0742話
アンジェラとレイが話している時、不意にレイがその動きを止めて視線を扉の方へと向ける。
「レイ? どうしたの?」
「……どうやらお出ましらしいな」
そう答えるレイの表情を見て、誰が来たのかを理解したのだろう。アンジェラは慌てて座っていたソファから立ち上がり、扉の方へと向かう。
レイを小屋の中に残したまま外へと出ると、小屋の方へと近寄ってきている数人の集団がアンジェラの目に入る。
その中央にフリツィオーネの姿があるというのに気が付くと、アンジェラは慌ててそちらへと近づいて行く。
「フリツィオーネ殿下。随分と来るのが早かったですね」
「そう? もう夕方近いんだけど……」
「え?」
フリツィオーネの言葉を聞き、慌てて周囲を見回すアンジェラの目に入ってきたのは夕日で真っ赤に染まっている茜色の雲だった。
秋の夕暮れということで、どこかもの悲しさを感じさせる夕暮れの光景。
だが、アンジェラにしてみれば感傷を抱いている暇はない。
レイがどのような人物か見てきて欲しいと言われての行動だったが、すっかりそんなことを忘れて話に夢中になっていた自分に気が付いた為だ。
そんなアンジェラの様子に気が付いたのだろう。フリツィオーネは小さな笑みを浮かべてから口を開く。
「アンジェラの様子を見る限りだと、十分にレイとの交流は深めることが出来たみたいね。……で、どう? 私の将来の義弟は」
「……その表現はどうかと思いますが」
「あら」
義弟という言葉に、若干……そう、アンジェラとの付き合いが長いからこそ気が付くことが出来る程度の不満があるのを感じると、フリツィオーネは意外そうな表情を浮かべる。
(これは本当にもしかしたらもしかするのかしら?)
勿論本気でこの短時間でレイに対して恋をしたとは思わない。それでも、好意を抱いたのは間違いがないらしいと感じることは出来た。
だが、内心の思いを表情に出すことなくフリツィオーネは言葉を続ける。
「ふふっ、冗談よ冗談。それで、時間もないから手短に。レイはどんな相手だったの?」
「そうですね。驚く程貴族に対しての壁がありません。壁……という表現はこの場合ちょっと合わないような感じがしますが」
「その辺はウィデーレから聞いていた話と変わらないわね」
チラリ、とフリツィオーネが自分の近くにいるウィデーレの方へと視線を向けて告げる。
だが、アンジェラはそんなフリツィオーネの態度に首を横に振る。
「いえ、予想以上と言ってもいいでしょう。……話していて感じたのですが、レイの中では貴族というのは平民と変わらない程度の認識しかないように思えました」
「……レイ、ね。この短時間で随分と仲良くなったみたいね」
アンジェラがレイの名前を呼び捨てにしたのに気が付いたフリツィオーネが、笑みを含んだ視線をアンジェラへと送る。
「そ、それは……いえ、レイのことをよく知る為には仲良くなった方がいいと思ったので」
「ふふっ、別に責めるつもりはないからいいわよ。けど本気になっちゃ駄目よ?」
ヴィヘラがいるんだから、と視線だけで告げるフリツィオーネ。
アンジェラもそれは分かっているのか、特に何も口に出さずに頷く。
本人達としては小屋の外で……それも小声で話しているのだから、レイには聞こえていないと思ったのだろう。
事実、レイが普通の人間であればそれは正しかった。
だが……
(聞こえてるんだけどな)
普通の人間より遙かに鋭い五感を持っているレイにとっては、幾ら小屋の外で小声で話していても、扉が完全に閉まっている訳でもない以上その会話は丸聞こえに近かった。
話が一段落したのを見計らい、レイは小屋の外へと出る。
そんなレイを見て、フリツィオーネは笑みを浮かべつつ口を開く。
「初めまして……と言うべきかしら。一応闘技大会の時に私は貴方の顔を見ているけど、こうして直接会うのは初めてだし」
「ああ、それでいい」
ぶっきらぼうとしか言えないレイの言葉遣いに、この場にフリツィオーネと共にやってきた白薔薇騎士団の内の数人が一瞬驚きの表情を浮かべ、視線を鋭くする。
フリツィオーネ、アンジェラ、ウィデーレのようにレイの性格をどんなものか知っている者、あるいは予想出来ていた者は特に怒ったりはしなかったのだが、それでもやはり多少の驚きは表情に出る。
貴族に対する言葉遣いがぶっきらぼうなのは別にいい。……いや、一般的に考えれば良くはないが、それでも理解は出来る。
だが皇族であるフリツィオーネにまで、とは思ってもいなかった為だ。
唯一この場でレイとヴィヘラ、メルクリオが会話しているのを見たことのあるウィデーレだったが、そのウィデーレにしても初対面のフリツィオーネを相手にしてこんな言葉遣いをするとは思ってもいなかった。
そんな中で最初に動きを見せたのはフリツィオーネ。
穏やかな笑みを浮かべながら口を開く。
「そう言って貰えると嬉しいわ。私も妹の恋人とはきちんと挨拶をしたかったのだし」
「……恋人?」
規定事項のように告げてくるフリツィオーネの言葉に、レイは首を傾げる。
勿論自分がヴィヘラに想いを寄せられているというのは気が付いている。露骨なまでのアピールを受けているのだから当然だろう。
だがそれでも、レイはヴィヘラの気持ちを受け入れるつもりは今のところはない。
……もっとも、それでいながら拒絶したのが一度だけだというのがレイの欠点ではあるのだが。
「ええ。あの子はいい子だけど、色々と癖が強いのが気になっていたの。ただでさえ他の人を圧倒する程の強さを持っていたのに、自分より強い相手でなければ身を任せないなんて……全く」
憂鬱そうに溜息を吐くが、そのフリツィオーネにしても既に二十代半ばだというのに、未だに結婚をしていないどころか婚約者すら決まっていない。
「勘違いしているようだから一応言っておくけど、別に俺とヴィヘラはそういう関係じゃないぞ」
「……あら? 私の聞き間違いかしら?」
「いや、聞き間違いじゃない。俺とヴィヘラはそういう関係じゃないと言った」
断言するレイに、首を傾げるフリツィオーネ。
数秒程何かを考えるように首を傾げていると、やがて訝しげに口を開く。
「あの子のどこが不満なの? 確かに色々と我の強い性格をしているし、より強い相手との戦いを楽しむという悪癖を持っているわ。けど、言うまでもなく美人だし、男の人が好む身体つきをしている。面倒見もいいし、頭もいい。……正直こう言うのも何だけど、一冒険者にしては勿体ないくらいの優良物件よ?」
真面目な表情で妹のアピールを口にするフリツィオーネにメルクリオの姿を思い出し、何だかんだでやっぱり姉妹なんだろうなと思う。
例え母親が違って半分しか血が繋がっていなくても、フリツィオーネがヴィヘラを可愛がっているというのは今のやりとりだけで十分に伝わってくる。
「それは分かっている。俺には勿体ない程の相手だということもな。けど……残念ながらその気持ちに応えることは今は出来ない」
レイの口から出たその言葉に、フリツィオーネは何となく事情を理解する。
皇女と言えども女。それも、恋の噂が途切れることがない……どころか、そこら中に溢れている社交界の中を生きてきたのだから。
だが、そんなフリツィオーネとは裏腹に白薔薇騎士団の中で生きてきた者にはその辺の事情が理解出来ない者もいる。
あるいは理解しているのかもしれないが、先程からのフリツィオーネに対する態度や言葉遣いを許せない者達だ。
白薔薇騎士団に所属しているだけあり、女らしい遊びや恋といったものよりも自らを鍛えてきた女騎士達。
自分達の主君であるフリツィオーネに対しての不遜な口の利き方、自分達がこれまで経験してきたことのない恋を楽しんでいるように――少なくても女騎士達には――見える様子、更にはその相手がベスティア帝国でも戦う女という意味では最強の存在であるヴィヘラであるということ。
それらの複雑な思いを抱いていたのが、その一言で我慢の限界を超える。
「ヴィヘラ殿下に想いを寄せられているのにそれに応えないなんて……不遜です!」
「私も同感です、フリツィオーネ殿下。このような男にヴィヘラ様を任せるなんて絶対に止めておくべきです!」
「ちょっと自分の顔がいいからって、女を取っ替え引っ替えするなんて……」
「ヴィヘラ様もきっと騙されているんですよ!」
それぞれが我慢出来ないとばかりに告げる言葉に、レイは苦笑を浮かべ、フリツィオーネは溜息を吐き、アンジェラは頬を引き攣らせる。
特にアンジェラの場合はレイに好意を――それがどのような好意かは本人も分かっていなかったが――抱いているだけに、レイが侮辱されるのを黙って見てはいられなかった。
不幸中の幸いだったのは、レイの役目がメルクリオの特使ではなく、フリツィオーネ達が反乱軍に合流する時の護衛として派遣した人物だったことだろう。
もしも特使という形で派遣されていたのであれば、今の侮辱はレイだけではなくその背後にいるメルクリオまで侮辱したことになるのだから。
もっとも、特使ではなくてもレイがメルクリオがわざわざ派遣した人物であるというのに変わりはない。
「お前達、いい加減にしろ! レイ殿に失礼だろう!」
最初に爆発したのは、アンジェラではなくウィデーレだった。
怒りの籠もった視線で騎士達を睨み付ける。
ウィデーレにしても、レイに好意を抱いているのはアンジェラと同様だ。もっとも自分が手も足も出ない程の強さを持つ人物という意味での好意なのが、アンジェラとは違うのだが。
『し、失礼しました!』
ウィデーレの怒声に、レイを責めていた女騎士達が一斉に頭を下げる。
この辺の動きが統一されているのは、厳しい訓練を共にしてきたからこそか。
「謝るのであれば、私ではなくレイ殿に謝れ」
『申し訳ありません!』
「いや、別に気にするな。ただ、俺は敬語とかが苦手だからな。どうしても不愉快だというのなら、この先は出来るだけ喋らないようにするが、そっちの方がいいか?」
フリツィオーネの方へと視線を向けて尋ねるが、戻ってきたのは首を横に振るという仕草。
「そんなことはないわ。確かに貴方みたいな態度で私に接する人は初めてだけど、それが新鮮で面白いわね」
自分に最も近しい男は皇帝であるトラジストと、カバジード、シュルスの三人。そして少し離れてメルクリオ。
だがカバジードは丁寧な言葉遣いであり、シュルスはぶっきらぼうではあるが、雰囲気が違う。
メルクリオは兄弟ではあるが、自分よりもヴィヘラの方に懐いていた為に、カバジードやシュルス程に親しい訳ではなかった。
父親のトラジストにいたっては、ここ数ヶ月まともに会話をしたことがない。
近衛騎士や貴族といった者達もいるが、その者達にしてもフリツィオーネは皇女という立場である以上は気安く話し掛けることが出来る筈もない。
そういう意味では、フリツィオーネにとってもレイという存在は初めての存在だった。
(初めての男の人……という表現は色々と不味いかしら)
内心では照れつつも、表情には出さずに平静を装う。
この態度の使い分けの上手さは、第1皇女として育ってきたおかげだろう。
「……まぁ、そっちがそれでいいんなら俺は構わないけど」
レイが言葉を返すのを聞いたフリツィオーネは、視線を先程レイに向けて罵倒していた騎士達の方へと向ける。
「貴方達も、分かりましたね?」
『はい! 申し訳ありませんでした!』
フリツィオーネの言葉にも息を合わせて謝罪する様子は、先程ウィデーレに対して謝罪している時のものと比べても遜色ない程に息が合っている。
やはりウィデーレは上司であって、フリツィオーネが主君であるからだろう。
フリツィオーネも、そんな白薔薇騎士団の騎士達を見ながら満足そうに頷く。
「では、皆。こんな場所で話していても目立つだけですし、私とレイ、アンジェラ、ウィデーレは小屋の中に入るので、それ以外は周辺を警戒していて下さい。大丈夫だとは思いますが、もしシュルスやカバジード兄上の派閥の者達が来たら、こちらにレイがいるというのは決して知られないようにして私に連絡を」
自分の言葉に皆が頷くのを見ると、フリツィオーネは笑みを浮かべてレイの方へと視線を向ける。
「さて、それじゃあ小屋の中でお話しましょう。私としても将来の義弟とはゆっくりと話をしてみたかったですしね」
「……いや、だから俺とヴィヘラはそういう関係じゃないんだが」
溜息を吐きつつも、恐らく目の前の女にこれ以上言っても無駄だろうと判断して、レイは他のメンバーと共に小屋の中へと向かう。
その際に、庭師と思しき相手達からの視線を背中に感じたのは、やはりフリツィオーネという存在がいたからだろう。
もっともフリツィオーネ本人は全くそのことに何かを感じた様子はなかったのだが。