0558話
夏の日差しが降り注ぐ早朝。つい先程午前6時の鐘がギルムに鳴り響いた頃、レイの姿は正門前にあった。
周囲にいるのはレイとセト以外にもレノラ、ケニー、ミレイヌ。他にもエルクやミン、ロドスといった雷神の斧のメンバーや、ミレイヌの保護者としてスルニンの姿もあった。
レノラ、ケニー、ミレイヌの3人がどこか疲れた雰囲気を浮かべているのは、前日にレイの泊まっている夕暮れの小麦亭へと押しかけて夜遅くまで騒いでいたからだろう。
もっとも、ミレイヌからの要望により厩舎近くで夜の月明かりの下、宴会……正確には壮行会を行うことになったのだが。
ミレイヌはセトとの別れを惜しみ、レノラはレイに心配そうに声を掛け、ケニーはレイに一夏の思い出を作らないかと誘う。
……もっとも、その度にケニーはレノラによって制裁を受けていたのだが。
ともあれ夜遅くまで騒いでいた一行は、結局レイ以外の3人も全員が夕暮れの小麦亭へと泊まることになる。
ギルムの中でもそれなりに高級な宿として知られている夕暮れの小麦亭だったが、レノラとケニーはギルドの人気受付嬢として高い給料を貰っていたし、ミレイヌにしても数日前に行われたゴブリンの残党狩りで予想外の収入を得ていた。
その為、夕暮れの小麦亭に1晩泊まる程度はそれ程懐も痛まなかったのだ。
もっとも、ケニーとしてはレイを送り出すのに前日と同じ服だったのが乙女的に多少気に掛かっていたのだが。
「セトちゃん、元気でね。お腹壊さないようにしてね。はい、これ。宿の女将さんに作って貰ったサンドイッチだから、お腹が減ったら食べて」
「グルルルゥ」
ミレイヌの言葉を聞き、早速とばかりにいい匂いのしているバスケットへとクチバシを伸ばしてサンドイッチを口の中へと運ぶ。
そんなセトの様子を見ていたミレイヌは、朝食を食べたばかりなのに……と内心で思いつつも、嬉しそうなセトの様子に笑みを浮かべて頭を撫でる。
「レイ君、どんな用事があるのか分からないけど、あまり危ないことをしないでね。心配するんだから」
ケニーの言葉にレイは小さく頷きを返しつつも口を開く。
「気をつけるけど、冒険者にあまり無茶を言わないで欲しいな」
「それはそれ、これはこれよ」
「あー……ケニー、あまり無茶を言うなよ」
レイとケニーのやり取りにエルクが割って入る。
既に事情を知っているだけに思わず出た言葉だったが、その言葉を耳にしたケニーがピクリと猫耳を動かす。
だが、そのままケニーが口を開くと面倒なことになりかねないと思ったのだろう。レノラがエルクに向かって口を開く。
「そういえば、何故雷神の斧の皆さんはこちらに? いえ、皆さんとレイさんの仲がいいというのは知ってますが……それで、でしょうか?」
「んあ? あー……そうだな。まぁ、大体そんな感じだと思ってくれていい」
エルクの口から出た言葉に、レノラは胸中に疑問を抱く。
だが、ランクAパーティという存在である以上は何らかの理由があるのだろうと判断し、そこで言葉を止める。
「それより、俺に構っていないでレイに挨拶をしておいた方がいいんじゃないのか? このままだといいところを全部ケニーに持っていかれちまうぜ?」
「……何だか誤魔化されているような気もしますが、確かにケニーをあのままにはしておけないでしょうね」
小さく溜息を吐き、そのままエルク達に頭を下げてからレイの方へと向かう。
「ほらほら、あまりレイさんに迷惑掛けないの」
「あーっ、ちょっとレノラ。折角このまま済し崩し的に……」
「何か言ったかしら?」
「言ってないわよ? ええ、私は何も変なことは考えていないわ」
若干低くなったレノラの声に、反射的にそう告げるケニー。
最近レノラを相手にして勝てなくなってきているような気がしたが、すぐに首を横に振る。
(レイ君が関わっている時だけ、妙に強くなってるのよね。昨日の件といい、今といい。……これが姉の力って奴なのかしら。正確には自称姉の力なんでしょうけど)
「何か妙なことを考えてない?」
「まさか!」
第六感までもが鋭くなっているレノラの言葉に、ケニーは慌てて否定するのだった。
そんなケニーを一瞥したレノラは、改めてレイへと向き直る。
「レイさん、どんな用事があるのかは分かりませんが、きっと色々と大変なこともあるんでしょう。怪我をしないで、無事にギルムに戻ってきて下さいね」
「ああ、勿論。このギルムは俺にとっても帰るべき家のようなものだからな。それに危険なのはいつものことだし、詳しく話せないけど今回は強力な味方もいる。だからあまり心配はいらないよ」
そう告げてくるレイにレノラは小さく笑みを浮かべて頷き、ちゃっかりとレノラの隣に場所を取っていたケニーもまた同様に笑みを浮かべて頷く。
実際、外見だけで見ればレイは去年の春に初めてギルムへとやってきた時と全然変わっていない。
いや、この場合は成長していないと言い換えるべきか。
だが、そんなレイがギルムに来てから行ってきたことは、それこそ普通の冒険者に出来ることではない。
それを思えば、寧ろ安心して送り出すことが出来た。
「じゃ、いつまでもこうしている訳にもいかないし、そろそろ行くとするかな。セト」
「グルルゥ!」
ミレイヌと戯れていたセトが一鳴きし、レイの側へと向かってくる。
そしてミレイヌから渡されたバスケットをミスティリングに収納して共に正門の警備兵の下へと向かおうとしたところで、ふとミンがレイに近づいて一通の封筒を手渡す。
「レイ、これはダスカー様からだ。ゴトまでの地図が入っている。一応目立ってはいけないということで、見送りに来られないのを残念がっていたが……ゴトでまた会おうと言っていたよ」
「一応、春の戦争で寄ったから分かるんだが……まぁ、ありがたく受け取っておく。一足先に行って待ってるよ。出来ればエルクのテオレームに関する怒りをどうにかしておいてくれ」
「そうだね、努力はしてみるさ」
お互いに小さく笑みを交わしていると、それを見咎めたケニーが口を開く。
「ちょっと、レイ君。もしかして年上好みだったの!? それは別にいいんだけど、それでも人妻ってのはちょっとどうかと思うわよ。それよりもほら、頼れるお姉さんとか……」
「ケニー……あのねぇ」
「何よ、レノラは身体の発育状態から年上に見られないから別にいいんでしょうけど、私は……」
「ちょっと、何よそれ。別に私だってね……」
「ふーん、それはどうかしら……」
そんな風に後ろから聞こえてくる声に苦笑を浮かべつつ、レイは受け取った封筒をドラゴンローブの懐に入れ、見送りに来てくれた者達に向かって口を開く。
「じゃあ、行ってくる」
そのレイの声に、言い争っている場合ではないと判断したのだろう。ケニーがレノラとの口論を一時中断して大きく手を振る。
「レイ君、気をつけてね!」
その言葉に小さく頷き、レイはセトと共に正門へと向かってギルムを出る手続きを済ませるのだった。
夏の空ではあったが、既に盛りを過ぎて秋へと向かいつつある為か、あるいは早朝という時間の関係もあって、一時期程に降り注ぐ太陽の光は厳しくはない。
そんな空の上でレイはセトの背に乗りながら、早速とばかりにミン経由で渡されたダスカーからの手紙を読んでいた。
封筒はしっかりと封蝋が付けられており、ダスカーの手元から離れて以降誰も開けていないというのは明らかだ。
「まぁ、ダスカー様からミンが直接預かって俺に渡したんだから、その辺の心配はいらないだろうけどな」
手紙の内容としては、ダスカーが具体的にどこを通ってゴトまで行くかという経路や、到着予定日時といったものが書かれている。
それとは別にもう一枚、ゴトまでの地図が入っていた。
勿論以前にマリーナから預かったような正確な地図ではない。ゴトまでの限られた道筋だけが描かれており、その縮尺に関しても非常に大雑把なものだ。
もっとも、春の戦争でセレムース平原へと行く前に立ち寄った場所である以上はその程度の地図でも十分に辿り着けるだろうし、もし道に迷ったとしても、空を飛ぶセトと一緒であることを考えればゴトに到着するのはそう難しくないという判断もあるのだろう。
「取りあえず今日は……そうだな、行ける所まで行くか。出来れば街中で休みたいけど、マジックテントもあるから野営をしても問題はないだろうし」
「グルゥ!」
喜びに喉を鳴らすセト。
勿論セトにしても屋台を始めとした美味しい食べ物を食べられる街中は大好きだが、宿屋に泊まるとなればどうしてもレイと大きく離れる必要がある。
野営をする場合は夜の見張りをする必要があっても、マジックテントのすぐ側、大好きなレイのすぐ近くにいられるというのが喜びの声を上げた理由だった。
「いつも世話を掛けて悪いな」
空を飛びながら喉を鳴らすセトの首筋を感謝の気持ちを込めて撫でると、セトは嬉しそうに高く鳴き、羽ばたく翼がより速度を増して行く。
見る間に地上を流れていく緑の絨毯と、そこに引かれている1本の街道が線のように通り過ぎていく。
上を見上げれば、太陽を隠すかのように入道雲が存在し、その真っ青な空を彩っている。
「いい、天気だな」
本来であれば入道雲に隠れても、夏の日差しは厳しいものがあるのだろう。時間が経つにつれて気温も上がっていき、秋に向かっていると言われてもちょっと信じられないような気温になっていく。
だが、着るエアコンと言ってもいいようなドラゴンローブを身に纏っているレイと、グリフォンのセトだ。その程度は何の障害にもならず、ただひたすら空を飛んでいく。
もしそれを地上から見上げた者がいたとすれば、空を斬り裂く一条の矢の如き感想を抱いただろう。
そんな風に空を飛びつつ、地上を移動している冒険者、商隊、旅人、あるいはモンスターといった者達を尻目に、セトは進み続ける。
やがてギルムを出発してから2時間程が経ち、喉の渇きを覚えたレイはミスティリングから冷えた果実を取り出す。
見た目は黒いブドウといった形だが、大きさは握り拳程もあるその果実へと齧りつく。
皮ごと噛み切ったその果実は、鋭い酸味の中に仄かな甘みが存在しており、水気も非常に強い。
「……美味い、な」
「グルゥ」
レイの言葉を聞き、セトが自分にもちょうだい、と後ろを振り返って喉を鳴らす。
かなりの速度で飛んでいる状態で後ろを向いているのだが、バランスを崩したりするようなことが一切ないのはグリフォンであるからこそだろう。
「分かった、ちょっと待ってろ」
残っていた分の果実を素早く口の中に収め、ミスティリングの中から同じ果実を2つ取り出す。
そのうちの片方を後ろを向いているセトの前に差し出すと、嬉しそうに喉を鳴らしてクチバシで咥え、そのまま口の中へと収める。
「グルルルゥ」
「そうか、美味いか。……この果物は当たりだったな。もう少し買いだめしておけばよかった」
試しにということで買った果物であったので、ミスティリングの中にもそれ程の量は残っていない。
……それでも個数が20個程あるのは、食べ物に関しては貪欲なレイであるが故なのだろう。
もっともこのペースで食べ進めれば、数日と保たないのは確実だったが。
おやつ代わりの果実を食べ終え、そのまま空を飛び続けること暫く。太陽が真上に昇ってきたのを見ると、ミスティリングから懐中時計を取り出して時間を確かめる。
午後12時30分過ぎ。そろそろ昼食を食べてもいい頃合いだろうと判断したレイは、セトに促されるままに地上へと降りていく。
降り立ったのは、街道から少し離れた場所にある川の近く。
川と言っても、幅1m程度の跨いで通れるような小さなものだが。
それでも、川を流れる水の音と日差しを反射する水の流れが夏の暑さを和らげる効果は十分にあった。
レイもセトも暑さを苦にしている訳ではないが、それでも見て涼しさを得ることが出来る光景は貴重であり、好ましい。
川ということでモンスターの水場にもなっているのだろうが、セトが気配を発しながらそこに存在しているのを知りつつ姿を現すようなものはいないだろう。
もっとも知能が低く、相手との力量差も計れないゴブリンのような低ランクモンスターであれば話は別だが。
「さて、昼食は……出来ているもので済ませるか。幸いギルムを発つ時にサンドイッチとかを大量に貰ってきたし。後は野菜の冷製スープってところだな」
「グルルゥ!」
ミスティリングから出てくるメニューに、セトは喜びの声を上げる。
メニュー自体はひどくありふれた物ではあったが、サンドイッチにしろ、スープにしろ、普通は冒険者が仕事中に食べられるようなものではない。
サンドイッチは焼きたてのパンを使って作り上げたもので、スープは夏に飲むのに相応しく十分に冷えている。
そして、何よりもその量が異常だ。
優に20人分以上はあるその量を、1人と1匹はそれぞれ食べきり……とてもではないが、ベスティア帝国に激震をもたらす為の行動をしているとは思えないような、優雅な昼の一時が過ぎていくのだった。