16話 1【おとうさん】
その景色を、私は見たことがあった。
日も沈みかけ、空が燃えるような夕に染まる黄昏時。朦朧とする意識の中、私の耳に聞き覚えのある誰かの声が届く。
薄れる意識の中、自我を取り戻しつつある私の聴覚は、意識同様、お世辞にもまだ正常な状態とは言えない。
例えるなら、今の私に届く音は、耳に手の平で蓋をしているかのような、くぐもったもの。聞こえようによっては赤ん坊の笑い声に錯覚してしまうような、幼いものだった。
視界も未だぼんやりと全体がぼやけて見える。それは分厚い眼鏡をかけた時のように、目の悪い人間が、裸眼で世界を見た時のような。
そんな状況は、私が気が付いてからほんの一瞬の出来事でしかなく、意識が鮮明になるにつれ、私に本来備わっている五感が起死回生と言わんばかりに冴えわたる。
先ほど私が赤ん坊の笑い声と錯覚した声の主は、推定四歳ほどの小さな女の子のものだった。
幼女、と呼ぶにふさわしい容姿の女の子は、長く柔らかそうな細い黒髪を二つに結い、赤いワンピース姿でなにやら誰かと楽しそうに笑っている。
場所はどこかの住宅地。大通りから一本脇道に反れた細い道路の真ん中で、幼女は私に気が付くことなく視線の先にいるのであろう人物と楽しそうに遊んでいる。
拙い足取りで、幼女は足元に転がってきたピンク色のゴムボールを両手いっぱい使って拾い上げ、相手に全力で投げ返している。
「おとうさーん! 早く投げてー!」
幼女の弾けるような声に、私の意識があるものに集中した。
それは、幼女が胸に付けているチューリップを象った名札。
名札には、幼女の通う幼稚園の名前、それから所属する組、幼女の名前が全てひらがなで表記されている。
記されていた幼女の名前を見た私は、一瞬で現在の状況を理解した。
『●●ようちえん/チューリップぐみ/たかはし こはく』
それは、幼い頃の私そのものだった。
だとするならば、先ほど幼女が「おとうさん」と呼んだ人のは、一緒にボール遊びをしていた人物は、私が幼い頃に事故で死んだ「お父さん」であり、これは夢だということになる。
現在の私が生きていた頃のお父さんの顔を正確に確認できなかったのは、当時のお父さんを今の私が知らないからなのだろう。知っていたとしても、この年頃の記憶が今も私の中にあるとは思えない。私の知っているお父さんとは、仏壇の前に飾られた笑顔の遺影だけなのだから。
だからこの夢もきっと、私の中にあった思い出と、理想が作り上げた虚像に過ぎないのだろう。
酷く懐かしさを覚えるのは、きっとそのせいだ。
けれど私は、この懐かしい風景がこれから辿る結末を知っている。
知っているのに何もしない。できない。
太陽が沈むギリギリまでボール遊びに熱中していた幼い私は、疲労と視界の悪さから、返球されたボールを取り損ねてしまう。そうして弾けるようにボールを追いかけ、駆け出す幼女。後先の事など何も考えず、ただ真っ直ぐ、一心不乱に。
幼女の背後にあった大通りまで転がるボールの先の信号が赤になっていることなど気が付きもせずに。
「あっ」と私が声を漏らすより早く、目の前を「おとうさん」が全力で走り抜けていく。
これから何が起きるのか、私は知っている。
自分の夢だからといって、自由に動けるわけではないらしく、私は瞬きをすることも許されず、これから起きる悲劇を見つめていた。
ボールを追いかけ、赤信号の大通りに何の迷いもなく飛び出す幼女。スピードを一切緩めず迫る自動車。寸でのところで追いついたお父さんが幼女の腕を掴み、歩道に引き寄せる。反動で、自動車の前に飛び出すことになったお父さんは、そのまま車にはねられてしまった。
鈍い音がして、お父さんの体がまるで人形のように十数メートル先に飛ばされる。
ピクリとも動かなくなったお父さんの頭部から、おびただしい量の血液が流れ出し、あっという間に血だまりが出来上がる。
お父さんの代わりに助かった幼女は、突き飛ばされることになったせいで足を擦りむいたらしく、痛みで大きな泣き声を上げている。
そんなことよりもっと重く辛い現実が目の前に広がっていることなど、当時の私に理解できるはずもなかった。
私は、この夢を知っている。
初めてこの夢を見たのは、お母さんにお父さんの亡くなった原因を初めて聞かされた日だった。
そして今日、私はまた、この夢を見ている。
今まで事故当時の記憶がなかったのは、幼い私が、幼いなりに父親の死に大きなショックを受け、嫌な記憶を頭の片隅に追いやってしまっていたからなのだろう。
それがお母さんの告白により、無理矢理呼び起こされてしまった。思い出すことになってしまった。
真実を知ることが悪いことだとは言わないけれど、世の中には知らない方がいいことが多く存在する。
それが私の場合は、この日の記憶。
お父さんが死んだ日の記憶は、私の中でトラウマとなって、今も有り続けている。だから、こんな夢を見るのだ。
お前が殺した。お前があの時、ボールを反らさなければ、もっと遊びたいと駄々をこねなければ、赤信号を守っていれば、お父さんは死ななかった。
そう、ずっと責められている気分だった。
長い悪夢がようやく終わり、私は現実世界で目を覚ます。
寝ぼけ眼を擦りながらおもむろに見たカレンダーを見て、そこで、どうして私がこの日、お父さんを事故で亡くした悪夢を見たのか、納得する。
今日は、お父さんの命日だった。
16話は琥珀のお話。
次回の更新は5月16日の予定です。




