0834話
ジーヴから皇帝が自分に会いたがっていると聞き驚いたレイだったが、そんなレイよりも更に驚いたのはヴィヘラだった。
自分がベスティア帝国を出奔する前は、会話をするのも月に数回あればいい方だった父親。
親に対する愛情はないが、それでもこのベスティア帝国のような大国をきちんと動かしているということには尊敬を感じていた。
そんな人物がレイに会いたいと言うのだから、そこに政治的な意図を感じるのは当然だろう。
レイがその手の出来事を嫌っているのを知っている為に不安に思ったのだが、そこでジーヴは更に意外なことを口にする。
「ヴィヘラ殿下……いえ、ヴィヘラ様も良ければ一緒にとのことです」
「……私も?」
「ええ。ヴィヘラ様も十分に今回の戦いで活躍したので、その為かと」
「一応私はこの国から出奔した身なんだけど……いいのかしら?」
念の為といった具合に確認するヴィヘラに、ジーヴは笑みを浮かべて頷きを返す。
「勿論その辺はきちんとトラジスト陛下も承知しておりますよ。その上で大丈夫だとのことですから、気にしなくてもよろしいかと。皇帝陛下にお会いするのも随分と久しぶりでしょうし、ごゆっくりどうぞ」
「私が出奔する前から、父上……いえ、皇帝陛下に会うのは月に数回あるかどうかということだったのだけど」
「このベスティア帝国という広大な国を治めているのですから、そう自由な時間を作る訳にいかないというのはご存じなのでは?」
窘めるように告げてくる言葉に、それもそうね、と肩を竦めるヴィヘラ。
その際に胸がユサリと揺れ、ジーヴはともかく周囲にいた他の役人の視線を……そして兵士達の視線までをも集める。
「ん、コホン。ヴィヘラ様、トラジスト陛下にお目に掛かる時にはもう少し大人しい服装をした方がよろしいかと。さすがに娘がそのような挑発的な格好をしていると知れば、トラジスト陛下もお嘆きになるでしょうし」
高い地位にいるだけあって、ジーヴはヴィヘラの胸元へと視線を向けることもないまま、そう告げる。
だがヴィヘラは、そんなジーヴの言葉を気にした様子もなく笑みを浮かべて口を開く。
「そう? あの父上なら私の服装がどうこうと気にしないと思うけど。それに、残念ながら今の私は冒険者のヴィヘラなのよ。服装もこれしか持ってきてないわ」
「……この寒い中、風邪を引きますよ?」
「大丈夫、その辺もきちんと考えてあるから。この服ってこう見えて結構暖かいの」
服? と思わず尋ねたくなったジーヴは決して間違ってはいないだろう。
ヴィヘラが身に纏っているのは、向こう側が透けて見える薄衣。
その下では、下着の上に身につけているインナーのみがヴィヘラの男好きのする肉体を覆っている状態だ。
娼婦や踊り子が身につけているようなもので、とてもではないがジーヴが服と聞いてイメージする服装ではない。
「ええ。正確にはマジックアイテムとしての効果なんだけど」
「……ああ、なるほど。道理で刺激的な服装をしていると思っていましたが、マジックアイテムだったのですか」
「そうよ。……刺激的という割りには、あまり興味なさそうだったけど?」
自分が男の欲望を刺激するような美貌や身体つきをしているというのは、このような服装を身に纏っているのだから、ヴィヘラも当然理解している。
勿論自分が元皇族という立場である以上、視姦と呼ぶ程じっくり見られるとは思っていないが、それでも他の兵士達のように何気なく……しかし何度も視線を向けてくるようなことをするとは思っていた。
だがジーヴは、一瞬視線を奪われそうにはなったが、結局はそれだけだ。
「こう見えて、愛する妻がいるので」
「相変わらずの愛妻家ね。それで、どうするの? 私はこの服しか持ってきていないし、何より今の私は冒険者のヴィヘラなのだから、迂闊にこれを脱ぐつもりはないわよ?」
そう告げたヴィヘラだが、当然その言葉は嘘だった。
そもそもこの薄衣はかなり高価なマジックアイテムであり、何かあった時の予備をそう簡単に買えるような物ではない。
だからこそ、何かがあった時にはすぐに着替えることが出来るような準備も当然してある。
それでも今口にしたように、冒険者のヴィヘラにとってはこの服装こそが現在の正装なのだ。
手甲や足甲のような武器は謁見前に預けざるを得ないだろうが、この薄衣を脱ぐつもりは一切なかった。
「それに……私がこれを脱いで、中を見せてもいいと思った人はこの世界にたった一人だけなんだから」
流し目が向けられたのは、ヴィヘラの隣で話を聞きながら皿に盛られた料理を食べているレイ。
ヴィヘラの言葉に、困った笑みを浮かべて誤魔化す。
そんな二人のやり取りを見て、ジーヴはレイとヴィヘラの関係を理解したのだろう。
少し何かを考え、やがて仕方がないとばかりに頷きを返す。
「分かりました。トラジスト陛下は元々細かいことは気にしない方です。ヴィヘラ様の言葉なら、問題はないでしょう」
渋々……本当に渋々といった様子で呟くジーヴに、ヴィヘラは綺麗な笑みを浮かべる。
他の役人が、本当にいいのか? とジーヴの方を見ているが、その際にもヴィヘラの肢体へと何度も視線を向けているのを見れば、とてもではないが説得力がない。
ジーヴの手で強引に頭を下げられているクエルダがヴィヘラの肢体を見ることが出来なかったのは、不運だったのか、幸運だったのか。
少なくても、ジーヴからの評価が下がることはなかったのだから、幸運ではあったのだろう。
……もっとも、レイに対する態度で既に評価は大きなマイナスとなっていたのだが。
「では、そろそろ行きましょうか。トラジスト陛下もお待ちですし」
「今から? 謁見はもう終わったの?」
何気なくジーヴの口から出たその言葉に、ヴィヘラが驚く。
それはレイも同様で、反射的にジーヴへと向かって言葉を発する。
「今からか?」
「はい。既に謁見は終わっており、現在は皇室の方々だけの時間を取っております。……カバジード殿下の件もありますし」
ジーヴの口から出たのは、レイを納得させるのと同時に新たな疑問も抱かせる。
現状でヴィヘラを呼ぶのは構わない。
カバジードの死を悼むという意味では、国を出奔したとしてもヴィヘラは家族の一員であることに変わりはないのだから。
だが、何故そこに自分が呼ばれるのかと。
(俺が今回の内乱で活躍したから? いや、それなら家族と過ごす時間に俺を呼ぶ必要はないだろうし……)
疑問を抱くレイだったが、ヴィヘラがそっとレイの肩に手を置く。
「心配しても意味はないわよ。父上は時々突拍子もないことをするのだから、それを思えば今回の件はそんなにおかしなことではないわ。それより、ここで父上を待たせる方が失礼になるわ。行きましょう」
ヴィヘラの言葉に、レイが誘われるように立ち上がる。
確かに皇帝という地位にある者を待たせるのは失礼になるというのもあったし、闘技場で見たトラジストという人物に興味があったというのも正しい。
皇族という意味では、ヴィヘラやメルクリオ、フリツィオーネ、敵としてはシュルスやカバジードと顔を合わせたことのあるレイだったが、皇帝本人とは直接間近で会ったことはない。
闘技場ではあくまでも遠くから見ただけであり、それでも圧倒的な存在の格とでも呼ぶべきものをトラジストから感じられた。
なら、直接会ってみたい……そう思っても、不思議ではなかった。
「どうやらその気になって貰えたようですね。では、行きましょうか」
レイの様子に笑みを浮かべたジーヴに案内されるように、レイとヴィヘラの二人は宴会場として解放されていた広間を出て行く。
遊撃隊の兵士や、他にこの広間の中にいた兵士達は、それぞれが凄いものでも見たといった表情でレイとヴィヘラを見送っていた。
「ヴィヘラ様はまだしも、レイ隊長まで皇帝陛下に呼ばれるなんて……やっぱり凄いよな」
「確かに。ただ、その辺は予想出来てただろ? ヴィヘラ様がレイ隊長に惚れ込んでいるのは見て分からない奴の方がいないんだし。言い換えれば、これってあれじゃないか? 娘さんを下さい的な」
「……皇帝陛下にか?」
「……レイ隊長、皇帝陛下と殴り合いになったりしないよな?」
『……』
その一言に、周辺で今のやり取りを聞いていた者達の多くが黙り込む。
この広い大広間の中、ジーヴ達が来たのに気が付かないで酔っ払って騒いでいる声が、兵士達の耳にうるさい程にざわめいていた。
「レイ殿、悪いが武器を預からせて貰いたい」
宴会をやっていた大広間から歩くこと、約十分。城の中心ではなく、どちらかと言えば端の方にある部屋へと辿り着くと、ジーヴはレイへと向かってそう告げる。
「武器? ……これでいいのか?」
腰に身につけていたミスリルナイフを鞘ごと引き抜き、ジーヴへと手渡す。
だが、ジーヴはそれを受け取るも、首を横に振る。
「レイ殿がアイテムボックスを持っているというのは、こちらも承知しています。その中には幾つもの武器を収納しているというのも。更にアイテムボックスを使えば、瞬時に手の中へと望んだ物を出すことが出来るというのも。そして……レイ殿が異名持ちの冒険者である以上、そのような武器の入った……危険物と言い換えてもいいような物を手にしたまま、トラジスト陛下の前に通す訳にはいきません」
「……なるほど」
考えてみれば当然だったか、と頷くレイ。
レイ自身には自覚がないが、ノイズをすら退けた力の持ち主で、更にはベスティア帝国と長年敵対してきたミレアーナ王国所属の冒険者、そして今回の内乱では討伐軍を相手にして戦ったという経歴を持つ。
……そこまで揃えば、なるほど、自分を潜在的な敵と認識してもおかしくはないか、と。
だが……だからと言って、レイの生命線でもあるミスティリングをそう簡単に手渡すわけにはいかない。
もしこのまま持ち逃げでもされてしまえば、レイにとっては致命的……とまではいかないが、それでも壊滅的な被害となるのは事実なのだから。
「悪いが、これは俺の生命線だ。渡す訳にはいかない。もしどうしても渡さなきゃ駄目だというのなら、残念だが謁見は断らせて貰う」
その言葉に、ジーヴ以外の役人が目を見開く。
ベスティア帝国の者にしてみれば、まさか皇帝からの呼び出しを断るなどということをする者がいるとは思ってもいなかった為だ。
もっとも、これはレイがミレアーナ王国の国民だから……という訳ではない。
ミレアーナ王国の人間でも、殆どの者がベスティア帝国にやって来た時に皇帝が会いたいと言えば無条件で従うだろう。
この辺は、やはりレイの価値観そのものが違う為に起きたことだった。
そんなレイの言葉を理解していたわけではないだろうが、ジーヴは懐から小さな箱を取り出す。
「確かにレイ殿の言うことにも一理ありますな。特にレイ殿はこの国では多くの者に遺恨を持たれているというのは事実ですから、アイテムボックスを預かると言われて、はいそうですかと言えないのは分かります。ですから……どうでしょう。この箱にアイテムボックスを入れ、鍵を掛け、その鍵と箱の両方をレイ殿が持つというのは」
「……なるほど」
ジーヴの考えは、確かにレイであっても受け入れやすいものだった。
ようは、レイがアイテムボックスをすぐに使えない状況にすればいいのであって、その使えなくしたアイテムボックスを他の人物に預ける必要は必ずしもないのだから。
「一応聞いておくけど、鍵はきちんと機能するよな? 例えば、一度鍵を掛けたら二度と使えなくなるとかは……」
「ええ、ご覧の通り」
そう告げると、ジーヴは持っている鍵を掛けては開けといったことを数度繰り返す。
それを見て、ようやくレイも安堵したのだろう。渡された箱にミスティリングを収めると鍵を掛け、手に持つ。
「……レイ殿、忘れている物があるようですが?」
周囲が安堵の息を吐いた、その時。再びジーヴの声が周囲に響く。
「忘れている物?」
「ええ。腰にあるマジックアイテム。それも武器ですよね?」
魔力を使って鏃を作り出すネブラの瞳。
ベスティア帝国に来てから入手したマジックアイテムだ。
「……随分と目敏いな」
小さく呟いたレイは、腰のベルトに引っ掛けてあったネブラの瞳を取り出してミスリルナイフを持っている男へと渡す。
何かあった時の為に、武器の一つくらいは持っておきたいと思っていたのだが、これで正真正銘武器の全てを手放したことになる。
もっとも、レイの場合はその身体能力が元々優れているし、炎帝の紅鎧というスキルを持っている以上は武器を持ってようが、持っていまいが、その危険度はそう大差ないのだが。
ヴィヘラも、手甲と足甲を外して手渡す。
「では、この武器は謁見が終わった後で返却させて貰います」
深々と一礼をしたジーヴは、部屋の扉をノックするのだった。