0577話
深夜、与えられた部屋の中で眠っていたレイは、ふと目が覚める。
特に何か理由があった訳ではない。強いて言えば、嫌な予感がしたといったところだろう。
窓の外には月が浮かんでおり、その月明かりのみが部屋の光源となっていた。
その月明かりを浴びつつ、眠ってからまだ数時間程度だった為かまだ微かに眠気を感じつつも、手を枕元に伸ばして明かりのマジックアイテムを起動させる。
ここが普通の宿であれば、当然部屋の1つ1つに明かりのマジックアイテムは存在しない。だが、この宿はダスカーが泊まったことからも分かるように、貴族や大商人御用達の宿だった。
そのおかげで、蝋燭の類ではなく明かりのマジックアイテムが部屋ごとに存在する。
ともあれ、そんなマジックアイテムを起動すると月明かりしかなかった部屋に眩い明かりが灯る。
その眩しさに目を細めつつ、ドラゴンローブを身に纏い、スレイプニルの靴を履き、まだ微かに残る眠気を消し去るために水を絞った布で顔を拭く。
そこまでしてようやく完全に目が覚めたレイは、窓から外の様子を伺う。
幸いこの宿は普通の宿と同じように1階が食堂で2階に部屋があるという構造になっている為に、外の様子を窺うには不自由はなかった。
「……特に何も異常はない、か」
少なくても今は。そんな言葉を噛み殺す。
この街の騎士団に所属しているドワルーブからの情報にあったように、不穏な輩がいる以上……そして宿に向かう途中に感じた殺気。それらを考えれば、この成り行きは当然だった。
だが、寝ている時に感じた何かは間違いなくこれから起きる騒動の前触れだろう。殆ど確信にも近い思いを抱きつつ、レイは部屋を出る。
「おわっ……何だ、レイか。いきなり出てくるなよ。にしても、こんな真夜中にどうした?」
丁度部屋の前を通りかかろうとしていた騎士が、驚きの表情を浮かべつつ尋ねてくる。
騎士が何をやっているのかといえば、当然見回りだ。
何かが起きるのはほぼ確定である以上、その予兆をいち早く察知する為、あるいは宿に侵入してきた者がいたとしたらそれを少しでも早く発見する為の見回りである。
この宿は現在ダスカーが借り切っている為、見回りをしても全く問題はない。
これが他にも客のいる宿であれば、多少話は別だったのだろうが。
咄嗟のことだったので剣の鞘へと伸ばしていた手を離し、安堵の息を吐きながら尋ねてくる騎士。
だが、レイの口からでたのは騎士の予想を超える一言だった。
「恐らくそう遠くない内に襲撃がある。何があってもすぐに対応出来るようにしておいた方がいい」
その言葉を聞いた騎士が、ピクリと動きを止める。
次の瞬間、先程まで浮かべていた驚きの眼差しではなく、鋭い視線をレイへと向けながら口を開く。
「外に誰かいたのか?」
「いや。窓からは見えなかったな。ただ、こう……言うなれば、冒険者としての勘が警鐘を鳴らしているんだよ」
冒険者としての勘。普通であれば、それは笑い話にもならないだろう。
何しろ、騎士の視線の先にいる相手はまだ冒険者になって2年にも満たないのだから。
だが、それがレイであるとなれば話は違う。確かに冒険者になってから2年も経ってはいないが、その短い期間で一気にランクB冒険者にまで上り詰めた男なのだから。
そして、ランクAモンスターのグリフォンを従えている男でもある。
ラルクス辺境伯の騎士団に所属する者としてそれを知っていたからこそ、騎士は無駄な言葉を発さずに視線を鋭くして口を開く。
「すぐに臨戦態勢を整える。他の休憩している者達もすぐに起こしてくるから、レイはダスカー様の下に向かってくれ」
「分かった」
短いやり取りを済ませ、去って行く騎士の背を一瞬だけ確認してからレイもまたその場を後にする。
向かうのは宿となってる2階でも、最も奥に用意されている特別な部屋だ。
その部屋の扉の前には、護衛として騎士が2人立っていた。
騎士の片方が足早に近づいてくる人物に気が付き、腰の剣へと手を伸ばし……次の瞬間、近づいてくるのがレイだと知り、安堵の息を吐く。
隣の騎士の行動に、少し遅れて剣へと手を伸ばそうとしていたもう1人の騎士もまた安堵の息を吐いて口を開く。
「どうしたんだ、レイ?」
「嫌な予感がしてな。恐らくもうすぐ何か起きる。ダスカー様に取り次いでくれ」
「……なるほど、だからか」
「ん?」
騎士の発した予想外の言葉に、レイは思わず首を傾げる。
それを見た騎士は、とてもではないが高ランク冒険者には見えない様子に笑みを浮かべたくなるのを堪えつつ口を開く。
「いや、部屋の中で音がしてな。ついさっきまでは眠っていた筈なんだが」
「へぇ」
騎士の口から出た言葉に、思わず感心の声を上げるレイ。
そんなレイの様子を眺めつつも、最初にレイに反応した騎士が扉をノックする。
「ダスカー様、レイが来ていますが。何か起きるかもしれないとのことです」
「分かった、入れろ」
「はっ!」
短いやり取りの後、騎士が開いた扉から部屋の中へと入るレイ。
そして、部屋の中にエルクやミン、ロドスの姿があるのに気が付き、先程の騎士の言葉に納得する。
(そうだよな。幾ら何でもエルクがあの感覚に気が付かない筈はない、か)
ダスカーもかなりの腕利きではあるのは知っているレイだが、それでもラルクス辺境伯領の領主という立場である以上は実戦から遠ざからざるを得ないのは事実だ。
勿論訓練の類を怠っていないのはその頑強な身体を見れば明らかだったが、それでも訓練と実戦は大きく違う。
そんなダスカーがこうして準備万端整えているのは、護衛としてダスカーの部屋と繋がっている部屋に泊まっていたエルクがいたからこそだろう。
「レイ、お前もか?」
「はい」
ダスカーの言葉に短く言葉を返すレイ。
「お前もってことは、やっぱり俺の勘違いって訳じゃないみたいだな」
「その辺に関しては前もって忠告されていたというのもあるからね」
エルクが頷き、ミンもまた同意するように頷く。
「さて、そうなると問題はいつことが起きるかだが……近いうちと言っても、10分後と1時間後では随分と違うからな」
「そうですね、ダスカー様の仰りたいことも分かりますが……恐らくは」
ダスカーの疑問に答えるようにレイがそこまで呟いた、その時。不意に扉が激しくノックされる。
「ダスカー様、一階の方から何かを壊す音が!」
この部屋は貴族や大商人といった者達が泊まる部屋だけに防音施設もしっかりとしている。
今は、それが原因で一階で起こった騒ぎが聞こえなかったのだろう。
「こうもタイミング良く来てくれるとは思わなかったな。……ダスカー様、どうしますか?」
「そうだな……」
レイの問い掛けに、一旦言葉を止めると数秒程考える。
視線が向けられるのは、レイとエルクのこの場における最大戦力の2人。
そのまま視線をレイに向け、口を開く。
「レイ、ロドスと一緒に下を見てきてくれ。暴れているようなら、鎮圧して欲しい」
「ロドスと?」
てっきり1人で行けと言われると思っていただけに、驚きの表情を浮かべてロドスへと視線を向けるレイ。
そんな視線を向けられたロドスは、若干不満そうな表情を浮かべつつも特に何を言うでもなく黙っている。
レイとの実力差を理解しているからこその沈黙だった。
一瞬、そんなレイとロドスの視線が交わり、やがてレイは何かに納得したのか頷きを返す。
「分かりました。では、一階の方はこちらで処理します」
「ああ。騎士達もいると思うから、手が足りないということはない筈だ」
「はい。……エルク」
「分かってるよ。こっちに何か仕掛けてきても、どうとでもしてやる。だからお前はさっさと一階に行ってこい。……ロドスを頼む」
「ま、ロドスもランクC冒険者だ。ちょっとやそっとのことでどうにかなったりはしないよ。だろ?」
どこかからかうような響きの問い掛けに、当の本人は憤然と言い返す。
「当たり前だ! 不穏分子だか何だか知らないけど、母さんや父さんの手を煩わせるまでもないってことを証明してやる!」
その言葉に、内心でやっぱりミンの方が先なのかと思ったレイだったが、ここでそれを口に出せばいらない騒ぎが大きくなるだけだと判断して特に何も言わずに踵を返す。
ロドスもまた、レイの後を追っていく。
「ま、心配はいらないだろうが気をつけろよ」
「レイ、ロドス。出来れば下で暴れている奴等を何人か捕らえてくれると助かる。今回の件で誰が糸を引いているのか知りたいからな」
エルクとミン、それぞれの言葉を背にしてレイとロドスは部屋を出て行く。
「話は聞こえてた。頑張れよ」
「ここは俺達が守ってるから、ダスカー様は心配いらない……って言っても、エルクがいる時点で俺達って必要ないよな」
そんな風に言葉を掛けてくる騎士に小さく笑みを浮かべて軽く手を振ったレイは、後ろにいるロドスを振り返りもせずに口を開く。
「走るぞ。あまり宿に被害を出したくない」
「ああ」
ロドスからの返事を聞くや否や、そのまま廊下を走り出すレイ。
本気で走れば廊下が壊れるということもあって、ある程度力を抜いて走っており、だからこそロドスも何とかついてこれる速度に留まっている。
それでも一般人にしてみれば、完全に置いていかれる速度なのだが。
そのまま10秒と掛からずに階段のある場所へと到着する。
既にそれなりの人数が宿の中に入り込んでいるのだろう。カウンター前ではダスカーが連れてきた騎士が大勢の侵入者と戦いを繰り広げていた。
とはいっても、その戦いは一方的なものだ。侵入者達も怒号を上げながら剣や槍、棍棒、あるいは農作業用の道具と思しき物を振り回しているのだが、全てを騎士達に防がれ、カウンターのように一撃を食らってはその場に崩れ落ちる。
強力なモンスターが多数存在している辺境の騎士団を相手に、侵入者……否、ただの暴徒ではどうにか出来る筈もない。
それでも拮抗しているのは、暴徒の数が多いからだろう。
1人が気を失っても、すぐに仲間が引っ張っていき、また別の1人が前に出る。
そんな風にしながら戦い続けている暴徒と騎士団を眺めつつ、何故防御に徹しているのかを理解した。
騎士達がいるのは階段の前であり、2階に上げないように防御を固めている。……つまり、その場から動けない。
(他の騎士はどこに……いや、なるほど)
階段の上で周囲を素早く見回したレイは、すぐに納得する。
戦いの喚声が聞こえてきているのは、階段の周囲だけではなく食堂の方からもだと。
(俺が部屋から出た時に会った騎士が食堂で休憩していた騎士にこの件を知らせた……だったらいいんだがな。いや、今はそれを考えている暇はないか)
数秒で周囲の状況を確認したレイは、階段を守っている騎士が振るった鞘に収まったままの剣の一撃が男の胴体を殴りつけたのを見ながら、2階の手すりへと手を伸ばす。
「ロドス、お前は階段を守っている騎士の援護だ」
「おいっ、レイ!?」
指示を出しながらあっさりと手すりを乗り越えたレイに、思わず叫ぶロドス。
1階と2階の高さは、5mを優に超えている。
勿論普通の冒険者であれば殆どが問題なく飛び降りられる高さだ。
だが、今は下に無数の暴徒が集まっている乱戦の最中。それを考えれば、レイの行動は迂闊なものにしか思えなかった。
しかし、空中へと飛び出したレイは1階へと落下している途中でスレイプニルの靴を起動。そのまま空中を数歩分足場にして、殆ど音をたてることなく1階の床へと着地する。
「なっ、てめえっ!」
突然自分の隣に降ってきたレイに、暴徒の1人が一瞬驚き、次の瞬間にはその手に握っていた棍棒を振りかぶり……
「げふっ!」
棍棒を振りかぶったが故に、隙だらけになった胴体へと向けて無言のままミスティリングから取り出した短剣を突き出す。
男にとって幸運だったのは、短剣が鞘に収められている状態だったことだろう。
モンスター解体用の安物の短剣ではあるが、鞘に包まれた切っ先は暴徒の男の鳩尾へと埋まり、一瞬にして意識を刈り取る。
周囲ではまだ大勢の暴徒が階段を守っている騎士との戦いに集中している為、殆どの暴徒がレイに気が付いていない。
数少ない気が付いている者も、最初はレイの見た目から与しやすい相手と判断したのだろうが、一瞬のやり取りで暴徒が床に崩れ落ちたのを見て危機感を覚えたのだろう。特に何かをするようなことはなかった。
目の前にいる人物が深紅であると知っていれば話はまた変わっていたのだろうが、宿を襲っているという興奮の中、街中を歩いていたレイの顔を見た者もそれを思い出すどころではない。
レイは地面に倒れた暴徒をそのままに、周囲を見回す。
だが、自分に襲い掛かってくる者はおらず、一瞬上へと視線を向ける。
そこにいたのは、どこか呆れた表情を浮かべているロドスの姿。
レイの視線が自分に向けられているのに気が付くと、クイッと顎を食堂の方へと向け、さっさと行けと合図をする。
そんなロドスに小さく頷いたレイは、暴徒達の視線に見つからないように背を低くしながら食堂へと駆け抜けていく。
……自分の背が小さいのがこんな時に便利だと、嬉しいようで嬉しくなかったりと微妙な感情を抱えつつ。