第一話『夕暮れ戦争』
――君が願うよりも醜く、君が恐れるよりも清く、
――君が思うよりも『世界』は、君が思うようにできてる。
「ねえ、ひかり?」
朦朧とした意識の中で、ひかりは誰かに名前を呼ばれたような気がする。瞼を薄く開けて前を見ると、教室の時計の針は昼過ぎの時刻を指し示していた。あと一つ授業を受けたら、今日の学校はおしまいだ。
「ひー、かー、りっ」
「休み時間だよ、リノン……」
徐々に人の減っていく教室の中、ひかりは妙な抑揚をつけた声に眠りを妨げられる。机に伏せていた顔を上げると、リノンの元気が有り余っているような満面の笑顔が間近にあった。
「だーめっ、休み時間は寝てたらもったいないよ」
ひかりはついさっきまで爆睡していた友人の台詞にあきれ返る。少し離れた場所で寝ているクラス委員長を起こしていたつばめと、自分も同じような顔をしていただろう。ううん、とくぐもったうめき声をもらしながら顔を上げる委員長の頬のあたりに手の跡がついているのを見て、思わず自分の頬に手を触れる。
「……あっ、つぎ移動教室」
意味もなくひかりの机の周りを歩き回っていたリノンが、教室の後ろの時間割を見て声を上げる。ひかりもその声を聞いて、慌てて持っていく用意を机の中から引っ張り出す。授業開始まであと3分。妙に教室の中に人が少ないと思ったら、そういうことだったのだ。リノンが起こしてくれなければ、誰も居ない教室の中で放課後まで眠りこけていたかもしれない。
「珍しいよね、ひかりがそんなに眠そうなの」
委員長と何か話してきたらしいつばめが、てきぱきと用意を整えながら聞いてくる。
「……あはは、ちょっと昨日は夜更かししちゃって」
誤魔化すように笑いながら、ひかりは昨夜の事を思い出す。
――昨日はほとんど眠れなかった。
全てが終わったあと、ひかりは気付いたら自宅のドアの前に立っていた。辺りはもうすっかり夜と言っていい暗さで、けれど街の明かりが数年ぶりのように眩しかった。急いで玄関を抜けて、母がまだ帰っていなかった幸運に感謝しながらベッドに潜り込む。けれど、そこからが長かった。あの時の光景が、そして、あの真っ白な少女から言われた言葉が頭を駆け巡って、どうにも寝付けなかったのだ。
リノリウムの床にぺたぺたと上履きの音を鳴らしながら、ひかり達は移動教室に向かう。なんの変哲もない、いつもの廊下。そこは白い少女が最初の弾丸を撃ち放ち、【それ】との激しい戦闘が行われた場所のはずだったが、昨日の破壊の痕はどこにもなかった。廊下の窓から西日がさしこんでくる。空はまだまだ青いが、住宅の壁を照らす光はゆっくりと橙に染まり始めていた。授業が終わる、今日一日が終わる、それ以外の意味を夕空に感じたのは何年ぶりだろう。いつもの癖で、ひかりは思わず胸を押さえる。もうすぐ、『扉』が現れる時間だった。
「……ねえ、ひかり?」
気が付くと、つばめが自分の顔を覗き込んでいた。
「なぁに?つばめ」
筆箱とノート、移動教室に必要なものを一通り抱えながら、ひかりは普段通りの調子で返そうとする。けれど少しだけ、声が上ずってしまったかもしれない。
「今日のひかり、やっぱり変。さっきの授業中も船漕いでたし」
その声に責めるような響きは無い。残りの二人はいつも通りの爆睡だったし、ひかりに向けられたのは心配の眼差しだった。
「珍しいよね、ひかりがそんなにぼーっとしてるの」
「まあ、寝る子は育つって言いますからね……」
リノンの横から、素で言っているのか、わざとなのか分からないようなとぼけた声が響く。
「……委員長は委員長なんだからもっとちゃんとしてください」
「私の名前は委員長じゃなくて佐々木です、佐々木しおん」
つばめがあきれたようにため息をつく。けれど他の三人にとってはもはや慣れた光景だった。佐々木しおんを『委員長』と呼ぶのはつばめだけだ。授業中は大抵寝ていて、積極的に誰かに話しに行くこともないが、成り行きで誰かと一緒になればよく喋る。生徒の一人としては誰からも嫌われていないが、委員長というには人望も規範も足りない。真面目で人望があり、ケンカも強いと三拍子そろったつばめが委員長の代わりに駆り出される事が多かった。
「ねぇ、こんな噂知ってる?暮町七不思議の『扉』の噂話の、その次の噂」
並んで歩きながら、リノンがふとそんな事を口にした。そして佐々木しおんが、ふわふわとした声でそれに追従した。「あ、その噂なら知ってますよ。『夕暮れ戦争』のことでしょう?」『扉』が現れている間だけ、その戦いは行われる。資格を与えられた子供達は、己の願いを叶えるために空を舞い、不思議な力で日々、人知れず戦っている。そして暮町はその戦いの舞台であるのだと。
「昨日の話よりもありえないよね。そもそも『扉』があるわけないんだからさ」
しおんの語って聞かせた噂話を、つばめは怒るでもなくただ呆れながら切り捨てる。ひかりはさっきまでの事を少し反省していた。さすがに、余りにぼんやりしていると目立ってしまう。『居ても居なくてもいい』ように、何も感じず何も主張せず、毒にも薬にもならないように、ただ時が過ぎるのを待つべきだ。
太陽がゆっくりと傾いていく。それに応じて、ひかりは胸の昂ぶりを抑えるために強く手を押し当てた。何も感じずに過ごすのが難しくなるほどに。それほどまでに昨日の出来事が心にがっちりと、楔のように食い込んでいたのだ。
もうすぐ、こんな自分が、変われるのだと。ひかりは期待を込めて、魔法少女に変身した後の『新しい自分』を夢想する。そして昨日の出来事、あの戦闘の後に、白い少女と交わされた会話のことを思い出していた。
――この世界には、『魔法』というものがある。
ひかりに手を差し伸べながら、真っ白な少女は演技がかったソプラノの声でそう語ったのだ。それは現実を書き換えて改変する力で、『扉』が見える子供は魔法少女に変身することで魔法を使うことができるのだ、と。魔法少女は翼を生やして空を駆け、変身していない者にその姿が認識されることはない。そして己の想いを魔法の力に換えて、『夕暮れ戦争』を戦い抜くのだ。「……魔法少女になれば、あなたみたいになれますか?」『扉』に向かう前の、そして瞼の裏に焼き付いた、あの戦いの光景を見る前のひかりなら、少女の言葉に興味を示すことすらなかっただろう。ひかりが少女に問い返したのは、暗闇を貫く数多の閃光、少女と儚い美しさと、それに見合わぬ圧倒的な力が瞼の裏に焼き付いたからだった。「魔法とは、自分そのものなんだ」そして少女は飄々として掴みどころのない笑顔のまま、答えになっていないような謎めいた言葉を返したのだった。
ひかりは終礼が終わるとすぐに学校を飛び出した。初めての『夕暮れ戦争』に参加するためだ。移動教室が終わった後のごたごたの中、リノンとつばめには家の用事があるからと伝えて返事も聞かずに走り去った。そしてその実、日が暮れるまでに家に帰れるかどうかも分からなかった。
ひかりは息を切らして、陽が傾いた街の中を駆ける。変身するための、人気のない場所を探すのには骨が折れた。『扉』に向かって歩いていた昨日とは違って、街のそこら中に人が居たのだ。数人で並んで話しながら歩く、自分と同じ学校の生徒。一層賑やかな小学生たちや、一人の方が多い、学生鞄を提げた背の高い高校生たち。手押し車を押す年寄りや、子供の手を引く母親。夕時に見かけるのは、おおよそが決まった種類の人たちだった。『魔法少女』に変身するのは、人目につかない秘密の場所でなければならない。普通の人間はもちろん、変身した後の魔法少女にだって見られてはならない。あの真っ白な少女は、ひかりにそう話したのだ。
ひかりが変身の場所を決めたのは、学校を出てから二十分ほど経ってからだった。ひかりの住むマンションの近くにある、猫しか使わないような狭い路地裏。両脇の建物の室外機、空き缶とペールのゴミバケツを、建物の隙間から差し込む西日が橙色に染めている。そこでひかりは胸に手を当て、深く息を吸い込む。説明されたルール、時刻はちゃんと守った。あとは、変身するだけだ。ひかりは深呼吸すると、手を空高く掲げる。晩秋の、一年で空が一番高く見える季節。
「――“ここではない、どこかへ”」
ひかりは『鍵なる言葉』を口にする。それが変身の合図となり、掲げた手には光が満ち始める。天へと伸ばした手の先には、光り輝く実体のない『想いの欠片』が現れていた。それは白みがかった灰色をした結晶のようなもので、ひかりが胸に抱いた様々な感情や思考に反応して、その輝きを瞬くように変化させている。それは昨夜、白い少女がひかりの胸の手をかざすと現れて、再びひかりの胸に溶けるようにして取り込まれていったものだ。少女はそれを『想いの欠片』、ひかり自身の魔法の力の源となるものだと言った。
≪”rejecter” set up≫
どこからともなく、合成された低い電子音声が鳴り響く。そして『想いの欠片』から降り積って手のひらに満ちた光の粒が零れ落ち、ひかりの身体を包み込んだ。髪に、服に、雪が積もっていくように。灰色の光は触れることができず、けれど仄かに熱を発している。そしてひかりの姿が光に覆われて見えなくなった時、ひかりは自分の身体が熱くなり、変質していくのを感じた。魔法少女は皆、自分の『想いの欠片』を持っている。鍵なる言葉[キーコード]を唱えれば、『想いの欠片』の力によって魔法少女に変身することができる。そしてより多くの『想いの欠片』を集めるために、空を駆けて戦うのだ。
ひかりの全身を包んでいた光が、灰色の熱が、解けて消えていく。眩んだままの視界に映るのは、紅に染まりつつある晩秋の空。ひかりは手を強く握りしめて、その後また開く。そしていつものように、胸の辺りに手を当てた。それが己の姿だと、はっきりと信じることができなかったのだ。ひかりの纏う衣服は、数分前とは完全に異なるものになっていた。
所々に黒でアクセントが付けられた、曇天の空にも似た灰白のコート。白の手袋とブーツは、あの白い少女の鏡写しのように。髪は黒いままで、顔の造作や眼の色も変化していなかったが、身体と身に纏った衣装からは微かに光の粒子が漏れ出している。ひかりは感嘆の、そして抑えきれない昂りの吐息を漏らす。
「これが、わたしの――」
それは間違いなく、篠崎ひかりの魔法少女としての姿だった。
――魔法とは、自分そのものなんだ。
その言葉の本当の意味を、ひかりはまだ理解していなかった。この非日常の中でなら、自分は変われる――それどころか変身する時にすでに、今までとは違う自分に変われたような、そんな気さえしていたのだ。
――第一話『夕暮れ戦争・翼のない魔法少女』――
――『想いの欠片』を使って変身した少女を、便宜的に魔法少女と呼ぶ。
彼女たちは人助けをしない、行使する力も物理法則を外れたとしても、願望を叶えるような不思議な力ではない。魔法とは自分そのものだ、と『思いの欠片』を七不思議の白い少女から渡された時に告げられた通りに。そして彼女たちは己の願望を叶えるために、『扉』が現れてから消えるまで、より多くの『想いの欠片』を求めて戦うのだ。『想いの欠片』は建物の隙間の細い路地や高架下、屋根の上や雑草の生い茂った空き地といった、普段人が歩かない場所に転がっていたりする。けれど『それ』を倒した時に得られる『想いの欠片』の量に比べたら、落ちているそれはほんの僅かなものだ。だから『夕暮れ戦争』に参加する魔法少女たちの大半は、転がっている『想いの欠片』を拾い集めながらも『それ』を探し出して倒す。陸號ともみも、その中の一人だった。
ともみは真っ直ぐに前を見据え、『夕暮れ戦争』の戦場である暮町の低空を翔け抜ける。ともみの視線の先には爬虫類のような頭と二足歩行の身体を持つ、最もありふれた『それ』の姿。『それ』は眼下で地を這うような前傾姿勢で道路を走り、かと思うと素早い身のこなしで建物の壁や街路樹を蹴って、彼女から遠ざかる方向へと駆け続けている。しかし『それ』を追い立てるともみの背には猛禽を想起させる茶色い翼が生えており、その羽ばたきとともに彼我の距離は徐々に縮んでいく。人の身体にさえ分不相応であるほどに大きいそれは、魔法少女に変身するのと同時に現れる陸號ともみの固有の『翼』だった。
背後に流れ去っていく大通りの景色、遠い視線の先の廃工場に『扉』。見下ろす黒いアスファルトの道路から、民家の屋根ほどの低空まで光の粒がうっすらと漂っているのが見える。それらは無色で、さながら使われていない家屋の中で、窓から差し込む陽の光を反射する塵埃のような質感を持っていた。粒子はともみや『それ』が通り抜ける度に散って、彼女の衣装から微かに漏れ出す光の粒子もまた、街に満ちた光の粒に取り込まれていく。それらの光の粒子も、魔法少女や『それ』の姿も、道行く人々の、誰の視界にも映っていない。街に満ちた光の粒子も、魔法少女の姿も、『扉』以外の魔法に関係するものは、変身した魔法少女以外は見ることが出来ない。いつもと変わらぬ光景、遥か彼方で輝く6000℃のガス球に照らされ、褪せた黄金に輝く街並み。様々な表情で帰路を急ぐ、学生、母子、老人、決まった種類の人々。誰の目にも、それはいつもの変わらない暮町の光景だ。『想いの欠片』を探し求める魔法少女たちの『夕暮れ戦争』でさえも、それはいつもそこにあって、ただ変身するまでは見えていなかっただけのこと。
そして学校が終わってから門限までの間、ともみが『夕暮れ戦争』にほとんど毎日参加しているのは、そこが誰にも邪魔されず自由にいられる唯一の場所だったからだ。ともみの家では幼い頃から父から食事の度に、毎日口にしている食事は当たり前の平凡なものではなくて、世界には家族の日々の食べ物さえも養えない人が大勢いること、だからお前は大人になってからも今のような不自由ない暮らしを続けるために努力しないといけない、と何度も暗示をかけるように繰り返された。ともみが小さい頃、遊ぶこともなく勉強と習い事にひたすら打ち込んだのは、その言葉を信じたからというよりも、ただ親の言うことを聞かなければ例え旅行の先でも翌日行く場所の予定もキャンセルして家に帰ると言われて、買ってもらった玩具やテレビも取り上げられてしばらくは楽しいことを何もさせてくれなかったからだった。そして今では双子の妹と違って自分はもはや期待もされていなければ価値も見出されていない。両親がわたしのためと想って通わせた習い事、高い外食や旅行といったものを無碍にした、投資に見合った効果を得られない不良債権として愛想を尽かされていた。食事の度に行われる説教もただの惰性になっていたけれど、親不孝の娘として失望の視線に曝される息苦しい時間が堪らなく嫌だった。けれど魔法少女として空に居る限りは誰も自分のことを縛れはしない――今日という日に至るまでは、そうだったのだ。
≪”fragile”≫
ともみが『それ』を撃ち抜ける射程に入る直前、頭上から電子音声が鳴り響くと同時に眼前を鋭い何かが掠める。『それ』に一気に飛び掛かるために翼を広げて減速していた、ほんの僅かな差でともみは命拾いした。「……っ!?」鼻先に鋭い痛みを感じながらも、ともみは咄嗟の判断で身体をひねり、きりもみ回転をしながら横へ逸れる。大きく速度を失って、地面と建物の壁面すれすれまで落下していくともみの横を、更に二撃目、三撃目が掠めていく。ともみを狙い投擲されたのは計三本の、細身の投剣だった。ともみは思わず声を上げる。
「魔法少女!?」
『それ』と大きく離されたともみの間に、突如として割り込む形で急降下してきた人影。宙に浮かんだ影法師のように黒い、その人影は『それ』に向かって距離を詰める。全身をすっぽりと覆い隠すような、真っ黒なフード付きのローブ。そして背中の水晶のように蒼く透き通った小さな翼からも、ともみと同じように光の粒子が漏れ出していた。
「あんた、どういうつもり!?」
黒い人影は、小馬鹿にしたような声でこう答える。
「『想いの欠片』を集めるためだよ、それ以外になにがあるんだ?」
ともみが追い付くよりも早く、黒い魔法少女は羽ばたくことの無い小さな翼で『それ』との距離を詰めていく。そして黒いローブの先から伸びた手の先に新たな剣が生み出され、『それ』に向けて振りかぶられる。
「あたしが先に見つけた獲物よ!」
『それ』が切り裂かれるその寸前、ともみが叫ぶと同時に、彼女の翼を構成する羽がザワザワと隆起していく。そして猛禽の翼を構成する無数の羽が、弾丸のように発射された。
≪peacock’s fouls≫
ともみの体内に取り込まれた『想いの欠片』から発せられた電子音声とともに、鋼の矢のように鋭く堅い羽の弾丸が黒いローブの人影に襲い掛かる。ともみの固有魔法は己の身体に対してあらゆる生物の特徴を、自由な組み合わせとスケールで再現することができる。『魔法』の発動原理に従って言うならば、そうなるように己の身体を『書き換える』魔法だ。
≪fragile≫
『それ』を切り裂こうとしていた相手の魔法少女の手から投擲された数本の剣が、羽の弾幕に全て撃ち落とされる。背から猛禽の翼を生やし、その羽をアルマジロのように硬化させて射出するともみの弾丸。一帯を蜂の巣にするはずのその弾幕に、しかし黒いローブの少年は捉えられない。
ともみの視線の先で、黒い人影の小さな翼が、微かに輝いた気がした。そして突如としてローブを翻した黒い人影は、『それ』との距離を決して開かせないまま鋭角的な動きで全ての羽弾を回避したのだ。
「ちぃ……っ」
狙いを外した羽弾が街灯の柱をへし折り、ともみは思わず舌打ちをする。慣性も加速度も無視した普通ではありえない動きだった。何もない空中で速度を落とさずターンして、跳ねるボールのように真逆の方向へと動きを変えるその機動性。トップスピードこそともみの『翼』に劣るものの、狙いを絞らせないという点でまともな飛行法を遥かに上回っている。魔法少女は誰でも『夕暮れ戦争』を知るより先に、自身の在り方を言い表す『鍵なる言葉』を心の中に持っている。そして魔法の使い方も、自分だけの『翼』で空を駆ける方法も知っているのだ。ともみは夕陽を背にした真黒の廃工場で、真っ白に輝く少女からそう教えられていた。
≪fragile≫
黒ローブの魔法少女の両手に、幾本もの剣が束ねて呼び出される。ともみの弾幕は発射数でこそ優れるものの、狙いが大味で弾速が遅い。その弾幕に真っ向から投擲された投剣の群れは一直線に飛んで、数本は羽弾に弾かれたものの最後の一本がともみの翼を薄く裂く。
「痛っ、このっ!」
ともみは小さく悪態をつきながらも、心臓が早鐘を打ち、冷や汗が胸元を滑り落ちるのを感じた。目の前の相手がどうやら自分と違って何度か他の魔法少女と戦ったことがあるらしい。魔法少女と戦うのは、弱い『それ』を倒すのとは危険が桁違いだ。相手は自分よりも戦闘の経験のある上に、翼と固有魔法の詳しい性質も分からない。
「『想いの欠片』はとどめを刺したやつのものになる。だから競争相手は先に落としといた方が良い。退くなら今回は見逃してやる」
ともみの羽弾を回避しながら、黒いローブの魔法少女はそう言った。激しい動きの中でローブが少しずれて、フードの下の顔がちらりと覗いている。相変わらずの小馬鹿にしたような、ハスキーで少し低い声。けれど短い銀髪の髪の下から覗く蒼い瞳から、冗談の気配は読み取れない。リスクを冒して魔法少女を倒すか、『それ』だけを安全に倒すのか。自分はどちらでも構わない、と黒ローブの魔法少女は言っているらしかった。二兎を追って片方しか手に入れられないくらいなら、最初からリスクの低い片方だけに絞ろうということらしい。
≪peacock’s fouls≫
ともみは全身に魔力を滾らせて、猛禽の翼を大きく展開する。飛行速度には大きな制動がかかり、それと同時に翼面が相手に向けての最大面積となるように大きく広げられる。その翼面の全てが羽の弾丸の砲門となり、大通りの一帯を埋め尽くすほどの弾幕が放たれた。
羽の供給が追い付く限りにおいて、ともみの翼は同時に何発でも、そして秒間何回もの連射が行える。黒ローブの魔法少女の奇妙な『翼』でさえも、その羽弾の群れを回避することは出来なかった。流れ弾で建物の窓ガラスが砕け、壁は投刃のように無数の羽が突き刺さる。頭上を通り過ぎる弾丸、そしてはじけ飛ぶ瓦礫片に、眼下を歩く人々は決して気付かない。
「横からしゃしゃり出といて、上から目線で、あんた何様よ!」
実のところ、今日の『夕暮れ戦争』は始まったばかりだし、別に一体くらいの『それ』を見逃しても構わなかった。魔法少女と戦うのは初めてで、どんな魔法を使ってくるかも分からない同格の相手とやり合うよりは、脅威にならない『それ』を倒して『想いの欠片』を集める方が安全だと分かっていた。しかし、それを相手に言われてしまえば、意地でも退く気が無くなる。ともみは、そういう性格だった。
少しでも被弾を減らそうと距離を取る、黒ローブの魔法少女。避けきれなかった鋭い羽は、その全身を包み込むように出現した半透明の球状の障壁を抉り、激しく軋ませる。そしてともみは掃射の最中に、視界の端で遠くの屋根の向こうに消えようとする『それ』の姿を見た。弾着の衝撃を殺しきれず、黒ローブの魔法少女が建物の壁面に叩きつけられる。羽弾を撃ち尽くしたともみは大きく羽ばたいて、『それ』の逃げ去った方向へと向かう。相手の魔法少女がまだ戦えるかどうかは分からないが、これだけの掃射を受けたのならもう邪魔はしてこないはずだ。そう考えていたともみは、すぐに背後からの電子音声に振り向かされた。
≪fragile≫
嵐の過ぎ去った後のように気流が乱れ、ずたずたになった掃射後の空間。何もかもが破壊されたその場所に、投擲された細身の剣と、自身も新たな剣を振りかぶる魔法少女の姿。一撃目の投剣はともみの前方に現れた半透明の球壁に防がれる。けれどそれを陽動にして球壁を通り抜け、黒いローブの魔法少女はともみの懐に切り込んでくる。
「まだ戦う気!?」
ともみの腕に光の粒子が集まって、即座に巨大な鉤爪へと変化する。黒ローブの魔法少女の剣が、突進の勢いを乗せて叩きつけられる。両手の爪を交差させて受けた、ともみの全身に衝撃が伝わる。
掃射が効かなかったわけではないようで、黒いローブの所々が裂けて血が滲んでいた。そしてフードが半分ほど脱げて、短い銀色の髪とその下の表情が露わになっていた。蒼い瞳、色素の薄い肌と唇、北欧の血が混じったような、美少年の顔だった。
――男の子?
『想いの欠片』を使って変身した子供を、便宜的に魔法少女と呼ぶのだ。そのほとんどが少女であるため自然とついた呼び名であって、稀ではあるものの、男の性別を持つものがそれになれないわけではない。そして黒ローブの少年は、ぞっとするほど静かな声で言った。
「ああ……分かったよ。お前を先に倒して、お前の分の『想いの欠片』も貰っとこう」
≪fragile≫
電子音声が鳴り響き、ともみの左右の爪はガラス細工のように粉々に砕け散る。同時に砕けた剣の破片がきらきらと輝いて、鋼のように堅いはずの爪の断片は砂のように崩れて消える。まるで薄氷が割れたか蛍光灯が破裂したような尋常でない破壊をもたらしたのは、物理的な過程をすっ飛ばして対象に干渉して、直接その状態に変化を及ぼす『魔法』の力だった。黒ローブの少年は、もう片方の手に持った剣を振りかぶる。その刃に切り裂かれる直前、ともみは咄嗟に脚を獣のものに変化させ、少年の身体を蹴りつけた。そして同時に翼を畳むことで、その勢いと重力に身を任せて落下する。そのまま地面すれすれを滑空して、ともみは行き交う車に突っ込む寸前で辛うじて上昇した。
ともみに少年の追撃がくることはなかった。十分引き離せたともみを置いて、少年は視界から消えそうな『それ』を負うことを優先したのだ。ともみが『それ』を見失わないように街を見渡せる高さまで飛び上った時、ちょうど少年は民家の屋根から向こうの路地へと飛び降りた『それ』を追って消えたところだった。
そしてともみが飛び去ってすぐに、先ほどの戦闘で抉られた民家の壁や折れた樹木と街灯、ともみの翼の羽ばたきが巻き起した旋風で粉々になった建物の窓が、宙を漂い集まった光の粒子によって傷一つない元の状態へと修復されていく。『魔法』も『夕暮れ戦争』も、普通の人間に知られることはない。魔法少女も『それ』も普通の人間には見えず、その戦いの痕跡も気付かれることはなく、何かに影響を及ぼす前に必ず修復されてしまう。その渦中に取り込まれ、『翼』を得て魔法少女になるまでは、誰も『魔法』のことを知ることはできない――そのはずだった。
『それ』と少年を追って舞い降りた場所で、ともみは奇妙な人物を目にすることになった。
「――ねえ、あんた。魔法少女なの?」
その少女には、翼が無かった。けれど見えないはずのともみの姿を見て、その身体からは魔法少女と同じ光の粒子を散らしていた。その少女の名前が『篠崎ひかり』だということを、ともみはその後に知ることになった。
――
ひかりの通学路から少し離れた所に、駅の裏側に面した公園がある。駅向こうにある歓楽街の近くで治安が悪いから近寄らないように、と暮町に住む子供たちはその公園について教えられているのだ。もう少し遅い時間から若者たちがたむろするようになるのだが、夕刻のこの時間には遊ぶ子どもの影すら見当たらない。
その真ん中にあるコンクリートの高台に立って、ひかりは空を見上げていた。夜に至るまでの短い時間に、刻一刻と青から橙へ、紅から群青へと色を変化させていく夕空のグラデーション。そして廃工場の上空にある『扉』の向こうには、宝石箱を散りばめたような色とりどりの光点が輝いている。
ひかりは最初に見たとき、それを星の光だと思った。けれどひかりが『一番星』を見つけた後、夜空に星が浮かんでくるように次々と、地面から空へ向けて新しい光点が舞い上がっていったのだ。そして星たちは眩い夕陽を背にしても輝きを失わず、舞い踊るような軌道を描いてその位置を変化させ続けている。その輝きの正体が、自分の身体と衣装から発されている光の粒と同じものであることに気付いて、ひかりは思わず息を呑んだ。その星々の数は、これまで人知れず戦っていた魔法少女の数だった。
そして星に満ちた夕空に、ひかりは他にも異質なものが混じっていることに気付いた。友達に手を振って別々の方向に歩き始める、自分と同じくらいの子供の声。それに混じって響く、キィイイン、と空気を裂くような金属質の奇妙な音。夕飯の匂いが漂い出す、まばらに灯りのついた民家の並び。その一角が不意に明るく瞬いて、濃密な光の粒子が火の粉や灰塵のように舞い上がる。そして奇妙な音と輝きのあった方角から、何かが降ってくるのをひかりは目にした。
だん!と何かが強く叩きつけられるような音、そして微かな地響きとともに、ひかりの目の前で土埃が巻き上がる。思わず目を細めたひかりの視界で、土埃の中からまっくろの何かが蠢めいた。『それ』は夕闇の仄暗さと異質な、照り付ける夕陽さえも飲み込んでしまったような暗闇だった。両手と両脚、そして大きな尾をクッションにして落下の衝撃を殺し、すぐさま走り出そうとした『それ』は、ひかりに気付いたように足をふと止める。ひかりは『それ』と刹那の間、数メートルしかない距離で向かい合った。
『それ』は傷付いていた。所々にある切り裂かれた痕はゆっくりと治癒しながらも、奥から闇色の飛沫を噴き出し、公園の地面に染み込ませていく。ひかりは、不思議と恐怖を感じなかった。昨日と違って『それ』に敵意がないように見えただけではなく、その黒い躰のどこかに儚げで微かな、故郷の匂いのようなものを感じたからだ。
「ねえ、あなたは……」
その時、遠く響いていた金属質な音が不意に大きくなる。『それ』は鋭い鎌のような手を建物の壁に突き立て、機敏な身のこなしで屋根の向こうに姿を消してしまう。そして咄嗟に顔を上げたひかりの頭上を、『それ』とは違う黒い影が通り過ぎていった。黒い影は、キィイイン、という奇妙な音を残して、『それ』の消えた方へと一瞬で飛び去って行く。そして最後に、二つの黒い影が飛来した夕空の彼方から、翼を生やした少女が公園へと弾丸のようなスピードで飛来した。
――空に瞬いていた『星』が落ちてきたのだ。
翼を大きく広げて地面に降り立った少女を見たとき、ひかりはそう思った。少女は身に纏った金色の粒子の眩い尾を引いて、地面を削りながらブレーキをかける。激しく巻き起こる土埃の中で、少女の鳶色の瞳が煌めいた。その衣服は風を受けて大きくなびき、夕陽を受けて山吹色に光る。胸元を覆い隠す細い巻き布には、この国のものではない鮮やかな朱色の紋様が彫り込まれている。スカートに入った深いスリットから、肉感的な脚の付け根までが見え隠れする。その膝から下は灰色の毛におおわれた、しなやかで頑丈そうな狼の脚だった。
少女の持つ全てが、余りにも浮世離れしていた。しかし何よりも目を惹いたのは、露わになった背中から生える、巨大な翼だった。夕陽に照らされ、その羽の一つ一つが複雑な陰影を織りなすのが分かる。少女は翼を元から生えていたような自然な動作で畳むと、何かを探し求めるように辺りを見回す。昨日ひかりが目にした、暗闇の街の白い少女とは決定的に違うこと。それは建物の窓の眩しい反射光、そして伸びてゆく遍く影の中に包まれた、夕暮れの街並みの中に少女が居たということ。日常の風景の中に居る、決して日常の中には現れ得ないものとして。その時の少女の姿が、ひかりが始めて目にした『魔法少女』の姿だった。
「ねえ、そこのあんた!『それ』見なかった!?」
少女の切羽詰ったような声で、ひかりは自分が呼ばれたのだと気付く。少女は『それ』を追いかけてここまで来て、自分を見て立ち尽くしているひかりに気付いたらしい。ひかりは茫然として何も言えないまま、『それ』が去っていった方向を指差した。そっちに跳び発とうとして、少女はふと足を止めて振り返る。
「――ねえ、あんた。魔法少女なの?」
ひかりの翼のないその姿を上から下まで眺めた後、少女はつっけんどんな口調で問いかける。「たぶん……夕暮れ戦争、初めてだから」ひかりがおずおずとそう答えると、「……あっ、ふーん、そうなんだ」と顔を逸らしながら少女は呟いた。ひかりはそれを、妙な反応だと思った。そして数秒の沈黙の後、
「ね、ついてこない?」
「……え?」
ひかりが顔を上げると、少女はさっきまでと打って変わって、何故か良い笑顔をしていた。
「夕暮れ戦争初めてなんでしょ?あたしが空まで連れてってあげるわ!」
そう言うと、ともみはひかりの腕を掴む。そのまま手を引いて走り出そうとする少女に、ひかりはおざなりながら抵抗しようとする「あのっ、別にいいです、わたしは……」ひかりはまだともみの名前すら知らなかったし、知らない人間に空まで連れていかれるのは怖かった。
「あなた、ここに何しに来たのよ!戦いに来てるんでしょ!『想いの欠片』を手に入れるために参加してるんでしょ!」
ともみはじれったそうに叫んで、ひかりを無理やり抱きかかえて、畳んでいた両翼を大きく広げる。ともみは狼の脚で地面を蹴って、翼で空を力強く叩く。一気に遠ざかっていく地面を見てひかりは思わず悲鳴を上げかけたが、ともみが勢いよく羽ばたいた衝撃で風が吹き付けたので思わず口を閉じてしまう。
「――だから、手伝いなさいって言ってるの!」
その言葉が、ともみの本心だった。ともみは黒ローブの少年に、一人で勝てる自信がなかった。『それ』ではなく魔法少女同士の戦いは初めてだったし、黒ローブの少年は奇妙な固有魔法を持っている。けれど諦めて身を引くことも、素直に加勢を求めることも、自分のやっかいなプライドが許さない。そのせいで無理矢理ひかりを連れていく事になったのだが、ひかりはひかりで、本気で抵抗することもなかった。居ても居なくてもいい人間は、何かを本気で拒絶することもないのだ。抗わなくたって、結局それは日常になるだけなのだから。
夕日を背にして飛翔する二人の眼下で、夕陽に染められた街並みがぐんぐんと背後に流れ去っていく。特に目新しい所のない街の風景も、空から見下ろすとこんなに胸躍るものなのだ、とひかりは密かに感動した。そして金色の光を反射して輝く、薄い雲のカーテン。空を舞う星のような輝きはますますその数を増やし、その向こう側ではひかり達と同じように戦いが行われているのだと理解する。
「ねえ!あんたはさ、どんな魔法が使えるの!?」
ともみは空を切って飛翔しながら、景色に見とれたままのひかりを現実に引き戻すように大声で聞いた。耳元で怒鳴りつけられたひかりは身を縮こまらせるが、風を切る音、羽ばたきの音が大きくて、普通の声では話しても聞こえないのだと分かった。
「お互いの魔法が分かってなくちゃ協力なんてできないでしょ!?あたしの魔法はこれ!あんたもさっさと教えなさい!」
少女は自分の翼を指してそう叫ぶ。いささか高圧的だったが、一応は理に叶った言葉だった。だから、ひかりは素直に伝えることにした。自分が使える魔法がなんなのか、自分が本当に魔法を使えるのかどうかさえ分からないことを。
「はあ~!?なにそれ意味わかんない!」
ともみは素っ頓狂な声を上げて、そのままひかりを落としそうになる。慌ててその身体にしがみつきながら、ひかりは自分が今日初めて夕暮れ戦争に参加したことを説明する。
※なんか入れる?
「自分の魔法なんて、変身した時には分かってるもんでしょ!?翼が生えてて、飛び方も分かってるのと同じで――」
とはいっても、その翼さえも、ひかりには生えていないのだ。だからひかりは、ともみが降ってくるまでの間、『星』を追って空に向かうこともできず、公園でぼんやりと空を眺めていたのだった。不穏な沈黙が流れる中、ともみは眼下に広がる街並みの中に、滑るように移動していく蒼い光を見つける。そしてその先を逃げるように走っていく、遠すぎて黒点にしか見えない『それ』の影も。
「……いいわ、このまま行くわよ。ついてきなさい」
ともみは少し考えた後、ひかりにそう言い放つ。
「でもわたし、魔法なんて使えない」
「なら眼になって。わたしは前を向かないと飛べないから、あんたが『それ』と黒ローブの場所を見ていて」
空はゆっくりと紫色に染まり、夜に沈む準備を始めていた。「わたしなんかじゃ、」ひかりは言い淀む。「あんたしか居ないでしょ!」ともみは翼を広げて、『それ』と蒼い光点の場所へと急降下していく。ひかりは振り落とされないように、慌てて彼女の背にしがみ付いた。ひかりは少しだけ、ともみの強引さに感謝していた。空から放り出されるよりはよっぽど良かったし、その時はまだ空からの景色を見ていたいと思っていたから。
≪peacock’s fowl≫
≪fragile≫
二つの電子音声が、焼け付くような夕空に響き渡る。交差するその音は、体内に取り込まれ、魔法少女としての姿を保ち続けるための魔力の供給源である『想いの欠片』から発せられたものだ。同時に放たれた二つの飛翔物は、互いに激突して鈍い金属音を雨音のように立て続けに響かせる。ともみと少年は隣り合った二つの通りの低空を飛んで、建物を挟んで並走しながら撃ち合っていた。電線を避けて、民家の隙間を縫うように空を駆け、二対の翼で宙を舞う三人の魔法少女に、道行く人々は誰も気付かない。
――いい?魔法ってのはね、現実を『書き換える』ものなの。
ともみは少年と撃ち合いながら、ひかりに『魔法』のことをそんな風に説明した。魔法は使用者の精神を反映して、様々な力によって現実そのものを改竄する。その作用の機序は、『自己書き換え』『書き足し』『対象書き換え』の三つの種別に分けられる。そしてそれぞれの区分は必ずしも明確ではなく、魔法少女は元から複数の種別の書き換えを行使するものだ。と、そこまで説明してから、ともみは建物の切れ目を狙って弾幕を撃ち込んだ。
≪peacock’s fowl≫
ともみの固有魔法は、自身の身体の構成や速度といった情報に作用する『自己書き換え』に分類される。魔法によって生やした翼には次々と新たな羽が補充され、硬質化したそれらが生体的な射出機構によって放たれる。弾の物量で劣る黒ローブの少年は建物を盾にして、そして自身の速度ベクトルそのものを随時書き換える『翼』による、鋭角的な機動で弾幕を回避する。
身体強化や形態変化といった魔法だけでなく、位置情報の書き換えや速度変化により飛行する『翼』までが『自己書き換え』に含まれる。そして魔法少女になるにあたって誰でも『想いの欠片』によって自身を書き換えることで変身するように、『自己書き換え』は最も基本に近い魔法だ。
建物の切れ目の向こう、黒ローブの少年の先にちらちらと『それ』の影が見え隠れするのを見て、ともみは更に加速しようとする。そして大きな立体駐車場の側面に出た直後、初めてひかりが叫ぶ。
「う、後ろっ!」
ひかりが振り向いた時、その斜め後方、立体駐車場の上階の、幾本ものコンクリート柱や乗用車の向こう側に、黒ローブの少年の放射光が見えたのだ。黒ローブの少年は虚空から剣を生み出し、それを両手から投擲する。立体駐車場のフロアを抜いて飛来した数本の投剣を、ともみは近くにあった電柱の引っ掴んで無理やり方向転換することで全て躱す。
ビルの向こう、姿は見えないけれどそこに居るのは分かる黒ローブの少年に、ともみは小さく歯噛みをする。『それ』に近付こうとすれば、後ろから狙い撃たれる。そして下手に『それ』に攻撃すれば、相手に割り込まれて横取りされる。ともみと黒ローブの少年は、互いに『それ』よりも先に、相手の魔法少女を倒さなければならないと分かっていた。
「あれが『書き足し』ですか?」
ひかりが見た時、黒ローブの少年は何もない場所から突然現れた剣を掴み取り、それを投擲して攻撃していたのだ。ともみの羽弾と撃ち落とし合った時に見たものは、長さ50cmくらいの柄に薔薇の意匠を凝らした細身の剣だった。『書き足し』は世界に直接情報を書き込むことで、何もない場所に物体を出現させる。そして生み出された物体には『書き換え』が作用するため、物理法則を無視する特殊な効果を持っている事が多い。例えば自分の思い通りに飛ぶ箒や、相手を追って飛翔する投剣。ひかりは昨夜の白い少女が、次々と銃を呼び出しながら戦っていたことを思い出した。
「ううん、そう思ってたけど違ったの。アイツの固有魔法は……」
『書き足し』は、もともと現実にある物体に何かを上書きしたり、侵襲させることはできない。『自己書き換え』も同じく、相手を攻撃するのなら変化させた身体や生み出した物体を使って、射撃や斬撃などの物理的なプロセスを挟まなければならない。
≪fragile≫
その電子音声は、二人の真上から響いた。「……っ!」頭上の建物が何の前触れもなくひび割れて、巨大な破片が崩落してくる。建物の天辺には、先ほど少年が投げ放った剣が刺さっていた。そして魔法の発動と同時に、剣もまた硝子のように砕けて消滅する。ともみの身体を覆うように半透明の球状の壁が現れる。落ちてきた建物の破片は球壁に弾かれて、ともみとひかりの身体は凄まじい反動を受けながらも傷一つない。だがその隙を衝いて建物の隙間から飛来した数本の剣を、ともみは避けきれずに自動障壁で受け止める。
≪fragile≫
再び電子音声が鳴り響くと同時に、半透明の硝子のような質感をそのままに、ともみの自動障壁がひび割れる。辛うじて持ちこたえたようだが、あと一撃でも受ければ壊れてしまうだろう。ともみは悔しそうに言った。
「……対象に含められる範囲によって『書き換え』の効果や条件が厳しくなるから、必ずしもその順に強くなっていくわけじゃない。けど、『対象書き換え』の魔法を持つやつは厄介よ」
『対象書き換え』は既に現実に存在する物体へ働きかけ、その状態を直接変化させる魔法だ。対象発火や念動力、回復から破壊までの多種多様な魔法がその中に含まれる。そして『対象書き換え』は効果が生命や、相手の魔法少女そのものに及ぶかどうかで更に二分される。魔法少女の持つ『自動障壁』とは飛来物から己を守るための、無生物だけを対象とした『斥力を与える』書き換えだ。
『対象書き換え』は運動エネルギーや質量、熱といったものを媒介とせず、相手の状態を直接『書き換える』ことで攻撃できる。少年の剣はその実、生み出された後に勝手に飛んだりもしない、自力で投げる必要のある普通の剣だった。突き刺さったものを対象として『書き換え』を発動するための媒介のようなものだろう。しかし条件を満たして相手を直接『書き換え』られるのなら、文字通りの『一撃必殺』になりうるものだ。
「……もうすぐ、通りが合流する」
ともみが緊張に満ちた声でそう呟く。先行する『それ』が帰路に向かうヘッドライトの付き始めた車を足場にして、眼前のY字路から一本道となった通りを走り抜けていくのが見えた。そして僅かな静寂の後、互いを隔てる建物が無くなって、『それ』を追って飛んでいく少年が現れた瞬間。
≪peacock’s fowl≫
ともみは一瞬だけ姿を覗かせた光源に、ありったけの羽の弾丸を叩き込む。翼面全てを砲門とした濃密な弾幕で視界が覆われ、相手にそれが命中しているかどうかを目視で確認することすらできない。ただ少年の自動障壁が弾丸を弾く激しい音だけが標となり、ともみは音の方へとひたらすら弾丸を放つ。数本の投剣が翼や頬を掠め、流れ弾が周囲の窓ガラスを粉々に割り砕く。歩道をゆく人々の頭に降り注ぎ大惨事を引き起こしたであろうガラス片と弾丸の雨は、光の粒子に包まれて虚空へと消えていく。
「……倒した!?」
弾を撃ちきったともみが、周囲を素早く見回す。ともみと先行する『それ』以外に、光の粒子を曳いて飛ぶものはなかった。もともと最初の交戦時の撃ち合いで、少年の自動障壁はダメージを受けていた。自動障壁を割られたか反動で押し込まれたか、墜落した様子はないが『それ』の追撃戦からは脱落したようだ。そして二人の魔法少女の戦いを、結局ひかりは黙って見ているだけしかできなかった。
「『魔法は自分そのもの』っていうから、きっとあの黒ローブ、破壊衝動の塊みたいな危ないヤツね。最初会った時も問答無用で襲い掛かってきたし」
黒ローブの少年について、ともみはそんな風に言った。後は『それ』を倒すばかりだから、また魔法についての話をする余裕が出てきたのだ。それは昨夜の白い少女が口にしたのと同じことだった。固有魔法や衣装、翼といった個人の魔法は、その個人の自己像や在り方によって決定されるのだ、と。そしてひかりは、ともみの衣装を見ながらこう聞いた。
「あなたの魔法も、『自分』なんですか?」
胸に巻き付けただけのインディアンのような模様の布と、腰骨までスリットの開いたスカート。そして露出したへそ周りや内股の肌には、それを強調するような朱色の紋が施されている。ひかりの視線に気付いたともみは、じっと見るなんて破廉恥だ、とでも言いたげに両腕で肩を抱いて胸元を隠す。
「……ほんとはね、知らないのよ」
口を尖らせたまま、ともみはそう答えた。魔法の基になるのが、どんな『自分』であるかは、当人にも分からないことが多い。自分自身に目を向けることは、日常の中では決して多くないからだ。自身の立つ場所や道行く人の姿は容易く観ることが出来るが、自身の姿を目にするには鏡が必要であるように。そして自己の性質を知るにあたって、魔法とは鏡の役割を果たすものだ。ともみの誰かの言葉をそっくり引用したような口ぶりで、ひかりは昨夜の白い少女が話したことなのだろうと分かった。
「でも、あなたの魔法だって、『自分』が分かったのなら使えるのかもしれないわ」
そして『それ』との距離を詰めていく間、ともみは警戒を怠ってはいないはずだった。蒼い煌めきがひかりの視界に一瞬だけ映る。ともみなら翼が邪魔で入れないような細い路地の隙間。≪fragile≫ともみが気付いた時には、もう遅かった。通りの真横から飛び出してきた、めいいっぱいに剣を振りかぶった少年の姿。自動障壁も翼もほとんど叩き割られていて、切り裂かれたローブの中に血濡れた白い肌が見える。少年は確かにともみの掃射を受けていた。けれどわざと減速して置いて行かれる事で弾幕から逃れ、自分の翼でしか飛ぶことのできない入り組んだ路地を抜けた。そして自分の傷に頓着することもなく、そのまま奇襲を成功させたのだ。
ともみの腕が切り裂かれ、その拍子にひかりは取り落とされて空に放り出される。「あっ……!」ともみは痛みをこらえたまま、しまった、と言いたげな表情で小さく声を上げる。飛翔の速度を保ったまま、近くなっていく地面――激突の寸前に、黒い影が真下に滑り込む。あっという間のことで、ひかりは声を上げる間すらもなかった。ひかりは黒ローブの少年に抱きかかえられて、すぐにともみの見えない裏路地の向こうへと消えてしまった。
――
あわや地面に激突する寸前だったひかりを救い出した黒ローブの少年が、着地場所に選んだのはどこかの小さな駐車場だった。たまたま空いた土地があったから作ってみたような、車もほとんど停められていない辺鄙な場所だ。おざなりに敷かれたアスファルトと踏み固められた地面の脇からは雑草が生い茂っている。その隅っこに腰が抜けて立てないひかりを降ろすと、少年は黙ってひかりを見下ろした。少年の全身をゆったりと覆い隠す黒いローブは、ともみの衣装と対照的なものだった。そしてフードに覆われた顔からでも、少年が稀に見るくらいの美貌を誇るであろうことが分かる。ひかりは、リノンがこの少年を見たら騒ぐだろうな、とだけ思った。
「助けてくれてありがとう、ございます」
「……空から落ちたくらいじゃ、魔法少女は死なねーよ」
それがひかりの前で、少年が初めて発した言葉だった。なんだぁ、と語尾を伸ばして凄む、テレビに出てくる不良みたいな口調。そして声変わりが始まったばかりのような、ハスキーで不安定な声。その声と人形のように整った顔になんともそぐわない、背伸びをしたような言葉遣いだった。少年が俯いてがしがしと頭を掻くと、少し長めの前髪が垂れ下がって、彼の顔は隠れてしまう。
少年の脇には、先程倒された『それ』が剣で地面に繋ぎ止められていた。『それ』の黒い液状の構成体は、再成に失敗した軟体動物みたいに蠢いてから、ゆっくりと崩れ去っていく。やがて何もなくなったその場所に、光り輝く『想いの欠片』が現れる。少年が手をかざすと、『想いの欠片』はゆっくりとその胸に吸い込まれていった。
――『想いの欠片』は光ってるわけじゃない。ただ君達に光という形で見えているだけの、物理的には存在しないものなんだ。
ひかりは昨夜、白い少女がそう言っていたのを思い出す。魔法少女に変身した時に見ることのできる、街の一帯を漂う光の粒子は『想いの塵』とでも言うべきものだ。『想いの塵』は光の波長としてすらも現実に影響を与えることはできない、ただの無力な塵でしかない。けれど『それ』が想いの塵を喰らうことで、やがて体内で蓄積されて想いの欠片となり、魔法によって世界を『書き換える』ための力になる。そして想いの欠片は、『それ』や他の魔法少女を倒すことで手に入れられるものだ。
「……どうして、『想いの欠片』を集めるんですか?」
ひかりは思わず、そう問いかけていた。ひかりが今日『夕暮れ戦争』を見ていた限りでは、『それ』はそんなに沢山居るわけじゃない。これだけ飛び回って、ようやく一体の『それ』を倒しただけ。運が悪い時は日が暮れるまで飛び続けて、なんの収穫もなしということもありえるかもしれない。
「集めたら願いが叶うんだ。どんな願いだってな……そう言われてる。本当に集めて、願いを叶えた人が居るかどうかは知らないけどな」
少年曰く、『夕暮れ戦争』で他の魔法少女と出くわすのは、相当に稀なことらしい。十数回に一度あるかないかといったくらいで、複数の魔法少女と遭遇することとなれば尚更珍しい。そして魔法少女を倒した時に得られる『想いの欠片』は、ちまちまと『それ』だけ倒していたら数か月かかっても手に入れられないくらいの量だ。「だからって、命の危険を冒して、誰かを傷付けてまで……」それは『居ても居なくてもいい』ことの、対極にあるものだった。ひかりが決して、良心や倫理から呟いたわけではない。
「じゃあ、取り合わなかったらいい」
そして少年は、こともなげに言い返す。
「『それ』を倒さなくてもいいし、魔法少女同士で戦わなくてもいい。願いは叶わないけど、別に誰もそれが駄目だなんて言ってない。別に『魔法』は、不思議な力でもなんでもないんだ。『想いの欠片』なんてなくたって願いを叶えられるやつは居るし、叶えようとしないやつは叶えられない」
そして少年は自分が言ったことを後悔するかのように、不意にがしがしと頭を掻く。ひかりは『魔法』が自分を表すものである、というともみの言葉が分からなくなった。少年の仕草や振る舞いは、先程の戦いで見せた魔法と、それについて語ったともみの言葉からかけ離れた、儚さや危うさといったものを感じさせるものだった。
「……なあ、お前なんで付いて来たんだ?」
ひかりは不意に、そんな風に問い掛けられる。何のことを聞かれているか分からずに口を閉ざしてしまうひかりに、少年はもう一度、責めるように口を開いた。「なんで翼もないのに、あの魔法少女についてきた。お前が居なけりゃアイツも倒せてた。そもそも、なんで『夕暮れ戦争』に参加しようと思ったんだ。お前の願いはなんだ、なんのためにここに来た?」魔法少女を倒すつもりなら、自分を助ける必要なんてなかったはずだ。ひかりはそう思ったけれど、口には出さなかった。事を荒立てるのが嫌いなのは、優しいからじゃない。何も話さなければ、拒絶される事も、否定される事もないからだ。ただ目の前の嵐が過ぎ去っていくまで、首をすくめてやり過ごすこと。誰かが解決してくれるか、それに慣れて日常になるまで、心に壁を張って、スクリーンの向こう側に追いやって、待ち続ける。動かなければ巻き込まれない。目立たなければ狙われない。だから、自分を巻き込まないでほしい。自分のことで事態を大きくしないで欲しい。そして、ひかりのそんな心を見透かしたように少年は口を開いた。
「最初から最後までそうやって、ずっと黙ってりゃいい。そしたら誰もお前のことなんて気付かないし、お前がどう思おうと誰も気にしない。魔法を形作るのは自分だ」それは表層での感情や思考、一時的な願望とは違う、それらの情動や言動の根源となるもの、或いは魂と呼ばれるような。魔法が一人につき一つだけなのも、それが一つしかないからだ。「だから、お前に魔法は使えない。お前の『想い』は、世界の何一つとして変えることができない」
そして少年は自らの魔法によって細身の剣を呼び出して、ひかりの眼の前に突きつける。ひかりは柄に薔薇の意匠が凝らされた、その華奢な剣をとても綺麗だと思った。少年のフードの陰になった表情の中で、蒼い瞳はそこだけが発光しているようだった。「お前はここで倒す。『想いの欠片』はオレのものだ……心配すんなよ、別に死ぬわけじゃない」少年は最後にそう言い捨てて、剣を振りかぶる。ひかりは抗うこともせず、ただ昨日と同じように目を閉じただけだった。嫌なことが、すぐに過ぎ去るように。そして僅かな静寂の後、ひかりの様子を黙って見下ろしていた少年は、怒りの感情を滲ませて呟いた。
「お前の思ってる通りだよ、誰もお前をそこから連れ出してなんかくれない。これから『夕暮れ戦争』を続けたとしても、これから生き続けたとしても『お前の』願いなんて永遠に叶わない。お前がどう思ったって、何も変えられやしないし、誰にも影響なんて与えられない。だって何もしないんだろ?失敗するのが怖いから。何も言わないんだろ?否定されるのが怖いから。ずっと、そのままでいろ。ずっと地べたを這いつくばって、周りを妬みながら落ち続けろ。二度と幸せになるな。そのままどんどん墜ちて行って誰にも愛されず忘れ去られろ」
≪peacock’s fowl≫
そして、ひかりの頭めがけて少年が剣を振り下ろそうとした直後、二人の頭上から羽の弾丸が撃ち降ろされる。「チッ……!」舌打ちをしながら少年が飛び下がるのと同時に、ひかりの視界いっぱいに猛禽の翼が広がる。気付いた時には、ひかりはともみに抱きかかえられて空へと浮かび上がっていた。
「大丈夫!?ケガはない!?」
慌てた様子で聞いてくるともみを、ひかりは不思議そうな表情で見返す。「……どうして助けに来たの?」「新しい『それ』が逃げたのが、この近くだったの!それだけよ!」言われた通り、新たな『それ』が二人の眼下、すぐ近くの民家の屋根を走り去っていくところだった。「……ありがとう」ひかりの礼の言葉には応えず、ともみは顎をついと上げて『それ』を追って空を飛ぶ。その頬にほのかに朱が差しているように見えたのは、もうすぐで沈む夕陽のせいだろうか。
再びともみと少年は砲火を交え、新たな『それ』を追って空を駆ける。少年の放った言葉は、ひかりの心に何の影響も残していなかった。この時点では、まだ。魔法少女たちが戦う舞台となる、夕空の色は変わり続ける。赤土色に染まる世界、紫の空と、橙の雲。どんなに綺麗な夕景も、一瞬たりとも元の色のまま留まってはくれない。すぐに、真っ暗な夜が来る。
陽が完全に沈み、『扉』が消え去るその少し前。終わりに近付く『夕暮れ戦争』の中で、ひかりは三人目の魔法少女に出会った。
――
ともみと少年が『それ』を追って降り立ったのは、ひかりが最初に二人と出会った駅裏の公園だった。もうほとんど日は沈んで、僅かな電灯が灯っているだけの公園は薄暗くなっている。そして三人の魔法少女は、自分達の追っていた『それ』が何者かに斬り裂かれ、弾けるようにして消えるのを目にした。夜の色に近い蒼紫色の陽が差す遊具、そしてサッカーなどをするための大きな広場。その中心に、新たな魔法少女が居た。
『それ』を消し飛ばしたのは、一本の紅い刀だった。鮮血色をした刃が鍔の付いた本式の柄から伸びていて、刃からは白い魔力の粒子がとめどなく溢れ出している。そして『それ』の消し飛ばされた後には、『想いの欠片』すらも残っていなかった。黒いフードの少年が、剣を抜くことも忘れて呆然と呟く。
「……あんな消え方、見たことないぞ」
刀の主である少女の背には、天を衝くように巨大な、漆黒の蝙蝠の翼があった。身に纏うのは朱色の袴とはだけられた白い道着。そして黒いインナーの隙間から覗く、鋼のように鍛え抜かれた筋肉。高校生くらいの身長、一つに纏めた髪は紅く、その眼の中には虎のような黄金の瞳があった。
「じきに今日の『夕暮れ戦争』が終わるな」
独り言のように、少女はそう呟いた。その刀から持ち手にかけて、所々に『それ』の残骸らしき黒い飛沫と、赤い何かがこびり付いていた。『それ』に血は流れない、ならば刀を覆うべったりとした血糊は、人間のものに他ならない。普通の魔法少女、そして人死にのない、普通の夕暮れ戦争。そんな文言が通用しないような存在であることは、ひかりにもすぐに分かった。そして、少女はゆっくりと三人の方へと向き直る。「だがお前たちに、夜を迎えることはできない」誰にも理解できない、理解させる気もない言葉。それは虎がこれから狩る動物の数を数えるように無機質で、猟師が狩り終わった獲物の毛皮を数えるように淡々とした声音だった。それが皮算用などではなく、彼女にとって蟻を踏み潰す程に容易い行為だということも理解できた。
「――魔法少女は日常に帰る。そして空を飛べない魔法使いは、永劫の昏い闇へと墜ちていくんだ」
そして、少女はゆっくりと三人の魔法少女の元へと間合いを詰める。獣のようなしなやかな所作、爪先を地面に着けた、まったく重心のぶれない足運び。刀を正面に構えたその姿勢は、いつでも飛び掛かれて、どんな反撃もいなすことができ、いつでも切り伏せられるためのものだ。その少女の表情には、愉悦や快楽、怒りや敵意、そして躊躇も、なにも無かった。唯一つ、殺意以外のなにも。
少年がひかりに向けた敵意など比べ物にならないようなそれは、『殺す』という明確な意思の表出だ。あの夜の街で出逢った【それ】に抱いたものが、未知のもの、理解の外にあるものに対する恐怖――闇に対して抱くような恐れであるとしたら、これは獣の恐怖だった。なにも身を隠す場所のない荒野で虎と鉢合わせたような、未知な部分など何もない、単純明快な死への恐怖。
ともみも少年も、射竦められたように動けなくなっていた。死への恐怖が身体を縛り、思考さえも真っ黒に塗り潰していく。ひかりだけが普段通りの行動を選択した。恐怖と、それに対する反応は、ひかりにとって日常的なものだった。
ひかりはいつものように、殻を願った。閉じこもるための、侵されない心の殻を。スクリーンの向こう側に、恐れる対象、自身を傷付けるような存在を隔てることを。それが過ぎ去ってくれること、或いは日常として慣れることを願って。事象を、決着を、先送りにする。
――それが、篠崎ひかりの、在り方だった。
≪rejecter≫
ひかりは、咄嗟に手を前にかざす。黒い翼の少女は攻撃を予想したのか、ひかりと自身を結ぶ直線上に刀を動かした。そして、ひかりと新たな魔法少女の間に、学校の屋上まで届くような高さの、巨大な黒い物体が凄まじいスピードで立ち上がる。
それは巨大な鋼の『壁』だった。ひかりが昨日見たあの銃のように重厚感のある、ただし何も機能を持たない黒い『壁』。ただ相手と自分を隔てるためだけの、その意味においては他の追随を許さない巨大で堅牢な障壁。それを自分が呼び出したのだと、ひかりは理解した。
――何もない空間に特定の事物を出現させる、『書き足し』の固有魔法だ。
「逃げろっ!!」
呪縛から解かれたように、フードの少年が叫ぶ。ともみも弾かれたように駆けて、ひかりを抱えて天に跳ぶ。背後で、厚さ1m以上はある筈の壁がバターのように切り裂かれて、その孔から刀遣いの少女が歩いて出てくる。
「冗談だろ……」
そう言いながら少年の投げた剣は、少女の刀で受けられた瞬間に泡のように弾けて消える。そして少女は、何も起こらなかったように蝙蝠の翼と、両脚に力を溜める。ギリギリと音の出そうなくらいに撓んだ両脚が、その力を解き放とうとしたとき――どこかから『砲撃』が炸裂した。
あの白い少女が撃ったのだと、ひかりだけが分かった。直前に気配を察知した少女は射線の向きへと刀を掲げていたが、弾丸は少女に向かわず、その周囲の地面に叩きつけられる。土煙が巻き起こり、刀の主から散り散りに逃げる三人の魔法少女を覆い隠す。そして彼女もそれ以上は三人を追おうとせずに、砲撃の方向へと目標を変える。ひかりはともみに抱えられたまま、小さくなっていく土煙の立つ公園を眺める。ひかり達以外の道行く誰一人として、その異常に気が付いた様子はない。そして黒い蝙蝠の翼が、自分達の逃げる方と逆の向きへと飛び立つのを見た。
陽が沈む。『扉』も、天を舞う星のような光点もいつの間にか消え失せて、本物の星が藍色の空に輝いている。ともみとひかりの二人は、辿り着いた廃工場の中階に身を隠し、ようやく身体を休めることができた。
「はっ、はっ、はあっ……」
ひかりを抱いて全力で飛び続けたともみは、今は変身も解除されて肩で息をしている状態だった。ひかりも地面に足を付けた途端に恐怖がぶり返して、震えて立っていられなくなってしまう。「……怖かった」疲労で立ち上がれないままのともみも、その言葉に反論することはなかった。そして疲労と恐怖がいくぶんか落ち着いてきた頃、ひかりは目の前の少女の姿が、変身が解除される前と随分違っていることに気付く。
「なによ?」
清楚なブラウスに胸元で結ばれた黒いリボン、長い紺色のスカートと光沢のあるローファー。怪訝な表情で見返す顔立ちだけがそのままで、ともみの恰好はまるで別人のものだった。「あの、どこかで、会ったこと、ありますか?」魔法少女たちは共通して、認識阻害の力を持つ。変身前と変身後の姿は、決して結びつけることができないようになっているのだ。ひかりの制服に気付いたともみは、ぶっきらぼうに言った。
「あんたも暮町中学の子なの?」
それっきり黙り込んでしまったともみの前で、ひかりは立ち尽くす。そして二人のうち片方が再び口を開く前に、埃っぽい空間に第三の声が響いた。
「危なかったね。二人とも、無事でよかったよ」
聴いただけで分かる、忘れようもない声だ。昨日、ひかりをこの戦いに誘った真っ白な少女。彼女はあの時と同じように雪色の粒子を辺り一帯に漂わせながら、錆びついた配管の上に腰掛けていた。そして少女は、ひかりが口にした自身の魔法についての疑惑をあっさりと肯定した。
「言っただろう、魔法とは自分そのものなんだ」
心の中で何を考えていたとしても、その思考の全てが現実に表出するわけではなく、己はこうするだろうという想像が、実際に取った行動と一致するとは限らない。現実という入力も、行動という出力も、一つの時に一つの個に対しては、一つしか存在しない。世界がこうである、魔法という鏡に、二つの『自己』が映ることなどあり得ないのだ。同じ光を映すレンズが必ずしも同一とは限らなくとも、一つのレンズは同じ光の入力に対して一種しか像を生み出さないように。そして無数の『自己』というレンズを通り抜けて光は変質して、出力された像が新たな現実となる。
「だから『魔法』は現実を書き換える。魔法の担い手である『個人』が、ある瞬間における現実から五感情報という入力を受け、様々な運動器官を通した出力によって世界に働きかける、現実にとって一つの装置に過ぎないのと同じようにね」
ともみは門限を過ぎそうだと言って、ろくに会話もせずに帰ってしまった。ひかりは昨日歩くことのなかった廃工場から家への帰り道を一人歩いていく。ひかりの足取りは両脇の家から誰とも知らない家族の声が聞こえてくると、ますます重くなっていく。リノンとつばめと別れるいつもの交差点に辿り着いた時、その中心で一度だけひかりは立ち止まる。空には夕暮れ戦争の時と比べ物にならないほどの星の輝きがあったが、ひかりはそれにも背を向け、地面に目を落とす。
ひかりは、家に帰ろうと思った。非日常だなんて自分には似合わない、そう身の程が理解できた、それだけでも十分な収穫だ。それに加えて、一瞬の楽しい夢も見れた。吐く息が白くなるくらいの寒さに自分の身体を抱きながら、ひかりは小走りに家路を急ぐ。もう冬が近い。夜歩くことはもう無いから、厚着をするのはもう少し後になってからでいいだろう。夕暮れ戦争、一度きりの、楽しい夢だった。
/第一話『夕暮れ戦争』
⇒第二話