0738話
時は少し戻る。
私室とでも呼ぶべき場所で、フリツィオーネはアンジェラと共にウィデーレと顔を合わせていた。
尚、シュルスやカバジードのような執務室ではなく私室で報告を聞いているのは、純粋にフリツィオーネに兄や弟のような仕事がない為だ。
第1皇女であるフリツィオーネは、教養の為の勉強や貴族の子女を招いての茶会、社交界における花としての役割をこなしてはいるが、明確な仕事がある訳でもない。
もっとも、政治というのは社交界の場で話し合われて決められることも多く、そういう意味ではフリツィオーネも十分にベスティア帝国の政治に参加していると言えるのだが。
そんなフリツィオーネは、ウィデーレから渡された手紙……メルクリオからの親書へと目を通しながら、普段は柔らかな笑みを浮かべている表情を微かに強張らせる。
アンジェラは親書に何が書かれているのかを疑問に思ったが、ウィデーレはその中身を大体理解していた。
恐らく、メルクリオから前もって聞かされていた自分の配下という形になるということが書かれているのだろうと。
(フリツィオーネ殿下の狙いは、自分が反乱軍……メルクリオ殿下に協力することにより、討伐軍と反乱軍の間に軍事的な膠着状態を作ること。そしてお互いが身動き出来ないようになったところで、自分が間に入ってお互いの仲を取り持つ。それが狙いだった。しかし……)
メルクリオを始めとした反乱軍には、最初から討伐軍……シュルスやカバジードとの関係修復は考えていなかった。
メルクリオにとって、現状は危機でもあるが好機でもある。
現在の皇位継承権を考えれば、このまま平穏に時が流れた場合はメルクリオが皇帝の地位に就くということはまず有り得ない。
だからこそ、今この場で明確な決着を付け、自分よりも上にいる者達を排除しようとしていた。
もっとも、メルクリオにしてもさすがに兄を殺そうとまでは思っていない。
正直に言えば命を絶つのが最善ではあったのだが、それをすると第1皇子派、第2皇子派の者達が間違いなく騒ぎを起こし、今起こっている自分の反乱よりももっと酷く、泥沼の内乱騒ぎになることが明らかだった為だ。
それを阻止するには、兄二人の命を奪わずに蟄居。そこまでいかずとも貧しい領地を治めさせるようにするのが最善だろうという狙いがある。
そこまでする為には、この反乱で圧倒的な勝利を得なければならない。
以前から考えていたメルクリオ率いる反乱軍ではそんな真似は出来なかったが、今は……そう、レイが反乱軍に与している現在の状況であれば、不可能ではなかった。
それ故に、フリツィオーネが味方につくというのはともかく、膠着状態にするというのは受け入れることが出来ない。
だからこそ、自分の下につくというのをメルクリオは条件として挙げていた。
「……フリツィオーネ殿下……」
心配そうに主君へと声を掛けるアンジェラ。
声を掛けられた本人は、瞳に悲しみを宿しながら幾度となく手紙に視線を向ける。
「メルクリオ……貴方までそんなつもりだったなんて」
自分がどう動いたとしても、兄弟同士での血で血を洗う戦いを止めることは出来ないと知り、声に悲しみが滲む。
「どう、なさいますか?」
尋ねつつも、アンジェラは既にその答えを予想していた。
フリツィオーネの考えは甘かった――正確にはメルクリオの考えが苛烈だった――が、それでも既に反乱軍へと合流する為の準備は整えてきたのだ。
自分の派閥に加わっている貴族達にも既にその辺を説明して、フリツィオーネと共に行くなり、自分の領地へと一旦避難するなりといった行動を起こす為の準備をしている。
そうである以上、合流するのをはい止めましたと言う訳にいかない。
(それに……)
脳裏を兄と弟の姿が過ぎったのを機に、フリツィオーネが口を開く。
「変わらないわ。このまま反乱軍に合流しましょう」
「それでいいのですか? メルクリオ殿下は既に決戦を決意なされています。フリツィオーネ殿下の考えていた風に話は進みませんが」
確認するようなアンジェラの問い掛けに、フリツィオーネは瞳に悲しみを宿したまま頷く。
「ええ。こうなってしまっては、なるべく早くこの内乱を終わらせてお互いに抱く憎しみを少しでも少なくするべきよ。それに……メルクリオやヴィヘラなら、カバジード兄上やシュルスとは違ってまだ私の話を聞くだけの余裕はあるでしょう」
既に戦いが避けられないのだとしたら、少しでも早く戦いを終わらせるべき。
悲しみと共に瞳に浮かべた決意に、アンジェラだけではなくウィデーレまでもが目を見開く。
見誤っていた。それが二人がフリツィオーネに対して思ったことだ。
てっきり、悲しみで途方に暮れたまま行動を起こさない。そんな可能性すらも予想していたのだから。
だがフリツィオーネは、悲しみを感じつつもすぐに次の行動を起こすべく頭を回す。
(確かにこの御方もトラジスト陛下の血を引く者、ということなんでしょうね。まさかこんな時にそれを実感するなんて。その狙いが自分が皇位継承の争いに勝ち残ることではなく、兄弟同士の戦いを少しでも早く終わらせる為だというのがフリツィオーネ殿下らしいけど)
内心で感心しつつ、アンジェラは口を開く。
「では、どうされますか? 既にレイ殿はフリツィオーネ殿下がいつも使っている小屋にお通ししているとのことなので、すぐにでも……」
「いえ、それは少し待って頂戴。派閥の人達に知らせるにしても少し時間が掛かるし、今はそのままにしておいて」
「ですが、方針が決まったのならすぐにでも知らせた方がいいのでは? レイ殿としても、それを知っていれば安心は出来るでしょうし」
「……ウィデーレ、城の近くでカバジード兄上と会った。そうよね?」
「え? あ、はい。その、ご迷惑を掛けてしまい……」
デューンの方から絡んできたとはいえ、レイという特大の爆弾を抱えたまま一触即発の状態になったのだ。更に近衛騎士までもが姿を現した。
もしカバジードが現れていなければ、あのまま近衛騎士に取り調べを受けていた可能性もある。
そうなれば、当然レイの正体は知られていただろう。
結果として、帝都そのものが燃やし尽くされる危険もあったのだから。
レイが火災旋風を作るにはセトの力を借りなければならないということを知らないウィデーレとしては、今更ながらに背筋が冷たくなる思いすらする。
「カバジード兄上がレイ殿を見たのなら、恐らくその正体は知られていると思ってもいいでしょう。闘技大会でも見ている筈だし」
「ですが、レイ殿のローブには隠蔽の効果があるという話を聞いていますが……」
帝都に向かう途中の野営の時に聞いた情報を思い出して告げるウィデーレだったが、戻ってきたのはフリツィオーネの真面目な表情だった。
いつも柔らかい笑顔を浮かべているフリツィオーネだけに、そうやって真面目な表情を浮かべるとより迫力が増す。
「いい、ウィデーレ。カバジード兄上を甘く見ちゃ駄目。人の一手や二手どころじゃないわ。五手六手先を読んでくるということを普通にやるのだから、恐らく彼の正体は見抜かれている。そう思った方がいいわ」
「……では、余計に急いだ方がいいのでは?」
レイの正体が知られたとすれば、当然そのレイを連れてきた白薔薇騎士団が……そして白薔薇騎士団を擁しているフリツィオーネが怪しまれるのは当然だろう。
「ここからは、少しの失敗でも許されなくなる。そう思った方がいいでしょうね」
フリツィオーネの中では、既にレイの存在をカバジードに気が付かれたというのは半ば確定事項だった。
そして、ウィデーレから聞いたレイの性格や言動。そこには人に縛られるのを嫌うというのを強く感じ取ることが出来、そんな相手だけに現状を詳しく知らせると妙な真似をしかねないという思いがあった。
「個人的には好ましいと思うのだけど……ね」
ポツリと呟くフリツィオーネの言葉に、アンジェラとウィデーレは驚きの表情を見せる。
基本的には人を嫌わないフリツィオーネだが、それでも人を……それも男を好ましいと表現したことは殆どない。
まさか直接会った訳でもないのだから、恋愛感情ではないだろうと思いつつ――あるいは願いつつ――も、フリツィオーネの妹であるヴィヘラがレイに対して抱いている想いを考えれば、必ずしも有り得ないことではないかもしれない。そんな考えがアンジェラとウィデーレ二人の脳裏を過ぎる。
「その、フリツィオーネ殿下。一応言っておきますが、ヴィヘラ殿下もレイ殿に対して……」
「え? ああ、そのこと? 勘違いしないでね。私は別にそのレイ殿に対して恋愛感情を抱いている訳ではないわ。ただ、その子はヴィヘラが好きな子なんでしょう? なら、将来的には私の義理の弟になるかもしれない相手じゃない。なら仲良くやっていければいいな、と思っただけよ」
苦笑を浮べかて否定するフリツィオーネだったが、お嬢様――皇女様――育ちということもあって、恋愛に関しては人一倍興味深い。
兄や弟もまだ若いというのに浮いた噂が殆どない。
いや、シュルスの場合はアマーレという乳兄弟がいるが、フリツィオーネの目から見ても二人に何かがあるようには見えなかった。
そこまで考えて、フリツィオーネは軽く頭を振る。
「色々と考えたいことはあるけど、今はそれどころじゃないわね。……アンジェラ、悪いけどレイ殿……いえ、ヴィヘラの想い人で将来の義理の弟なんだからレイと呼び捨てにすべきかしらね。レイに食事を持って行ってあげてくれる? そのついでに話して、どんな性格かを見てきて欲しいのだけど」
「構いませんよ。ウィデーレの話を聞いて、私も興味深いと思ってましたし」
「……アンジェラ。言っておくけど貴方までレイを好きになったら駄目よ? レイには私の妹のヴィヘラがいるんだから」
この時、ウィデーレがエレーナのことを知らなかったのは、幸運だったのか、不幸だったのか。
フリツィオーネに釘を刺されたアンジェラは、溜息を吐いて口を開く。
「私はフリツィオーネ殿下と違って恋愛には興味ありませんから」
「それはそれで困るでしょう。特に貴方の父上のルクシノワ伯爵が」
アンジェラは、ルクシノワ伯爵の娘でもある。
もっともルクシノワ伯爵の地位は兄が継ぐのだから、別に婿を取る必要もない。
そもそもアンジェラは次女であり、上には姉が一人いる。……既に結婚して他の貴族の下へと嫁いでいるが。
「恋愛するにしても結婚するにしても、それは騎士団長の地位を次の者に受け継がせた後ですよ。今は仕事が恋人です」
チラリ、とウィデーレの方を見ながら呟くアンジェラ。
白薔薇騎士団の中では腕が立ち、部下からの信頼も厚い。
本人も多少頭が固いが、それでも十分に次期団長になれる器ではあった。
もっとも、他に騎士団長の候補として考えている者がいない訳でもない。
確かにウィデーレは有力な次期団長候補ではあるが、それでもまだ候補の一人でしかないのだ。
「全く……まぁ、アンジェラがそういう人だから私も信頼出来るのだけど。とにかく、レイに食事を持って行ってあげて頂戴。くれぐれも周囲の目は撒いてからお願いね」
「はい」
数秒前の微かに和やかな雰囲気は一変し、フリツィオーネの言葉に真剣な表情で一礼するアンジェラ。
それでもどこか優雅に見える辺り、やはり白薔薇騎士団というフリツィオーネ直属の騎士団の団長をしているだけのことはあるのだろう。
「では、フリツィオーネ殿下。私は早速レイ殿に食事の方を届けてきますので。少し失礼します。……ウィデーレ、私が戻るまでは貴方がフリツィオーネ殿下の護衛を」
「はい。護衛の任、承りました」
ウィデーレの返事を聞き、アンジェラは満足そうに頷くとその場を去って行く。
その後ろ姿を見送ったフリツィオーネは、早速とばかりに白薔薇騎士団の者を呼んで自分の派閥に属する貴族達に面会の要望を伝えて貰う。
手紙の類を使って呼んでも良かったのだが、手紙の場合は明確な証拠として存在してしまう。
もしそれがシュルスやカバジードの手の者に奪われてしまえば、間違いなく第1皇女派と呼ばれている者達にとっては致命的なものになってしまうだろう。
その危険性を考えると、一定以上の実力を持っている白薔薇騎士団の者を派遣するというのが最善の行動だった。
(私にどこまで出来る? ……ただ、それでも兄弟同士で血を流す光景は見たくない。そう思って行動する私は、やはり我が儘なんでしょうね)
自分は世間で優しいという評判だが、全ては自己満足でしかない。
そう思うと、フリツィオーネは微かに自嘲の笑みを浮かべるのだった。