1話 1【幼なじみの関係】
「こんにちは。お腹、もう結構大きいけど、そろそろなの?」
町の小さな産婦人科の片隅で、初産を来月に控えた女性は同じくお腹を大きくした女性に声をかけられた。
「ええ。来月の今頃生まれる予定です」
「実は私もなの。男の子だから、あまりお腹は目立たないみたい」
愛しそうに自分のお腹を撫でる女性の表情は、母親そのものだった。
「よかったらお友達になりません?」
照れ臭そうに笑う男の子の母親に、女性は満面の笑みで首を縦に振った。
「ぜひ!仲良くしてください!」
月日は流れ、生まれた赤ん坊たちは、この春、高校生になろうとしていた。
学生たちが行き交う道に背を向け、土手の斜面に腰を下ろす。
そうしてようやく今日一日の目まぐるしさを体感した。
プシュッと炭酸飲料の入ったペットボトルを開け、高橋琥珀は中身を一気に喉の奥へと流し込む。
冷たさと鼻に抜ける炭酸の刺激が心地よい。
「琥珀、俺にもソレ頂戴」
沈みかけた夕日を背景に、「ん」と差し出された手に、私は飲みかけの炭酸飲料を手渡した。
私から手渡された炭酸飲料をゴクゴクと喉を鳴らしながら飲み干し、奴は、ホッとため息をついた。
「ごちそうさま」
空気の泡が弾ける真っ黒な液体が入っていたはずの容器は、中身が無くなったことで、軽くなり、向こう側が見渡せるようになった。
「全部飲むなんて最悪!私まだ一口しか飲んでないのに!」
「おー、悪いな」
ケラケラと笑う奴に対し、私はギュッと唇を噛みしめる。行き場のない怒りを拳に閉じ込めながら、キッと鋭い目付きを奴に向けた。
時に兄のような、弟のようなこいつと真面目に争うのがバカらしいことくらい、もう何年も一緒にいて、知っているハズなのに。
口を開けば減らず口。まるでキョウダイ喧嘩だ。
「悠ちゃんさぁ」
「あ?」
話題を変えようと声をかけた私に奴は首を傾げた。
「希望ちゃんと付き合ってるんでしょ?いくら私が幼なじみだからって、希望ちゃんに見られたら殺されるよ」
「は?誰が」
「決まってるでしょ、悠ちゃんがだよ。私もかもしれないけど」
幼なじみの二宮悠希は私の言葉を鼻で笑った。
「付き合って三年になるんだぞ?今さらそれくらいで怒らないさ」
「そうかなぁ」
悠ちゃんは中学一年生の時から学校のマドンナだった春田希望ちゃんと付き合っている。
希望ちゃんは黒檀のような黒髪に、大きな黒真珠の瞳を持った、まるでお人形のような女の子だった。
希望ちゃんの容姿は男子たちの「守ってあげたい女の子」像と見事に一致していて、当時からすごい人気だった。そんな彼女が悠ちゃんに告白したと知った時は現実が信じられなかった。
彼女は恐ろしい。 私は希望ちゃんにきっと敵わない。
悠ちゃんはなにも分かっていないんだ。
私が希望ちゃんの立場だったなら、幼なじみの女の子と彼氏が仲良くしている場面なんて見たくない。
幼なじみが女の子だという事実にすら嫉妬するかもしれない。
幼なじみとの間に異性としての感情がないと分かっていても、嫉妬する気持ちはなくならない。
それが恋する乙女心というものだ。
だって私も、そんな女の子の一人だから。
「もういいよ、女心を男の悠ちゃんに言うだけ無駄だったみたい。そろそろ暗くなるし、帰ろう」
三年間着用してすっかりくたびれたセーラー服をひるがえしながら立ち上がる私。
「そうだな。それにしても、随分と日が長くなったな」
前述の嫌みを込めた言葉は綺麗に流されてしまった。
「そりゃそうだよ。だって、もう春だよ」
お尻についた土を払う私に続き、悠ちゃんも立ち上がる。
隣に並ぶと遥か頭上にある目線。
男女の差を感じる度、私の胸はどうしようもなく高鳴る。それが不毛な想いだと分かっていても、表面上は自分にも周りにも嘘をつけたとしても、自分の本当の心には嘘をつけない。
分かっているからこそ、私はこの想いを口にするつもりは今のところない。
だって、私が本当のことを言ったら、悠ちゃんは困るでしょう?
「伸びたね、身長」
「そりゃ、成長期だし、ずっとバスケやってたからなぁ」
小学校の時に一緒に始めたバスケットボール。すぐに飽きて辞めてしまった私に対し、悠ちゃんは中学を卒業した今も変わらずバスケットボールを続けている。
私は体育館に響くバッシュの音が好きで、よく練習を覗いていた。
だから知ってる。悠ちゃんがどれほど努力家なのか。
「高校でも続けるんでしょ?バスケ」
「もちろん。もう新しいバッシュも決めた」
「気が早いなぁ」
苦笑する私の横で、悠ちゃんは嬉しそうに笑っている。
小さな子供のような笑顔に私は「しょうがないな」とため息をついた。
「高校もあんたの試合はちゃんと見に行ってあげるから、スタメン外されないようにね」
「へいへい。ところで琥珀は部活決めたか?また美術部?」
バカにしているつもりは毛頭無いのだろうが、その言い方にいささか腹がたった。「楽だから」という理由だけで美術部を選び、幽霊部員として貴重な中学生活を潰してしまった私に対する嫌みのように聞こえたからだ。結局得たものと言えば、漫画の知識とほんの少しの画力だけ。エースで県大会優勝を飾った悠ちゃんとは大違いだ。
「美術部はいいや。私、どうせそんなに絵うまくないし」
「そうか?俺はお前の描く絵、好きだけど」
「……あっそ」
好きと言われたのは私の描く絵であって、私個人ではないのに。
一瞬で燃え上がる頬の熱さに私は咄嗟に顔を背けた。
何気ない日常のひとこまで、何度も思い知らされるのだ。私は、どうしようもなく幼なじみが好き。生まれた時から一緒に育ったキョウダイのような存在としか思われていないとしても、私は一人の男の子として悠ちゃんに恋してる。絶対に言えないけれど。
でも、密かに想い続けることだけは許して。
隣に並べる今この瞬間が、泣きそうになるほど嬉しいから。
高校入試の合格発表を終えた帰り道、微かに開き始めた桜の蕾に見とれてフラフラ歩いていると、後頭部を小突かれた。
「いたっ」
「フラフラ歩いてると危ないだろ。それに、急がないと母さんたちに怒られるぞ」
「あーそれは嫌だな。こんな日にお説教は聞きたくない」
「だろ?分かったら急ぐぞ」
「はーい」
ほら、こうして時々お兄ちゃんぶる。
昔のように手を繋ぐことはなくなったけれど、歩幅を私に合わせてくれる悠ちゃんの優しさを私は知ってる。
「あ、悠ちゃん高校受験、合格おめでとう」
「おう、琥珀もおめでとう」
希望ちゃんは、この優しさを知ってるのかな。
* * *
二人で同じ高校に合格するとは夢にも思っていなかった。
昔から頭のよかった悠ちゃんは納得だが、バカな私が合格するとは、天変地異の前触れかもしれない。
お母さんは私が悠ちゃんと同じ高校を目指すと知ってから、何度も滑り止め高校を受験することを提案した。
けれど、私はその提案をのまなかった。家に貯蓄がないことは知っていたし、本命高校に受かってからドブに捨てるだけのお金なら、別のことに使ってほしかったし、バカ特有の根拠のない自信は吐いて捨てるだけ持っていた。
「二人とも、合格おめでとう。春からはいよいよ高校生ね」
合格を祝う豪勢な夕食を目の前に、悠ちゃんのお母さんは満面の笑みでそう言った。
美人なお母さんだから、悠ちゃんの顔がいいのも納得できる。その横で笑っている人が良さそうなのが私の母親。
「琥珀ったら、今までにないくらい必死に勉強してたから……よほど悠希くんと同じ高校に行きたかったのね」
お母さんの言葉に私は全力で首を横に振った。
「そんなわけないでしょ!?私はただ、悠ちゃんに負けたくなくて……」
「それであんな進学校に入学出来たんだから、もともと素質はあったのね。心配だけど、お母さん嬉しいわ」
私たちが入学する高校は、スポーツも強く、県内有数の進学校だ。
「でも、入学したからって安心して留年なんて、そんなことにはならないようにね」
「分かってる。勉強は頑張るよ」
食卓に並ぶ好物のエビフライを頬張りながら、私は眉を下げる。
悠ちゃんは隙をみて私の皿から残りのエビフライを奪うと、躊躇することなく口の中へと放り込んだ。
「もーらい」
「あ、私のエビフライ!」
「こら悠希!意地悪しないの!ごめんね、琥珀ちゃん」
悠ちゃんは怒られたことが気に入らないのか、無言で食事を始めた。
悠ちゃんは時々、弟のようだと思う。育ち盛りで遠慮がないし、私が大切にとっておいた大好物をいつも横から持っていってしまう。わがままで、意地悪で、嫌な奴かと思えば人が変わったように優しくなったりする。
希望ちゃんは、きっと優しい悠ちゃんを沢山知っているのだろう。私よりも、沢山。
「本当、いつまで経っても子供なんだから」
お母さんたちのため息を聞きながら、私と悠ちゃんは口の角をへの字に曲げた。
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