1話 2【入学準備と訪れる春の気配】
* * *
次の日、朝早くインターフォンが鳴った。
覚めきらない脳を起こしながら玄関の戸を開けると、そこには幼なじみが立っていた。
「なんだ悠ちゃんか」
寝癖だらけの髪を乱しながら寝ぼけ眼を擦る私に、悠ちゃんはため息をついた。
「あいかわらず酷い寝起きだな」
「だってまだ朝の八時だよ。早くない?せっかくの休みなのに……どうしたの」
貴重な休日の睡眠時間を奪われて機嫌が悪い。私が低血圧だと知っていての行動だろうか。
「休みだからって寝てばっかりだと太るぞ」
「うるさい」
「それより、早く着替えろ」
「は?」
突拍子のない一言に目を丸くしていると、悠ちゃんは私の背を押しながら家の中へ入り、なんの迷いもなく私の部屋に上がり込んだ。
「ちょっと!?本当なんなの!?」
さすがに脱ぎ散らかした洋服やら、下着が散らばった部屋を見られるとは思っておらず、羞恥で顔を赤くする。
私の様子などお構いなしに、悠ちゃんは淡々と話をする。
「髪は俺がセットしてやるから、お前は早く着替えて化粧しろ。急がないとバスに間に合わなくなるんだよ」
「意味分かんないんだけど」
頭にハテナを浮かべたまま、とりあえず適当に洋服を引っ張り出す。
好きな男の子の前だと言っても、キョウダイ同然に育ってきた関係なので、悠ちゃんの前で下着になること自体にはあまり抵抗はない。
本人も特にこちらを意識する素振りも見せず「早くしろ」と私の支度を急かす。
「えーじゃあ私メイクするから髪のセットは悠ちゃんにまかせる」
「まかせとけ。あ、今日はあの、つけまつげ?禁止な」
「なんで!?」
「俺、あれ嫌いなんだよ。もっと言えば女はいっそ、すっぴんでいい」
「男はすっぴんに夢見過ぎだよ」
「そうか?」
「結局は素でも可愛い子がいいんでしょ。そんな子、あんたの彼女みたいに稀にしかいないんだからね」
可愛くなければ、見向きもしないくせに。
女の支度は時間がかかる。一緒に出掛ける度にこうして支度を手伝ってもらっているせいで、今では悠ちゃんの方が髪のセットに関しては、そこらの女子より上手かもしれない。
「悠ちゃんは本当に髪のセット上手だよね。将来は美容師とかいいんじゃない?」
「美容師?」
私の提案に、悠ちゃんはコテを温めながら首を傾げた。
「そうしたら、私が大人になって誰かとデートする時に悠ちゃんを頼れるじゃない?」
私の部屋から悠ちゃんの部屋はカーテンを開けれは丸見えだ。窓の向こうに行き慣れた幼なじみの部屋が見え、少しだけ嬉しくなった。そのうちまた掃除しに行ってやろう。
グロスで唇を輝かせながら満面の笑みを浮かべると、鏡越しで悠ちゃんが呆れているのが見えた。
「俺、大人になってからもこうして手伝わされるのか……まあ仕事だからな、安くしてやるよ」
「え、お金取るの!?じゃあいいや」
「お前、結構ずるいよな」
「うるさい」
支度を済ませた私を、悠ちゃんが待ってくれていた。
「ほら、行くぞ」
「う、うん」
結局、最後まで行き先を聞かされぬまま、私は息を切らしながら悠ちゃんの後を追いかけた。
たどり着いたのは、自宅からそう遠くないバスの停留所。
「どこに行くの?」
悠ちゃんは何も答えない。そんな態度に私が頬を膨らませていると、突然強い力で腕を引かれた。
同じだったはずの手の大きさに、腕を引く強さに、いつの間にかこんなに差がついていた。年を重ねれば重ねる程、互いの成長を感じてしまう。
「悠ちゃん、そろそろ今日の目的を教えてよ」
「まだ内緒」
「ケチ」
悠ちゃんは優しく微笑みながらバスへ乗り込むと、酔いやすい私を窓側の席へ座らせた。
走り出したバスに揺られ、うとうとしていると、声をかけられた。
「三十分もすれば到着するだろうから寝てろよ。ついたら起こすから」
「寝ないよ」
「なんで?」
不思議そうに首を傾げる悠ちゃんに、私は窓の外をぼんやり眺めながら言った。
「それじゃ、最後まで悠ちゃんの思うつぼじゃない」
私の返答に悠ちゃんは目を丸くして、喉を鳴らして笑った。
「そこまで考えてなかったよ」
笑い続ける悠ちゃんに、恥ずかしくなってきた私は窓の外に視線を移し、寝たふりをした。
「琥珀?寝たのか?」
返答のない私に悠ちゃんはようやく笑うのを止めた。代わりに自分の上着を私にかけ、優しく頭を撫でる。大きな手の平が心地よくて、そのまま眠ってしまった私が再び目覚めたのは、バスが目的地へ到着した頃だった。
「到着したよ」
悠ちゃんに揺り起こされて目を覚ますと、窓の外の景色は一変していた。
開発が進む町の中心部で停車したバスを降り、先を行く悠ちゃんの後を追いかけていく。
悠ちゃんが足を止めたのは、文房具の専門店だった。
「お前が喜びそうな所って、こういう場所しか思いつかなくてさ」
「悠ちゃん……」
文房具店は楽園だと思う。中学時代、美術部に所属していた私にとって、この空間はどんな娯楽施設より楽しい場所だ。この場所に連れてきてくれた彼に感謝しながら、買い物を素直に楽しむことにした。帰りのバスの中で、重たそうな紙袋を抱きかかえる悠ちゃんに気が付いた。中身を尋ねると、彼はそれをそのまま手渡してきた。
「それ、お前にやるよ」
「何が入ってるの?」
「ご褒美」
そう称された紙袋の中身は、十冊のスケッチブック。色違いのシャープペンシル。
「こんなに沢山……いいの?」
「受験勉強、頑張ってたからな。琥珀が進学校に受かったなんて未だに信じられないし。だから、これは俺からの合格祝い」
「なにそれ、びっくりした」
目を丸くする私の手から色違いの青いシャープペンシルを取った悠ちゃんは、笑って言った。
「これは俺が使う。お前は赤。新学期だし、形から入るのも悪くないだろ」
「どうして同じ種類?」
悠ちゃんは少し考える仕草をして首を傾げた。
「なんでだろう」
「ふふ。恥ずかしい奴」
「うるさいな」
気恥ずかしそうに眉を寄せる悠ちゃん。私はご褒美を抱きかかえながら、いつまでも笑っていた。
「でも、ありがとう。私、すごく嬉しいよ」
悠ちゃんは口元を隠しながら視線を逸らした。その仕草は彼の照れ隠しなのだと私は知っている。
堪えきれずに吹き出すと、額を小突かれた。
「笑うなよ」
「だって、嬉しいんだもん」
茜色に染まる空の下、一つの春が動き出した。
次は夕方5時過ぎの投稿です