0623話
「なるほど、勝った……か」
呟く声が貴賓室の中に響く。
それを聞いているのは、この部屋の主でもある人物……即ち、ベスティア帝国の皇帝トラジスト・グノース・ベスティアと、貴賓室に控えているメイド、そしてたった今声を発したランクS冒険者、不動の異名を持つノイズのみだった。
他の皇族がいないのは、それぞれの派閥の者達と共に闘技大会を見物しているか、あるいはそもそも闘技場に来ていないのか。
普通の行事であれば皇帝が参加している行事に姿を現さないのは不敬と言われても当然だが、今行われているのは闘技大会であり、あくまでも祭りに近い。
更に、本戦だけでも一日二日で終わるようなものでない以上、基本的には最初に行われる開会式と閉会式にさえ出席すれば、その後は基本的に自由となる。
……もっとも、それでもスカウト目的や他派閥との交渉、その他諸々にやるべきことが多い以上は、多くの貴族が闘技場にやってくるのだが。
「確かに勝ちはしたな。禄に魔法を使わず、更にはあの大鎌に関しても刃を使うことなく」
「ああ。恐らくは俺と戦う為に力を付けているのだろう。事実、一回戦の時よりも技術的に腕が上がっている」
「ほう? 不動と言われるお主にそこまで言わせるか。確かに深紅という冒険者はとてつもない力を秘めているようだな」
「当然だろう。わざわざ俺が目を付けたんだから。……そもそも、前もって宰相から打診されてはいたが、偶然会ってみて興味を惹かれるような相手じゃなきゃ、闘技大会への参加自体を断っていたさ」
とてもではないが、大陸でも最大の版図を持つベスティア帝国の皇帝に対するものとは思えない言葉遣い。
もしもここに誰かがいれば、目を見張ったことだろう。
だが、トラジストはノイズのそんな言葉に楽しそうな笑みを口元に浮かべるだけであり、メイドにしても特に何も口出しする様子はない。
これが……これこそが、ランクSの冒険者なのだ。
一国の皇帝を相手に対等な口を利くことが許されるというのが、世に3人しか存在しないランクSの冒険者がどれ程のものかを明らかにしていた。
そしてノイズがこの場にいることこそが、皇帝のいる貴賓室に護衛が誰もいない理由。
トラジストがノイズがいれば他の護衛はいらないと、その実力を心の底から信頼しているというのを示しているのと同時に、ノイズもまた自分がいる限り、トラジストに対して何らの危害も加えさせるつもりはないと態度で示している。
双方共に妥協の産物ではあるが、お互いがお互いを気の置けない友人であると認識しているのも事実だった。
……友人にしては、多少年齢が離れているが。
「なるほど。……では、戯れに問おう。あの者はこれから先ベスティア帝国の前に立ちはだかると思うか?」
戯れ。そう告げてはいるが、その内容は極めて重い。深紅が敵になるのであれば、軍を向けても一掃されるだけだというのは、春の戦争で明らかになっている。
つまり、広域殲滅戦を得意としている深紅という相手に対抗する為に必要なのは、数ではなく質。
個人で……あるいはパーティ単位で深紅と渡り合えるだけの実力を持つ者が必要なのだ。
「可能性は高い、としか言えないな。俺が奴と会ってみたところ、別にミレアーナ王国に対して忠誠を尽くすという風な性格には思えなかった。だが、仕事として請け負えばその間は味方をする……そんな態度だろうな」
「では、引き抜きは可能か? 別にミレアーナ王国に対してそこまで思い入れがないのであれば、こちらの味方になるとも考えられるが」
ノイズの説明を聞いていれば当然出る質問。
しかし、ノイズ本人はその問い掛けに軽く首を横に振る。
「あくまでも俺の勘でしかないが、恐らくこっちに味方してミレアーナ王国と敵対するという真似はしないだろう」
「何故だ? お前の言っていることが事実であれば、別に向こうに味方をする必要性はない筈だ」
「だから、それこそ勘でしかないんだよ」
勘。それだけではあったが、トラジストが納得するには十分な理由だった。
もしこれが、その辺の冒険者が勘が理由だと言えば、恐らく鼻で笑っていただろう。
だが、目の前にいるのはランクS冒険者のノイズなのだ。そこまでの人物が言う勘というのは、当然信用に値する。
そして、その勘というのは正しかった。
確かにレイはミレアーナ王国自体に対して特に執着はない。いや、寧ろ貴族派との諍いを始めとして嫌な思い出も相当多い。
しかし……それでもレイがミレアーナ王国そのものと敵対するという可能性は恐ろしく低かった。
その理由は幾つもあるが、その大きな理由としてやはりエレーナ・ケレベルという存在がいるだろう。また、最初に立ち寄った辺境の街ギルムという場所に関しても愛着を抱きつつある。
それらの理由から、今のところレイがミレアーナ王国に対して敵対をするという理由はない。
その辺の事情を知っている訳でもないのに、本能的に感じ取る能力はランクSという冒険者の中でも頂上の……そして超常の存在故なのだろう。
「なるほどな。だが、そうなるとあの者はこれからの余の行動にとっては障害にしかならぬか。……全く、あのような者が余の後継者となってくれれば安心出来るのだがな」
そこまで呟き、小さく溜息を吐く。
自分の息子や娘達が、現在皇位継承権に関して暗闘を繰り広げているのは知っている。
それを駄目と言うのではない。トラジストの立場としては、寧ろもっと勧めたいくらいだ。
何しろ、ベスティア帝国というのは最強の国なのだから。少なくても国民は皆そう信じているし、そうであれと行動している。
確かにベスティア帝国は強国だろう。だが、それでも最強の国と呼ぶにはまだまだ力不足だ。
だからこそ、ベスティア帝国の皇帝を目指そうという者は相応の力量を求められる。
トラジストもまた、皇帝になる為に多くの血縁者達と暗闘を繰り広げたのだから、それは身に染みて分かっていた。
そこまでして……己の実力だけではなく、運の要素、あるいは仲間の有能さといったもの全てを持っている者こそがベスティア帝国の皇帝の座に就けるのだから。
そういう意味で、既に舞台を去って行った深紅の異名を持つ冒険者はトラジストの琴線に触れる何かを持っていた。
この男がベスティア帝国の皇帝になれば、恐らく国はより高く飛翔出来るだろうと。
それこそ、ベスティア帝国の長年の悲願でもある海を手に入れ、ミレアーナ王国を呑み込み、大陸全てにベスティア帝国の旗を掲げることになるだろうと。
勿論それはあくまでもトラジストの直感に過ぎない。だが、ノイズと同様にベスティア帝国の皇帝まで上り詰めた男の直感だと考えると、信憑性が皆無という訳でもないのだろう。
「なら、いっそ婿にでもとったらどうだ?」
どこかからかうように告げてくるノイズに、トラジストは苦笑を浮かべて返す。
確かにそれが最も効率的な選択であるのは事実だ。だが、そのような真似をすれば貴族の間の不満が爆発し、下手をすれば内乱ということにもなりかねない。
「セレムース平原であそこまで被害を受けていなければ別だったんだろうがな」
「それを言うなら、セレムース平原であそこまで活躍したからこそ深紅という異名が付けられたんだろう? そこまでして名前が売れたから、ベスティア帝国の貴族も捨て置けない状態になっているんだ。もし奴がセレムース平原で活躍していなければ、そこまで買い被る必要はなかったと思うが」
小さく笑みを浮かべたノイズの前に、そっとカップが差し出される。
メイドからの気遣いに、短く礼を告げてカップへと手を伸ばす。
「ま、今のままだとどうあっても深紅を引き入れるのは難しいだろう」
「……なるほど。今は、か」
含み笑いを浮かべつつ、意味ありげな視線をノイズへと向けるトラジスト。
確かに今はミレアーナ王国との関係が悪い。だが、それが永遠に続く訳でもないのは事実だ。
ベスティア帝国の皇帝として、決してミレアーナ王国に引く訳にはいかないが、向こうが譲歩をしてくるのなら情けを掛けるのも吝かではないのだから。
「いつになるか分からない『今』だけどな」
「……ふん」
揶揄するような口調で告げてきたノイズに、トラジストは些か不機嫌そうに鼻を鳴らす。
だが、次の瞬間には唇を小さな笑みの形に歪めて口を開く。
「お前としては、深紅とは敵対していた方がいいのであろう?」
「否定はしない。何しろ、それが目的でこんな茶番劇に参加したんだ」
「おや、茶番劇とは言葉が過ぎる。ベスティア帝国の中でも一大行事だぞ?」
言葉では咎めているが、その声色に滲んでいるのは笑みの感情だ。
トラジストは知っている。自分の隣にいるランクSの冒険者は決して表情に出さないが、退屈を持てあましていることを。
いや、ランクSまで到達したからこそ、と言うべきか。
圧倒的な強者であり、そうであるからこそ自分の相手になる者はいない。それでいてやることがない為に訓練を欠かすことはなく、その結果更に強さが上がる。
色々な意味で不器用な男なのだ。
(酒や女といったものに興味でも持てば、話は別だったんだろうが……な)
冒険者という職業に生真面目であるからこその、停滞とも言える状況。
下から上がってくる者でもいれば話は別なのだろうが、今の帝国にはランクAはいてもランクSの器を持つ者は存在しない。
そもそも、世界で3人しか存在しないのがランクSなのだ。そうそう簡単に増える筈もなかった。
だからこそ……トラジストは、目の前にいる男が見込んだ深紅という人物に強い興味を持つ。
元々春の戦争の件で興味は持っていたのだが、今はそれ以上に興味を向けている。
(深紅と不動。このまま順調に進めば決勝で当たることになるが……さて、その時に何が起きるのだろうな)
内心でそう考えつつ、トラジストはいつの間にか始まっていた次の試合へと視線を向けるのだった。
「ほれ、金だ」
貴賓室に入るや否や、レイはエルクから渡された布袋を受け取る。
そこに入っているのは、当然の如くレイが自分に賭けていた賭け金。……だがそれを受け取ったレイは、小さく眉を顰める。
袋の重さが、自分に賭けるようにエルクに頼んだ時と殆ど変わっていないように思えた為だ。
「一応聞くけど、勝ったんだよな?」
「当然だろ。だから一応賭け金は増えている筈だ。……ただ、お前の名前が有名な影響もあって、倍率が低いんだよ。いわゆる鉄板だな」
「一回戦の時はそれなりに相手にも賭けた奴がいただろ?」
一回戦の時、深紅憎しで相手を応援する意味も込めた者が大勢いたのは事実だ。だが、その者達がレイではなく対戦相手のアナセルに賭けたということは、当然レイが勝った以上その者達は賭けに負けたということになる。
同じ事を続けてやる気になる者は少なかったのか、結果的に今回の戦いではレイの倍率が非常に低くなった。
「一回戦の評判は結構悪かったと思ったんだけどな」
「お前が一方的に押されていたしな」
レイの言葉にエルクが頷く。
事実、素人目には防戦一方の戦いだったのだ。だが、ある程度以上の技量の者が見れば、それは全く違う話となる。
一回戦で見せたその技量を脅威に思った者達も相当数おり、その者達から話が広がった結果がレイの手の中にある袋の重さの正体だった。
「むぅ。しょうがない、か」
小さく溜息を吐き、そのまま金貨や銀貨の入った袋をミスティリングの中へと収納する。
それを見ていたのだろう。ダスカーと同じ部屋にいた貴族と思われる人物が驚愕の声を発しながら目を見開く。
恐らくは今日初めてこの貴賓室に入った人物なのだろうと判断し、レイは特に気にせずに舞台で行われている試合へと視線を向ける。
そこではこの世界では非常に珍しいことに、棍を持った20代程の女が長剣を持った壮年の男を相手に圧倒した戦いを見せていた。
「普通なら棍じゃなくて槍とかを選びそうなもんなんだけどな」
隣で呟いたエルクに、レイが視線を向ける。
「相手を倒すんじゃなくて、生かして捕獲するのを目的とした流派の武術を習っているとかか?」
「となると、警備兵とかその辺の出身かもしれないな」
そんな風に会話をする二人だったが、視線の先で行われているのはとても捕獲云々という光景ではない。
棍自体が特殊な素材でできているのか非常にしなりが強く、手首を軽く動かすだけで突き出された棍の軌道が変わり、剣を持った男の身体を幾度となく突く。
寧ろ、棍だからこそ……槍のように刃がついていないからこそ、壮年の男は大きなダメージを受けることはないまま、一方的に打撃を食らってダメージを蓄積させていく。
結局はそのまま殆ど一方的に攻撃を続けられ、殆ど完勝と言ってもいいような戦いで試合は幕を閉じたのだった。
「……うちの息子、勝ち進めばいずれあの女と戦うんだろうが……変な趣味に目覚めたりしないだろうな」
そんなエルクの言葉がレイの耳には印象深く聞こえてくる。