0838話
「う……あ……?」
窓から降り注ぐ光に刺激されて目を覚ましたレイは、自分が今どこにいるのかが一瞬分からず、周囲を見回す。
自分の眠っていたのが見るからに豪華なベッドであり、地球にいた時も含めてこれまでに使ったことのないような上質なベッドであるというのに気が付くと、自分がどこにいるのかを理解する。
「そうか、確か昨日は結局城に泊まって行くことになったんだったな」
呟き、視線を左手の人差し指へと向けると、まだ朝だというのにまるで夜を思わせる黒い指輪が目に入る。
「新月の指輪、か。俺自身は特に何も変化はないんだよな」
普通のマジックアイテムにも、魔力を偽装するという能力を持つ物はある。
だが、レイの魔力でそのようなマジックアイテムを使っても、マジックアイテム側でレイの魔力を受け止めきれずに効果は発揮されない……どころか、破壊されることすらあった。
魔力を感じ取る能力のないレイにしてみれば実感が湧かなかったが、実際に新月の指輪を渡された後に別の同じような効果を持つマジックアイテムを使ってみたところ、レイの魔力を受け止めきれずに崩れ去った。
「ともあれ、この指輪を身につけることで魔力を感じ取る能力を持つ相手に俺の魔力を誤魔化せるっていうんなら、寧ろラッキーだったよな。闘技大会の賞品を断ったのはそんなに悪い判断じゃなかったってことか。あの金属のカードを貰った以上、他にも何かを貰えば面倒なことになったかもしれないし」
自分の体重全てを受け止め、それでいながら柔らかいだけではなく適度な反発を持つベッドの感触を楽しみながら、呟く。
結局昨夜はトラジストから闘技大会準優勝の賞品をどうするか尋ねられたのだが、金属のカードの件もあったので結局断ったのだ。
新月の指輪を見ながら、ベッドの感触を楽しむ。
フリツィオーネの護衛をする為にこの城にある離れで寝泊まりした時もあったが、その離れにあったベッドはあくまでも普通のベッドだった。
……もっとも普通のベッドとは言っても、それはこの城の基準に合わせた普通なのだが。
レイが泊まっていた離れはフリツィオーネが使用するもので、そこで本人が一夜を明かすということはまずないと判断されていた為、離れに用意されていたベッドもそこまで上質な物ではなかった。
それに比べると、レイが起きたこの部屋は城の賓客用の部屋……それも最上級の賓客に対する部屋だ。
当然その部屋には最上級の家具しか存在しておらず、レイとしてもこれ程のベッドで眠るのは初めての経験だった。
「報酬はこのベッドも入れてくれないかな?」
ふとそんなことを考えていると、扉がノックされる音が聞こえてくる。
「入ってくれ」
そんなレイの言葉と共に部屋の中へと入ってきたのは、見目麗しいと表現するのが相応しいメイドだった。
年齢としてはレイよりも若干上といったところか。
このメイドもまた、トラジストがレイへと付けた人物だ。
望めば夜の相手もすると言われてはいたのだが、レイとしてはヴィヘラの前でそんなことに頷く訳にもいかず、普通のメイドとして働いて貰っていた。
「失礼します、レイ様。朝食の方ですが、ヴィヘラ様がご一緒にどうかと……」
ヴィヘラ殿下ではなくヴィヘラ様という呼び方に、妙に納得しながらもレイは頷きを返す。
「分かった。朝食は今すぐ?」
「いえ、もう三十分程経ってからとのことです」
「……ヴィヘラのことだから、てっきり今すぐに食事をしたいと言ってくるかと思ったんだけどな」
頭を掻きながら告げるレイの言葉に、メイドは小さく笑みを浮かべる。
「ヴィヘラ様も、男性との食事ですから用意があるのでは?」
「用意って言ってもな。夕食とかならともかく朝食だろ? そんなに何か用意する必要があるとは思わないんだけど」
「駄目ですね、レイ様。女心を分かっていません。女は殿方には……それも意中の方には、自分をより良く、出来るだけ美しく見て欲しいものなのですよ」
既に、ヴィヘラがレイに対してどのような想いを抱いているのかというのは、ヴィヘラ自身の態度もあって知れ渡っている。
ヴィヘラの人気もあって、この話題は一時期城の中を駆け巡ったと言っても言い過ぎではない。
その噂を流した者の中には、フリツィオーネもいたのだが。
「とにかく話は分かった。なら、俺も身支度を整えたいから、その準備を頼む。それと、セトに関しては何か聞いてるか?」
昨夜、レイが城に泊まるということになって問題になったのは、当然セトのことだ。
城にいる者の中で、グリフォンという存在と触れ合ったことのある者など殆ど存在しない。
その数少ない例外がメルクリオ軍に参加していた者達で、その者達にレイが頼んで世話をして貰うことになった。
もっとも、セトはその辺の人間よりも余程頭がいい。
レイが城に泊まると告げれば、特に暴れるでもなく用意された厩舎へと向かい、地面へと横になる。
幸い……もしくは不幸にも、城の馬は内乱の影響で数を減らしており、セトを他の馬と一緒に厩舎に押し込まなくてもよかった。
そんなセトがどうしているのかと尋ねるレイに、メイドは何も問題はないと小さな笑みを浮かべる。
「聞いた話によると、人間にすれば二十人分近い食事を朝食として食べたとか」
「……ここぞとばかりに好きなだけ食べてるな」
セトは普段からかなり食べるが、それでもいつもはある程度加減をして……それこそ腹八分といった具合で済ませている。
だが、今はそんな遠慮は必要ないと判断している為か、好き放題に食事を食べていた。
それも普通の動物が食べる様な餌といった代物ではなく、きちんと城の料理人が調理した料理をだ。
料理人も最初は人ではなく従魔に食べさせる料理を作れと言われて不満そうだったのだが、昨夜の宴でセトが機嫌良く料理を食べている姿を目にして以来は、寧ろ進んで料理を作るようになっていた。
「本来グリフォンは恐ろしいモンスターという認識があった者が多かったのですが、ああも人懐っこい姿を見せられると……料理も凄く美味しそうに食べていましたし」
その言葉から、自分の目の前にいるメイドもセトの担当の一人なのだろうと理解したレイは、身支度を調えつつセトについての話で盛り上がるのだった。
「待たせたか?」
「いえ、今来たところよ」
レイがメイドに案内された部屋へと入ると、そこでは椅子に座って紅茶を飲んでいるヴィヘラの姿があった。
元皇族というだけあって、紅茶を飲む仕草は気品に満ちていると言ってもいい。ただ……
(城の中で、しかも朝にこの服装は……場違いと言うか、刺激が強いな)
踊り子や娼婦が着ている、男を誘うような薄衣を身に纏っているヴィヘラを眺めながら、レイは朝食の用意されているテーブルへと着く。
「おはよう、レイ」
「ああ、おはよう。けど朝食に誘うなんてどうしたんだ?」
「……あのね、レイはもう何日かしたら帝都を出て行くでしょ? で、私はエグジルに向かうの。だったら好きな人と少しでも一緒にいたいと思うのは、そんなに変なことかしら?」
はっきりとレイを好きな人と告げるヴィヘラに、部屋の隅で控えていたメイド達の顔が輝く。
フリツィオーネもそうだが、ヴィヘラもまた民衆からは人気がある。
そんな相手の恋愛事情に興味が集まるのは当然だった。
それは、レイをここまで案内してきたメイドも同様であり、同僚のメイドと視線で無言の会話をする。
「……まぁ、ヴィヘラがそれを望むのなら、それでいいけど」
呟いたレイの視線は、テーブルの上へと向けられる。
ベスティア帝国で主に食べられているのは黒パンだが、テーブルの上にある籠に入っているのは焼きたての白パンだ。
レイが来る直前に焼かれたのだろう。見るからに美味しそうなそのパンへとレイは手を伸ばす。
ヴィヘラもそれを見て、メイド達へと視線を向ける。
その視線を受けたメイド達は、パン以外の料理を持ってくる為に部屋を出て行った。
「それで、今日はもう城を出るんでしょ?」
部屋の中に自分とレイだけになったのを見計らったようにヴィヘラが尋ねてくる。
その問い掛けに、レイは躊躇いもなく頷きを返す。
「ああ。俺と一緒にギルムに来るって奴は既に昨日の宴が終わった後から準備を進めている。幸い全員が帝都やその周辺の出身だから、準備にそんなに時間は掛からない筈だ」
「そう。国境までは私も一緒に行くつもりだけど、構わない?」
エグジルに行くにしても、ギルムに行くにしても、結局国境までの道のりは同じだ。
だとすれば、そこまではレイと共にいたいというヴィヘラの乙女心だった。
それには気が付かず、単純に一人で移動するよりは大勢で……それも気心の知れた者同士で移動したいのだろうと判断したレイは、特に躊躇する様子も見せずに頷く。
「ああ。それで構わない。ただ、連絡を取るのがどうするかだな。このまま城に泊まるって訳にはいかないだろうし……かといって、帝都で知っている宿となると悠久の空亭しかないし」
悠久の空亭はベスティア帝国でも最高級の宿であり、高額なだけではなく、予約もなしの飛び込みで泊まれるような宿ではない。
「じゃあ、どうするの? 城に泊まる?」
「いや、帝都のどこかの宿を適当に探す感じだな。それか、ギルムに来る奴らの引っ越しを手伝う代わりに泊めて貰うとか」
そう告げた時、朝食を手に持ったメイド達が部屋へと入ってくる。
テーブルの上にサラダ、スープ、各種料理、果物といったものを並べていく。
料理の中には肉料理もあるのだが、朝食用にきちんと考えられているのだろう。蒸して余分な脂を落とし、何らかの果物で作られたと思しきソースが掛かっている。
他にも魚や野菜、卵を使った料理が幾つもあり、どれも朝食用にさっぱりと食べられる料理だった。……かなりの量だが。
勿論、これはヴィヘラがレイの食事量を考え、前もって料理長に多目に作るように言っておいた為だ。
「さ、まずは食べましょ」
ヴィヘラの言葉と共に、朝食が開始される。
ベスティア帝国の城で勤めている料理長が作っただけあり、どの料理も次々にレイの口の中へと入っていく。
その光景を見慣れているヴィヘラは特に気にせずにレイと会話を交わしながら食事を進めていたが、メイド達はそうもいかない。
レイの身体は決して大きいとは言えず、顔も女顔と表現してもいい。
口調や性格はともかく、外見は見て楽しむのに相応しい容姿をしている。
そんな人物が、二人前、三人前、四人前といった量の料理を次々の口の中に収めていくのを初めて見たのだから、驚くのも当然だろう。
だがそんな中、ヴィヘラは次々に料理を食べていくレイを見ながら、笑みを浮かべる。
「相変わらずよく食べるわね」
「ここの料理は美味いしな」
「ふふっ、ありがと。後で料理長に言っておくわ」
和やかに会話を交わしながら、それでいて料理が見る間に消えていくという光景は、色々な意味で異様だった。
「そう言えば、私はエグジルに行くけどレイはギルムに戻るのよね?」
「ああ、そのつもりだ。……というか、その為に遊撃隊の連中が準備をしてるんだろ?」
「いえ、それは分かってるんだけど……じゃあ、この時期にギルムに行くってことは、春まではギルムにいるのよね?」
「だろうな。まぁ、余程の何かがあれば話は別だろうけど」
「余程の?」
「そうだな、例えばベスティア帝国がまたミレアーナ王国に攻めてくるとか」
「ないわよ、多分。……父上の性格を考えれば、絶対とは言えないと思うけど。少なくても、メルクリオがどうこうするということはないと思うわ」
サラダを口の中に入れながら呟くヴィヘラに、レイは首を横に振る。
「分かってるだろ? 確かにメルクリオは今回の内乱で勝利して、次期皇位継承者という地位を手にした。けど、それはあくまでも次期皇位継承者だ。つまり、今の皇帝が何かをやろうとしても、止めようとはするだろうが、確実に止めることは出来ない。……そして、今の皇帝はミレアーナ王国に対しては強硬派だ」
それは、覆しようのない事実。
確かにレイは狙い通りに親ミレアーナ王国派とも呼ぶべき勢力をベスティア帝国内に作ることには成功した。
それも、次期皇位継承者という立場にある者を中心として。
だが、皇帝であるトラジストがミレアーナ王国に対して戦争を仕掛けるということになれば、メルクリオの立場としては、それに意見することは出来ても強制的に止めることは出来ない。
もし止めるとすれば、それは先の内乱の繰り返しとなるだろう。
……ただし、その相手はシュルスではなくトラジスト。皇帝そのものになるのだが。
トラジストを相手にして勝てるかと言われれば、まず不可能だろう。
そんな真似をすれば、今回は手を出さなかった帝国軍がそのまま敵に回り、他の貴族達にしても同様に敵に回るのは間違いないのだから。
つまり……今回起きたような、ある種出来レースとも呼べるような内乱ではなく、負けた方が皆殺しになってもおかしくないだろう、それ程の規模の内乱となる。
「……そうならないことを祈ってるよ」
朝食の場にレイの呟きが響き……ヴィヘラもそれに頷きを返す。
(もしそうなったら……俺がやるべきはベスティア帝国の後方を脅かすことになるんだろうな)
個人で動ける殲滅戦に特化した戦力という自分の能力を考えれば、レイの脳裏にはそんな考えが浮かぶのだった。