0909話
マルカの口から出た言葉に、レイは首を傾げる。
聞き間違いかと思ってマルカの後ろに立っているコアンへと視線を向けるが、返ってきたのは笑みを浮かべて頷くという行為。
つまりマルカの口から出たのは決して聞き間違いでも、レイの妄想でもなく、正真正銘本物の言葉だったということだ。
「えっと、悪い。話の流れがよく分からないんだが。そもそもの問題は、俺がキープを……より正確にはその実家であるエリエル伯爵家に恥を掻かせたのが理由なんだよな?」
あれだけ大勢の前で漏らすというような大恥を掻いたのだ。
それこそ、このギルムではエリエル伯爵家とお漏らしが同じ意味を持ったのは間違いない。
そして、ギルムという場所には多くの者が訪れるのだから、そこから情報が広がっていくのは止めようがない。
せめてもの救いは、今が冬だということだろうか。
雪がなくなり、商品を含めた人の行き来が活発になる頃には、もしかしたら……本当にもしかしたら、既に噂は収まっている可能性もある。
もっとも、伯爵家という爵位の貴族の次期当主が人前で漏らしたという情報が、数ヶ月程度で収まるかどうかは難しいところだろうが。
「そうじゃな。それは間違いない」
「……それが、何で俺が教官をやることになる? と言うか、教官って何の教官だよ?」
「うむ。クエント公爵家の本拠地でもあるグラシアールという都市には、クエント公爵騎士団の士官学校があってな。そこの教官じゃ」
「いや、だから俺の話を聞いているか? 何で俺がわざわざその士官学校に出向いて教官をやる必要があるんだ? そもそも、俺に何を教えろって?」
「お主、魔法使いの弟子だったのじゃろう? ならば、教えてもいい知識は色々とあると思うが」
マルカの口から出た言葉に、レイは自分自身の設定を思い出す。
(そう言えば……うん、そんな設定だったな。しまった、まさかこんな話が来るとは思わなかった。いや、向こうの知識を何か適当に教える? ……じゃなくて)
いつの間にか自分が教官をやるのを理解しているかのように考えていた自分に気が付いたレイは、改めて溜息を吐いて口を開く。
「だから、そうじゃない。何だって俺がわざわざギルムを出て、その……グラシアールだったか? そこに行く必要があるんだって聞きたいんだが」
「……ぬぅ。どうしても言わぬと駄目か?」
上目遣いでレイへと視線を向けるマルカ。
もしマルカという人物の性格を知らなければ、思わず頷いてしまいそうになる愛らしさがそこにはあった。
だが、レイはマルカという人物の性格を知っている。
溜息を吐き、改めて口を開く。
「で、何でだ?」
「む。……おかしいな。こうしてお願いすれば一発でお願いを聞いてくれると言われたんじゃが」
誰だ、そんないらない知恵をつけさせたのは。そう突っ込みたくなるのを我慢し、レイは視線で話の先を促す。
するとマルカの方も観念したのだろう。少し面白くなさそうな表情を浮かべつつ、口を開く。
「簡単に言えば、今回の件を利用して国王派の綱紀粛正をすることになったのじゃ」
椅子に座り、足が床に届かずにプラプラと揺らしているその様子は、マルカ自身の愛らしさもあって、まるで人形のようにも見える。
だがその口から出てくる綱紀粛正という言葉を聞いても違和感を覚えないのは、レイがマルカという人物の性格を多少なりとも知っているからだろう。
「綱紀粛正?」
マルカの後ろに立つコアンへと視線を向けたレイは、そこで小さな笑みを見る。
その笑みの理由が分からずとも、取りあえずはとマルカに言葉の続きを促す。
「うむ。お主も知っておるじゃろうが、国王派というのはミレアーナ王国の中でも最大派閥の勢力じゃ。そして、最大派閥……つまり人数が多い為に、その中には色々な者がおる訳じゃ。特に酷い一人は、今回お主と揉めたキープじゃな」
先程と違いキープと呼び捨てにするその様子は、やはりシスネ男爵家を襲撃しようとして捕まったというのが大きいのだろう。
あれだけの騒ぎを巻き起こし、国王派の威信をこれ以上ない程に失墜させたのだ。
せめて決闘に負けた代価を大人しく支払っていれば、それでもまだ国王派に残ることは出来ただろう。
だがその後に起きたシスネ男爵家襲撃未遂は、どうあっても誤魔化しようがなかった。
「もっとも、今も言ったが特に酷いのがキープである以上、あそこまで酷くなくても貴族とはとても呼べないような行動を取っている者は決して少なくない。それを知った国王陛下の命により、国王派の綱紀粛正が行われることになった訳じゃ」
「それはご苦労さんって言いたいけど、それがどうなれば俺が教官をやるなんて話になるんだ?」
「いいから、最後まで聞け。今回綱紀粛正が起きる原因になったのは、紛れもなくお主じゃ。正確にはシスネ男爵家とお主と表現するのが正しい。そうなれば、当然今回の綱紀粛正の標的になっている者達の憎悪の視線はお主達に向けられる。じゃが、そんな逆恨みで他の者に危害を加えるというのは、妾としても……正確には国王派としては矜持が許さん。もっとも、外聞の問題というのもあるが」
小さく肩を竦め、レイが理解しているかどうかと視線を向けるマルカ。
その視線にレイが頷くと、マルカは説明を続ける。
「とにかく、そういう訳でレイは国王派の中で追い詰められつつある貴族に逆恨みをされているのじゃ」
「ムエット……シスネ男爵は? 今回の件が色々と原因だって言うのなら、それこそ向こうが危ないんじゃないのか?」
そもそも今回の原因はキープがシスネ男爵家に仕えるメイドのアシエに目を付けたのが発端だ。
そうである以上、最も危険なのはシスネ男爵家の……それも現当主であるムエットなのは間違いない。
レイの脳裏に、ムエット、バスレロ、アシエといった三人の顔が過ぎる。
だが、そんなレイの言葉にマルカは問題ないと首を横に振る。
「シスネ男爵家は、今回の件もあって正式に中立派に所属することになったそうじゃ。そうなってしまえば、国王派の者達にも手出しは出来ぬ。もしダスカー殿が治めるこのギルムで中立派の者に手を出すような真似をすれば、言い訳のしようもなくなるからの。じゃが、お主は別じゃ」
改めてマルカの視線がレイの方へと向けられる。
その瞳に映っているのは、レイを心配する憂慮の色。
「お主がダスカー殿の部下で、中立派の人間として動いているのであれば問題はなかった。じゃが……お主はダスカー殿と親しく、その依頼も多く受けているが、あくまでも一人の冒険者であって中立派ではないじゃろう?」
マルカの口から出た言葉は、端的にレイの立場を言い表していた。
普通の冒険者とは一線を画した実力を持ち、グリフォンというランクAモンスターを従魔としながら、それでいて人の好き嫌いが多く、特に大多数の貴族に対しては良い印象を持っていない。
普通であれば、そのような人物は危険人物として警戒され、下手をすれば冤罪なり何なりを被せて捕らえるといった行動に出てもおかしくはない。
だがそんなレイを、その実力が惜しいという理由もあれどダスカーは容認しているのだ。それどころか、色々と目を掛けて貰ってすらいる。
そんなダスカーに対して好意や恩義といった感情を抱くのは、おかしなことではない。
しかし、それでもレイは一つの派閥に所属して自由に動けなくなったり、命令という形で意に沿わぬ行動をさせられるのはごめんだと、中立派への所属というのは考えたことはない。
「やっぱりそこが原因か?」
「うむ。レイを本気で怒らせればどうなるのか。それを分かっていない者、分かっていても貴族である自分に向けられるとは思っていない者、更にはそもそも聞こえてくる話の全てはレイが自分を大きく見せる為に流している虚構であるとすら思っている者もおる」
「実際に俺の戦いを見た奴がいてもか? そもそも、去年の春の戦争は国王派が主導したものだろ? テオレームの策で背後を突かれて大勢死んだが、それでも生き残りはいた筈だ」
「閃光、か。それは間違いないのじゃが、それでも自分の意見しか信じられない、信じたくないという者はおっての。そのような者達がお主に手を出しかねないのじゃ。じゃが、そのお主が妾の本拠地でもあるグラシアールにいれば、迂闊に向こうも手を出すことが出来んからの」
「それはそうだろうけど、向こうが仕掛けてくるのなら俺は迎え撃ってもいいんだが?」
「こちらの事情でお主に迷惑を掛けてしまえば、それこそ国王派としての立場がないわ」
「いや、そもそもお前の本拠地まで来いってのも、随分面倒な話なんだけどな」
レイの口から出た言葉に、マルカが息を呑む。
レイの自信は口だけではない。実際にそれだけの戦闘力を持っているという自負もあるし、それだけの実績を上げてきているのも事実だ。だからこそ……
「レイがギルムで暴れることになるというのを、ダスカー殿は避けたいんじゃろう。もっとも、これは強制ではない。おぬしがどうしても嫌じゃというのであれば、こちらも無理は言わん。ただ……そうじゃな、もし教官をやってくれるというのであれば、火炎鉱石を支払ってもいい。当然ギルドを通して指名依頼という形にしてもよいしな」
マルカの口から出て来た言葉に、レイの動きは止まる。
それは、レイが以前フロンやブラッソ達と見つけた魔法鉱石の名前だ。
いや、正確にはレイが使った炎の魔法で火炎鉱石に変化したのだが。
鍛冶師や錬金術師にとっては非常に稀少な素材ではあるが、それはレイにとっても同様だった。
レイの奥の手でもある、火災旋風に火炎鉱石を混ぜ込めば、その威力は鉄片のようなものを混ぜるよりも爆発的に上がるのだから。
(それに、今は冬で特にやるべきこともないのは事実だ)
火炎鉱石という言葉で、既にレイは半ばマルカの要請に従うという方に心の天秤は傾きつつある。
また指名依頼という形になれば、上のランクへと上がる為の実績にもなるという思いもあった。
「火炎鉱石、か。具体的にどのくらいを貰える?」
「どうやら乗り気になったようじゃな。……ふむ、妾と同じくらいの大きさの樽に一つでどうじゃ?」
そう告げるマルカの身長は、一m強といったところ。
その大きさの樽が一つ分ともなれば、それはかなりの価値を持つ。
それこそ、白金貨……いや、光金貨程の価値があると言ってもいい。
だが、レイは少し考えて首を横に振る。
「二つ。それでどうだ?」
「ふむ……随分と欲張りじゃな」
「元々は国王派の問題に俺が巻き込まれたんだから、少しくらい融通してくれてもいいんじゃないか?」
「嫌な所を突いてくるの。……コアン、どう思う?」
自分の背後に立っているコアンへと、マルカは視線を向けて尋ねる。
「そうですね、レイさんのような実力者を雇えばそのくらいの値段が掛かってもおかしくないのは間違いありません。ランクSの不動のノイズに勝ったのですから」
コアンの口から出てきた言葉に、レイは驚きの表情を押し殺そうとして失敗する。
自分がノイズに負けたというのであれば、闘技大会のことだけを言ってるのは明らかだ。
だが勝ったとなると、それは内乱でレイがノイズと戦ったということを知らなければ出てくる言葉ではない。
「……随分と耳が早いな」
レイの言葉に、マルカは満面の笑みを浮かべて口を開く。
「ミレアーナ王国の最大派閥というのは、伊達ではないのじゃよ」
「その割りには、キープは俺のことを全く知らなかったようだが?」
「情報というのは、そこにあるだけでは意味がないからのう。きちんと使ってやらねば。特にエリエル伯爵家のような家は嫌われておるから、どうしても耳が遠くなるしの」
それだけでレイは何となく事情を察する。
(恐らく今回の綱紀粛正ってのは、いつかやる予定のものだったんだろうな。そのトリガーを引いたのが、偶然俺だっただけで)
だからこそ、既にやるべき行動が決まっており、あの決闘が行われてからまだ数週間、冬で雪が降っている中をわざわざギルムまでやって来たのだろうと。
それを何となく予想したレイに出来るのは……
「言っておくけど、別に俺はノイズに勝った訳じゃないぞ。勝ちを譲られただけで、実質的にはノイズに見逃されただけだ」
あの時の戦いの真実を告げることだけだった。
事情を知っている者達からは、ノイズが逃げたのだからレイの勝ちだと言われたのだが、それでもレイとしては見逃されたという意識の方が強い。
次に戦う時があれば、今度こそ本当に勝って見せると。
そんな意思を込めて呟かれたレイの言葉に、マルカとコアンの二人は小さく驚きの表情を浮かべる。
「ふむ、まぁ、その点はお主の考え方次第じゃろ。それで、どうじゃ? 妾からの依頼、引き受けてくれるのか?」
マルカからの言葉に、ノイズの話題が出たということでミレアーナ王国のランクS冒険者のことについても思い出す。
「そうだな。火炎鉱石が二樽と、ミレアーナ王国にいるランクS冒険者と会わせて欲しい。それで教官を引き受けよう。ただし、俺に出来るのは戦いだけだ。勉強を教えるんじゃなくて、模擬戦のような実技で頼む」
「……ふむ、意外と強欲よな。まぁ、よかろう。ランクS冒険者のサルダート殿に関しては、確実にとは言えん。可能な限り、という条件でどうじゃ?」
「分かった。教官をやる期限は? 一応春にはちょっと予定があるんだが」
「大丈夫じゃろう。その辺は冬の間中に終わる筈じゃ」
こうして、レイは教官という全く自分には合わない仕事を任せられることになる。
「ところで、レイ。お主の魔力……」
「ああ、これだな」
ついでにとマルカが口にした疑問に指輪を示し、その効果を説明することになるのだった。