0765話
夜空に浮かぶ月は、雲によって地上に降り注ぐ月光を遮られる。
そんな秋の夜長に、レイはセトと共にマジックテントの近くで食事をしていた。
「グルゥ、グルルルルゥ!」
嬉しげに喉を鳴らすセトの前にあるのは、熊肉料理の数々。
シチューに炒め物、煮物、外側だけを強火で焼いて、中身は殆ど生という料理もある。
この時期の熊は、冬眠する前にたっぷりの栄養を取る必要がある為に脂がのっていて、非常に美味だ。旬と言ってもいい。
そんな時期にセトが仕留めた熊肉だけに、フリツィオーネ軍の中でも料理を趣味としている者の手を借りて、こうして幾つもの豪華な料理へと姿を変えていた。
料理をしてくれた者も、旬の熊肉のお裾分けを貰って満足して帰って行った。
熊肉は獣臭いという意味では料理に困る肉なのだが、幸いその料理人は腕が良かったらしく、レイとセトの為に作られた料理の数々はどれも非常に美味だった。
特に冬眠前の熊は非常に強い獣臭さがあるのだが、それを感じさせない料理を作り出した辺り、料理人の腕の良さの証明だろう。
……もっとも、セトの場合は獣臭い肉も野趣に満ちた味として食べるので、獣臭さを消すのは主にレイの為だったのだが。
「うん、美味い。以前食べたことがある熊鍋と比べても遜色ない」
この世界に来る前に、猟を趣味としている人から貰った熊肉を味噌仕立てで鍋にした熊鍋を思い出しつつも、レイは熊肉のシチューと共にパンを口に運ぶ。
微かな酸味のあるどっしりとした黒パンと、熊肉のシチューの相性は抜群だった。
「セトには、今度山で鹿でも獲って貰うのもいいかもしれないな」
「グルゥ!」
熊肉の中でも、特に美味いとされる熊の右手の煮込みを食べつつ、セトは任せて! と喉を鳴らす。
食べられる肉の量では熊肉の方が圧倒的に多いが、味という面で考えれば熊肉よりも鹿肉のほうが上だというのを、レイは日本にいた時に熊肉を持ってきた近所に住む猟を趣味とする人から聞いていた。
「……そう言えばセト、魔石は食わなかったのか?」
「グルルルゥ?」
レイの言葉に首を傾げるセト。
そんなセトに、レイは熊肉の串焼きへと手を伸ばしながら口を開く。
「ほら、以前に俺がランクアップ試験を受ける時に離れ離れになっただろ? その時には魔石を食べてスキルを覚えたじゃないか」
その言葉に、以前レイと離れ離れになった時のことを思い出したのだろう。不意にレイの方へと近寄って身体を擦りつける。
セトは身体が大きく、ランクAモンスターのグリフォンであったとしても、生まれてから二年も経っていない。
まだまだ甘えたい盛りであり、その対象は当然のようにレイだった。
「グルゥ、グルルルゥ、グルゥ」
喉を鳴らしながら顔を擦りつけてくるセトに、レイは思わず笑みを浮かべながら串焼きから手を離して頭を撫でる。
「ほら、落ち着けって。で、だ。その時は魔石を食べてスキルを入手したけど、今回はそういうのがなかったからな」
「グルゥ……」
ごめんなさい、と落ち込むセト。
そんなセトを見たレイは、慌ててセトの頭を撫でて気にするなと告げる。
「別にどうしてもスキルを入手しろって意味じゃないから気にするなって。ただ、どうしたのかと思っただけだから」
そんなレイに、セトは甘えるように喉を鳴らす。
そもそも、今回セトがレイに呼ばれるまで潜んでいた森は、冒険者に登録した初心者が主に活動するような場所だ。
当然モンスターの類もそれに相応しいような者達の姿しかなく、ゴブリンが主なモンスターとなる。
希少種や上位種ならまだしも、セトが倒したのは通常のゴブリンのみ。
肉も不味く、素材としても安く買い叩かれる皮程度しかなく、力の差を理解出来ずに襲ってきたゴブリンは軒並みセトの一撃で頭部や胴体を砕かれ、周囲に血肉を撒き散らかす結果となった。
……尚、当然ながらゴブリン虐殺後に偶然そこに立ち寄った冒険者は、魔石やら討伐証明部位やら、使えそうな皮やらを剥ぎ取り労せずして儲けていたりしたのだが……その辺はご愛敬だろう。
「グルルルゥ」
鳴き声を上げながらセトの視線が向けられたのは、熊の毛皮。
当然熊を解体して肉を取る以外にも毛皮のように使える部位はあり、そういう意味ではその辺のゴブリンを倒すよりも十分な稼ぎを得たといえるだろう。
ただ、セトにしてみれば熊の毛皮を自慢するというよりは、レイに対する贈り物的な意味の方が強い。
これまでギルムを始めとして色々な街に行ったことのあるセトは、熊の毛皮がそれなりに高価な代物だということを知っていた。
それを理解したのだろう。レイもまた、笑みを浮かべつつセトの頭や身体を何度も撫でる。
自分を撫でる感触に、気持ちよさそうに目を細めるセト。
半日程前にこの場所で大きな戦いがあったと知らなければ、どこか微笑ましいとしか言えない光景だった。
……いや、中にはそれを知りつつ、セトの下へと訪れる者もいる。
「あの、すいませんレイ殿。セトちゃんに差し入れを持ってきたんですけど、構いませんか?」
そう告げて暗闇の中から姿を現したのは、ウィデーレの第三部隊に所属している女騎士の一人。
セトとの付き合いは、ソブルの雇った者達に襲われているところをレイとセトに助けられた時からのものであり、フリツィオーネ軍の中で最も古い付き合いだろう。
もっとも、反乱軍の陣地にいるセトを可愛がっている者達にしてみれば、自分達の方が先にセトと知り合ったんだという思いを抱く者が多いだろうし、ギルムにいる自他共に認めるセト愛好家のミレイヌにしてみれば、『この俄どもめがっ!』といった風に、顔に似合わぬ渋い声を発して威圧するだろうが。
「グルルルルゥ?」
くれるの? 何か食べ物くれるの? と喉を鳴らし、円らな瞳で女騎士達を見返すセト。
その様子は、昼間は林の中で猛威を振るっていたランクAモンスターとは思えない程に無邪気なものだ。
「えっと、レイ殿?」
「ああ、構わない。セトも楽しみにしているみたいだから」
「では……はい、セトちゃん。今日ここを通った行商人の人から買ったんだけど」
その言葉と共に差し出されたのは、魚の干物。
ただし海で獲れる魚の干物ではなく、川魚の干物だ。
それでも周囲に海のないベスティア帝国にしてみれば、魚というだけである程度の稀少さではあった。
「グルルゥ!」
セトも女騎士の気遣いは分かったのだろう。喉を鳴らしながら嬉しそうに女騎士の方へと近寄っていく。
「あ、ちょっと待って。この干物は焼いた方が美味しいから。レイ殿、その焚き火をちょっと借りても構いませんか?」
「好きに使ってくれ」
女騎士はレイの言葉に頭を下げ、早速とばかりに串へと川魚の干物を刺す。
強火で一気に焼くのではなく、火からある程度の距離を取ってじっくりと焼く。
「レイ殿、今日は助かりました」
干物が焼けるまでの間、それを眺めながら待っていると不意に女騎士が口を開く。
「助かった?」
「はい。もしも私達が待ち伏せしていた部隊と戦っている時に林の中に潜んでいた部隊に攻撃されていれば、恐らく負けはしないまでも大きな被害を受けたでしょう。そうなっていれば、白薔薇騎士団にも死者が出たのは間違いないですから」
「そんなに気にしなくてもいい。こっちだって与えられた役割をこなしただけだし、元々俺の役目はこの軍の護衛もあるからな」
「いえ、ですが私達の中には未だにレイ殿を疎んでいる者もいます。助けられたと、はっきり分かっているのに」
「それはしょうがない。俺の態度が原因だからな。それにこう言ってはなんだけど、俺を嫌っていても何が出来るって訳じゃないだろ? こっちに危害を加えないのなら、後はそれぞれの個人的な問題だろ。まぁ、俺としても嫌われていて嬉しくはないから、いずれ友好的な関係になれればとは思うけど」
そんなレイの言葉に、女騎士は何を言うでもなく黙り込む。
確かにそれは事実なのだが、やはり白薔薇騎士団に所属する者としてはレイやセトと仲良くやって欲しいという思いがある為だ。
その言葉を最後に数分沈黙が続き、やがて周囲に魚の干物が焼かれるいい匂いが漂い始めた。
女騎士の方も沈黙の時間に気まずいものを感じていたのだろう。これを好機にと、焚き火の側へと移動して串に刺さった川魚の干物の様子を確認する。
大きさ自体はそれ程大きくない為、この短時間で丁度食べ頃の焼き具合となっていた。
「はい、セトちゃん。どうぞ」
「グルゥ?」
いいの? とレイに視線を向けるセト。
そんなセトにレイが頷くと、セトは嬉しそうに喉を鳴らしながら魚へとクチバシを伸ばす。
(グリフォンで、下半身が獅子……猫科の動物だから、魚が好きなんてことは……ないよな?)
幸せそうに魚を食べているセトを見ながら、レイはふとそんなことを考える。
セトが幸せそうな様子に、つい先程までの気まずい雰囲気は消え去っていた。
さすがにセト。その癒やし度は沈黙をものともしない。
レイのそんな思いに気が付いた訳ではないだろうが、セトは嬉しそうに喉を鳴らしつつ川魚の干物をクチバシで少しずつ食べるのだった。
「申し訳ありません、カバジード殿下……俺の力、至らずに」
ブラッタがカバジードへと向かって跪き、頭を下げる。
フリツィオーネ軍との戦いで敗北し、撤退した後、あの戦いに参加した者達は帝都へと戻ってきていた。
シュルス旗下の者はシュルスの下へと、そしてカバジード旗下の者はカバジードの下へと向かい、戦闘の敗北を知らせたのだ。
ブラッタにしてみれば、前回の戦いに引き続き二度目の敗北だ。
前回の戦いは夜襲であり、炎の竜巻を使われるというどうしようもない戦いだったという理由があるのだが、今回は正面から戦って負けたのだ。
それも、待ち伏せし、背後から騎兵隊が襲い掛かり、更には横に伏兵すらも配置した状態で。
言い訳すらも出来ない完全なる敗北に、周囲にいるカバジード直属の部下や派閥の貴族達の自分を見る目が厳しくなっているのはブラッタにしても理解している。
この場で解任……下手をすれば処刑すら命じられるかもしれないという思いでカバジードの言葉を待っていたブラッタだったが、その口から出たのはその場にいた誰にとっても予想外の言葉だった。
「構わないよ。確かにあそこでフリツィオーネを押さえることが出来ていれば最善だったのは事実だけど、時間を稼ぐという意味で最低限の目的は果たしている。おかげで、こちらの方で新しい手を打てた。ブラッタにはまだこれからも頑張って活躍して貰わないといけないんだから、処罰するつもりはないよ」
その言葉を聞いていた貴族の一人が口を開く。
「カバジード殿下。ですが、信賞必罰は必要かと」
「けど、相手に深紅がいる状態だったのを思えば、勝てなかったのを責めるのは無理あるだろう? それとも、君なら深紅に勝てたかい?」
「それは……必ずしも勝てるとは思えません」
「だろう? それに今も言ったように、ブラッタは時間を稼ぐという最低限の役割は果たしてくれた。情報によると、フリツィオーネ達は戦後処理で時間を取られて、今日は戦場で夜を明かすんだろう? これだけの時間を稼いでくれれば十分さ。それに時間を稼ぐという意味では、他にも幾つか手を打っているしね」
小さな笑みすら浮かべて告げるカバジードに、貴族もそれ以上は何を言うでもなく一礼して口を閉じる。
そんな様子を一瞥したカバジードは、改めてブラッタへと声を掛ける。
「それで話は変わるけど、ファイア・イーターの方はどうだったかな? 使い物になるかい?」
「深紅の炎の魔法を無力化したのは間違いないようです。ですが、やはり炎の魔法に直接触れなければ効果を発揮しないというのは色々と問題があるかと。これが水や土のように触れても問題がないのであれば話は別ですが、炎ですから……」
「ふむ、その辺は前もっての予想通りだね。けど、ロドスには回復の為のマジックアイテムも持たせただろう? あれを使えばその辺はどうとでもなるんじゃないかな?」
「……回復効果に関しては、確かにその通りです。ですが、その為に意思を奪ってしまう以上、自律的な判断が出来なくなるというのは、戦いにおいては大きな不安要素でしかありません」
ブラッタの説明にカバジードは一旦言葉を止めて、目を瞑って何かを考える。
そのまま十秒程が経過し、やがて目を開いたカバジードは残念そうに溜息を吐く。
「ファイア・イーターで深紅を完全に抑えるのが難しいとなると……気は進まないけど、もう一つの手段を取るしかないかな。そうなると、今回の時間稼ぎで得た時間をどう使うかになるけど……そっちの方はどうだい?」
カバジードの視線が向けられたのは、先程ブラッタの処罰に関して口を挟んだ貴族。
「ペルフィールが統率している以上、問題はないかと。……出来ればソブルがいれば確実だったのですが。ペルフィールは確かに有能ですが、自分にも他人にも厳しすぎて部下達の受けが今一つですので」
「ははは。それがペルフィールの長所でもあるんだ。ようは使い方次第さ。……それに、そろそろソブルの奪還が行われている筈だ。上手くいけば近いうちにソブルを取り戻すことが出来るかもしれないね」
ソブルの奪還に関してはシュヴィンデル伯爵が第1皇子派に合流する時に持ってきた話だ。
シュヴィンデル伯爵率いる一派は今日の戦いで暴走して死んだが、それでもソブル奪還の命令はまだ生きている筈、と。
既にその命令が実行に移され、更にはソブルを奪還にも成功し……しかし最終的には今話題になっている戦場のすぐ近くで全てが深紅という存在により台無しになったのを、カバジードはまだ知らない。