0835話
その部屋は、広さにして二十畳程と、レイの感覚で考えればかなり広い部屋だった。
だがベスティア帝国の皇帝やその子供達が集まっている部屋として考えれば、寧ろ狭いと表現した方がいいだろう。
その部屋の中にいたのは、ベスティア帝国皇帝トラジスト、第2皇子シュルス、第1皇女フリツィオーネ、第3皇子メルクリオ。
それと、それぞれの護衛や副官という意味もあるのか、シュルスの側にはアマーレが、フリツィオーネの側にはアンジェラが、メルクリオの側にはテオレームの姿があった。
皇帝の背後には見るからに豪華な鎧を身に纏った者達の姿もある。
(そう考えると、ヴィヘラは副官とか護衛とか……いや、そもそもヴィヘラに護衛とかは必要ないのか)
異名持ちのランクA冒険者を倒すだけの実力を持っているのだから、そんなヴィヘラにとってその辺にいるような護衛は邪魔でしかないだろう。
何かあったとして、足手纏いにしかならない護衛というのは、護衛とは言えない。
(そういう意味だと、もしかして俺が護衛の役割を期待されているのか?)
ふとそんなことを思ったレイだったが、そもそも護衛云々にしたところでこの場にいる殆どの人物がその手に武器は持っていない。
唯一の例外が、トラジストの背後に控えている十人程の騎士達か。
レイから見てもそれなり以上に腕の立つ強さを持っていそうなその騎士達は、皇帝の安全を守る為の近衛騎士なのだろう。
それも、レイから見て明らかに上物と分かる装備を身につけている以上、近衛騎士の中でも相応の地位を持っているのは間違いない。
(皇帝の護衛なんだから、その辺は当然か。……闘技大会の時にはいなかったように思うけど)
闘技大会の時のことを思い出すレイだが、すぐに納得した。
あの時は皇帝のすぐ側にノイズがいたのだ。
皇帝の友人の地位を占めるノイズが側にいるのに、皇帝に妙なちょっかいを出すような物好きがいる筈もなかった。
(そういう意味だと、ノイズに勝ったって扱いになっている俺は警戒の対象になるのか。……なるほど、妙に強い視線を感じると思ったら、それが理由だな。俺の場合は武器を取り上げられても炎帝の紅鎧って奥の手がある訳だし)
勿論ミレアーナ王国出身の冒険者であるというのも、警戒される理由にはなるのだろう。
そんなことを考えながら、レイはヴィヘラと共に部屋の中央にあるソファに座っている皇室一家の方へと視線を向ける。
そうしながら、レイの中にふとした疑問が湧き上がった。
「ヴィヘラ、お前やフリツィオーネの母さんとかはいないのか?」
小声で尋ねると、ヴィヘラは首を縦に振る。
「私とメルクリオの母上はもう亡くなっているけど、シュルス兄上の母上はまだ生きてるわ。ただ、ベスティア帝国では基本的に皇妃に政治的な権力はないわ。少なくても表向きはそうなってるの。これは一応家族の顔見せって体を装っているけど、実際には政治の話になるから」
「……また、妙だな。普通なら皇妃や側室を出した家ってのはかなりの権力を持つんじゃないのか?」
「あの父上が、そんな真似をさせると思う?」
その一言で、レイは全てを納得してしまう。
トラジストという人物は、強烈な存在感を持っている。
それは、闘技大会の時に聞いた演説ですぐに分かった。
そのような人物が皇妃の好き勝手を許すかと言われれば、それは有り得ないだろうと。
「どうした、こちらに来るがいい。お前達を呼んだのは、余が直接話を聞きたかったからだ」
一人用のソファに座っているトラジストが、レイとヴィヘラにそう声を掛ける。
皇帝に促されればレイやヴィヘラであっても無視する訳にはいかず、部屋の中央へと向かう。
その際に近衛騎士達がレイの一挙手一投足を見逃さないように視線を向けてくるのを感じたレイは、内心で感心した。
もっとも、その感心は自分に対する態度ではなく、ヴィヘラの服装を見ても特に驚いた様子のないことに対する感心だった辺り、レイもズレているのだが。
レイとヴィヘラの二人は、部屋の中央まで移動すると深々と一礼をする。
「お久しぶりです、父上。まさか国を出奔した私を呼ぶとは思っていませんでしたが……」
「初めまして、トラジスト陛下。ミレアーナ王国所属のランクB冒険者、レイといいます」
メルクリオ、シュルス、カバジードといった面々に対してはヴィヘラの……友人の兄弟や姉妹という立場で接していたが、さすがにベスティア帝国の皇帝であるトラジストを相手にしてはそんな真似は出来なかったらしい。
勿論ここでそんな態度を取ろうものなら、下手をすれば国際問題になりかねないという思いがあったのも事実だが。
「うむ。ヴィヘラも元気なようで何よりだ。だが、その服装は男にとっては色々と目の毒ではないか?」
トラジストの口から出た言葉に、フリツィオーネの目が細まる。
このような場所に姿を現すのに、その格好は何なのか。そう視線でヴィヘラを叱責していた。
「ふふふ。確かに私が第2皇女のままなら、ドレスでも着てきたかもしれないけど……今の私は皇族ではなくただの冒険者なのよ。だから、それを示す為にもこの服装で来させて貰ったわ」
ヴィヘラの口から出た言葉に、シュルスが何かを言おうと口を開き掛け……だがその前に、トラジストの笑い声が部屋の中へと響き渡る。
「はっはっはっは! そうか、そうか。お前が自分自身を冒険者だと認識しているのなら、それもいい。正直、余としてはお前にも期待していたのだがな。ヴィヘラは余の期待をも超える器だったか。いや、愉快」
笑い声を上げながら、トラジストはソファの前に置かれているテーブルの上からワインの入ったグラスを手に取る。
それを一息で飲み干し、自らの手で注ぐ。
次に視線を向けたのは、レイの方。
「お主とこうして間近で会うのは初めてだな」
「はい。表彰式の件は申し訳ありませんでした」
「気にするな。どうせノイズも出なかったのだからな。寧ろお前が出なかったおかげで、優勝、準優勝の二人共が参加しない表彰式として、愉快な出来事だった。それに……お前はあの時、もう忙しかったのだろう?」
「……何のことでしょう」
自分の行動は完全に見破られていると理解しつつも、素直にそれを認める訳にもいかず、惚ける。
そんなレイを見て、トラジストの顔には獰猛な笑みが浮かぶ。
表情の変化はそれだけであったが、トラジストから発される雰囲気は今確実に変わった。
レイへと向かって精神的な重圧が放たれるが、ともすれば物理的なプレッシャーとも感じられる程に。
(なるほど。これが……皇帝、トラジスト)
トラジストから受けるのは、闘技大会の時に感じたのと同じ感覚。……いや、間近で接しており、トラジストの視線がレイ一人へと向けられている為だろう。その存在感は闘技大会に見た時と比べても尚一層増していた。
目の前の人物を見て、あの時に連想した獅子という印象をより鮮明に感じたのは、決してレイの気のせいではないだろう。
「父上。あまりレイを挑発しないでくれるかしら? こう見えて強いのは承知しているでしょ? どうせ父上のことだから、内乱の時にもこっちの情報を集めていたんでしょうし」
部屋の中に広がる緊張した空気を破るように、ヴィヘラの声が響き渡る。
そんなヴィヘラの声に、シュルスは信じられないと驚きの表情を浮かべ、フリツィオーネはしょうがないわねといった溜息を吐き、メルクリオはさすが姉上と笑みを浮かべる。
三者三様ではあったが、そのおかげで部屋の空気は和やかなものに変わる。
「なるほど。確かに一角の人物ではあるらしい。……深紅のレイだったな。どうだ? ベスティア帝国に仕える気はないか? もし仕えるのなら、相応の待遇は約束するが」
唐突に尋ねられたその内容は、レイにしても驚かざるを得ない。
自分がこの国に与えてきた被害を理解しているだけに、まさか皇帝自身がこうやって誘いを掛けてくるとは思わなかった為だ。
実際、その話を聞いた他の者達も多かれ少なかれ驚きの表情を浮かべているのを見れば、その突拍子のなさが理解出来るだろう。
だが、出来れば敵対したくない相手を取り込むというのは、珍しい話ではない。
厄介な相手だからこそ、敵ではなく味方として取り込めばその力は頼もしいものとなるのだから。
特にレイの場合は、ノイズに勝ったという話が広まっている。
レイ本人はそれを認めた訳ではないが、実際にノイズ自身がレイの前から去って行ったのは事実。
そして討伐軍の兵士達はその光景を見ていた。
実際の実力だけではなく、その風評もあってベスティア帝国の皇帝としてはレイを取り込みたいのだろう。
それが分かっていながら……いや、分かっているからこそ、レイは首を横に振る。
「申し訳ありません。俺……いえ、私はベスティア帝国に仕官するつもりはありません。ベスティア帝国だけではなく、どこの国、どこの貴族に対しても仕官をするつもりはありません。……少なくても今は」
「……ほう、余の誘いを断って尚平然としているか。中々に度胸がある。それでこそ、闘技大会で決勝まで勝ち進んだ者だ。本気で欲しくなってきたぞ。ベスティア帝国で必要なのは、あらゆる意味の強さ。ミレアーナ王国内ではお主のような者は過ごしにくいのではないか?」
「確かに王都ではそうなのかもしれませんね。ですが私が普段住んでいるのは、辺境のギルムです。あそこでは身分がどうこうと言ってくる者がいない……とは言いませんが、それでも殆どいません」
レイの脳裏を、かつて自らの権勢を利用してセトやミスティリングの類を奪おうとした一人の商人の顔が過ぎる。
その男は貴族という訳ではなかったが、それでもギルムという街では大きな権力を持っていた。
だが、その人物ですら結局はレイの手により失脚させられることになった。
もっとも、それは決してレイが仕組んだという訳ではなく、その商人の自業自得とも言えるものだったが。
(そう言えば、ベスティア帝国の錬金術師が絡んでたんだよな。魔獣兵と直接戦ったのもあれが最初だったし)
ふと、レイは懐かしく過去を思い出す。
実際にはまだ一年程度前の出来事でしかないのだが、その一年の間に起きた出来事があまりにも濃密すぎて、自然と凄く昔という風に感じていた。
「ふむ、何故そこまで権力者に仕えることを厭う? 余が知ってる者達の多くは、寧ろ国に仕えて貴族の地位を得て、より上を目指すという者が多かったが」
「より上に行くのを目的としている者が多いのは理解していますが、私は権力には興味がありませんので。それにベスティア帝国にも、ノイズという権力に興味のない者がいるのでは?」
「はっはっは。確かにそうだな。だが、ノイズは世界に三人しか存在しないランクS冒険者だからこそ、と考えることも出来るぞ?」
笑い声を周囲に響かせてレイと言葉を交わすトラジストだが、その身体からは再びプレッシャーのようなものが徐々に吹き出し始めていた。
「力があるからこそ、己の意思を通せる。そういうことですか?」
「間違ってはおらん。ノイズはその力があるからこそ、自分の好きに動くことを誰に咎められることもない。……もっとも、あくまでも法に背くことをしていない限りは、だがな」
「確かに」
幾ら力こそが全てだとはしても、明らかに法を破るようなことをすれば、ベスティア帝国としてそれを許す訳にはいかないだろう。
「……さて、話が脇に逸れたな。とにかく今のベスティア帝国は、力を必要としている。それは分かるな?」
春の戦争で負け、国の中では内乱が起こった。また、闘技大会で準優勝したのがミレアーナ王国所属の冒険者であるというのもその言葉には含まれているだろう。
それら全てにレイが関わっているのは偶然に近いが、その結果ベスティア帝国恐るるに足らずといった認識が周辺国家に広がりつつあるのも事実。
そこまで行かずとも、もしかしてベスティア帝国に戦いを挑んでも勝てるのでは? と思っている者も出て来ている。
周辺国家や従属国に侮られつつあるのだ。
勿論トラジストとしても、それを承知の上で今回の内乱は見逃した。
そのおかげで、より強い次期皇位継承者を得ることが出来たのだから、問題はないと思っている。
だがそれとこれとは別であり、このまま放っておけば従属国やかつて占領した国が独立運動を起こさないとも限らない。
もしレイを自分達の内に取り込むことが出来ればトラジストとしても最善だったのだが、仕官は断られた。
「ならば……名誉貴族というのはどうだ? 領地の類を与えず、何か特別なことをする必要もない、文字通り名前だけの貴族だが……ベスティア帝国内では自由に動けるぞ? そうだな、伯爵辺りの称号を与えてやろう」
ワインを口にしながら、トラジストは獲物を決して逃さない肉食獣の如き視線でレイを見据えながら、そう告げる。