5話 2【それぞれの気持ち】
橘くんを置き去りにし、体育館の二階ギャラリーから外へと続く階段を駆け下りる琥珀。
途中、数人とぶつかったが、相手が振り向くより先に私は走り抜けていた。
確信はなかったが、私の足は保健室へと向かっていた。一秒でも早く駆けつけたいのに、一度外に出なければいけない造りになっている建物の構造に苛立ちを覚える。
息を切らしながらようやく高等部の保健室の前にたどり着いた。扉を開けようと手を伸ばした瞬間、室内から声が聞こえ、私はその場で静止した。
嫌な予感がする。
「もー、本当に心配したんだからね?良かったよ。ただの捻挫で」
「悪いな。心配かけて」
「でも、しばらく部活に参加できなくなっちゃったね……」
扉の向こう側で、仲睦まじい恋人たちの声がする。
「なにも一生バスケ出来なくなるわけじゃねーだろ?なんでお前が泣くんだよ」
「だって、悠希がどれだけバスケ好きか私、知ってるから……」
「……ありがとうな、希望」
私の入り込める場所は、どこにもなかった。
心臓の音がうるさい。
希望ちゃんも同じように悠希の試合をどこかで見ていたのだろう。同じように、ケガをした悠希を心配して、この場所に駆け付けたのだろう。
おかしいところなど、この場面において何もないはずなのに、私の心は声にならない悲鳴をあげていた。
「……私の方が、ずっと悠希のこと知ってるのに」
気が付くと、自然と心の声が漏れていた。
悠希がどれほどバスケが好きなのか、私の方が知ってるの。
どうして悠希の隣に立っているのが私じゃないの?私の方が、ずっと前から一緒にいたのに。
悠希のこと、誰よりも知ってるのは、本当は私の方なのに。
心の内側から沸き上がってくるこの気持ちは一体なんだろう。泥水のように濁った汚い気持ち。嫉妬という醜い感情。どうしようもなく悲しくて、苛立って、子供のように泣き喚いてしまいたい、そんな気持ち。次から次へと溢れ出す、知らない感情たち。
扉の向こうから感じられた越えられない壁の気配に私は恐れ、保健室を離れ、走り出した。
あてもなく走って、走って、走って、立ち止まって、泣いた。
季節外れのじりじりと焼けるような日差しの下、私は人目も気にせず泣いていた。体中の水分が抜けてしまいそうだ。眩暈を起こしながら、私はひたすら泣いていた。
すると、私を心配し、後を追いかけてきた橘くんが体育館の影から姿を現した。彼は道の真ん中で立ち尽くす私に気が付き、驚いた表情で駆け寄ってきた。
「琥珀さん!?どうしたんですか!」
「うっ……うっ」
「とりあえず、涼しい場所に移動しましょう?人目もありますし、何より今日の暑さで熱中症になっちゃいますよ」
突然の事態に動揺しながらも優しい言葉をかけてくれる橘くん。自分の被っていた黒い帽子を私の頭に深く被せると、彼は私の手を引き歩き出した。木陰にやってきた私たちは近くのベンチに腰を下ろし、水分補給した。
「落ち着きましたか?どこか、具合悪くないですか?」
私は首を横に振る。何も答えない私に橘くんは困惑しながらも、急かさず私が口を開くのを待ってくれた。
「……橘くん」
「はい?」
私がようやく口を開いた頃、体育館から試合終了を告げる笛の音が聞こえてきた。
「私ね、保健室まで悠希を追いかけたの。でも、あいつの隣には希望ちゃんがいた。……怖気づいて逃げてきたんだ。あいつが好きだって気持ちが怖くなった。本当は誰にも渡したくないのに、でも、もう……」
私はそれ以上言えず、口を閉じてしまった。
思えば私はいつも、現実を見ないように生きてきた。悠希に彼女が出来たと知った後も、私たちの関係は何も変わらなかったし、現状に甘えていた。
二宮悠希の一番大切な女の子。それが自分ではないのだと気が付いた時にはもう、手遅れだった。嫉妬と悲しみという感情が濁流となって心を押し潰し、涙という形になった。
再び泣き出しそうになる私に、橘くんは言った。
「好きな人に彼女がいたからって、なんなんですか!」
「……へ?」
橘くんの言葉に、私は顔を上げる。
「琥珀さんは、相手に想い人がいるからって、自分の気持ちを殺すんですか」
「だって、告白したって、何も変わらないかもしれないじゃない……悠希は希望ちゃんの彼氏なんだよ」
橘くんは呆れたように言った。
「また言い訳。目の前に見本がいるじゃないですか。告白して後悔したなんて、それは実行した人が言う台詞です。僕は、あなたを好きになって、告白して、本当によかったなと思ってます。結果が全てじゃありません」
橘くんの真剣な顔に、私は思わず息を呑む。
こんなに想われたことが、かつてあっただろうか。彼の告白を素直に受け入れてしまえば、それはとても円満な終わりを迎えることが出来るのであろう。けれど、それではダメなのだと、心が確かに叫んでいる。妥協が後悔を生む前に、芽生えた恋心を全力で守らなければいけないのだと。
「橘くん……」
「もちろん、琥珀さんが僕の気持ちを迷惑に思っているのなら、この場でキッパリ諦める覚悟はあります。……でも、琥珀さんは僕の気持ちを拒絶したりしませんよね。そうでなきゃ、今日みたいに二人で出かけてなんてくれないだろうし」
私には、橘くんが自分とかけ離れた人間に思えた。彼はまるで澄んだ泉のようだ。底まで見えるほど透き通った水は、彼の心の強さと清らかさを表しているように思う。
対照的に、泥で濁った水たまりのような自分の心の状態がとても恥ずかしく思えた。
「僕は琥珀さんの友人で、あなたのことが好きな、ただの男なんです」
痛いほど真っ直ぐな言葉に、私はもう一度確かめるように頷いた。
「橘くんは強いなあ。……ごめんね、ありがとう。私、もう自分に嘘はつかない」
幼なじみへの恋心を自覚した日。同時に終わりを告げた恋心がある。愛する人の幸せを願い、橘は琥珀に嘘をついた。
自ら閉ざした恋心に涙した男がいたことを、自分のために嘘をつき続けた男がいたことを、琥珀は知らない。
* * *
春田希望は保健室で彼氏と談笑していた。
「なあ希望。今、誰かが扉の前に立っていなかったか?」
「気のせいじゃない?やめてよ、怖いな」
ケガの手当を終えた悠希は保健室の扉に人影を見た。ほんの一瞬で消えてしまったため、確証は持てなかったようだ。
「でも。足音、お前にも聞こえただろ?」
悠希の言葉に私は口を尖らせた。
「……他の生徒じゃないの。先客に気が付いて引き返したんでしょ」
「なるほど」
「もー、転んで頭も打ったの?これ以上心配させないでよ」
「悪かったよ」
私は彼の視線の先を見つめながら、ため息をついた。そうして心配するフリをして、私は彼に嘘をついた。悠希の発言は正しかった。扉の向こう側には確かに人が立っていた。それも私たちがよく知る人物。
『……私の方が、もっと悠希のこと知ってるのに』
それは耳を澄まさなければ聞こえないような、本当に小さな声だった。声の主が琥珀ちゃんだと瞬時に気付いた私は、とっさに声を発し、悠希の気を逸らさせた。
彼の幼なじみのことは不憫だと思う。反面、どうしようもなく勝ち誇った気持ちを抱いてしまい、心は罪悪感に包まれた。彼を、幼なじみから独占したい。それがどんなに醜い感情だったとしても、心は確かに満たされていた。
「……悠希、好きよ」
沈黙の中で発した私の言葉に悠希は驚いていた。
「なんだよ、急に」
恥ずかしそうに、けれど嬉しそうに笑う悠希の様子につられて笑顔になる。
「言いたくなっただけ」
いつから彼と付き合うことが苦しくなったのだろう。何も考えず、幸せだったあの頃に戻りたい。
本当のヒロインは私じゃない。分かっているからこそ、大切にしてきたこの想いを終わらせてしまいたくはない。今はまだ、気が付きたくない。
こうして彼の幼なじみへのあてつけが常習化している現実に、私は暗い顔をすることが多くなった。
次は明日の昼の更新です
5話はここまで