0994話
眼下に広がる緑の絨毯が見る間に過ぎ去って行くのを眺めていたレイは、次に空へと視線を向ける。
少し前までは春らしい太陽があったのだが、今は雲に覆われて太陽を覆い隠していた。
幸いだったのは、雲が雨雲の類ではなかったことか。
(これから錬金術師を探すってのに、雨が降ってきたら厄介だしな)
頼むからこのまま雨は降るなよと祈りながら空を見ていたレイだったが、セトが顔を動かしたのに気が付く。
「どうした?」
「グルルゥ……」
森の中へと視線を向けるセトだったが、森の木々によってレイにはセトが何を見ているのかが分からない。
それでもセトが見ている以上は何かあるのだろうと判断し、セトの首を軽く叩く。
「降りてくれ」
「グルゥ」
レイの言葉に即座に頷き、セトは翼を羽ばたかせながら地上へと向かって行く。
そうして地上へと近づくと、レイもセトが何が気になったのかを理解する。
地上から漂ってくるのは鉄錆の臭い。
それも、一匹や二匹ではない程の濃厚さだ。
中には腐臭も混ざっており、それだけで地上がどんな状況になっているのかが理解出来た。
理解は出来たのだが、何故このような状況になっているのかが理解出来ない。
「モンスター同士が争った? でも、それだけでこんなに強烈な腐臭や血の臭いがある訳がないし」
モンスターがモンスターを襲うのは、自らの餌とする為というのが殆どだ。
餌とするからには、当然モンスターの死体は腹の中に収まる筈であり、ここまで強烈な腐臭や血の臭いがしてくるとは思えなかった。
そもそも腐臭がする程に死体が放置されているのであれば、当然濃厚に漂ってくる血の臭いは残っている筈がない。
つまり、今の地上には腐臭を発する程に時間が経っている死体と、新鮮な血の臭いが漂ってくる死体が入り混じって存在していることになる。
そんなレイの予想は、セトが地上へと着地した瞬間にこれ以上ない形で的中することになる。
そこには無数のモンスターの死体が無造作に転がっていた。
無数としか表現出来ないのは、モンスターの死体に原型が残っているものが殆どないからだろう。
ほぼ全ての死体が肉片に、それこそ挽肉と表現するのが正しいだろう有様だったのだから。
その死体を食べていたと思しきモンスターもいたのだが、既にレイの見える範囲にはいない。
セトが……グリフォンという高ランクモンスターが降りてくるのに気が付き、逃げ出したのだろう。
ゴブリンのような知能の低いモンスターならセトがいても気が付かずに肉を食べていたかもしれないが、レイとセトが降りてくる前にここにいたモンスターは真っ当なモンスターだったのだろう。
「何だ、これ。モンスター同士が集団で争い続けでもしたのか? 地上に降りた途端にこの臭いって……」
「ギャンッ」
目の前に広がる光景に、鼻を押さえながら呟くレイ。
元々普通よりも五感の鋭いレイにとっては、目の前に広がる腐臭はかなり厳しい。
そんなレイより更に嗅覚が鋭いセトにとって、目の前に広がる光景はレイとは比べものにならないダメージを与えていた。
以前にダンジョンでアンデッドのいる階層に潜った時は前もって覚悟が出来ていたから何とか耐えられたのだが、今回は完全に不意打ちだった。
本来なら空を飛んでいる時に完全に腐臭を嗅ぎとることが出来たのだが……
「取りあえずセトがここにいるのは厳しいだろ。空に上がって待っててくれ。ここから少し離れれば、臭いは殆どしなかったし」
顔を地面に押しつけ、更に前足で顔を押さえていたセトにレイが告げると、セトはすぐに翼を羽ばたかせて空へと上がっていく。
そんなセトを見上げたレイは、次に改めて周囲を見回す。
殆どが肉片と化し、更に腐っている部分も多い為に転がっているモンスターの死体の正確な数は分からないが、それでも相当の数で、種類も一種類ではなく何種類、もしくは何十種類ということに気が付く。
角であったり、牙であったり、翼の骨であったり、尻尾の骨であったりと、明らかに多種多様なモンスターの部位が転がり、腐っていたりする為だ。
そんな中でレイの視線が止まったのは、死体が幾つも転がっている中の中央付近にある魔法陣。
魔法陣そのものが鈍い光を発しており、その中心には台座のように見える物が存在し、その台座の上には香炉が乗っている。
「香炉……? なるほど。これが臭いを消して……はいないか。抑えていたのか」
森の奥深くにあるこの場所はモンスターや獣の数もそれなりに多い。
そんな中で周囲に血の臭いや腐臭といったものを漂わせていれば、当然多くのモンスターが集まってくるだろう。
ここにこの光景を作り出した者は、それを嫌ってあの香炉を設置したのだとレイには思えた。
「それでもセトが来た時にモンスターがいたのは……」
自分がセトに乗ってここへと降りてきた時のことを考えると、その疑問の答えもすぐに出る。
「あの香炉の効果はあくまでもある程度の臭い消しであって、結界の類じゃないってことか」
視線が向けられるのは、魔法陣の中央に設置されている台座の上の香炉。
香炉という道具である以上、その効果が臭いに関係するのは特に不自然なことではない。
「にしても、問題は何だってこんなにモンスターを殺しまくるのかってことだが……」
周囲を見回しながら呟くレイだったが、ふと地面に転がっている死体の中に腐敗しつつあるサイクロプスの頭と、まだ殆ど腐ってはいないコボルトの頭部が視界に入る。
「サイクロプス、コボルト……おい、これってまさか……」
魔法陣と香炉の存在でここで錬金術師が何かをやっていたのは理解していたレイだったが、そこにサイクロプスとコボルトという見覚えのあるモンスターの頭部を見て、ここで何が起きたのかを何となく理解する。
「そうだよな。幾らマジックアイテムだからって、そう簡単にモンスターがそれを使いこなせる訳がない。つまり、ここでマジックアイテムを使いこなせるかどうかを試して、成功したのが俺が見た二匹で、失敗したのがこいつら……なのか?」
地面に転がっている死体の数は、具体的には分からない。
それでも腐りかけの大量の肉片や骨の欠片といったものから、数十程度ではないというのは何となく理解出来た。
「それにコボルトやサイクロプスだけじゃない。他にも何種類ものモンスターがいる。……そのモンスターにマジックアイテムを持たせることを成功したのか、それとも失敗したのか。詳しいことは、直接錬金術師に聞くしかないだろうな」
呟き、もうここに用はないと判断して立ち去ろうとし……だが、レイの足は止まる。
そうして数秒。何かを考え、やがてレイは足を踏み出す。……ここから離れるのではなく、魔法陣の方へと。
「ここに置いてある以上、この香炉はそんなに重要じゃないのかもしれないけど、少しでも向こうの手札は少ない方がいい。それに、この香炉がなくなれば自然とここで実験は出来なくなる。錬金術師に協力しているって奴が腕利きなら何とかなりそうだが」
それでも向こうの行動の邪魔を出来るのであればやっておいて損はないだろうと、魔法陣の中へと足を踏み入れ……
「痛っ!」
一瞬、静電気に感電したかのような痛みを感じるも、その痛みもすぐに消える。
「……何だ? 香炉を守るにしては妙に弱い感触だったけど」
首を傾げながらもレイは台座の上に置いてある香炉へと触れると、次の瞬間に香炉はミスティリングの中へと収納され、その姿を消す。
同時に、何がとは言わないが間違いなく今までと周囲の様子が違うことに気が付く。
「香炉の効果だろうな。ま、少しでも嫌がらせになればいいか。一応ダスカー様に報告はしておく必要があるだろうけど。……アンデッドになられても迷惑だな」
周囲の腐臭が次第に薄らいでいるのだが、レイは腐臭で鼻が麻痺しているのか全く気が付いた様子もなく炎の魔法を使って死体を焼却する。
幸いこの場所は上は木の枝で上手く隠されているが、それなりに広くなっているので延焼する心配もなかった。
全ての死体を焼却出来た訳ではないが、八割方の死体を焼却するとその場を後にする。
ここでセトを呼んでも良かったのだが、セトが嫌がるだろうと考えて少し離れた場所へと向かったのだ。
「セト!」
その呼び掛けに、セトは喉を鳴らしながらレイの下へと降りてくるのだった。
暗闇の中、何かの実験をしていた男の動きが突然止まる。
少し離れた場所でそれを見ていた人物は、腰の鞘へと手を伸ばしつつ口を開く。
「どうしたの?」
尋ねる声は中性的であり、傍から見れば細身の男にしか見えない。
だがその身体つきはレザーアーマーに覆われてはいるが、良く見れば身体は曲線的なラインを描いている。
遠くから見れば男と見間違うかもしれないが、近くで見れば女だと判断出来る者もいるだろうという程度のラインではあるのだが。
「今……誰かが香炉を魔法陣から動かしました」
「へぇ。じゃあ、誰かあそこに来たってことよね。誰だと思う? 通りすがりの冒険者?」
どこかからかうような女の言葉に、男は持っていた何かの粉に青い液体を混ぜながら否定の声を上げる。
「多分違います。あそこは森の中でも相当に奥なのだから、あんな場所をわざわざ通りかかるような人は……」
いません。そう言おうとした男の言葉に、女は小さく笑みを浮かべる。
「そうね、普通の街とかならそうかもしれないわね。けど、残念ながらここはギルム。ミレアーナ王国唯一の辺境であり、それだけに優秀な冒険者の数も多い。あの森程度なら楽に突破出来る人が幾らでもいるでしょうね。魔の森ならともかく」
「魔の森、ですか。正直私としては興味はあるんですよね。けど、アドリアさんが止めたんでしょう?」
不満そうに呟く男に、アドリアと呼ばれた女は溜息を吐く。
「当然でしょ。あそこは人外魔境もいいところよ。あたし程度の腕じゃ、中に入っても一日も保たないわ。ベスティア帝国の魔の山と同じような感じでしょ?」
「そうなのですか?」
予想外のことを言われたと言わんばかりに作業を止めて視線を向けてくる男に、アドリアは呆れたように溜息を吐く。
「あのねぇ。魔の森ってのは有名でしょう? ベスティア帝国にいたあたしだって知ってるんだから」
「それは、アドリアさんが冒険者だからでは?」
「錬金術師で腕が良いからって、世間知らずってのは駄目だと思うんだけど」
口では馬鹿にするようなことを言っているが、アドリアの表情にはどこか面白がるような色の方が強い。
当然だろう。もし目の前にいる人物が本当に世間を知っているのであれば、このような真似は絶対にしなかった筈なのだから。
世間知らずだからこそ、今自分が楽しめているのは事実だった。
「まぁ、モンスターを集めるのは苦労したけど、あんな光景を見ることが出来たのは良かったわね。モンスターがマジックアイテムの浸食に耐えられなければ、内側から爆発するんだもの。……それにしても、何でマジックアイテムに持ち主を浸食するような機能を付けたの? かなり貴重な素材を触媒にしないと駄目なんでしょ?」
「ええ。正直、ベスティアを飛び出す時に持ち出した素材の数も残りは多くありません。ですが、そうでもしなければ普通のモンスターがマジックアイテムを使うことは不可能なんですよ。それこそ、文字通りの意味で身体に教え込まないと」
「ふーん。……あたしは面白い光景が見られればそれでいいんだけどね。で、話は戻るけど、あの香炉をどうにかした奴の正体は結局分からないの?」
アドリアの何かを期待したような言葉に、男は首を横に振る。
「そこまでは分かりません。あの香炉は即興で作ったマジックアイテムですから。正直、あそこまで他のモンスターが集まってくるとは思ってもみませんでしたし」
「いや、モンスターの死体が集まっていれば、それを狙って他のモンスターが来るのは当然じゃない。それより香炉がどうにかされたってことは、あのモンスターの死体の山は人為的なものだというのが知られたんじゃないかな?」
「そうでしょう。もっとも、だからどうしたという話ではないのですが。これからあそこで実験がやりにくくなるというのは間違いないですが、実験をやるだけならもっと別の場所もありますしね」
「付き合ってるあたしが言うのも何だけど、随分とはっちゃけたね」
「そうですか? ですが、前のままの私では深紅を……カバジード殿下の仇を取ることは出来ません。そうである以上、私はどれだけ非道な行為ですら行ってみせますよ。私の恩人を殺した報いは……必ず受けさせます」
風雷鉱石の粉末へと魔力を込めながら、その男……元ベスティア帝国の錬金術師ズボズはレイへの怨念を込めて呟くのだった。