0703話
「う、うわぁっ! グ、グリフォン!?」
一人の男が、いきなり目の前に現れたその存在に思わず大声を出す。
恐怖と驚愕が混じり合ったその叫びは、男の周辺にいた他の者達の視線も集める。
地面に倒れている数人に、向かい合って剣呑な雰囲気を発していた十人程の男達。
それらは数秒前まで行われていた殴り合いすらも止めて、目の前に現れたグリフォンへと視線を向けていた。
「はぁ。人数が多くなると騒動も大きくなる、か。もっとも武器を抜かないで殴り合いをしているところは褒めてもいいけどな」
そんなグリフォン……セトの隣に立つレイが、溜息と共に呟く。
その時になって、ようやくセトだけに意識を集中していた者達はその場にローブを身に纏った人物がいるのに気が付いた。
それが誰かというのは、この反乱軍の陣地にいる者にしてみれば分からない筈がない。幾度となく訓練をつけられているのだから。
そう。この陣地に数日でもいた者にすれば、だ。
逆に言えば、反乱軍に今日合流したばかりの者の中にはレイとセトを知らない者もいる訳で……
それが、最初にセトを見た時に大声で叫んでいた者だった。
「で、何が原因だ? 面倒事はあまり増やして欲しくないんだけどな」
そう声を掛けるレイだったが、別にレイ自身がこの陣地内の警邏の類をしている訳ではない。
ただ純粋に乱闘騒ぎをしている場所に通りかかっただけだ。
警邏に関しては、専門の者が行っている。
反乱軍と言えども……いや、反乱軍だからこそと言うべきか、三千人近い人数が集まれば当然揉めごとの類も多くなり、それを憂慮したティユールの意見が採用されて部隊の任務の一つに警邏活動が追加されたのだ。
シュルスの派遣した部隊との戦いで圧勝したという話は広まり、それを聞いた者達が反乱軍に合流。あるいは様子見という名の風見鶏と化していた貴族の一部も、先の展望は明るいと見て反乱軍に合流してきていた。
もっとも、メルクリオやテオレーム、ヴィヘラといった反乱軍の首脳陣とも言うべき者達は集まってきた兵士や冒険者、傭兵といった者達はともかく、貴族に関してはあまり信頼していない。
自分達が有利と見て味方をしたということは、不利になればいつ裏切ってもおかしくない相手なのだから。
それを考えると、とてもではないが信用は出来ても信頼は出来ない。
また、そのような貴族達の場合は利己主義的な面がある者も多く、一般の兵士や民間人に対して横柄な態度を取る者も少なくない。
そんな相手を信頼出来る筈もなく、反乱軍上層部はそのような者達は基本的に予備戦力や消耗の激しい前線へと送ることに決めていた。
「そ、それは……こいつらが俺達の順番に横入りして来たんだよ。それで……」
「違う! 俺達はこいつに並んで貰っていたのを代わっただけだ!」
それぞれのグループの代表が自分の意見を口にする。
その言葉を聞き、少し驚きの表情を浮かべるレイ。
日本では行列を作って並ぶというのは珍しいことではない。レイにしても日本にいた時に店で並んだ経験があるのだから。
だが、この世界では行列を作るということは滅多にない。
行列に並ぶくらいなら、別の店なりなんなりに行くというのが普通だからだ。
勿論並ぶことが一切ないという訳ではないのだが。そんな風に思いつつ、男達の並んでいた行列の先へと視線を向けると、すぐに納得する。
そこにあったのが、娼館――急ごしらえのものだが――だった為だ。
二日後にはこの陣地から移動して、オブリシン伯爵領から出ることになる。
そうなれば反乱軍と行動を共にしているとより危険度が増すのは確実であり、そんな危険に付き合えないと判断した者達は付いてくることはない。
リスクとリターンを考え、それでもリターンを選択する者は反乱軍の移動と共についてくるのだが、それについていけない者はここで反乱軍と別れることになる。
そして、レイの視線の先にある娼館に関してもその選択をしたのだろう。
「ルルリィちゃんと最後に楽しもうと思ってきたのに、こいつらが……」
「ふざけるな! ルルリィちゃんは俺と一緒に最後の日を過ごすんだ!」
「ああ、分かった分かった。分かったから取りあえず黙れ」
そんな言葉のやり取りに、思わず額を押さえたのは当然だっただろう。
それこそ、頭痛が痛いという感じに。
「つまり、単純に行列に横入りしたって話じゃなくて、目当ての娼婦がどうこうって理由なんだな?」
確認の意味を込めて尋ねるレイに、それぞれの集団の代表がそれぞれ頷く。
(で、目当ての娼婦が一人って割には、何だってこんなに大勢で争ってるんだ? いや、そこに突っ込めばまた余計な面倒に巻きこまれるか)
溜息を吐いたレイがミスティリングから取り出したのは、デスサイズ。
まさかこの場面でセトと共にレイの代名詞ともなっているデスサイズが出てくるとは思わなかったのだろう。それを見ていた者達が思わずといった様子で数歩後退る。
「お目当ての娼婦がどうとかいう問題はあるんだろうが、それで騒ぎを起こされるとこっちが迷惑だ。もし続けるようなら、俺が相手になるが……どうする?」
「グルゥ!」
自分も忘れるな! とばかりに喉を鳴らすセト。
そんなやり取りを見せられ、それでも尚戦いたいと思う者は少ない。
レイだけでも絶対に勝てない相手だと散々身に染みているのに、そこにセトまで加わるのだ。
討伐軍との戦いでは、レイやセトとの訓練のおかげで自分達よりも千人近くも多かった敵に対して怯むことはなかった反乱軍だったが、その訓練相手が出てくるとなれば話は別なのだろう。
「……分かった、分かった。分かりましたよ」
「しょうがない……」
それぞれの代表二人が、これ以上ここにいてもどうしようもないと悟ったのか、仕方なさそうにそう告げる。
その口調には明らかに未練があったが……
そんな二人を見て、これ以上の諍いはないだろうと判断したレイはデスサイズをミスティリングの中に収納する。
普通であればミスティリング……アイテムボックスの存在に驚く者もいるし、中には良からぬことを考える者もいるだろう。
だが、この場にそんなことを考える者はいない。
兵士や冒険者、騎士といった者達はレイとの訓練でミスティリングを使っている光景を幾度となく見ているが、同時に覇王の鎧を使用したレイの姿も嫌という程に見ている。
あの訓練を体験した者で、レイに対して害意ある行動をする者がいたとしたら、それは勇者や英雄と書いて愚者と呼ばれる者だという認識で一致している為だ。
また、メルクリオやテオレーム、ティユールといった者達が自軍の士気を上げる為にレイが闘技大会の準優勝者であり、優勝したランクS冒険者のノイズと互角の戦闘をしたという話も噂として広げている。
レイにしてみれば明らかに手加減をされている戦いであり、とてもではないが互角にやりあったと言える戦いではなかった。
それでも反乱軍の士気を高める為であれば……ということで、それを不承不承認めていたのだが。
ともあれ、そのような理由から反乱軍の中で好んでレイと敵対しようという者はいない。
敢えて挙げるとすれば、レイとの戦闘を楽しみたいグルガストといったところか。
また、それらの者から話を聞いている為にこの陣地で商売を行っている者にしても手を出す者はいない。
最初はミスティリングを盗んでから逃げ出してしまえば何とかなると考えた者もいたのだが、結果的には身体の骨数ヶ所を折られて陣地の外に放り出されるという結果になった。
不幸中の幸いだったのは、ここは辺境でない為に外にそれ程モンスターがいないということだろう。
同時に、ここに陣地を張る際念の為にということで周辺に存在していた数少ないモンスターも反乱軍の手によって根こそぎ殲滅されている。
この地に存在していたモンスターがいなくなったのだから、既にこの地はずっと安全……という訳ではない。
この地のモンスターがいなくなった以上、いずれどこか他の地から流れてきたモンスターが姿を現すだろうし、そのモンスターがこの地に根を下ろすだろう。
それでも暫くの間……ここに反乱軍の陣地がある間はまず大丈夫だろうというのが反乱軍の者達の考えだった。
「そうか、納得してくれたんならそれでいい。それより、陣を移すまでもう少しだ。いざ出発する時にあれがない、これがないとかならないように、準備だけはしておけよ」
それだけを告げると、レイはセトの頭を一撫でしてその場から去って行く。
何か騒動が起きるかもしれないと周辺に集まっていた者達にしても、結局は特にこれといった騒動が起きる訳でもなく、これで終わりと知るとそれぞれ自分の用事を済ませるべく散っていく。
「じゃあ、セト。俺達も引っ越しの準備をするか?」
「グルゥ!」
陣地の中を歩きながらの呼びかけにそう答えるセトだが、レイの場合は特にこれといって必要な準備はない。
悠久の空亭で暮らしていた時もそうだったが、基本的な荷物に関してはミスティリングの中に収納されている為だ。
今回の場合はそれにプラスしてマジックテントがあるが、そのマジックテントにしても数秒もあればミスティリングに収納が完了する。
マジックテントにしても、ミスティリングにしても、このような野営を行う場合や引っ越しに関して非常に便利であると言ってもいいだろう。
「……ま、だからこそ中には馬鹿な考えを起こす奴も出てくるんだが……この陣地の中だと基本的に安全だしな」
「グルルルルゥ」
若干不満そうなセトの声。
そんなセトと共に歩きながら、レイは小さく笑みを浮かべて頭を撫でる。
夜に関しては自分が見張っているんだから、レイは絶対に安全だよ。そんな意思を込めての鳴き声だった為だ。
「分かってるって。セトがいつも俺の為に頑張ってくれているのは。……今日も夜は頼むな。これでも食べて頑張ってくれ」
そう告げてセトへと差し出したのは、ミスティリングから取り出した干し肉だ。
それも、悠久の空亭で作られている一品……いや逸品。
普通に食べただけでも美味なその干し肉を、喉を鳴らしてクチバシで口の中へと運ぶセト。
それを見ていたレイもまた、干し肉を口へと運ぶ。
「うん、やっぱり美味いな。買い溜めしておいて良かった」
「グルゥ!」
そんな風に干し肉を食べながら、まっすぐに自分達が前日にマジックテントを使った場所へと向かう。
当然そこにはマジックテントの姿はない。
それも当然だろう。マジックテントはミスティリング程ではなくても、非常に高価なマジックアイテムだ。
この反乱軍の陣地の中でも、存在するのは総司令部的に使われている物と、レイの持っている二つしか存在していない。
それ程に高価なマジックテントである以上は放り出しておく訳にもいかず、朝になって身支度を済ませた時点でミスティリングへと収納している。
ミスティリングは誰かが盗むことが出来たとしても、使用者が限定されている為に使われることはない。
だがマジックテントは違う。元々ダスカーから春の戦争の報酬として貰った物ではあったが、そもそもダスカーにしてもより高性能のマジックテントを入手したからこそ、これを手放す決断をしたのだ。
そして旧型である以上性能は新型よりも低い――普通に野営する分には全く問題ないのだが――のは当然であり、防犯対策の機能が充実している訳でもない。
それを考えると、やはり使い終わったらすぐにミスティリングの中に収納しておくというのがもっとも効果的な防犯対策と言えた。
そもそも、盗むべき物がなければ窃盗事件の類は起きようがないのだから。
「それにしても、随分と反乱軍も大きくなってきたよな。今回の陣地の移動でそれなりに人数は減るんだろうが」
「グルルゥ?」
レイの横を歩きながらセトが同意するように喉を鳴らす。
そんな一人と一匹に対し、陣地の中にいる反乱軍の者達は畏怖や恐怖、信頼、憧憬といった様々な視線を送ってくる。
中にはセトに対して柔らかな視線を向けてくる者も増えてきており、反乱軍の中でも順調にセト愛好家が増えつつある証と言えた。
もっとも、それでもギルムやエグジルの時のように急激にセトを可愛がる者が増えないのは、やはりここが反乱軍だからだろう。
正確にはセトが訓練を受け持つこともあり、その為に兵士達の中にはセトの畏怖や恐怖が刻み込まれているからだ。
いや、そんな状況であってもセトに対して愛らしいと感じることの出来る者が増えているのを驚くべきか。
尚、セトを可愛がる者は当然と言うべきか、女の兵士や騎士、冒険者といった者の方が多い。
そして、そんな戦闘を担当する者以外……それこそ何らかの物を売りに来た商人や娼婦といった者達にしてみれば、セトは初対面の時に受ける衝撃さえどうにか出来れば、すぐに可愛がるようになる。
セトも自分を可愛がってくれる相手に対しては愛想がいいので、それを見て更に可愛がり……という、ある種の好循環があるのだった。