18話 1【柳 七海という少女】
柳七海は、高校教師をしている父親と、中学教師をしている母親の間に生まれた一人娘である。
二人は結婚当初から子供を望んでいたが、そう思うようにはいかず、夫婦は長年の間子宝に恵まれずにいた。
子供はもう諦めようか。
そんな言葉が互いの頭の中に浮かぶようになった頃、神様が夫婦を哀れに思ったのか、ようやく二人の間に吉報が届く。
母親に宿った新しい命は、すくすくと十月十日を母胎で過ごし、大きな産声とともにこの世に生まれ落ちた。
生まれた赤ん坊は、玉のような女の子だった。
赤ん坊の両親は、待望の第一子に七海と名付け、溢れんばかりの愛情を注いだ。
七海がこれから生きていく中で、なるべく苦労しないように、そのために、私たちが与えてやれるのもは一体なんだろう?
それは、純粋な善意であり、七海へ向けた愛情だった。
両親がその問いへの答えとして用意したもの。
それが「知識」だった。
教師として出会い、生きてきた父と母は、愛する娘のために自分たちの持てる愛情の全てを「知識」として変換し、授けてあげたいと願った。
そうして七海に施されたあらゆる英才教育。
幼い頃は未知の体験に心を躍らせ、両親から受け継いだ頭脳を余すところなく使い、知識の吸収を心の底から楽しんでいた七海だったが、成長するにつれ、思春期に差し掛かるにつれ、彼女は自分の置かれている環境を拒絶するようになった。
いわゆる反抗期であり、七海が大人になるために必要な期間であることは両親にも分かっていたが、彼女の場合、反動が大き過ぎた。
友達と遊ぶことも許されず、成績だけを追い求める過剰な教育家庭に身を置いていた彼女のストレスはある日突然、爆発する。
七海は両親へのあてつけのように机に向かうことを止め、毎日夜遊びに出掛けるようになった。
それでも学業の成績を落とさなかったのは、彼女の中に少なからず両親への反抗に対する罪悪感があったからだろう。七海の髪が金色になったのもこのこの頃だ。
七海が夜遊び仲間と呼んでいた少年、少女たちは、例に同じく成績が悪かった。
七海は、そんな彼女たちを仲間、とは呼んだものの、友達、とは呼ばなかった。
七海が長年をかけて膨大な知識の代わりに身に付けてしまったのは、他者を見下す目線――――弱者を蔑む態度だった。
知識を持つ者が強者であり、それ以外は弱者でしかない。
両親の教えが七海の人格形成に大きな影響を与えた結果、彼女はそれを当然のことだと思う人間に育った。
七海がそれまでの人間ではなかったという理由は、その考えに囚われていない、といった点だろう。
例えば彼女がその考えに甘んじ、態度として他者を見下していたのなら、彼女は知識量に関係なく万人に見透かされ、周囲に敵を作り続けて孤立していたことだろう。
彼女は知識ともう一つ、生まれ持ったスキルを持っていた。
社交性。
場の空気を読み、初対面でも適度な対人関係を構築できる。人の気持ちが分かりすぎるほどに分かっている。その操り方でさえ。
七海はその二つを使いこなし、人を見下しながら、かといって、見下される形をあえてとった。
それが七海の考える、人間関係を構築する手っ取り早い方法だったから。
それには夜遊びも、明るい髪の色も大きく役に立った。
人々の七海に対する第一印象は最悪だが、逆に言えばそれは好感度ゼロからのスタートであり、後は勝手に上がるだけの出来レースとも呼べるシステムだ。
非行少女、と呼ばれるようになっていた七海が、手の平を返したように真面目な態度をとったり、成績を誇示し、彼女に優しくされたらどうだろう。彼女の外見しか情報を持たない人間は、彼女のことを外見で判断したことを反省し、中には好意を抱く人間も出てくるのではないだろうか。
七海はその瞬間が、人の、自分への評価が変わる瞬間が大好きだった。
一度信用されてしまえば後は簡単で、バカなフリをしていても、一度手の平を返した人の中には「普段はバカでも、本当の七海は頭がいい」という注釈が勝手に入る。
これが逆では使えない手だから不思議なものだ、と七海は思う。
例えを用意するなら――――偏差値四十の不良が日本一頭の良い学校に受かった、と言った場合と、偏差値七十強の優等生が日本一頭の良い学校に受かった、と言った場合、人々から驚かれ、称賛され、親しみを持たれるのはどちらか? といった話が適しているだろう。
それは圧倒的に前者であり、驚き、称賛した人々の心の片隅には必ず「見下し」が含まれている。
要するに、弱者が高みへ上った様子を遠くから眺め、他人事のように手を叩いているに過ぎない。
根拠はある。間違っても人は、自分より優れた、「見上げる」べき人間に同そのような態度はとらないだろう。
その場合は後者になる。優等生が優秀な結果を出しても、それは「当然の結果」であり、称賛されることではあるけれど、見下されることではない。
ああ、やっぱり頭のいい人は、凡人とは住む世界が違うのだ、と一線を引かれ、心を閉ざされ、それでおしまい。
本当の社交性とは、いかに相手の懐に入り込む術を熟知しているか、が肝になる。
七海は前述を自然の摂理のごとく実行し、今に至っている。
高校生とはいえ、子供にしては達観しすぎている、世の中に失望している七海――――もとい私は、本当の意味で人を好きになったことがない。
嫌いなのは、裏表のないバカ――――不器用な優等生だ。
それを間違っても口にはしないけれど。
「それで? 琥珀が二宮くんを好きだって分かって、七海的には予想通りだし、これからそのネタでいーっぱいからかえるなーって思ってたのに……」
私は長袖のシャツにカーディガンを羽織り、黒のタイツでなけなしの防寒をとる目の前の彼女に向けて大袈裟に悲しんでみせる。
目の前の彼女はとても嬉しいことがあったようで、それを隠すこともなく、というか隠しきれておらず、表情筋が緩みに緩みきっている。
私はそんな彼女に向けて、舞台役者のように用意した台詞を放つ。
「それなのに……告白する前に好きだってバレたってどういうこと!? しかもそれが二学期の中間テストが終わってすぐの頃? もう冬休み明けたんですけど? 新学期だよ琥珀」
私は今、友達の琥珀から恋愛相談を受けていた。
本当はもっと早くに彼女から相談があってもよかったと思っていたのだけれど、私は自分が思っているほど彼女との仲を深められていないらしい。
彼女にとって、優先することは私より、もっと他にあるということか。
高校に入ってからの私は、反抗期も治まり、それを機に人を思い通りに動かそうという意思も弱まった。
そんなことをしても上手くいかないものは上手くいかないし、疲れる。
大人になっていく多感な同級生同様、私もまだ子供であり、完璧とは程遠い。
今はとりあえず、自由に生きてみようと思っていた。
自由になったらやりたいこと。それが恋だった。バカなフリをしてでも、自然と少女漫画の世界は憧れる要素があったし、一度はそんな経験をしてみたいと思っていたのだけれど、一度目の恋はどうやら私の一方通行で終わってしまったらしかった。
他人行儀な物言いだけれど、それほど私も本気というわけではなかったし、いまいち「恋愛」という状態を理解しきれていなかったというのも大きな要因だろう。
初めての彼氏――――久藤廈織くんは、そんな私の気持ちに気付いていたようだった。
『ねえ、私たち、お試しじゃなく本当に付き合わない?』
私の軽口に、彼は言った。
『そういうのは、本当に好きな人ができた時に言うべきだよ』
『え~七海、わりと本気で言ってるんだけどな~』
『七海ちゃん、君は本当に誰にでも優しい女の子だよね』
『え?』
『誰にでも優しい。皆言ってるよ。結構モテてるみたいだし、だからこそなんだけど』
彼は、私の浅はかな考えを隅まで見透かしているように、ただただ事実だけを述べた。
痛いほど真っ直ぐに、裏表のない言葉で。
『自分を偽るのって、ツラくない?』
それ以上先へ、私は踏み込むことを許されなかった。
工藤廈織は、自分を偽って、人を見下している私が足を踏み入れていい人物ではなかった。
少なくとも彼は――――私の苦手な「優等生」の部類だった。
『そう。ま、私も本気で言ったわけじゃないし、本気にされても困るし……でも、あんまりいいふらさないでね。一応キャラってもんがあるからさ』
これ以上仮面を被れないと悟った私は廈織くんの前では素顔を曝したのだけれど、彼は私に驚くこともせず、ただ笑顔で、気持ち悪いほどの笑顔で清々しく言い放った。
『言わないよ。誰にだって言いふらされたくない秘密があるものだしね。それに、安心していい。ボクには好きな子がいるんだ……だから、誰からの気持ちにも答えてあげることはできない。最初から、永遠に』
彼の言葉を聞いて、私の持った感想は、「気持ち悪い」だった。
廈織くんはその言葉を、誇らしそうに、満足そうに言い放ったから。
自分のしている恋とやらに、好きな相手に対する気持ちに、並々ならぬ自信を持っているようだった。
恋を知らない私には、その感情が理解出来なかった。
今の琥珀の気持ちも、私には分からない。
「もっと早く話さなきゃとは思ってたんだけど……気がついたら新学期でした」
恥ずかしそうにうなじをかく琥珀。
私への報告がなかったことはともかく、長年こう着状態だった彼女と幼なじみの関係に進展があったことは喜ばしいことだろう。
祝福してあげることが今、私にとっても琥珀にとっても最良の行動になるのでは。
そう考えた私は、申し訳なさそうに項垂れる琥珀の頭上に拍手を浴びせ、顔を上げた彼女を笑顔で迎えた。
「まあ、過ぎたことをあんまり言ってもね。本来なら喜ぶことだしね! ひとまず、おめでとう琥珀、よくがんばったね」
「ななみぃ~!」
机を挟んで両手を伸ばして抱擁を求めてくる琥珀の手を軽く握りながら私は笑顔で対応する。
彼女の気持ちなど微塵も理解しないまま。
恋愛感情を知らないまま。
「次は恋人同士になった報告、よろしくね!」
「うん、頑張る!」
でも、少しだけ、憧れる気持ちはある。
出会った頃、あんなに無気力だった彼女が、恋心を認めた瞬間、腹を括ってから、こんなに喜怒哀楽が豊かになり、魅力的な女の子に変わったのだから。
恋をすれば、私も変われるのだろうか。私の知らない私に出会えるのだろうか。
恋とは、一体どんなものなのだろう。
人を愛するという感情は、私の心をどういう風にかき乱してくれるのだろう……。
私の知識探究精神は、こんなところでも飽きることなく顔を覗かせるのだった。
次の更新は6月14日を予定しています。
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