0809話
轟、と吹き荒れる炎。
普通空から降ってくるものといえば、雨が一般的だろう。
そして、今行われている戦いであれば矢が降ってくることがあってもおかしくはない。
だが、今降ってきているのはそれらとは全く違う存在……炎だった。
戦場のほんの一部でしかないが、その一部にいた兵士達にとっては、そこに降り注いだ炎は絶望以外のなにものでもなかった。
「うわああああああああぁっ! 熱い、熱い、熱いぃっ!」
「くそっ! 消せ! 火を消すんだ! 魔法使い!」
「何だ、何だ、何だ! 何が起きたんだ!?」
「俺の見間違えじゃなきゃ、グリフォンが口から火を噴いたように見えたぞ!?」
「馬鹿な、ふざけるな! ファイアブレスを吐くグリフォンだと!? そんな話は聞いたことがない!」
「待て、逃げるな、逃げるなぁっ! ここで逃げ出せば戦線が崩壊するかもしれないんだぞ! 今は防げ、奴を何とか足止めするんだ!」
「ふざけるな! 俺達を盾にしようったって、そうはいかねえぞ! そんなにあの化け物を防ぎたいんなら、お前がやれ!」
周辺に響くそんな声を聞きながら、レイは一旦ファイアブレスを吐くのを止めたセトへと声かける。
「どうやら下の方ではかなり熱いらしいな。少し涼しくしてやってくれ。……俺が着地するにしても、暑い場所は嫌だし」
ドラゴンローブのおかげで炎には耐性を持っているレイだが、心情的には炎で溢れている場所に着地するのは嫌だったのだろう。
そんなレイの頼みに、セトは即座に応じる。
セトもレイと共にノイズとの戦いを潜り抜けたばかりなのだが、そこまで消耗している様子はない。
これは元々ノイズとまともにぶつかっていたのがレイで、セトは上空からの援護という役を担っていたというのもあるのだが、やはり一番大きな理由として、ランクAモンスターのグリフォンだけに人間よりも回復力が高いというのがあるのだろう。
「グルルルルゥッ!」
高く鳴き、次の瞬間にはセトの周囲に直径四十cm程の水球が二つ現れる。
その水球が上空から放たれ、炎に巻き込まれていた兵士へと命中し、吹き飛ばされる。
上空から放ったということもあって、その威力はいつも使う水球よりは随分と上がっており、頭部表面を弾けさせられた兵士は皮膚が破け、肉が裂け、血が迸り、右の眼球も目から飛び出て視神経だけで繋がっているという……それでいながら、水球自体の威力は致命傷を与える程に強力ではなかった為か、死ぬことすら出来ずに炎で急激に熱せられた地面を痛みで転げ回る。
「グルルルルルゥッ!」
更に追加とばかりに鳴くセト。
氷で出来た矢……アイスアローが五本セトの周囲に現れると、こちらもまた地上へと向かって放たれる。
ファイアブレスと水球の効果で混乱している中、放たれたアイスアローだ。
その威力自体はそれ程大きくなく、混乱に紛れるようにして数人の兵士達に命中するだけで終わる。
岩を削れるかどうかといった威力しかないのだが……それでも普通の人間や獣人にしてみれば皮膚が岩より硬い筈もなく、振り注いだ氷の矢は運悪く鎧を装備していない場所だったり、鎧でもレザーアーマーだったりする者達には少なくない被害を与えることになる。
「ありゃ、ちょっと予想外だったな。まさかここまで気が付かれなかったなんて」
「グルゥ」
レイの言葉に、セトが残念そうに喉を鳴らす。
そんなセトを慰めるように、レイは頭を撫で……
「ま、たまにはこんなこともあるから、気にするな。それより俺はそろそろ下に行くから、セトは上空から敵に攻撃を続けてくれ。なるべく俺の攻撃には巻き込まれるなよ」
「グルルルゥ!」
元気よく喉を鳴らすセトをその場に残し、レイはセトの背から飛び降りる。
ファイアブレスの効果範囲内にまで地上へと近づいていたので、その距離は十mもなく、落下途中に空中を歩くことが出来るスレイプニルの靴を使うと、危なげなく地上へと落下する。
「深紅だ、深紅が来たぞぉっ!」
「逃げろ、逃げろぉっ!」
「馬鹿、違う! まだ被害が出ていない今のうちに、一気に仕留めるんだ!」
「それこそ馬鹿を言うな! あの深紅だぞ!? 不動が奴を迎撃する為に向かっていた筈なのに、ここにいるってことは……」
「それでもだ! 今は前線で激しい戦いが起きている。こっちが優勢だとしても、深紅に後ろで暴れられてみろ。そんな優位もあっさりと消し飛ぶぞ!」
そこかしこから聞こえてくる悲鳴を聞き流しつつ、レイは早速炎帝の紅鎧を発動させる。
可視化出来る程濃密に圧縮された魔力は、使用者であるレイの異名と同じ深紅へと染まる。
同時に、まだレイが何をしているという訳でもないのに、周囲の気温が急激に上がっていく。
本来であれば今は秋……それももうすぐ冬になるような時期であり、気温も肌寒いと表現してもいいような温度だった。
だが、レイが炎帝の紅鎧を使用したのと同時に、周囲の気温が急速に上がっていく。
十五℃、二十℃、二十五℃。……そして、三十℃を突破する。
周囲を真夏の如き暑さが覆い、それでも止まらず更に温度が上がっていく。
正確に温度を測ることは出来なかったが、それでも兵士達にしてみれば周囲の気温が真夏並に……あるいはそれ以上になったのは事実だろう。
「さて……じゃあ、行くか」
炎帝の紅鎧に残りが心許なくなってきている魔力を流し込み……次の瞬間、レイは地面を蹴って敵へと、討伐軍の後方へと向かって突っ込んで行く。
「ひっ、ひいいぃっ! 来るな、来るなぁっ!」
最初にレイの標的となった場所にいた兵士が、見る間に近づいてくるレイに向かって叫ぶ。
だがレイはそんな相手の話を聞く様子もなく、炎帝の紅鎧の深紅の魔力を身に纏ったまま兵士へと向かって突っ込む。
そうして、兵士の身体が魔力へと触れた瞬間……
「ぎゃああああああああああっ!」
魔力へと触れた場所から強烈な痛みを感じ、身も蓋もなく叫ぶ。
吹き飛ばされたその兵士は、深紅の魔力に触れた場所が焼け爛れた状態のまま吹き飛ばされ、味方の兵士にぶつかってようやく動きを止める。
勿論それだけでレイの動きが止まる筈がなく、炎帝の紅鎧を展開したままのレイはそのまま兵士達へと向かって突っ込んで行く。
そうしてレイに触れた敵は、ことごとく触れた場所を焼け爛れさせながら弾き飛ばされる。
以前にもレイは覇王の鎧を使って敵陣へと突っ込み、蹂躙したことがあったが、今はその時とは少し違う。
覇王の鎧の上位互換とも呼べる炎帝の紅鎧となったスキルは、触れた相手に火傷を与えるようにすらなっていた。
その上で覇王の鎧を使っていた時のように吹き飛ばすのだから、敵に与えるダメージは格段に増しているだろう。
「うわあああああっ! 何だ、何だ、何なんだよ! あいつに触れただけで焼かれてるぞ!?」
「逃げ……逃げろ! 来る、来るぞ! 逃げろぉっ!」
「馬鹿もん、逃げるな! ここで俺達が崩れれば、最悪背後からは深紅、前からはメルクリオ軍と挟み撃ちに遭うぞ!」
「じゃあ、どうするって言うんだよ! 逃げるしか……来たぁっ!」
レイが突っ込んで行くのを見た兵士達が、半狂乱になって叫ぶ。
ある者は逃げろと、ある者は迎撃しろと。
だがこの場合、正しかったのは前者の方だろう。
今のレイは、触れるだけで敵を焼き尽くす……とまではいかないが、それでも触れた場所が焼け爛れる程の熱を放つ、炎帝の紅鎧を身に纏っているのだから。
本来であれば討伐軍の中でもある程度の安全性を確認されていた後陣が、阿鼻叫喚の坩堝となる。
そんな状況になれば、当然前線で戦っている兵士達が落ち着いて戦える筈もない。
「何だ? 後ろが騒がしい……まさか、深紅!?」
「有り得ん! 幾ら深紅でも、この人数の陣の中を突破出来るものか! 大体、奴は少し前まで不動と戦っていた筈だ! もしそれから逃げ出すなりなんなりしても、消耗も相当にある。それに、不動が負けるなどということは絶対に有り得ん!」
前線で戦っている兵士の一人が、咄嗟に叫ぶ。
この兵士は前線でメルクリオ軍と正面から戦っていたのだが、丁度レイがセトで空を飛んで移動しているのを遠くから見掛けていた。
だからこそ、もしかしてこれが深紅の仕業なのでは? とも思ったが、すぐに自分の考えを否定する。
……いや、本心では分かっていたのかもしれない。これが、深紅の仕業だということは。
だが、もしそれを認めてしまえば事実になるような気がして、決して認めることは出来なかった。
それでも心の中だけでは、既にそうなっているだろうとどこか思ってしまっており……
「ぐふぇっ!」
前方から飛んできた短槍に対し、反応することが出来なかった。
喉に突き刺さった短槍を抜こうして結局そのまま力尽き、命の灯火が消える。
「おいっ! くそっ、よくもやりやがったな!」
戦友の死を……例えそれが自らの油断による死だとしても許すことが出来ず、兵士は長剣を手に再びメルクリオ軍とぶつかっている最前線へと向かって走り出す。
「……厄介だね」
討伐軍の後方にある本陣で、カバジードが呟く。
涼しげな視線の先では、後陣が思うままに蹂躙されている様子が見えていた。
赤い魔力を身に纏い、触れる相手を焼きながら吹き飛ばし、手足の骨、そして運が悪い兵士の場合は首の骨すらも折るようにして討伐軍の軍勢の中を掻き分けながら前線へと向かって行くレイ。
いや、運が悪いのは身体中が焼け爛れながらも死ぬことが出来ないでいる者か。
手足を折られ、身体は焼け爛れ……そんな状態でありながら、まだ生きている。死ねないでいる者達。
そんな兵士を量産しながら、軍勢の中を好き放題に蹂躙している様子は、普段冷静さを崩さないカバジードにしても、不愉快そうに眉を顰めざるをえなかった。
「多分深紅だな、あれは。……カバジード兄上。確かに深紅も厄介だが、空から縦横無尽にこちらに攻撃を仕掛けているグリフォンも厄介極まりないぞ。いや、深紅は戦場の中でも離れた場所にいれば見えないが、グリフォンは空を飛んでいる分、戦場のどこにいても見える」
「それに、空を飛びながら空中からファイアブレスを吐くという凶悪さだしね。……シュルス、君の方で何とか出来ないのかい?」
「無茶を言わないでくれ。元々こっちは戦力が少ないのは知ってるだろ? そんな状況でグリフォンをどうにか出来るような戦力なんかねえよ。大体、ノイズはどうしたんだ? 深紅が自由に動き回ってるってことは、ノイズが負けたってことなんだろうけど……ちょっと信じられないんだけどな」
シュルスの言葉に、周囲にいる貴族達が確かに……と頷く。
ノイズというのは、それだけベスティア帝国にいる者にとっては強さを象徴している人物なのだ。
だというのに、そのノイズが負けたというのは、とてもではないが信じられなかった。
「確かにとても信じられる話ではないが、ノイズが既に深紅と戦っていないのも事実。そうである以上、ここで負けたのが信じられないと言っていても意味はないのではないのかな?」
「確かにそうかもしれないけどよ、正直どうするんだ? 幸い、今は何故か深紅が後陣を攻撃するのに集中して、こっちの本陣に手を出してくるようなことはないけど、もしもこっちに目を向けたら、奴を止められるような者はいないぜ?」
シュルスの疑問はもっともだった。
現状でレイを止められる者がいない以上、このままではいつこの本陣が襲われるかも分からず、そうなった場合は逃げ切ることはまず不可能なのだから。
だが……この場でシュルスと共に最高位の人物でもあるカバジードは、いつもの笑顔を浮かべたまま口を開く。
「そうだね、もしそうなったとしたらここにいる他の貴族はともかく、私やシュルスの命はなくなるかもしれないね」
「……兄上、なんでそんなに平気な顔をしていられるんだ? このブリッサ平原で最後の戦いに挑んだのは、深紅を封じられるという確信があったからだろ? なのに、その深紅が自由に動き回っているのに、何でそんなに平然としてられるんだよっ!」
感情が高ぶってきたのか、大きく叫ぶシュルス。
そんな弟の様子にカバジードは笑みを浮かべつつ口を開く。
「そうだね、確かに今の私にはもう深紅を封じる為の策はない。けど、それは今だけの話だろう? なら、シュルスは大人しく降伏して後日に備えた方がいいと思わないかな?」
「何を……何を言ってるんだよ、兄上! 降伏!? そんな真似をメルクリオが許容すると思ってるのか!?」
「許したくはないだろうし、許すつもりもないだろうね。……けど、許さざるを得なくなったとしたら?」
自分の兄だというのに、目の前にいる人物が何を言っているのか分からない。
そんな思いでカバジードを見つめるシュルスだったが、見つめられている当の本人は近くにいる貴族の一人へと視線向ける。
「悪いけど、例の件……お願い出来るかな? 私だけで済めばそれはそれで問題はないだろうし」
「……承りました」
その貴族は、沈痛な表情を浮かべつつもカバジードの言葉に頷く。
相変わらずの笑みを浮かべたまま、カバジードは口を開く。
「さぁ、この内乱最後の戦いだ。最後まで諦めずに頑張ろうか」
自らの命が懸かっているというのに、全くそんな様子を見せないカバジードに、シュルスは激しい違和感を覚えるのだった。