0576話
「いいか、くれぐれも1人で街中に出るような真似をするな。忠告されていた通り、この街は色々ときな臭い。間違いなく何らかの面倒事が起きるだろうが、それを1人で受ける必要はないんだからな」
宿にある食堂で、エルクがその場にいる皆へと向かって告げる。
それを隣で聞いていたダスカーもまた、エルクの言葉に同意するように頷き口を開く。
「出来ればこの街は素通りして、街道の脇で野営でもすれば良かったんだろう。だがミレアーナ王国の貴族としてこの地に来ている以上、襲撃が怖いから逃げたという風評はあまり嬉しくないんだ。それに……」
そこで一旦言葉を句切ったダスカーは、食堂に集まっている者達を一瞥してから話を続ける。
「俺は、お前達を信頼している。いいか? 信用じゃない。信頼だ。俺と共にギルムで生活し、鍛え、共に歩んできたお前達をだ。それにこの場には、ランクAパーティの雷神の斧や深紅の異名を持つレイもいる。俺が信頼している騎士と、凄腕の冒険者。この状況であれば、例え誰が襲ってきたとしても俺を傷つけることは出来ないだろう。それに、この宿に来るまでの間にも皆感じていたと思うが、悪意を持った者がかなりの数いる。間違いなく襲撃があるだろう。それぞれの奮闘を期待する」
ダスカーの言葉が終わり、騎士達へと待機場所を割り振っていく。
幸いだったのは、今回ダスカーがこの宿に泊まるということで貸し切りになっていたということか。
数人の利用客はいたのだが、代官からの要請によって既に別の宿へと移されている。
中にはベスティア帝国の貴族もいたのだが、さすがにミレアーナ王国の貴族でもあるラルクス辺境伯の方が重要だったのだろう。
騎士の殆どは宿の中で待機となっており、それぞれが自分の担当する場所へと散っていく。
そんな中、レイはといえば取りあえずは自室での待機を命じられていた。
それぞれの待機場所が決まり散っていた中、レイは自室に向かう前にエルクの方へと向かう。
既にダスカーの姿は食堂内にはない。ミンやロドス、騎士と共にこの宿の中でも最高級の部屋へと避難済みだ。
食堂に残っているのは、レイとエルク、交代を待つ騎士達のみ。
そんな中、エルクが近づいてきたレイに自分の方から声を掛ける。
「レイ、分かっているとは思うが……」
「ああ。どうやらベスティア帝国の中でも、俺達はかなりの有名人らしいな」
「そりゃそうだろ。……お前に関しては特にな。一応俺もそれなりに知名度はあったと思うが、ことベスティア帝国内だとお前の方が上なのは間違いない。もっとも悪名だが」
エルクは話し掛けつつも、レイが殆ど緊張していないことに気が付く。
自分が狙われていると――本命はあくまでもダスカーだが――知れば、何らかの動揺を表に出すのが普通であるのを考えると、内心で感心混じりに納得もする。
自分がこれまで付き合ってきたレイという人物であれば、当然だろうと。
「襲撃して来た相手がいたら、出来れば生かして捕らえて欲しい。向こうの裏とかも知りたいからな」
その言葉にレイが頷くのを見たエルクは、満足そうに頷いて食堂を出て行く。
しかしその後ろ姿を見送っていたレイは、念を押すように告げられた言葉から、自分がどれだけ生け捕りすることが出来ないと思われているのかと、微妙に憂鬱な気持ちになる。
(俺だってその辺は……)
そうも考えるのだが、自分のこれまでの行いを考えればエルクの忠告も無理はないと判断して、改めて溜息を吐くのだった。
「殺す、殺す、殺す。奴は絶対に俺が殺す」
「そうね、貴方が戦場に置いてきたものを取り戻すには、その原因を殺すしかないわ。いえ、寧ろそれを取り戻せば貴方は逃げ出した時とは比べものにならない程強くなる。そう、強くなるのよ。そうすればもう2度と敵を前にして逃げ出すなんてみっともない真似をしなくてもいい」
「そうだ、俺は奴を殺すんだ。絶対に……どうあっても、確実に」
レイ達の泊まっている宿からそれ程離れていない場所にある建物。その地下室で10人を超える男達が呟き続ける。
その声は地下室に響き渡っているが、皆が皆自分の声にだけ意識を集中しているのか、他人の声が聞こえている様子はない。
数少ない例外が、時々男達の中へと自然に入り込んでくる女の声だろう。
他にも甘く蠱惑的な香が焚かれており、男達の意識を徐々にではあるが鈍らせていく。
地下室の中を歩き回りつつ、女は時々男達の頭をそっと撫でては耳元で言葉を囁く。
(何とか間に合ったけど……当初の予想よりも進行具合が鈍い。深紅を直接その目で見たからかしら。……まぁ、そこまでこの子達に恐怖を植え付けた出来事があったんでしょうけど。炎の竜巻、ねぇ)
噂話だけは聞いていたが、それを直接見た訳ではない。それ故に、女はそこまで見た者に恐怖を植え付ける炎の竜巻――火災旋風――を想像することが出来なかった。
(もっとも、ベスティア帝国に招待されて来ている以上、まさか街中でそんな大規模な攻撃魔法を使う訳にもいかないでしょう。その辺はあまり心配する必要はないわ。となると、残るのはグリフォンかしらね)
そんな風に考えつつも、女は自分がやるべきことをやり、香の匂いと魔力の籠もった言葉で男達を自分の思う方向へと変えていく。
幾ら捨て駒に近いとはいっても、女にとっては自らが手を掛けた存在だ。それに襲撃の目的でもある、深紅以外の実力を調べる為にもそう簡単にやられてしまっては意味がない。
(そう、ね。もう少し強めにしておいた方がいいかしら)
内心で呟いて納得すると、改めて男の耳元で魔力の籠もった声で囁く。
「いい? 貴方達は強い。それを皆に証明するの。手の一本、足の一本切断されても、それは貴方達にとって行動を妨げる要因にはならないわ。右手を失ったら左手に武器を持って。左手を失ったらその足で蹴りつけ、あるいは体当たりして、敵の喉に食らいついてでも戦うの。そうすることで、貴方達の強さを皆に証明出来る。戦場から逃げ出したなんて汚名は何かの間違いだったと」
女の口から出る声は、男達の脳裏へと染みこんでいく。
本来であれば人体が自らの身体を痛めない為に付けている枷を外していき、痛覚を麻痺させ、それでいて頭の働きを阻害せずにどのような手段を使っても敵を殺す為に。
それこそが自分達の取るべき道であり、汚名を雪ぐのだと。
延々と、ただひたすらに延々と。幾つかの明かりがもたらす光と部屋中へと漂っている甘い匂い。そして魔力の籠もった声。この3つのみが存在する中で、男達は自らの意識を作り替えられていくのだった。
「終わったか?」
女が地下室から出ると、そんな風に声を掛けられる。
そちらに視線を向けると、そこにいたのは20代程の男。
女の仲間の1人であり、今回の襲撃の指揮を執る予定になっている男だ。
「ええ、何とか時間通りには間に合わせたわ。後はお願いするわね」
笑みを浮かべてそう告げる女。
その声は、つい先程まで男達の精神を壊し、麻痺させ、作り替えていた人物のものとは思えない程に気安げなものだ。
また、街道で話していた時のよそ行きのものとも違う、気を許した相手のみに向ける言葉遣い。
男の方もそれを理解しているのか、手に持っていた果実水を女へと手渡す。
「ありがと。そっちの準備は?」
「ある程度の人数は集めたが、所詮は数が多いだけの雑魚に過ぎんよ」
男にしても、集めた手勢の質の悪さに関しては思うところがあったのだろう。その口調には不満が滲み出ている。
「ここで質に拘ってどうするのよ。今回はあくまでも相手の戦力を測る為の威力偵察みたいなものなんだから、どうせ質に拘るのなら本番の時にしてよね」
「だが……」
「何よ」
何かを言い返そうとした男だったが、女に何か文句でもあるの? と言わんばかりの強い視線を向けられると、小さく首を横に振る。
「いや、お前の言う通りだ。悪いな、ムーラ」
「ふんっ、シストイが拘りすぎなのよ。凝り性なところは別にいいけど、変なところに拘り過ぎちゃ意味ないでしょ」
「むぅ……」
シストイと呼ばれた男も、ムーラと呼ばれた女も、人を洗脳し、あるいは使い捨てにするというのに全く気にしている様子はない。
間違いなく向かわせた者達は死ぬだろうと理解しているにも関わらずだ。
この辺は長年裏の世界で暮らしてきた者だけに、罪悪感の類は既に存在していないのだろう。
「ほら、取りあえず夜までは暇なんでしょ? なら、ちょっとお茶に付き合ってよ」
「……これは駄目なのか?」
シストイの視線が向けられたのは、手に持った果実水。
その言葉を聞いたムーラは、呆れた様に溜息を吐きながら手の中にある木のコップへと視線を向ける。
晩夏、あるいは初秋ともいうべき季節ではあるが、日中の気温はまだまだ暑い。コップに入れた時はまだ冷たかったのだろうが、ムーラが地下室から出てくるまでの時間を考えると、生温くなっているのは当然だった。
「こんな温い果実水より、まだ熱い紅茶の方がいいわ。別に時間に余裕がない訳じゃないんだし、少しくらい付き合いなさいよ」
「……分かった」
手に持っている果実水とムーラの顔を見比べ、一瞬残念そうな表情を浮かべつつもシストイは残っていた果実水を飲み干してからムーラの後を追う。
飲めるのなら温い果実水でも、あるいは紅茶でも……それこそ水であっても変わらないではないか。そんな思いもあったのだが。
(少なくても泥水を啜るよりはマシだと思うんだがな)
ムーラと共に小さい頃からスラム街で生き抜いてきたことを思い返しながら、内心で呟く。
そこまでして、ふと思い立つ。
(昔のことを思い出す? 俺がか? 何でまたそんな意味のないことを……いや、これは……)
一瞬だけ背筋を冷たい何かが走ったのに、微かに眉を顰める。
自らの中にある第六感とも呼ぶべきもの。それがしきりに危険を知らせているような気がした為だ。
それなりに長い時間を裏社会で生きてきた以上、第六感の働きを無視は出来ない。
これまでも幾度となく自らのその感覚に助けられてきたのだから。
「ちょっとシストイ。何をぼけっとしてるのよ。行くわよ」
「ん? ああ、悪い。少し考えごとをな」
小さく頭を振って嫌な予感を振り払いつつ、それでも自分の中の警鐘を無碍には出来ずにムーラへと声を掛ける。
「なぁ、今回はあくまでも向こうの戦力を見るだけなんだよな?」
「ん? 当然でしょ。今更何を言ってるのよ」
「いや、ちょっと嫌な予感がしてな」
シストイの口から出たその言葉を聞いたムーラは、微かに眉を顰める。
「ちょっと、やめてよね。あんたの予感って微妙に当たるんだから。……それも悪いことに限って」
「そう言われても、別に俺が好きでやってる訳じゃないんだけどな」
「……ちなみに、どのくらい?」
「以前に依頼主の貴族に裏切られて、後ろから騎士団に襲われたことがあっただろ。あれよりも上だ」
「うげ」
ムーラの口から漏れたのは、とても女が……それも20代が出していいような声ではなかった。
仕事の依頼をこなしたのはいいが、それを片付けた自分達に対して口封じをしようとした貴族の件。
手練れの騎士が揃っており、幾度となく死を覚悟した戦いだった。
もっとも、それでも何とかその場を切り抜けたので、ここにこうして無事にいるのだが。
当然2人を裏切った貴族に関しては、報復の意味を込めて数日の時間を掛けてゆっくりと皮を剥ぎ、肉を削ぎ、骨を削り、そこに塩を塗り込み……と、自らの行動を文字通りに死ぬ程後悔することになった。
それらを思い出し、憂鬱な表情を浮かべるムーラ。
「今夜の件は安全重視でいきましょう」
「そうだな、それがいい」
勿論この場合の安全というのは手駒としている者達の安全ではなく、自分達の安全だ。
「噂に聞く深紅を含めて相手にするんだから、楽な仕事になるとは思ってなかったけど……予想以上に大変なようね」
「それはしょうがない。どう考えても苦労するからこそ、こっちに仕事を回されたんだから」
「はいはい、分かったわよ。……ま、幾らなんでも遠くに離れていればこっちが見つかることもないでしょ。とにかく夜になるまでは精々英気を養わせて貰うわ」
そう告げるムーラにシストイも同意するかのように頷き、今度こそ紅茶を飲むべく2人で移動する。
後に残ったのは、微かに地下室から漂ってくる甘い匂いの香りのみであり、その香りにしてもそれ程時間が掛からずに霧散していくのだった。