危機と物語は唐突に
少し前に三題噺で書いた小説です。
因みにお題は『ヒョウ』『狩人』『庭』です。
休日。私はいつも通り、庭の手入れをしていた。
今までこれといった趣味の無かった私だが、成人して社会人となり、現代社会の波に呑まれてから、何か趣味が無いと精神が保たないと悟った。
二年程前。貴重な有給休暇を取って趣味探しの旅に出た。そして遂に見つけたのが、庭の手入れであった。正直言ってかなり地味だが、これが案外楽しい。草むしりなんて小さい頃は苦痛以外の何物でも無かった筈なのに、今では嫌な事を忘れられる手段になっていた。
幼い頃に好きだったものは、大人になると嫌いになる。反対に、幼い頃に嫌いだったものは大人になると好きになる。そう親に聞かされた事があったが、まさか草むしりがそれになるとは思っていなかった。昔の私が知ったらどう思うだろうか……多分笑うだろう。
「よし、これでいいな」
額から流れ出る汗を腕で拭う。秋とは言え、流石に暑い。
作業は朝から始めたのだが、太陽が地平線に顔を半分隠す頃には終える事が出来た。
凄く疲れている筈なのに、達成感がそれを軽く上回っているのでまるで疲労感を感じない。お陰で、やはりこれが自分の趣味なんだと再認識出来た。
終わった後のシャワーも、趣味の一つに含まれる。というか作業開始からここまでを一括りにして『趣味』なのだ。
庭を後にしようと二、三歩進んだところで──。
「……!?」
背筋に、何故か悪寒が走った。そして振り向いてはいけないと、己の脳が危険信号を発し始めた。
私はその信号を振り切り、身体を動かした。背後を振り向く為に。
「…………なっ!?」
思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。何せ私の視界に、こんな小さな庭に本来居る筈の無い存在が、映ってしまったのだから。
「ガルルルル」
「それ」は、身の毛もよだつような唸り声を出しながら、鋭い双眸で私の事を睨んでいた。
淡黄褐色の肌に、黒い斑点模様が特徴的な肉食動物──ヒョウ。それが、私の目の前に居た。動物園と違い、私とヒョウの間に檻も何も無いが。
ヒョウを見た瞬間。私の中に恐怖という感情が芽生え、雑草なんかとは比べ物にならないくらいの速さで急激に成長した。絶望という名の花が咲くまで、そう時間はかからない事だろう。
一歩、前足を出した。たったそれだけの行動で、絶望が咲いた。何も嬉しくない。
今の私は、さながら蛇に睨まれた蛙。もしくは熊に遭遇した登山者。もしくは銃口を向けられた銀行員だ。まさかそれを自分の家の庭で経験する事になるとは。
しかしどうしてこんなところにヒョウが居るんだ? 動物園から逃げ出した? でも近所どころか市内に動物園なんて無いし……。いや、今はそんな事どうでもいい。とにかくこの危機的状況から抜け出さねば。
するとヒョウが、口を開いてこちらに飛びかかってきた。鋭利な牙が見えた。あんなのに噛みつかれたら一溜まりも無い。
咄嗟に横に飛び、なんとか躱す。よし、今の内に家の中に!
「グルルルル!」
後ろから聞こえてくる唸り声。聞いたら分かる。どうやら今ので、機嫌を損ねたらしい。
私は全力で駆け出し、家の扉を開けようとドアノブに手を掛ける。
「しまった……!」
そこで、鍵がかかっている事を思い出した。こんな事なら、家の鍵を閉めるんじゃなかった……。
ポケットに入っている鍵を取り出す暇も無く、ヒョウの気配がすぐ近くまで来た。
ああ、私の人生はこんなところで終わるのか。ようやく出来た趣味の最中に死ぬなんて。
私はゆっくりと目を瞑る。もう、闇しか見えない。
もう少しで訪れるであろう痛みに耐える為に、歯を食い縛った。
「──伏せなさい!」
不意に、聞き覚えの無い若い女性の叫び声を耳にした。幻聴かと思ったが、ひとまず言われた通り、膝を折って身体をかがませた。
その直後。風を切り裂く音と、ヒョウの咆哮が聞こえた。それは、断末魔の悲鳴のように聞こえた。
結局いつまで経っても、死は勿論、ほんの少しの痛みも訪れなかった。
「いつまでそこで小さくなってるのよ」
再び女性の声が聞こえたところで、それまで閉じていた瞳を開いた。立ち上がり、振り返る。
およそこの世のモノとは思えない美しい少女が、私の目の前に佇んでいた。自然を思わせる緑色の長髪をポニーテールに纏めていて、華奢な腕が携えているのは、木で作られたらしい弓矢だった。
「あれ、ヒョウ……は?」
「ヒョウ? ああ、『パルドレオス』の事を言ってるのかしら? それなら、アンタの足元に倒れてるわよ。まさか、こっちの世界に飛ぶ時について来るとは思わなかったわ」
若い少女に向けていた目線を下げた。そして思わず、全身をビクつかせてしまった。
つい先程まで私の命を脅かしていたヒョウが、一本の矢を後頭部から撃ち抜かれた状態で倒れている。私があと一歩でも踏み出していれば、獣の足を踏んでいた。
「まったく。この世界の男はだらしないのね」
「えと、貴女は……」
「アタシ? アタシはアルテミス。アルテミス・カルデアラよ。こことは別の世界で、魔物を狩る『狩人』をやってるの」
別世界? 魔物? 魔物を狩る『狩人』? 彼女は一体、何を言っているのだろうか。
「『何言ってんだこの女』……って言いたそうな顔してるわね。ま、その反応が当たり前よね。アタシがアンタの立場なら、間違いなく同じ反応してたと思うわ」
彼女の持っていた弓矢が黄金の光に包まれたかと思えば、次の瞬間、忽然と姿を消した。何かの見間違いかと目を擦ってみたが、やはり弓矢は無い。
「驚いた? アタシの世界では、出来て当然の事なのよ」
今のが出来て当然……。魔物と言い、彼女の世界は私達で言うアニメや漫画などのフィクションの舞台になるような世界なのだろうか。
「にしても、見るからに弱そうなアンタが、まさかアタシのマスターなんてね」
「ま、マスター?」
「やっぱり知らないのね。アタシ、説明とか苦手だし嫌いだからホントはしたくないけど……仕方無いわよね……」
すると彼女は、両手を広げた。
「アンタはこれから。アタシと一緒に、世界を。いえ、宇宙を救わなくちゃいけないのよ」
「……は⁉︎」
あまりにも大きすぎるスケールの話に、私はつい大声を出してしまった。
この日を境に。私の平凡だった日常は、非日常へと路線変更した。
ここまでお読み頂き、ありがとうございます。