0756話
ログノス侯爵の問い掛けに、フリツィオーネはレイを一瞥すると口を開く。
「私達の進行方向を偵察してきて貰ったレイからの報告によると、この先に軍勢が待ち構えているらしいの」
「ほう」
一言呟くログノス侯爵は、口元に小さく笑みを浮かべたままレイの方へと視線を向け、再びフリツィオーネへと声を掛ける。
「詳しい話を聞かせて貰っても?」
「ええ。私も今から詳しい話を聞かせて貰おうと思ってたの。レイ、お願い」
「分かった」
フリツィオーネからの言葉にレイは短く頷きを返す。
だがその言葉を聞いても、ログノス侯爵がレイに対して咎めるような視線を向けることはない。
てっきり不敬だと騒がれるのかと思っていたレイは、そんな様子に多少驚きつつもセトと共に見てきた光景を口に出す。
「待ち伏せしているのは、ここからそう遠くない。それこそ、セトならすぐ近くと言ってもいい距離だ」
「グリフォンの移動速度は竜騎士をも優に上回ると聞く。この軍の速度ではどのくらいの距離かな?」
ログノス侯爵がレイへと問い掛けるが、その言葉遣いに再びレイは内心で驚く。
この第1皇女派の中でも高い影響力を持つログノス侯爵だ。当然レイに対しては色々と思うところもあるのだろうが、それでもこうして丁寧な言葉使いで尋ねてくるとは、と。
だが、ログノス侯爵は前もってフリツィオーネからレイがそのような性格だと聞かされており……何より、ヴィヘラから想いを寄せられているという話を聞かされてもいた。
そしてログノス侯爵自身はヴィヘラとの付き合いがそれなりにあり、ヴィヘラに認められ、想いを寄せられているというのを聞かされればこのような言葉遣いになる。
幾度となくヴィヘラに振り回された経験のあるログノス侯爵にしてみれば、寧ろそんなヴィヘラと付き合って――男女間の意味ではなく――いるレイに対して、尊敬の念すら抱いていた。
特に戦闘狂でもあるヴィヘラの性格を思えば、レイの苦労がどれ程のものなのかは容易に想像出来る。
だからこその、この言葉遣い。
ベスティア帝国の貴族としては異例だったが、レイに対して非常に好意的だった。
もっとも、もしレイがヴィヘラに相応しくない相手だとしれば排除に移るという可能性もあったのだが。
「そう、だな。多分……二時間くらいだと思う」
「ふむ、なるほど。ではフリツィオーネ殿下、後ろからついてきている者共も……」
「恐らく待ち伏せしている部隊と関係があるのは間違いないでしょうね」
フリツィオーネの言葉に、その話を聞いていた全員が頷く。
こんな状況になっている以上は当然だろうと。
そんな中、不審そうな表情を浮かべているのはログノス侯爵。
「どうしたの?」
フリツィオーネに促されたログノス侯爵は、腑に落ちないといった表情を浮かべつつ口を開く。
「いえ、後ろをついてきている者達が待ち伏せしている部隊と何らかの関係があるのは分かります。ですが、具体的にどのような関係なのか、と」
「それは……やはり私達を挟み撃ちにする為の部隊では?」
それ以外には考えられないといった様子でウィデーレが告げるが、ログノス侯爵は首を横に振る。
「こちらの戦力は、人数が少なくても精鋭揃いだ。それをどうにかする為の前後からの挟み撃ちと考えても、後ろの戦力が少なすぎる」
「ちなみに挟み撃ちじゃなくて、街道沿いにある林の中にも兵士が隠れているのが見えたな。色々と偽装してたけど」
「……で、あれば尚更だ。まず有り得ないが、前後と横からの攻撃を受けて逃げ出す場合は当然戦力の少ない後方へと逃げることになるだろう。つまり、帝都方面にだ。そんな真似を、あのカバジード殿下やシュルス殿下がすると思うか?」
ログノス侯爵の言葉に、レイは少し考えて首を横に振る。
城の近くで遭遇したカバジードは、そんな甘さを許してくれるような相手ではなかったと。
「なら……いっそ、今のうちに後ろから付いてきている相手を倒してしまった方がよくないか? フリツィオーネとしては面白くないだろうけど、今はとにかくこっちの被害を減らすように動くのが最優先だし」
護衛として派遣された以上、レイとしてはこの軍を無意味な危険に晒す訳にはいかない。
フリツィオーネの意見も重要だが、何よりも重要視されるのはやはりその安全なのだから。
「……いえ、その前に。ウィデーレ。貴方が行って聞いてきて貰える? 私達の後をつけてくるけど、何か用があるのかと」
「了解しました。部下を連れて行っても?」
「ええ、お願い」
すぐに頭を下げて去って行くウィデーレの後ろ姿を見送りながら、レイはチラリと馬車のフリツィオーネへと視線を向ける。
「いいのか? 下手をすればウィデーレが奴等に殺されるかもしれないぞ?」
「その心配はいらないわよ。ウィデーレの技量は白薔薇騎士団でも屈指のものなのだから。それに一人ではないしね」
自信満々に告げるフリツィオーネに、ウィデーレの技量を知っているレイとしては頷くしかなかった。
確かにウィデーレの強さを考えれば、生半可な相手では傷を付けることも難しいのだから。
「で、前方に配備しているのはどう対処を?」
後ろはウィデーレに任せたのだから、今考えるべきは前方で待ち構えている部隊。
そう告げたレイに、フリツィオーネは少し考えてからレイとアンジェラの二人に視線を向ける。
「アンジェラとレイの二人には、待ち構えている部隊との距離が縮まったら私が通してくれるように言いに行くから、護衛として付いてきて貰える?」
「危険です!」
即座に却下したアンジェラに、レイもまた同意するように頷きを返す。
「悪いが俺も同意見だ。敵の目的はどう考えても俺達……正確にはフリツィオーネなのは間違いない。そんな敵の前に、わざわざ身を晒すような真似をするのは危険過ぎるだろう」
「そうですな、儂もこの二人と同じ意見です。フリツィオーネ殿下は儂等の象徴でもある。その象徴が真っ先に捕らえられ……もしくは考えたくもないですが、討たれるようなことになってしまっては儂等はこの先一生後悔と共に生きていくことになります」
ログノス侯爵にまで反対され、他にも周囲にいる白薔薇騎士団の面々もその通りですとばかりに頷いている。
まさに周囲は全て敵といった状態で、フリツィオーネとしてもそれ以上自分の意見を通すことは出来なかった。
勿論この第1皇女派を率いる人物である以上、強引に自分の意見を通そうとすれば出来るのだろう。だが、フリツィオーネとしてもここでそんな真似をしても意味がないというのは理解しており、大人しく退いた。
ただし……
「この馬車があれば、ちょっとやそっとの攻撃は効果がないのに……レイやアンジェラもいるし」
馬車の窓からそう告げるフリツィオーネは若干寂しそうに呟く。
「向こうへの交渉は私が行きますので、フリツィオーネ殿下はここで見ていて下さい」
宥めるように告げるアンジェラに、フリツィオーネは少し考えてから口を開く。
「……分かったわ。けど、レイもアンジェラと一緒に行って貰える?」
「俺も?」
まさか自分の名前が出てくるとは思っていなかったのか、思わず問い返すレイにフリツィオーネは頷く。
「そう。アンジェラの強さは信頼しているけど、それでも何かあったら色々と大変だもの。ならレイが行けば、向こうもまさかレイを相手に何かするとも思えないし、抑止力にもなるでしょうから。それに……」
と、そこで言葉を濁すフリツィオーネ。
相手の暴発を押さえる為の抑止力になるというのは言わない方がいいと思った為だ。
言葉を濁したフリツィオーネの様子に若干不思議そうにしながらも、レイとしてはすぐに頷く訳にはいかない。
「俺はそもそも、フリツィオーネの護衛として派遣されてるんだけどな」
「あら? 第1皇女派の護衛、でしょう?」
笑みを共に告げてくるフリツィオーネの言葉に、レイは思わず唸る。
その言葉は確かに事実であった為だ。
メルクリオにしても、自分達の勢力に合流してくれるフリツィオーネが無駄に戦力を減らした状態で合流するのは止めて欲しい。
出来れば戦力はそのままに……という思いもあって、反乱軍の中でも最大戦力であるレイが護衛に付けられたのだ。
実はメルクリオとしては、ヴィヘラとレイのどちらを護衛に回すかで多少悩んだのだが、セトという存在や純粋な戦闘力ではレイに劣るものの、兵を率いての戦いではヴィヘラの方に軍配が上がること、そして何よりメルクリオとしては数年ぶりに会った姉とあまり離れたくないというのもあって、レイが護衛役として派遣されることになっていた。
そうである以上、レイとしてもフリツィオーネ軍に……それも、側近でもあるアンジェラに被害を与える訳にはいかなかった。
小さく溜息を吐き、やがて頷きを返す。
「分かった、俺がアンジェラと一緒に行けばいいんだな? 確かにフリツィオーネの言う通り、俺は第1皇女派を守る為に派遣された護衛役だし」
「ええ、お願いね」
「……ごめんね、レイ。うちの殿下が」
笑みを浮かべてレイに任せるフリツィオーネと、申し訳なさそうに呟くアンジェラ。
レイも入れて三人のそんなやり取りは、気心を知れている者同士の距離の近さがある。
フリツィオーネの馬車を囲むように存在している白薔薇騎士団のうち、レイが見える場所にいる者は大半が微笑ましげに笑みを浮かべ、あるいはレイの乗っているセトに見惚れていた。
しかし、レイを好んでいない少数の者達は微かに眉を顰める。
この辺の態度の二極化が、実は白薔薇騎士団を率いるアンジェラの悩みの種になっていた。
そんな場所に、馬に乗って第1皇女派の後ろから付いてきている集団へと向かっていたウィデーレが戻ってくる。
「駄目ですね。全くこちらの話に聞く耳を持ちません。自分達はただ街道を歩いているだけなのに、何故そんなことを言われないといけないのか、と。さすがに武器を抜くような者達はいませんでしたが」
ウィデーレの言葉にフリツィオーネが残念そうに頷き、ログノス侯爵へと向かって口を開く。
「ログノス侯爵、もし戦闘になった時は背後にいる相手はログノス侯爵の部隊に任せても構いませんか?」
「お任せあれ。儂の部隊は精強揃い。人数的に考えても、向こうの部隊とは互角以上にやり合えるかと」
「一応、他の部隊の指揮を執ってというつもりだったのだけれど……」
「どちらでも構いませぬ。儂の力を存分に発揮させて貰います」
そう告げ、一礼して去って行くログノス侯爵。
「本当に大丈夫なのか?」
尋ねるレイだったが、言葉とは裏腹に多少心配そうな表情をログノス侯爵の背中へと向けていた。
レイを好意的に見てくれる貴族という時点で稀少であるというのもあるが、レイ自身がログノス侯爵の性格を気に入ったというのもあるのだろう。
だがそんなレイに対して戻ってきたのは、フリツィオーネの笑みを浮かべた表情。
「ログノス侯爵は戦場で幾つもの功績を挙げてきた人よ。心配はいらないわ。……まぁ、その功績の大半がミレアーナ王国との戦争でのものですが」
若干言いづらそうに告げるフリツィオーネ。
レイがミレアーナ王国の冒険者だというのを気にしているのだろう。
だが、レイはそんなフリツィオーネに対して首を横に振って口を開く。
「その辺は別に気にする必要はないさ。確かに俺はミレアーナ王国の冒険者だけど、別にミレアーナ王国に仕えているって訳じゃない。そもそも俺が有名になったのだって、ベスティア帝国との戦争でだしな」
ベスティア帝国との戦争という言葉に、やはり数人の白薔薇騎士団の面々が不愉快そうな表情を浮かべる。
恐らく自分の親族や友人といった身内が戦争へと参加した者達なのだろう。
フリツィオーネもそんな雰囲気を感じ取ったのか、一瞬だけ悲しそうな表情を浮かべ……だが、すぐに頭を切り換えて口を開く。
「それより、セトは何を食べるのかしら? ライオットは食べる?」
馬車の窓から、レイを背中に乗せて歩いているセトへと視線を向けるフリツィオーネ。
その手には、言葉通りにライオットが握られており、セトの嗅覚は甘い香りを嗅ぎ取っていた。
「グルゥ? グルルルルゥ」
喉を鳴らして視線を向けるセトは、ちょうだい、ちょうだいと目を輝かせる。
その愛らしさには、元々レイに対して好意的だった者達のみならず、反レイ派とでも呼ぶべき者達までもが思わず目を奪われた。
「ふふっ、レイ、あげてもいいかしら?」
自分の問いに頷きを返すレイを見て、嬉しそうに笑いながらライオットを軽く放り投げるフリツィオーネ。
セトはそれをクチバシで受け止め、シャクシャクと嬉しそうに食べる。
「……可愛い……」
ライオットを食べるセトを見て、ポツリと呟いたのは反レイ派の騎士。
だが、その目にはセトを撫でたい、可愛がりたい、自分も餌をやりたいという思いが透けて見えていた。
フリツィオーネがこれを狙ってセトにライオットを与えたのかどうか……それは謎である。