひかりの耳元をくすぐった。
「ううん、なんでもないよ」
ひかりは笑顔を作って、いつものようにそう答える。つばめも深く気にした様子はなく、さっきまでの話を再開する。ひかりは誰に対してもそうするように、他愛のない話に相槌を打つ機械に徹していた。それを相手にも悟られないように驚いたふりをしたり、同情するふりをしたり、必要であれば当り障りのない意見を言って、終わるのを待つ。それが中学に入るよりも前から続けていた、ひかりの外での過ごし方だった。
「それでね、また女子が七不思議の話してたの。今度は『人喰い道化』の噂だってさ」
暮町の都市伝説の一つ、かつて世間を騒がせた恐ろしい殺人鬼が、この町のどこかに隠れ潜んでいるという噂話。無論、誰も『人喰い道化』が生きているだなんて事は信じてもいない。けれど人間とは、実在性の低い恐怖をこそ好んで噂するものだ。
「もう滅茶苦茶にこんがらがってて、もともとの噂も最初に噂を流した人も分からないの。まあ最初から、嘘八百もいいところだったんだけどね」
ひかり達が知る前から根強く残っていた七不思議の噂。つばめが言うには、錯綜するその情報が根も葉もない虚構に虚構を重ねて、複数の七不思議がごた混ぜになって噂されているらしい。例えば、廃工場に浮かび上がる『扉』のふもとに現れる白い少女が『人喰い道化』の正体で、『扉』に惹かれてやってきた子供を『扉』の向こうの闇の世界に連れ去ってしまうのだとか。
「で、それ聞いてた男子がそんなのあるわけないだろって言って、そしたら女子の方も『怖がってるだけなんじゃないの?』って言い返して、言い合いになってさ。売り言葉に買い言葉で、男子がまた探検隊組んで廃工場に確かめに行くとか言い出しそうだったからわたしが止めに入ったの」
男勝りで、両性ともに友達が多いつばめは、よく男女のグループの間に入って仲裁の役をこなしていた。本人はそれを否定していたが、『必要に駆られて』というよりも、おおよそ正義感の赴くままに。
「男子も女子も一緒になって、つばめはすっこんでろよ、とか、つばめも怖がってるの?とか言うもんだからさ……まったく。言ってやったわ、『怖がりと、危ない事が分からないバカを一緒にするんじゃありません』ってさ」
「つばめは、勇気があるよね。それに賢いし」
ひかりは己の感情を口にしないようにして、微笑みながら当り障りのない感想を返す。
「そんなんじゃないよ」
つばめは不思議そうに首を傾げながら、いつもの口癖を言った。
「間違ってることが、許せなかっただけ」
ひかりが小学校でいじめられていたころ、当時の担任だった教師は事なかれ主義の煮凝りのような人間で、いじめ自体もそこまで深刻なものでなかったことから、誰もそれを解決しようとは思わなかった。当のひかりでさえも。そして、それを無理矢理解決してしまったのがつばめだった。件の男子たちを問いただしに行ったつばめはそのまま彼らと言い争いになって、果ては取っ組み合いにまで発展したところで騒ぎを聞きつけた先生たちに止められた。その騒ぎ自体は喧嘩両成敗で終わったのだが、他の先生の前で騒がれたものだから仕方なく、といった様子で担任が事態の収拾に乗り出し、それであっさりとひかりのいじめは止んだ。
その騒動があった日の放課後、職員室に連れていかれたつばめが帰ってくるのをひかりは一人で待ち続けていた。結局、つばめが説教から解放されて帰って来たのは、教室に残る生徒も他に居なくなった日没の少し前のことだった。「わたしね、別にあなたを助けたようとしたんじゃないから」つばめは赤土色の夕陽の残滓が残る教室、そして寂しくともる青緑がかった蛍光灯の中で、そんな風に言った。「ただ、間違ってることが許せなかっただけ」ひかりを助けようとしたのではなく、複数人で一人の弱者をいじめることは間違っているから、それを止めたのだと。「あなたも、嫌な事はちゃんと嫌って言わないと駄目だよ。いつでも誰かが助けてくれるわけじゃないんだからさ」
そして最後に、つばめにそう言われたとき、ひかりは何も言い返さずに、控えめに頷いた。つばめと話すようになったのは、その時からだった。つばめはその性格から男子とケンカになることも少なくなかった。しかし武道を習っているつばめに勝てる男子はそう居らず、ケンカが多い分仲直りも早かった。昨日の昼休みに取っ組み合いになっていた男子と、今日の放課後にサッカーをして遊ぶような事も日常茶飯事だった。そしてクラスの両性の間で中心となっているつばめを友人に持つことは、ひかりがクラスに溶け込む上でも非常に役立った。『つばめの友達』として、彼女の後ろの方で微笑んでさえいれば良かったのだ。
「あーあ、鷲尾さんは本当にお節介焼きですね。あなたが割って入ってどうこうしても、いい結果になるとは限らないのに」
「しおんはやる前から斜に構えすぎなんだよ」
「そういう人間なんですよ、あなたとは違ってね。そういう風に生きて、そういう風に考えている。誰にだって、いろんな事情があるんですよ」
中学に入ってすぐ、町の外からこの中学に入ってきたしおんと、つばめはそんな風に話していたことがあった。ひかりの知る限り、しおんが人に対して意見のようなものを投げ掛けたのは、前にも後にもこの一回きりだった。
「それでも、わたしが黙ってる理由にはならないよ。事情があって悪いことをしてるんだったら、その事情を解決すれば、誰だって良い人になれるってことでしょ?」
つばめは必ずしも自分が立ち入ったところで解決できない問題があることも知っていた。そして自分のせいで事態が悪化してしまうようなことがあれば、目を逸らすことなくそれを認めて反省したり思い悩んだりする。それでも、やっぱり間違っていると自分が思えば、つばめは必ずそれを正しにいこうとするのだ。
「みんながちゃんとして、やるべきことをやったならさ、きっと何もかも上手く行くんだって」
つばめにとって、失敗はこれから乗り越える逆境の一つに過ぎなかった。決裂した仲はいずれ修復できるものだったし、取り返しのつかない失敗など存在しなかった。乗り越えられない壁も、永遠に届かないような彼我の隔たりも、自分で自分のことが嫌いになっても、そのまま生きていくしか無いような人間も。その曇りのない真っ直ぐな瞳には、きっと映ってはいないのだろう。ひかりが心の中で『ここではないどこか』を求めるようになったのと、そう違わない時期のことだった。
――
夕立の降る空はねずみ色の雲に覆われて、もやがかって夜のように暗くなる。雨粒の群れは街灯を反射して白く浮かび上がり、車の赤いテールランプが闇夜を遠ざかっていく。コンクリートの凹凸に生まれた幾何学模様の水溜りで絶えず波立つ黒い水面を、街の明かりが照らし出す。靴の裏についた汚れが雨水で溶けだして、白い歩道に黒い足跡を残す。そうやって、ひかりとつばめが駅前の公園の近くに差し掛かった時のことだった。
「待ちなさい、篠崎ひかり!」
背後から誰かの叫ぶ声がして、ひかりは思わず足を止める。ひかりとつばめを追い越して前に立ちふさがったのは、見覚えのある少女だった。「……ともみ、さん」ひかりは呆けた表情で呟く。ともみも傘を差しては居たが、走って来たからかその肩は濡れている。どこから追いかけてきたのか、ともみはぜえぜえと荒い息を整えもせずに、人差し指をひかりの鼻先に突きつけた。
「もちろん、要件は分かってるでしょうね!」
ともみが『夕暮れ戦争』を辞めた自分を呼び戻しに来たのだ、とひかりは分かっていた。ともみからしてみればせっかく同盟を組めそうだった人間が急に消えてしまったわけだし、正体を曝してしまった相手が味方にならないで離れてしまうのは大きな不安になるだろう。それでも戦いの中で足手まといにしかならなかった人間を、引き留める理由などあるはずもない。ひかりはいつものようにやり過ごすことも忘れて、無言で立ち尽くす。そしてともみの間を隔てるように一歩進み出て、最初に口を開いたのはつばめだった。
「よく分からないけど、ひかりを困らせるのはやめてもらっていいですか」
「あんた誰?あたしとひかりの事に関係ないでしょ?」
「それは言えないような事なんですか」
ともみは邪魔臭そうな目でつばめを一瞥して、ひかりの近くへ歩み寄ろうとする。つばめはともみの前に、ひかりを庇うようにして立ちはだかる。
「もう一度、分かりやすく言うわ。これはわたし達の間のことよ。関係ない人は黙ってて」
ともみが凄んでみせるが、つばめは怯みもしない。むしろ逆効果だ、とひかりは思う。『相手が間違っていて、それを力で押し通そうとしている』と思ったなら、たとえそのせいでどんなに波風を立てたとしても、つばめは決して譲らない。
ともみが自分を連れ出したいのなら、最初に『人に言えないような理由で、けれど必要なことなのだ』と、言えばよかったのだ。上手く取り繕って穏便に説明すれば、つばめは誰かの秘密の会合まで邪魔したりはしない。傍から見ていても、ともみの方が感情的で、話し合う気がなかった。正義というものがあるとしたら、それはきっとつばめの方にあるのだろう。
「どういう経緯でひかりと知り合ったのかは知らないけれど、そんな風に無理矢理だとひかりも嫌がります。わたしも、友達がなんの説明もなくどこかへ連れていかれるのを黙って見ているわけにはいきませんから」
「ひかりには分かるわよ!」
むきになって叫ぶともみと、表情を変えずに言い返すつばめを、ひかりは口を挟むことも止めようとすることもせずに、黙って見ていた。例え自分がもとになった言い争いの場でも、自分が『居ても居なくてもいい』ように。言い争う二人の声は一段と強くなる雨音を背景にして、スクリーンで隔てられたように遠くから、どこまでも他人事のように響く。
「もうちょっと穏便な言い方とか、人の話を聞いたりとか、できないんですか?」
「……あなたなんかに言っても、絶対に分かりっこないわ」
つばめの言葉に痛いところを突かれたらしく、ともみは両拳を握りしめて黙り込む。つばめはいつも、ヒトの欠点を指摘することに躊躇いがなかった。誰かを悪人であると断じて非難することや、悪意を持って中傷することは決してない。だが人の性根は必ず良いものであり、欠点とは『治せる』ものであると信じているが故に、『今のあなたは間違っている』『努力不足だ』という言葉を投げ掛けることにも躊躇いがないのだ。
「そうやって勝手に周りを敵視して話し合おうともしない、要求ばっかりで自分がそれを与えられるように動こうとしないから、あなたは『偉ぶってる』って言われるんですよ。少しは妹のみともさんを見習ってください」
ひかりは激しく傘を打つ雨音の中からでも、ともみの息を呑む音が聞こえたような気がした。同時に三人の側を横切った車が道路脇の水溜りを跳ね上げ、ひかりの靴下を泥水で汚す。舗装されていない植え込みの土はどろどろに崩れて、空高くから落ちた雨粒が激しく跳ねる。それでも雲の上に広がる夜空は、いつもと変わらず澄み渡っているのだろう。空から降った雨水は地面をぐしゃぐしゃに崩して、排水溝へと押し流していく。湿気った空気が死んだ木々を腐らせて、硬い岩も雨粒で溶けて削れてその形を失っていく。けれど空はきっと何も気が付くことがない。空から雨が降り、けれど決して大地は空の形を変えることができない。
「付き合ってらんない。もう行こ、ひかり」
心底呆れたように首を振って、つばめは二人で持っていた傘を引く。ひかりは、その手を放した。
「……行かない」
傘の外に出たひかりの頭を、すぐに冷たい雨水が濡らしていく。突き刺さるような雨の冷たさが、べったりと冷たい水を纏ってまとわりつく髪と服が、不思議と心地よかった。
「……どうして?」
数歩歩いてから振り返ったつばめの表情に浮かんでいたのは、裏切られた、というような感情ではなかった。発せられた問いは、どういう意図でその選択をしたのか分からない、自分の知らない事情でもあるのか、というような単純な疑問だ。ひかりはそれに答えず、いつものように笑いかけた。
「つばめ、傘は明日返してね……行こう、ともみさん」
つばめと自分とは、あまりにも遠い。ひかりはふと、どこからともなく漂ってくる、胸の悪くなるような臭いが強くなった気がした。
――
階段を昇った所にある高台は、ひかりの身長より少し高いくらいの高さで、樹木とひさし付きのベンチだけがある殺風景な広場だ。雨宿りをするには、ちょうどいい場所でもあった。「まったく、なんなのあの子、あれが上級生に取る態度!?」ともみはベンチに腰掛け、濡れた髪をハンカチで拭きながら、怒りの冷めやらぬ様子でそう言った。ひかりはその前で、何を言えばいいか分からないまま、ぼんやりとつっ立っている。そのまましばらくつばめに怒り倒すのかと思っていると、ともみは不意に言葉を切って、ひかりの顔を上目遣いに見上げてきた。
「……なんで、夕暮れ戦争に参加しなくなったの?やっぱり、あたしのせい?」
「違うよ」
ひかりはいつものくせで、そうやって否定する。けれどそれ以上は言葉が続かず、黙り込んでしまう。語るべきことなんて、本当は何もない。夕暮れ戦争に戻るつもりはないのだから。その後に、気まずい沈黙をどうにかしようと、ともみが話し始めた内容も、ひかりの興味を引くには至らなかった。
「あのね、大きな『それ』が出たの。ううん、きっと大きいだけじゃなくて凄く強い『それ』よ。変身してなくても気配が分かるくらいだもの」
既に【それ】を追っている者も居るかもしれない、例えば昨日出会った黒ローブの魔法少女とか。そして『想いの欠片』を手に入れられるのは、一人だけだ。ともみは顔をぐいっと近づけて言った。
「二人で組んで戦った方が、どちらかが『想いの欠片』を手に入れる確率も上がる。あなたの魔法だって、きっと【それ】の攻撃を防ぐのに役立つわ。分かるでしょ?負けるわけにはいかないの。こんな大きな獲物、みすみす見逃すのは臆病者だけよ」
雨に濡れた真剣な表情のともみを観て、この人は誰だろう、とひかりは思った。ついさっきまで自分は、つばめの隣をいつものように、居ても居なくても良い笑顔で歩いていたはずなのに。そして変わらず家に帰って眠り、そして学校に行って輪の中心から少し外れたところで目立たないように笑うのだ。『夕暮れ戦争』なんて、『魔法少女』だなんて、そんな非現実的な言葉を耳にするはずがない。その対象が『自分でなければならない』言葉など決して存在せず、誰にも憎まれず必要とされないまま、居ても居なくても良いように生きていく。
「ねえお願い、やめないでよ。せっかく、一緒に戦う人ができたと思ったのに」
ひかりが何も反応しなかったからか、ともみはスカートの裾をぎゅっと握って、少し震える声でそう言った。
「……ねえ、ともみさん」
ひかりは不意に、今までずっと胸の中にしまい込んでいたものが、喉をついて出てくるのを感じた。
「わたしが夕暮れ戦争に戻ったら、あなたはわたしを守ると保証してくれるの?前のように怖い目に合わないって、絶対に傷付かないって……それにわたしが変われるって、願いがかなえられるって、そう言い切れるの?」
一対一の会話も、知らない人との会話も苦手だ。『居ても居なくてもいい』ことができないから。心に溜め込んだ言葉とは、たとえ洗いざらい話してしまったとしても、決して楽にはならないものだ。分かっていても、流れ出したら、もう止まらなかった。「……そんなの、」ともみは言葉に窮して、顔を逸らす。分かり切っていた答えだった。ひかりはいつものように笑って、こう言った。
「――どこへ行ったって、自分からは逃げられないよ」
何か言い返されるのが怖くて、ひかりは立ち尽くすともみに背を向けた。そして自分が口にしてしまった言葉の意味を理解して、昨日黒ローブの少年に言われた通りになろうとしている自分に気付いたのだった。“否定されるのが怖いなら黙っていればいい、失敗するのが嫌ならずっとそのままで居ればいい。誰もお前をそこから連れ出してなんかくれない。『お前の』願いなんて永遠に叶わない。お前がどう思ったって、何も変えられやしないし、誰にも影響なんて与えられない。周りを妬みながら墜ち続けて、二度と幸せになれず誰からも忘れ去られば良い。”自分は物語の主人公じゃない。世界の何もかもは、自分が上手く行くようにはできていない。そう身の程を知れただけでも、『夕暮れ戦争』に足を踏み入れた意味はあったのだ――そう考えようとすることさえ、まるで見透かしていたかのようだった。
ひかりは何かに躓いて地面に突っ伏したところで、ようやく我に返った。ともみとどうやって別れたかも思い出せないまま、呆然自失で歩き続けていたようだ。重い身体を起こすと、顔から膝まで全身が泥まみれになっていた。ずっと辺りに漂っていた胸の悪くなるような匂いがますます強くなり、ひかりはようやくその正体に気付いた。これは、泥の匂いだ。川底で溶けだしたヘドロの匂い。ただ雨によって削れ、崩れてどろどろになっていくだけの土くれの匂いだ。身体の骨にまで染み付いたような、重くまとわりつく灰色の諦めだ。
――知ってしまったせいだ。
ひかりは、そう考える。一度、空からの景色を見てしまったせいだ。夕空に投げた砂金のようにきらきらと輝く星たちを、そして圧倒的な『力』を見てしまったせいだ。だから空模様にも似た色のそれを、自分には、どうすることもできない。
――
ひびきが変身してからその強大な気配の主、【それ】を見つけるのにさして時間がかからなかった。【それ】の奇怪な流線型をした貌に両目はなく、陽の光を吸い込むコールタールのような漆黒の肌を持つ、全長10mほどの巨大な狼の姿をしていた。【それ】は毛のない太い四肢でビルの壁面を蹴り、背から流体状の一対の翼を生やすと、夕陽に背を向け雲の下の高空を駆けていく。そして【それ】こそが、ひびきが昨日から抱いていた疑惑の原因となるものだった。
「“チャンネル分け”はどうなってるんだ……?」
認識阻害は一般人に対してだけでなく、魔法少女同士にも働くことがある。『夕暮れ戦争』は複数の階層によって分けられていて、変身した魔法少女は自分と同じ層にいる別の魔法少女と、『それ』だけを阻害されずに認識することが出来る。そして普通の人間が魔法少女を見ることができないのと同じように、例え地理的に同じ場所に居たとしても『違う層』に居る魔法少女を認識することはできない。そして互いに認識できないということは、存在しないことと同じだ。複数の認識の層によって区分けされた戦場で、それぞれの魔法少女たちは『それ』を追い、極稀に同じ層の魔法少女同士で『想いの欠片』を奪い合う。暮町という一つの土地の中に複数の戦場を作ることで、魔法少女同士の過剰な交戦や、『それ』の取り合いを抑えるためのものだった。
ひびきは今まで一度の『夕暮れ戦争』で、三人もの魔法少女と出会ったことなどなかったし、一体の『それ』を追う光景など見たこともなかった。圧倒的な魔力を纏う【それ】の存在は認識阻害さえ突き抜け、複数の層に属する魔法少女がその気配を感知する。そして一体の【それ】を追うことで、出会うはずの無かった別の層の魔法少女と出会ってしまったのが、昨日の『夕暮れ戦争』の異常の原因だったのだのだ。その尋常ではない魔力は並の魔法少女とは比べ物にならず、ただ存在するだけで大気を震わせ、黒雲を呼び寄せる。
≪fragile≫
ひびきは己の両手に、柄に薔薇の意匠が凝らされた細身の剣を生み出した。続けざまに投擲されたその一投目が【それ】が残した微かな、傷とも言えないような波紋に、二投目の剣が突き刺さる。剣が砕けると同時に、【それ】の表皮の一部が砕け散る。【それ】は苦悶の咆哮を響かせ、頭上に広がる雲の中へとその身を隠す。
「逃がすかよ」
【それ】を追って高度を上げたひびきの視界を濃い群青の雲が遮り、頬を水滴の群れが激しく打ち付ける。僅かに目を細めたひびきの眼前を、【それ】の紫電の光が照らす。急転して襲い掛かってきた【それ】の牙に自動障壁が叩き割られ、切り裂かれた腹から血が噴き出る。そして同時に【それ】の下顎に打ち込まれた剣が、その牙を吹き飛ばす。
それでも、ひびきは攻撃の手を緩めなかった。ひびきも【それ】も、この程度の傷で死ぬ事はないのだから。『それ』とは命ある限り思考し、思考する限り己の生命活動を演算し続ける半仮想生物だ。魔法によって生まれた実体が『想いの塵』や『想いの欠片』を喰らうことで得た魔力によって、失われた身体の構造体を補填し、己の生命活動という魔法を継続するだけのプログラム。堅い表皮と構成体を貫いて、思考器官であり全ての内臓でもある核を潰さない限り、その再生は止まらない。
魔法少女も変身してからは常に、己の自己像から作られた『己の変身した姿』を再生し続ける。その魔法が自身の『想いの欠片』の力によって維持されていること以外は、『それ』となにも変わらない。再生できずに変身が解けるのは『己の姿を思い浮かべられなくなった時』だけで、それはすなわち気絶した時か、心から敗北を認めてしまった時、そして生命が終わる時だ。
「オレの獲物だ。オレの『想いの欠片』だ」
大気を震わす【それ】の咆哮にかき消されないように、ひびきは暗雲の中にただ一人、力の限りに叫ぶ。最初に【それ】に与えた一撃の傷も、そしてひびきの脇腹の受けた傷も、同じように光の粒子が集まって元の形へと修復されていた。再び牙を剥こうとする【それ】をかいくぐり、その懐に潜り込んで斬りつける。ひびきは攻撃の手を緩めない。まるで傷付くことも死ぬことも、怖くないはないというように。ひびきは【それ】を追って雨雲の中を飛び続ける、『扉』が消えて『夕暮れ戦争』の時間が終わりを告げるぎりぎりまで。
ひびきにとって眼下遠くの地上でひかりとともみが交わしていた会話は、あまりにも聞き慣れたものだった。夕暮れ戦争を去るものと戦い続けるもの間に交わされる聞きなれた台詞、何人もの『かつての』仲間たちと自分が演じた見慣れた光景。
――届かないことなんて、誰でも分かってる。
その単純な事実さえ分かっていない、あまりに多くの人間達。それが自信過剰という形で出ようが、身の程を弁えたふりをしていようが、壁にぶちあたった自分が特別で、そのたった一度の挫折の経験こそが世界の真実なのだと信じている。まるで井戸の壁の真っ暗闇だけがこの世界の全てだって信じて、外に出る気なんてない一匹の蛙だ。まるで世界の全てを知った風な口をきいて、その実一度も何かを求めて戦った事も、絶対に諦められない何かを持ったことも、決してない。だから、もう黙っていろ。そこから出る気がないなら、一人じゃ嫌だからって他の奴らまで、自分の居場所に引きずり落とそうとするな。
――
オートロック付きのエントランスから、エレベーターを使って十階へ。住宅街から飛び出した小高いマンションの一室、そこがひかりの暮らしている場所だった。ひかりが懐から取り出した鍵で扉を開けると、いつもは暗いままの玄関口に明かりが灯っていた。
「おかえり、ひかり――傘を忘れてきたのかい?ずぶ濡れじゃないか」
檸檬色の柔らかな光を反射して、短い黒髪が艶やかに揺れる。つい今しがた帰ってきたらしい、見慣れたスーツとスラックス姿。火ヶ理は切れ長の黒い眼で、珍しくばつの悪そうな娘の姿を見つめながら、普段と変わらない穏やかな声音でそう言った。
黙りこくっている娘を気にする様子もなく、火ヶ理は水浸しになったひかりの服を手早く脱がせていく。洗濯籠のある風呂場の方に、コートから下着まで一度に抱えてぽたぽたと水滴を落としながら運んでいったかと思うと、湯気の上るような熱々のタオルを持って戻ってきた。
「ほら、バンザイしろ」
ひかりは火ヶ理の言う通りに両手を上げて、眼を閉じてなすがままになることにした。火ヶ理は熱いタオルで、ひかりの全身をくまなくゴシゴシと拭いていく。ヘアゴムを外して肩甲骨の辺りまで垂れ下がった髪を拭き始めたところで、ひかりはようやく口を開いた。
「……お母さん、今日は早かったんだね」
「ああ、昨日当直だったからな」
火ヶ理は事もなげにそう言って、仕上げに手で髪を梳いていく。
「オーケイ、もうすぐ風呂が沸くから毛布でも巻いて待ってろ。上がったら飯にしようぜ」
火ヶ理は拭き終わったひかりの身体を眺めて、満足そうに頷いてからそう言った。ひかりは言う通りにして、毛布の柔らかいけれど少しちくちくとした感触を素肌に感じながら、体育座りをして風呂が沸くのを待つことにした。
母のすることは普段通りに素早く的確で、何も問い詰められることもなかった。何も考えなくて済むのは、有難かった。たぶん分かっていて、そうしてくれているのだろう。すぐに風呂が沸いたことを告げるアラームが鳴って、それ以上のことは考えずに済んだ。
ひかりが風呂から上がると、火ヶ理がちょうど料理を仕上げたところだった。洒落た内装の部屋いっぱいに、焦げたパン粉の香ばしい匂いが漂う。白磁のプレートに華やかに盛り付けられたのは、どうやらミンチカツのようだ。
「いただきます」
ひかりはいつものように手を合わせてから、小ぶりな一切れを口に運ぶ。さくさくとした熱い衣の内側に、ステーキのように緻密な噛みごたえの挽き肉。噛みしめると肉汁と一緒に、濃厚なチーズの香りがしみ出してくる。今までの気分も吹き飛ぶような、鮮烈な味だった。
「……美味しい」
ひかりが思わずそう声に出すと、火ヶ理はワイングラスを片手に、涼やかに微笑む。
「専用の器具で挽いた自家製の挽き肉に、香草と岩塩、そして僅かに砂糖を散らす。脂の少ない肉だったから、挽き肉にしてチーズを練り込んだんだ」
料理は何もかもを効率よく、手早く済ませてしまう火ヶ理が唯一、時間を人並み以上にかける趣味だった。火ヶ理は暮町の総合病院で医者として働いている。毎日仕事に行って二人で暮らすための金を稼ぎ、たまに仕事が終わった後に道場へ行って、帰ってこれば料理を作ってひかりと一緒に食べる。そして休日は、二人でどこかに遊びに行ったりする。たぶん、普通の親子と同じように。
そして火ヶ理について、ひかりはそれ以上のことは何も分からなかった。ひかりは自分が生まれた時のことも、自分の父親のことも聞いたことが無い。けれど火ヶ理の前では、『居ても居なくても良い』ように気遣うこともなかった。
「どうして今日は、こんな御馳走にしたの?」
「ありあわせの材料だよ、ひかりが帰ってきてから献立を決めたんだ。冷蔵庫の中身だけで美味しい食事が作れるのも、良い料理人の条件だからね」
火ヶ理はカツレツを一口齧って、湯気の立つような断面から昇るチーズの匂いを嗅ぐ。うん、と満足げに頷いている火ヶ理から、ひかりはそれとなく目を逸らそうとした。いつものように、瞳の中を覗き込まれないように。
「……別に、なんにもなかったよ。ちょっと転んだだけ」
「嫌な事があっても、それを隠して黙っていることは多い。それが嵐なら壁の中に籠って、ただ過ぎ去るのを待てばいいから。だが今回は、そうじゃない」
火ヶ理は組んだ両手に顎を乗せて、微笑みながらひかりの顔を覗きこむ。すると微動だにしない黒い眼に影が落ちて、その中にある瞳孔は全ての光を吸い込んでしまったように暗くなる。どんな暗闇の中の、些細な変化でも見逃さないように。自分のことは何も読み取らせず、そのくせ他人の瞳の奥から脳まで見透かして暴き立ててしまうような。
「トラブルがあったとしても、それに対して一つのルールに従って行動を決定するのなら悩む事は無い。葛藤とは、二つの相反する想念に挟まれる事で生まれるものだ。願望と恐怖、欲望と嫌悪、衝動と諦め。どちらを選ぶのが正解であるか?人は常に、己の転んだ方を善とするだけだ」
火ヶ理のその瞳を、空から全てを見下ろす鷹の瞳ようだ、とひかりは思う。なにものにも縛られず自由でいながら、まるで獲物をかっさらうように手際よく、自分の望みは達成してしまう。彼女の前ではどんな演技をしても意味がない。それを分かっているから、ひかりは火ヶ理の前で『居ても居なくても良い』ようにする必要が無かった。
「なあ、ひかり。お前、『悩む』のは初めてじゃないか」
面白がるようにそう言った後、火ヶ理はワイングラスを揺らして、香りを楽しんでから、ほんの一口、血の色をしたその液体を口に含んだ。
「つまみとしても上出来だ。これからのレシピに加えよう」
カーテンの隙間から差し込む夜空の色で、明かりを落とした寝室は微かに群青に染まる。二人用のベッドに一人で潜りこんで、ひかりはじっと目を開けていた。火ヶ理は書斎に行ったきり戻ってこない。食事を終えた後、仕事を終わらせてくるから先に寝ておくようにと言われた。いつのまにか日が変わって、眠りに落ちるまでの間。ひかりはずっと、白い壁のざらざらした模様を眺めていた。
――決して、今の生活を受け入れているわけじゃない。
かといって、どうすれば満たされるのかも分からない。だって、自分には何もないのだ。特別なものは持っていない。『居ても居なくても良い』ように振る舞う自分を、見初めてくれる誰かなんて居ない。あの少年の言った通りだ。こんなわたしなら、ずっとこのままでも仕方ない。それに、何かに挑戦して失敗するくらいなら。何かが変わってしまって、今よりも悪くなるくらいなら、今のままでいい。雨が止まなければいい。ひかりは不意に、そんなことを思った。きっと明日も、どこかに行く気分ではないだろう。そして翌朝、開け放たれたカーテンの向こうから眩い光が差し込み、餌を求めて飛ぶ鳥の鳴く声が窓越しに聞こえていた。
「さあ、遊びに行こうか、ひかり」
窓の外の空と同じくらい、火ヶ理は晴れやかな笑顔をしていた。
暮町にはひかりの通う『暮町中学校』と、進学校である『暮町高校』の二つの学校がある。暮町中学と同じ『暮町』の名を冠するれど、暮町高校に入るためには少し勉強を頑張らなければならない。街で見る制服姿の人は、暮町中学校の生徒でなければ、大体がこの学校に通っている。ひかりが知っていることは、それくらいだった。なぜ母が唐突に、ここの学祭に自分を連れてきたのかは、全く分からない。
ひかりが母に手を引かれて飾りつけされた暮町高校の正門をくぐると、そこには思ったよりも賑やかな祭りの風景が広がっていた。入学希望者への説明会、体育館で行われる誰かの講演の受付が入ってすぐにあって、そこを突っ切っていくと中学棟と高校棟の間の大きな中庭に出た。屋台や出し物の舞台が沢山並んでいて、どうやら祭りの主舞台はここらしいとひかりは思う。
ちらほら親子連れの姿もあったが、行き交う人のほとんどは高校生だ。そして、なんだかんだお祭りなので、皆楽しげな雰囲気で笑い合っている。監督役としての教師の存在はあっても、祭りを楽しむのも、祭りを主催するのもほとんどが生徒達だ。ひかりから見れば遥かに年上でも、大人から見ればまだ『子供』と見られる人達。ひかりは異国の祭りに迷い込んでしまったような不安と、少しの高揚感を感じて火ヶ理の手をぎゅっと掴む。
――ここは中学生と、高校生の国だ。
木の板と鉄パイプで組まれた一日舞台では、学生らしき人達が漫才かなにかをやっていた。校舎の壁沿いには、たこ焼きや綿菓子、フランクフルトの屋台が並ぶ。屋台は学校の所有物らしい白テントに、品目を書いたイラストが吊るされたり、同じくイラストを描いた木の板が立てかけられたりしたものだ。学生が書いたらしい、かわいらしくデフォルメされた食べ物や、学生にしては妙にきれいなアニメか何かのキャラクターの絵――その中に混じる、簡素な黒マジックで書かれた「焼き芋」のやる気のなさげな字。そして火ヶ理は、ある屋台の前で足を止めた。
『揚げ物』とざっくばらんに書かれた看板の下、学校の机を引っ張ってきた受付台のような場所。そこでぼんやりと座っていた女子が火ヶ理に気付いて、驚いて声を上げる。
「あっ、火ヶ理センセー」
「おう」
火ヶ理は砕けた調子でそう言って、軽く頭を下げる。絵の描かれた木の板で隠された調理所らしき場所から、ぞろぞろと制服姿の男女が出てくる。
「母さん、先生ってどういう……」
「火ヶ理さん、来てくれたんですか」
ひかりは火ヶ理に問いかけようとして――最後に出てきた女の人を見て、思わず息を呑んだ。艶のある黒髪を昔の人のように高く結い上げて、制服を上着まできっちりと着こなしている。日本風の美しいけれど、どこか鋭い顔つきを和らげるように、柔らかい微笑を浮かべている。
――なんとなく、あの真っ白な女の人を思い起こさせた。
その綺麗さを、美しい日本刀や銃のそれに重ね合わせてしまう。刀だって銃だって、真正面を向いて展示される事は少ない。直視はされたくない、と思うような、静かな圧迫感を持った美しさだった。
並び立つその少女と火ヶ理を見て、通りかかった女子生徒が顔を赤くして立ち止まる。向けられる熱っぽい視線に気付いていないのか、それとも慣れ切っているのか、火ヶ理は普段と同じような調子で千円札を出しながら言った。
「さてさて、来たからには買わないとな。全メニュー一個ずつ頼むよ、これで足りるか?」
「はい!毎度ありっす!」
最初から居た店番らしき少女が代金を受け取った後、お釣りの200円を火ヶ理に渡す。それを受け取りながら、火ヶ理は似たような雰囲気を纏うあの少女に話しかけた。
「一週間ぶりだな、御岳。来てくれって言われた時は、社交辞令かと思って流してたんだが、こいつがどうしても来たいって言ってな」
口実にされたひかりは、面食らって母親の方を見る。けれど火ヶ理はひかりの方を見ようとせず、飄々としたいつもの笑みを浮かべたままだ。
「売り上げに貢献してくれるのなら、だれでもありがたいですよ」
「はっは、こやつめ」
ぎょっとしている他の部員を気にした様子もなく、火ヶ理は御岳の頭に笑いながら軽く手刀を放つ。御岳と呼ばれた少女はそれを掲げた手で受け止めながら、悪戯っぽく笑った。
「冗談ですよ、来てくれて嬉しいです。そういえば娘さんの名前は?」
ひかりは、御岳が唐突にこちらに話題を振ってきたことに戸惑いながらも、その首元あたりを見上げながら、小さな声で名前を言った。
「篠崎ひかり、です」
それを聞いた御岳が、ちょっと驚いたように口を開ける。
「すいません、ポテトが丁度ストック切れたところでして……あー、あと二分くらいで揚げ終わるみたいです」
ちょうどその時、料理所から顔を出した男子部員が――揚げ終わりまでの時間を聞き直したらしく、一回料理所に顔を戻してから――そう言ったのだ。
「おっ、じゃあ揚げたてか。せっかくだ、ここらで待っとく」
火ヶ理は嬉しそうにそう言って、ひかりの手を引いて少し後ろに下がる。それから思い出したように、ひかりに囁いた。
「私はここのOGでね。道場の連中に頼まれて、たまに教えに行ってる。あと、御岳は道場でも一緒なんだ」
ひかりには初耳だった。よく見れば御岳も、店番をしている賑やかな少女も、火ヶ理と同じように広げた左の掌の、小指の付け根あたりにタコができていた。そして立てかけた木の板には、竹刀と防具――面や胴、垂と籠手――に棒状の手と足を生やして顔を付けた、かわいいのかどうかよく分からないキャラクターたちが書かれている。
「はい、先に唐揚げとごま団子っす」
レジ担当の少女が小走りになって、二つの紙コップを持ってくる。緑と赤の絵柄が書かれたコップの中には、それぞれ三個入りの唐揚げとごま団子が入っていた。
「おう、ありがとう」
火ヶ理は紙コップを受け取って、さっそく一番上の爪楊枝に刺してある唐揚げを口に放り込む。そして少女は紙コップを渡したあと、すぐにひかりの方にしゃがみこんで――さっきからしたくて仕方がなかったという風に、ニコニコと微笑みながらひかりの髪をくしゃくしゃと撫でまわす。ひかりは少し驚きながらも、その手つきが案外に優しく控えめなものだったので黙って受け入れることにした。
「かわいいっすね」
少女はひとしきり頭を撫でた後、満足げな顔をしてそう言った。少女は制服のスカートに部活のポロシャツ、そして雑にジャージを羽織っている、学祭のそこかしこで見るような服装だった。火ヶ理は悠々とした表情でごま団子を一つ食べ終わった後、ふと思い出したように紙コップをひかりに差し出す。
「ひかりも食うか?」
「ううん、いいよ」
慌ててひかりが紙コップを押し返すとと、それを予想していたようにすぐ手を引っ込めて、火ヶ理は次の唐揚げを頬張り始める。
「こいつは小食でな、食わなきゃ育たんっつーに」
「……あの、御岳さんって」
ひかりがなんとなく、そう口にする。母やあの白い少女と似た雰囲気を纏う彼女を、どこか気になっていたのかもしれない。
「御岳先輩――御岳鶴来さんっす。今の部活のキャプテンで、部内でもまあぶっちぎりの強さでIH出たりもしてますし、んでもって試験も毎回学年一位であのイケメン具合、女子にもモテるんで完全に『王子様』っすね!」
少女はよくぞ聞いてくれましたといった表情で、少し離れた場所で、誰かと話している御岳の方を広げた五本指で指し示す。ひかりが少し引くくらい熱っぽい語り口で、どうやら目の前の少女もどうやら御岳の『追っかけ』の一人らしいと分かった。
「あいつが『王子様』か」火ヶ理は最後の唐揚げを口に放り込む。「道場に通い始めたころは、随分と喋らない内気なやつだったんだが……変わるもんだな」
「へー、御岳さんが、内気ですか」
意外そうにつぶやくその少女に、火ヶ理は不意に聞いた。
「兄さんは来てるか?」
御岳のことを言う時よりも、明らかにどうでも良さそうな口ぶりだった。そしてひかりは、目の前の少女の名前は皇 后というらしいことを聞いた。兄の名前は皇 帝で、当然のように皇帝とあだ名がついているらしい。
「多分どこかに居ると思いますけど……なにやってんのかは分かんないですよ。中学の頃はダンス部だったんですけど、この高校にはダンス部ないですから」
そこまで立て続けに喋っていた辺りで、后は片手に紙コップを持った他の部員に頭をはたかれた。
「コウ、部員以外を紹介してどうするんよ。あと客が溜まってるから会計手伝いな……あっ、お待たせしました、フライドポテトです」
湯気を立てる、塩をふったばかりのフライドポテトを食べてから、火ヶ理とひかりは校舎の中に入った。そこでは教室ごとに出し物が展示されていて――クラスごとのものと、文化系のクラブによるもの――前者はやる気のなさがにじみ出るような適当具合で、後者は逆に異常なまでに気合の入った鉄道のジオラマや、なにかの年代記などが展示されていた。そして廊下では入学希望と間違われて親切そうな教師に話しかけられたりもしたが、ひかりは上の空のままだった。
ひかりから見て、学祭に参加している彼らはキラキラと輝いていて、とても楽しそうだった。そして何もかもがスクリーンを隔てた、『向こう側』の出来事だった。決して自分はそちら側に行く事はない、どこまでも閉じた輪だ。
「……ダンスですか?特に見るほどのもんじゃないと思いますけど」
火ヶ理に連れられて校舎を出たときに、店番が終わったらしい后と鉢合わせして、そんな話になった。ちょうど漫才が終わったところらしく、ダンスの出し物の最初のグループが出てくる。
「ダンス部なんてないから、夏休み終わってから練習始めたくらいのイケメンと女子しか居ないですし。関係者とサクラと追っかけと、あーネタ枠で女装ダンスは盛り上がりますね。うちの兄なんか常連ですよ、いかつくて女装がウケるって。こんな時にしか目立たないむっつりした人っすけどね」
そんなことを言いながらも、后はポップな音楽にあわせて踊り始めた女子生徒たちの臍や腰の動きを、口を半開きにして眺めている。
「普通にダンスしても上手かったのに、今じゃ学祭の女装ネタでしか踊らないんですよね。予防線張ってるんですよ、失敗したときにウケなかったら傷付くから」
「コウ、兄ちゃんと仲悪いの?」
「関係ないわたしまで、女装ダンスの話でからかわれるから嫌なんだよぉ」
隣に居た女子に、后は顔を大げさにしかめながらそう答えた。そして表情を戻して、こう続けた。
「まあ、内輪でほどほどに盛り上がってるのも、楽しいなら良いんじゃないすか?どれくらい頑張ったのかとか、結果とか気にせずに、『頑張った』『楽しかった』で終われるなら、それも青春ですよ、きっと」
后はそう言ってから、肩をすくめる。
「わたしはテキトーにやって、眺めてるだけで良いけど」
「その割に屋台のイラストとか頑張ってくれたじゃん」
「いやー、ははは」
友達の突っ込みを、后は笑って雑に流そうとする。その脇で、火ヶ理が時計を見ながら口を開いた。
「……そろそろ時間だな」
ひかりは火ヶ理の声につられて、中庭の舞台の方に目をやった。
「さーて次の出演者たちはー……」
ずっと上げ調子だった司会者の声が、尻すぼみになって消えていく。
「……二年の皇帝と、カイザーって誰だこれ」
壇上に上がってきたのは、対照的な二人だった。くだけたファッションとシルバーのアクセサリーに身を包んだ、色白で線の細い男性。そして色黒でいかめしい顔をして、しっかりと着こんだ学生服でようやくこの生徒だと分かるような老成した雰囲気を持つ男性。どちらも、女装はしていなかった。
「げっ、兄さん!?」
素っ頓狂な声を上げる后の視線の先を追って、ひかりは後者が皇帝なのだと分かる。カイザーと呼ばれた長身の男が司会からマイクを引ったくり、こう叫んだ。
「俺はお前らを知らんし、お前らも俺を知らん。だから、これが俺の自己紹介や。初めまして、伊藤=カイザー=ドルムメバティです」
それが、音楽の始まりの合図だった。舞台脇のスピーカー車から、四つ打ちのエレクトリカル・ミュージックが流れ出す。穏やかなスクラッチ音に合わせて始まった彼らの踊りは、とても目を惹いた。彼らの踊りが尋常ではない程に、冴え渡っていたからだ。
暮町高校の生徒に、年齢制限を潜り抜けてまでクラブハウスに通うような素行の悪い生徒はそう居ない。だから、彼らの名を知るものも居なかった。カイザーは半年前に転校してきてから、学校にほとんど来ていない。皇帝は、大勢の目立たない生徒の中の一人だった。
最初は誰も彼も、奇異な登場をした彼らをなんとなく眺めていただけだった。そしてすぐに、大勢の観客と同じように、ひかりは思わずその素人目に見ても分かる卓越した技に引き込まれたのだった。
カイザーはどこにでもあるような普通の箒を片手に、まるで舞台から浮いて滑っているような足捌きで横向きに移動していく。そして箒を手渡された帝が、掃き掃除をするような動作を、音楽のビートに合わせて身体を小刻みに動かして、まるでロボットか操り人形のように見せる。それがダンス映画の1シーンの再現だと、ほんの一部の大人は分かったかもしれない。
「さあ、見に行こうか」
中庭に居るほとんどの人間が、次々と繰り出される奇想天外な動きに唖然としている中、火ヶ理は唐突にそう言ってひかりを膝から抱え上げた。
「ちょっと、お母さん!」
「こうやった方が見えやすいだろう?」
ひかりが思わず抗議の声を上げてもどこ吹く風で、火ヶ理は観客の人ごみの中をかき分けて歩いていく。ちょうど中ほどまで行った辺りで、ひかりは火ヶ理に更に高く持ち上げられる。そしてその光景を、間近で見ることになった。
最初に声を上げたのが誰だったか分からない。最初に腕を上げたのが誰だったか分からない。けれど曲が転調して急激な盛り上がりを見せると同時に、静まり返っていた観客たちも一斉に沸き立った。
カイザーは身体の重量を、地球の重力を無視したような軽やかな動きを見せる。片手で――正確には自由な両脚と片手、体幹と頭部を巧みに操作して、バランスをとって倒立する。そして宙に跳ねて一回転したかと思うと、横向きに寝そべるような姿勢のまま柔らかに着地する。
帝がバトンを扱うように繊細な指先の動きで、箒を身体の左右で縦回転させる。地面についた手を、頭を下にして回転するカイザーの脚が、箒に合わせて歯車のように全く同じ速度で、激突することなく回り続ける。
スピーカーから大音量で放たれる、爆撃のような重低音に脳をぶん殴られる。地盤ごと巻き上げる嵐のような二人の熱量に知らず知らずのうちに身体が揺れる。誰も己たちを知る者が居ない中、平和な『いつも通りの学祭』を真っ向からぶち壊しに来たその二人の躍りを、もはや誰も止められはしない。鉄パイプに木の板を敷いた簡素なステージは、観衆の喚声に底が抜けそうだ。
「はー、兄さんやっぱやめてなかったんですね」
出店も校舎内の出し物も何から何まで、客だけでなく担当の生徒すら外の騒ぎの正体を見ようと出払ってしまっている。一人屋台に残った后は、誰に向けてでもなく、そう呟いた。「ちょっともー進行スケジュール滅茶苦茶だよ!誰だよあんなでかいスピーカー車用意したの、耳壊れちまうよ!」司会役の悲鳴のような声も、沸き上がる声にかき消されて聞こえなくなる。そして、カイザーは滝のように流れ出る汗もそのままに、マイクに向かって叫んだ。
「さあ盛り上がってこうぜ!」
火ヶ理に膝から抱えあげられるようにして、ひかりはそれを見ていた。踊り続ける彼らの纏う、燃え盛る太陽のように眩い、その輝きを。
――これはただの『ダンス』だ。
自分の生活には関係のない存在、違う世界のもの。かつてのひかりならば、そう思って通り過ぎるだけだったのだろう。けれど、ひかりは彼らの踊りに、あの日の少女の戦闘と同じものを見いだし、感じ取っていた。
退屈に過ぎていく平和な日々も、平穏に過ぎていく無為な日々も。
なにもかもぶち壊して、なにもかも変えていくもの。
それは、『力』だった。
圧倒的なエネルギーとその制御。その人間の中に堆積した熱量――経験や歴史、努力といったものの成果。精度、速度や洗練性など取る形は様々であっても、然るべき何かを持つ存在である、ということを示す無言の説得力。そして、それらを目の当たりにした時の、自身の心に沸き起こるもの。それは『憧れ』だった。
手を伸ばさなければ、届かないことなどない。求めなければ、飢えないのだと、今まではそう信じてきた。けれど飢えないでいることと同じくらいに、求めないで生きることは難しい。生きていたら、何かを求めてしまう、何かを希望してしまう。それを押し殺して、見ないふりをして生きていくことは、飢え続けて生きるのと何も変わらない。
――ああ、駄目だ。
ひかりは胸の辺りをぎゅっと押さえる。目を閉じても消えないような、強烈な光。今までは何も見ないまま、何も感じないまま、日々を送ることができた。しかし、一度でもそれを見てしまったのなら、もう元に戻れはしない。
全てのきっかけとなったのは、その『憧れ』を知ってしまったのは、疑いようもなく、廃工場に向かったあの日の事だった。あの一発の弾丸が、ひかりの世界に色を与えたのだ。感動も――そして苦しみも。無色の世界に、汚い色の自分は存在しなかった。憧れがなければ、手の届かない自分なんて存在しなかった。
――
中庭は嵐の通り過ぎた後か、爆撃の後のような惨憺たる状態になっていた。騒ぎ張本人たちは音楽が終わると早々にどこかへ行ってしまって、残された舞台の周囲では人の波に押し潰されたらしい生徒の呻き声すら聞こえる。
「……ねえ、お母さん。これを見せたくて、連れてきたの?」
「家で悩むよりかは、良い一日になっただろう?」
ひかりは頭上から響いた声に、俯いていた顔を上げる。前を歩く火ヶ理は夕日を真正面から受けていて、陰になった後姿がいつもよりも高く見えた。
「でも、心は晴れない。そりゃそうだ、何も解決してないんだから」
いつの間にか、校舎を照らす日差しが黄色くなり始めていた。徐々に空気も冷たくなっていて、中庭に出ている生徒たちも指定のコートやセーターを着こんでいた。
「……お母さんには、分からないよ」
ひかりは小さな声で、そう呟く。火ヶ理は誰よりも高い、届かない場所に居る人間だった。悩まない、苦しまない、何もかもを己の力で解決してしまう。例え親と子であっても、決して同じになれない、天と地よりも隔たりのある人。
「何かを分かる必要なんてないさ」
「……え?」
屋台を見て回る人もまばらになっていて、立ち止まって話す二人を気に留める人も居なかった。火ヶ理は言葉を失ったひかりを前にして、いつもと変わらない様子で言った。
「例えば、自分や相手がどういう人間で、誰が善で誰が悪なのか。努力したって絶望しかないか、それとも必ず報われるのか、『現実』はどうなのか。それを分かって何になる?今までずっと、それを考えていて、何かが変わったか?考えてみな、ひかり」
――何も、変わっていない。
考えずとも、分かっていた。一週間前、夕暮れ戦争を辞めてから、今までの間。ずっと、そのまま。少年の言葉が、ひかりの頭をよぎる。
「どれだけ難しいのか、どれだけのものが足りていなくて、他の人間とどれだけ隔たりがあるのか。それを考えたら楽になるか?何もしない理由があれば、失敗したりして傷付かないで済むか?だけどずっと、何も変わらない。だから傷付かないために、どんどん考えないといけなくなる」
自分が傷付かない方向に考えて、それに寄り添う人たちが集まって、ずっとそのまま。それで構わないのなら、どうもしない。火ヶ理はそう前置きしてから、話を続けた。
「けど、現実がどうであるかなんて、本当はどうでもいいんじゃないか?世界は不条理で、自分は選ばれなかった人間で。もしそうであるなら、何も願いを叶えられなくても、幸せになれなくても仕方ないのか?」
ひかりの頭に手を乗せて、火ヶ理は不意に優しい口調になって、こう問いかけた。
「今どうであるかはどうでもいい、今までのことも語らなくていい。一つだけ、教えてくれ。ひかりがこれからどうしたいかを」
白い閃光、巨大な弾痕。圧倒的なエネルギーとその制御。届かないと分かっていても、それに焦がれてしまう自分。少女よりも、その行使する力に『美しさ』を見出してしまったこと。強くなりたかった。あんな風に。力に憧れた。今の自分を変えられる、そして世界を変えるほどの圧倒的な力に。
「わたしは――」
ひかりが声を発しようとした、その時だった。
全身の肌を打ち付けられるような強烈な衝撃が、ひかりを襲った。
「どうした、ひかり?」
思わず身を竦めたひかりに、何も気づいていない様子の火ヶ理が声をかける。そして不意に、正門の向こうの方が騒がしくなる。救急車のサイレンと、人の騒ぎ声が遠く響いていた。
【それ】が来たのだと、見えずとも理解できた。肌で感じられるほどの大気の震えに、鳥たちがギャアギャアと鳴きながら飛び立ち、日を遮る瘴気に、魔法を知らぬ人間でさえも空を見上げる。そこには赤く、赤く燃え盛る暮の空があった。それをひかりは、山火事の燃え盛る夜空のようだと思った。遠くで燃え盛る炎は、大気に反射して暗闇を赤く染める。けれど、もはやその炎は自分にとって対岸から眺められるものではない。
「さっきので誰か倒れた?」「なんかねー、正門前の道路で交通事故あったんだって。男の子が倒れてたらしいよ」「えー、大丈夫なの?」「大したケガじゃないらしいけど、誰も事故が起こったとこ見てないんだって……」
二人の女子生徒が、そんな話をしながら通り過ぎていく。ひかりはふらりと、何かに引きずられるように歩き出した。人気のない方へと歩き出すひかりの背に、火ヶ理が声をかける。
「どこへ行くんだ?」
そして振り返ったひかりの表情を見て、少し考え込んでから、火ヶ理はいつもの微笑を浮かべて言った。
「私はここで待ってる。だから遊びたいところで遊んでくるといい……日が落ちる前には帰ってくるんだぞ」
ひかりが去ってすぐのことだ。火ヶ理の傍らを、見覚えのある少女が通りかかる。
「あっ、火ヶ理先生、御岳先輩見ませんでした?」
后は走ってきたらしく、息を乱しながら火ヶ理にそう訊ねる。火ヶ理がわけを聞くと、
「いえ、特に用事ってわけじゃないんですけど……片付けの最中にふらっと消えちゃって。なんか事故があったとか聞いたから心配でして」
と、后の話を聞いていた火ヶ理が、ふと遠くに目をやって言った。
「帰ってきたみたいだぞ」
御岳は校門の方から、何も変わらない様子で歩いてきた。
「もう、先輩ったら、どこ行ってたんですか?」
子犬のようにまとわりつく后をあしらいながら、少しね、と御岳は笑って答える。
――
『扉』はとっくの昔に現れていた。ひかりはそれに、校舎の屋上にあがってからようやく気付いた。飛び降り防止のためのフェンスが張り巡らされた、白いコンクリ床の、どこにでもある屋上だ。先に誰かが使っていたらしく、屋上への扉の鍵は開いていた。ひかりは人目に付かない、そして一番見晴らしの良さそうな場所を探している最中に、そのことに気付いた。夕空に浮かび上がる『扉』と、沈みかけの夕陽を遮るものは何もなく、橙色の日差しを浴びて、ひかりはただ立ち尽くしていた。
浅い息を繰り返す肺に、凍るように冷たい空気が突き刺さる。胸を押さえる手はじっとりと汗ばんで、脚は震えてそれ以上動こうとしない。こんな場所へと迷い出た自分を、冷たい理性が、諦めた心が、愚かだと笑っていた。
何を求めて、何を期待して『夕暮れ戦争』に舞い戻ろうというのだろう。世界は自分のためにできているんじゃない。冒険が正の結果を生み出すとは限らないことを思い出せ。たかが熱病にも似た憧れで、なにかを変えられると思うな。『現実』を見ろ。こんなにも歩き出せない理由が、危険と恐怖がある。物語の世界じゃない、『現実』に挑戦が成功することなんて万に一つもあればいい方だ。失敗したらどうなる?死ぬかもしれない。全てを諦めて、傍観していればいい。
――ここではない、どこかへ。
このままは、嫌だ。その感情と、再び提示された『光』だけが、ひかりをこの場所まで連れてきた。理性に抗うようにして。そしてそれ以上どこにも進むことはできなかった。翼のない者にとっての頂上は、いつだって行き止まりでしかない。続く道は、ただ降りて引き返すだけだ。ひかりはただ、立ち尽くす。或いは日が落ちるまでずっと、そうしていたかもしれない。
――そして、【それ】が来た。
巨大な黒い影が、屋上のフェンスを突き破って轟音とともに降り立ち、その周囲の床には亀裂が走る。けれど一般人にはその姿は見えず、【それ】が起こした揺れさえも感じ取ることができない。翼を持たないひかりは、まだ【それ】に気付かれていない。ひかりはこの時点ではまだ、逃げ出すことができたし、そうするつもりだった。
ひかりの視界の端に映る、【それ】に紙切れのように吹き飛ばされる、傷付いた一つの人影。その少女を見た瞬間に、ひかりは思わず胸を握りつぶすように強く、強く手を押し当てる。猛禽の翼と黄金の髪、絶望に染まり誰かの助けを求める、鳶色の瞳。そして、ひかりは走り出した。迷わず、【それ】の方へと。
≪rejecter≫
掲げた手の先に、光り輝く灰色の『想いの欠片』が現れる。そして球状のそれは無数の粒子となって降り注ぎ、ひかりの姿を覆い尽くす。
≪set up≫
ひかりは、それまでと何も変わらなかったし、何かを決心してもいなかった。ある意味当然のことだ。火ヶ理と交わした言葉は、確かに一瞬は気分を変えてくれた。だが、たかが数分言葉を交わしただけで人の性格が変わり、決心がつくのなら、ひかりはとっくの昔に、歩き出すことが出来ていたはずだ。
――自分が動かなければ、ともみは死んでしまう。
ひかりが走り出した理由は、ただ『怖いから』だった。知っている人間が傷付くのが怖かったから、ただ明確な目的もなく、足を進めたのだ。
――
夕陽に照らされた街並みの上空。『夕暮れ戦争』の舞台に、一つの巨大な影が疾駆する。狼のような姿をした巨大な【それ】は、屋根から屋根へと瓦を踏み割りながら飛び移っていく。半流体状の漆黒の毛並みには、いくつもの傷跡が再生しきらずに残っており、その両翼は根元から断ち切られている。しかし【それ】の纏う魔力に衰えはなく、そして今、【それ】を追っている魔法少女はただ一人、ともみだけだった。
【それ】は安定した足場――校舎の屋上に着地すると同時に、土埃を上げながら急停止する。身体を捻って勢いを付けた太い尾が、スピードを殺せずに突っ込んできたともみに打ち付けられる。
「ぐっ……!」
屋上の端のフェンスに激突し、ともみは小さくうめき声を上げながら体を起こそうとする。そして自らに飛び掛かる【それ】の、真っ黒い液体を垂らす裂け広がった口と、その上下にびっしりと並んだ、青白い電撃を纏った牙を見た。
≪rejecter≫
そして【それ】の前に立ちふさがる小さな人影と、地面から立ち上がる、巨大な黒い障壁を。
≪set up≫
そこに居るのは、何も変わっていない、いつものままのひかりだった。挑戦して失敗するのが怖い。だから、それが不可能で、だから自分はそうしないのだと正当化する。憧れたものを見ないようにするために。成功した人に自分の気持ちなんて分からない。憎しみを抱いて、落ち込んで、ますます『絶望的な現実』を心の中に創り出していく。
――この障壁は、わたしの心の壁だ。
【それ】が鼻先から激突し、鈍い衝撃を響かせる巨大な黒壁を見て、ひかりはそう確信した。『今のままで居る』ためにしか使えない魔法。恐怖より生まれ、誰も立ち入らせない、黒く冷たい『拒絶』の壁。
――もし魔法が心を、思考を具現化させるものであるならば。
“自分がどうである、相手がどうであって、現実とはどういうものなのか。”そんな思考や分析、本当はどうでも良かった。それはただ、自分が傷付かないために重ねていただけのものだ。そして自身が傷付かないように、外敵を隔てるための『思考の壁』は、自分さえも踏み出せない深い断絶を生み出していた。傷付かないようにするために、自らをも封じ込めてしまう、狭い思考の城壁。それが、わたしの魔法だ。
「もうっ、遅いわよ!」
「ご、ごめんなさい……」
ともみは何かを言おうと口を開きかけた後、結局、いつもの怒ったような口調で一言だけ叫んだ。ひかりは反射的に謝るが、ともみの声に、それほど怒りの感情は感じられなかった。
障壁を回り込んだ【それ】が振るった、雷撃を纏う爪が掠める。ともみはすぐに、ひかりを抱きかかえ、脚を獣のそれに変化させて空へと飛翔する。広げられた猛禽の翼で風に乗ったともみの腕の中で、ひかりは再び『星空』を見た。憧れ、しかし決して届かない『翼のある魔法少女』達の纏う光を。
たとえわたしが、物語に出てくるような囚われの姫で、白馬の王子様が助けに来たとして。わたしは王子様を、寝室の窓を開けて迎え入れる事は無いだろう。わたしを囚えているのは、わたし自身なのだから。それが『居ても居なくても良い』自分だ。自分を取り巻く環境や世界じゃない、別の世界や非日常に行ったって、『自分』からは決して逃げられない。『自分』に刻み込まれた『現実』という思考には。
――そしてひかりは、『そんなこと、どうだっていい』と呟いた。
今がどうであるかなんて、どうだっていい。自分がこれからどうしたいのか。何を望み、何を願い、そのためには何が必要なのか。それ以外のことは、何も考えなくていい。わたしは廃工場に向かったあの日、確かに『憧れ』を感じたのだ。
――わたしは、手を伸ばす。憧れたものに、一歩でも近づくために。
届かぬ星に、それでも手を伸ばし、ひたすら地上を登り続けるヒトのように。翼が無くとも、隔てる壁があろうとも、天に焦がれる気持ちだけは揺らがない。
二人の眼下を、後片付けの最中の中庭が過ぎ去ってゆく。
「わたし達の使えるものを教えて!」
ひかりは羽ばたきと風を切る音にかき消されないように、自分が出せる限りの声でともみにそう叫ぶ。ともみは前回とがらりと変わったひかりの印象に目を丸くしていたが、すぐにひかりの何倍もの大声で怒鳴り返す。
「一回しか言わないわ!しっかりと聞きなさいよ!」
そして、ともみは『魔法少女』の持つ魔法の事を説明した。
――魔法少女は自分だけの固有魔法に加えて、本来『自動障壁』と『飛行する翼』の二種の付加魔法を持っている。
二人を追う【それ】が、針のような体毛を全身から発射する。ともみは雨のように降り注ぐ鋭い毛が、比較的密度の低い部分を縫うようにして飛翔する。避けきれなかった体毛が二人に突き刺さろうとした時、半球状の色付きガラスのような非実体の壁が現れて、傘に散る雨のように針の毛はことごとく防がれていく。
――『自動障壁』の魔法は、生み出された弾丸、飛来する瓦礫や火炎などの物体・エネルギーは防げるが、魔法少女や『それ』といった、生命のあるものの侵入は防げない。
故に、魔法少女の戦いは障壁の外から、障壁が割れるまで撃ち合う遠距離戦闘か、互いの障壁の中に入って斬り合う近距離戦闘のどちらかになる。自動障壁を持たない『それ』を相手にするのなら、本来遠距離に徹していれば有利に戦いを運べるのだが――
自身の射撃の反動で体勢を崩した【それ】が、屋根から足を踏み外して道路へと落下する。【それ】の巨体が落下していく地点には、多くの車と人が行き交っていた。
≪rejecter≫
考えるよりも先に、身体が動いていた。咄嗟にひかりは障壁を、道路を覆う天蓋のようにして出現させる。道路の高さを予測して着地体制を整えていた【それ】は、突然高い位置に出現した足場に対応できず、その上をがりがりと頭で削りながら滑っていく。一瞬だけ遮られた日差しに、道行く人が不思議そうに見上げるが――認識阻害で、一般人の眼に壁は映らない。彼らが違和感に首を傾げるのも一瞬のことで、すぐ障壁が消えて元通りの空が現れる。
『これから起こる事態』を恐れ、それを拒絶する為にしか、ひかりは障壁を放つことができない。つまり惨劇の起こり得る事態を目撃するか、己に向けられた死の恐怖があるならば、それを防ぐだけの魔法なら使えるということだ。ただ『恐怖』によってのみ、ひかりは戦うことができるのだ。
「今よっ!」
投刃のような鋭く固い無数の羽が、先程までの意趣返しとばかりに倒れた【それ】に殺到する。ともみの固有魔法は、『動物の身体的特徴を自身に発現させる』ものだ。自身の前腕と同じくらいの大きさの爪や、アルマジロのように硬質化した羽のように、任意の組み合わせと大きさを選択できる。
しかし、放たれた羽はことごとく【それ】の硬質化した体毛に弾かれ、光の粒になって消えていく。ともみは、悲鳴のような声でひかりに叫ぶ。
「もうっ!あの毛皮、鉄みたいに固いの!」
それが、遠距離戦闘では決着が付かない理由だった。ともみの攻撃力では、【それ】の核はおろか、その堅い構成体に傷一つ付けることさえできないのだ。
「……篠崎ひかり、手伝いなさい」
ともみは悔しげな表情で、抱きかかえたままのひかりにそう言った。ともみだけでは、負けることは無いが、勝利することもできない。この戦いの帰趨を決めるのは自動障壁も、翼も持たない、ただ『壁』の固有魔法だけを持つ、出来損ないの魔法少女。すなわち、篠崎ひかりだった。
「うん、ともみさん」
ひかりは頷き、ふとあの夜の事を思い出す。目の前に降り立った白い少女が、巨大な【それ】を倒した時の事を。彼女が巨大な銃で撃ち抜いたのは、【それ】の唯一無防備な口腔だった。堅い表皮を貫いて核を破壊できないのなら、内部から直接破壊すればいい。そして自分の魔法、『壁』が使えるのは、差し迫った死や惨劇を拒絶するときだけだ。
「はあ~!?本気で言ってるの!?アタシの攻撃でもちょっと傷がつくくらいだし、アレの牙は一発でも喰らったらダメなのよ!?ましてや……」
ひかりの作戦を聞いたともみは、素っ頓狂な声を上げてからそうまくし立てる。ひかりは、一言だけ言った。
「わたしが居ます。盾くらいには、なれますから」
ともみは少しの間黙る。そして最後に捨て台詞のようにこう言い残してから、ひかりの作戦を実行に移した。
「……やられたらあんたの責任よ!」
ともみは空から急降下して、民家の屋根を飛び立とうとしていた【それ】の鼻先に爪を叩き込む。【それ】は一瞬怯んだものの、すぐに二人に向かって牙を剥き、その身体を噛み千切ろうとする。
『rejecter』
二人の身長よりも大きく開き切った口――その雷撃を纏った歯の更に内側に、つっかえ棒のようにして細長い障壁が生み出される。【それ】は身体の勢いはそのままに、口を閉じられないまま二人のもとへ迫る。
「今っ!」
ひかりの声を合図にして、無防備な【それ】の口腔の中に、無数の硬質化した羽が叩き込まれる。【それ】は悲鳴や苦悶の声は上げない、口はただの捕食の器官だからだ。閉じられない牙に、さらに強力な電気を纏った事を示す眩い光が生まれる。羽の幾つかは【それ】の体内に突き刺さったが、ほとんどのものはその電撃によって蒸発して【それ】を傷付けることができない。そして二人は、作戦の本命を発動する。
「駄目だったら…知らないからね!」
半ばべそをかいたともみと、震える手で胸を押さえ、ごくりと生唾を飲み込むひかり。そして【それ】の咢をつっかえていた障壁が消滅し、【それ】が二人を喰いちぎろうとした刹那、
『sphere shield』
球状の障壁に身を包んだ二人が、【それ】の口腔内に飛び込む。ひかりの『壁』の強度は、魔法少女の自動障壁とは比べ物にならない。一撃必殺の牙でさえ、噛み砕けないほどに。真っ暗な球状のシェルターの中で、表面が牙とぶつかって削れる振動と、ガリガリという嫌な音を感じながら二人はきつく眼を閉じて――それらが消えたあと、恐る恐る眼を開いて障壁の上半分だけを消し去った。ともみは目の前に広がる光景に、思わず呟いた。
「なにこれ……?」
【それ】の体内は奇妙な空間だった。恐れていたような消化液もなければ、そもそもの食道や胃といった消化器官、心臓や肺のような必須の内臓すらも見えない。半ば空洞のような身体の中に、【それ】が纏っていた雷撃と同じような色の青白い光で、魔法の術式らしきものが縦横無尽に描かれていた。そして表皮の裏側から垂れ落ちる黒い流体と、全体に満ちる青白い光の粒子。とても生物とは思えないその空間の中で、術式の回路が時に瞬き、時にその配列を組み替える。
「あの、長居は危険だと思います……」
「わっ、分かってるわよ!」
ひかりの声でともみは我に返り、巨大な爪を出現させる。
≪Peacock’s fowl≫
ともみは二つの爪を大きく広げて回転しながら、その血管のように張り巡らされた光の術式と、内壁の柔らかな構成体を切り裂いていく。黒い飛沫と、青白い光の粒子が【それ】の中に飛び散り、そして【それ】は断末魔を上げることもなく、唐突に破裂して消えた。
空中に放り出された二人の眼を、紫色の空に、僅かに上端を残すのみとなった太陽の光が刺激する。『扉』が消えて、変身がゆっくりと解け始める中、ともみの呆けたような声が空に響いた。
「……勝ったの?」
――
「夜、なっちゃったなあ…」
ひかりは、星に満ちた群青の空を眺めながらそう呟いた。ひかりが座る、どこかの誰かの家の屋根。そこには、あと二人の人間が居た。ひかりと同じように、疲労困憊といった体で座り込むともみと、さも当然といった風に、いつのまにかそこに立っていた白い少女。
「おかえり、ヒカリ。戻ってきてくれると思ってたよ」
白い少女がそう言った時、ひかりは彼女の存在にようやく気付いた。
「……あなたは」
「僕は、この戦争の監督役だよ」
ひかりが何か聞こうとするのを遮るように言って、少女は肩をすくめた。それに応えるように、【それ】に踏み割られた瓦の屋根や、夕暮れ戦争で生まれた破壊の数々が、白い光の粒子に包まれて元の姿に再生していった。
「こっちの『それ』は本来、大人しくて弱い生き物なんだ。けど何かの間違いで大きな魔力を持つものを食べてしまうと、あんな風に凶悪な【それ】に成長してしまうんだ。【それ】の持つ魔法や形態は、食べたものに応じて変化するから――きっと、召喚獣かなにかを食べたんだろうね」
【それ】が消滅した後に残った、前の戦いで見た時よりも二回りくらい大きな『想いの欠片』を手で弄びながら、白い少女はそう言った。その視線の先には、今はもう見えない『扉』の浮かぶ廃工場があった。ひかりは初めて少女と会った『扉』の向こう側のことを思い出したが、ともみの前なので何も言わなかった。
「これ以上なにかを喰うようなら、僕が倒さなくちゃならなかったんだけどね。おかげで手間が省けたよ、お疲れさま」
そして少女は、ひかりに『想いの欠片』を差し出す。
「あっ、あたしが倒したのよ!」
ともみが慌てて叫ぶのとほとんど同じタイミングで、ひかりは落ち着いた表情で言った。
「うん、わたしは要らないです」
意外そうな二人の視線を受けながら、ひかりは受け取った『想いの欠片』を両手でともみに渡した。今のひかりにとっては、戦いの過程と結果だけがあれば良かった。勝利に副賞が付くならありがたいが、別になくても構わないものだったのだ。
――それに、まだ終わっていない。最初の一歩を、踏み出しきっていない。
自分は選ばれた人間じゃない、世界は自分のために出来ているわけじゃない。ひかりはそれをずっと前から、知っていた。みんなが分かり合うべきで、弱者や異質な者に歩み寄ってくれる世界が理想だとしても、少なくとも今の世界がそれでないことも知っていた。そして自分のような人間が、世界に受け入れられるわけなどないと思っていた。
――
澄み渡った夜空に、錐で突いたように小さな無数の星々が輝く。すっかり暗くなった校舎の廊下に緑がかった蛍光灯がつき始め、屋台の片付けが始まりつつある中庭。ひかりの帰りを待っていた火ヶ理は、ふと背後から近づいてくる誰かの気配を感じて振り返る。
「おお、お前らか」
長身痩躯の色白の男と、がっしりした体つきの色黒の男子生徒の二人組。「いやぁ、遅うなってすまんな。帝が女子に囲まれてて時間かかってもうたんだわ。あいつ慣れとらんからなあ」カイザーは誰と話すときも、同じように話す。それ以外のしゃべり方は知らないのだ。この国に来て、見様見真似で覚えた言葉が通じるようになるまでも時間がかかった。
「そういうお前はどうだったんだ、カイザー?友達はできそうか?」
「ああ、何人か今晩の約束取り付けたわ」
無論、女子のことだ。
「お前というやつは、まったく」
隣の男は呆れたようにため息をつくが、そこまで不快に感じている様子もない。もう彼と、彼の属する文化がどんなものかを、彼もその身で体験してよく知っていたからだ。そしてそれに対する悪感情も、もう持っていない。
「上手くやれてるようで何よりだ」
ただ学生として、ひっそりダンスの練習をしていた帝と、どことも知れぬ夜の街の世界から、学校という文化の中に飛び込んできたカイザー。その二人を引き合わせた張本人である火ヶ理は、その理由を問われた時も普段と変わらぬ微笑で答えた。
「全部仕込んでいたわけじゃない。今ある材料で、作れる料理を作っただけさ」
「それが良い料理人の条件なんだ」
六か月前、転校してきてすぐのカイザーは、学生のダンサーを探していた。日本語すら怪しい、学校に毎日行くつもりも無い。そして元々学校の一員でない自分が踊ってみせたところで、ただの部外者の出演にしかならない。『学生の出し物』として学祭に一発かますために、これまでの半年間、帝と組んでショーケースの練習をしていたのだ。踊りがカイザーのコミュニケーションの方法だった。誰に対しても、自分を取り巻く世界に対しても。
「ダンスで、世界を変える」
かつて帝と初めて会った時と同じ台詞のあと、カイザーは火ヶ理の持っていた紙コップから唐揚げを一つ取って、口に放り込む。火ヶ理も、にこやかなままそれを見ている。
「世界を変えると言ったって、踊りでどう変えるんだ?」
「知らん、でも踊れば変わる。俺はこれしか知らんが、これなら誰にも負けない」
彼はまず帝を踊りで魅せて、学校という場所に属する『仲間』を一人手に入れた。そして練習の間も二人で様々な場所に行った。帝はどこにでもいる普通の学生から、カイザーの所属する文化に触れて様々な知らないものを受容するようになった。カイザーもまた、これから学校に居場所を作り、その中にある文化にも混ざっていくだろう。
「二人とも、沢山待たせてるみたいだ。そろそろ行くといい」
そして火ヶ理がふと顔を上げて言った。カイザーと帝が振り向くと、カイザーには女子たち、帝には后が、生徒達の帰っていく校門の方に立っていた。
「んじゃあ、ぼちぼち帰るか」
「おう」
2人は拳を軽く打ち合わせてから、別々の方向に歩き始める。
――
――歩き出すために必要なもの。
例えば意志や、想い、仲間や安心、信頼や希望。そういうものを元から持っている幸運な人なんて、ほんの一握りしか居ない。それ以外の人は死ぬまで歩き出せないか、そうでなければ一歩踏み出して、自分の力でそれを手に入れるかだ。
「……ともみ、さん」
そこで、ひかりの声が震える。どう言えばいいのかも、考えていなかった。誰かに何かを願う事も、ほとんど初めてだったのだ。
――ただ片方の足を前に出せばいい。
そこに理屈も、何も必要なものはない。片足を前に出す。もう片足を前に出す。どの方向を向いていても、行き先がまだ分からなくても。そうすれば、後は勝手に歩き出せる。
今のまま、歩き出せ。そして、手に入れるんだ。仲間も、特別なものも、自らが手を伸ばした先にだけある。選ばれなかった者が歩き出す為に、何も必要ない。ひかりは自らに、そう言い聞かせる。
「あの…わたしと、友達になってください」
さっきまでとは打って変わって、ひかりはしどろもどろで自信のなさげな口調で言った。そしてすぐに、『仲間』や『協力』、『同盟』といった、もっと順当な言葉がある事に気付いて後悔したが――
「え……あたしと?」
ともみは今までに見たこともないような、妙な表情をしていた。信じられないような、驚いているような、それでいてとても喜んでいるような。或いは、自分でもどんな顔をすればいいのか分かっていないのかもしれなかった。
「あ、えっと、あの、」
ともみの表情の意味を読み取れなかったひかりが、失敗したか、と思いながら慌てて言い直そうとしたところに、
「いいわよ!」
満面の笑みをたたえた、ともみの声が響いた。
「友達なんでしょ?なら、さん付けは要らないわ!」
そしてともみは、呆気に取られたままのひかりに『想いの欠片』を突き返す。
「初めて倒した『それ』でしょ?あげるわ、感謝しなさいよ。それに、これからじゃんじゃん勝って、じゃんじゃん手に入れるんだもの。二人で、ね!」
抑えきれない嬉しさが溢れだすような声でそう言ったあと、ともみはひかりに右手を突き出した。ひかりはおずおずとした様子で、その手を取る。白い少女はいつの間にか姿を消していて、満天の星空だけが二人を緩やかに照らしていた。いささか、予想と違ったものになったのだが――そうして、ひかりは『一歩目』を踏み出したのだった。
/第二話:『初めの第一歩』
⇒第三話:『わたし達の魔法』
――