3930話
夕暮れ時に、レイはセトの背に乗ってギルムの上空を飛んでいた。
眼下に見える景色の中でも、特に大きな場所……領主の館の中庭が見えてくると、レイが何も言わなくてもセトは翼を羽ばたかせ、降下していく。
本来なら、レイ達も普通に正門から入った方がいいのだろうが、色々な意味で有名人であるレイがそのようなことをすれば、ニラシス達と一緒に来た時のように妙な商人に取引を持ち掛けられる可能性も否定出来ない。
……いや、それだけなら断ればいいのだろうが、貴族の使いといった者達がいた場合はかなり面倒なことになりかねない。
それらを避ける為にも、レイはセトに乗って領主の館に直接降りる方がいいと判断したのだ。
……警備兵達にとっても、夕方という忙しい時間に余計な騒動が起きないのは助かる筈だった。
「さて、ニラシス達……いや、ニラシスはあくまでもお目付役だから、アーヴァイン達か。アーヴァイン達はギルムの初日をどういう風に楽しんだんだろうな」
「グルルゥ? グルゥ!」
レイの呟きに、セトはきっと凄く楽しんだと思うよと、そう喉を鳴らす。
セトにしてみれば、ギルムはまさにホームグラウンドという表現が相応しい場所だ。
そのような場所だけに、アーヴァイン達もきっと楽しんでくれただろうと、そう思ったらしい。
レイはそこまで楽観的にはなれないのだが。
ギルムはレイやセトにとって、このエルジィンという世界では故郷と呼ぶべき場所なのは間違いない。
だが同時に、ミレアーナ王国唯一の辺境だけに、色々な者達が集まってくるのも事実。
中には、それこそ後ろ暗いことのある者達も多い。
(いつだったか……ギルムに進出したばかりのダグラスファミリーだったか? そんな組織とトラブったこともあったな。あの程度の連中なら、アーヴァイン達なら全く問題はないだろうけど)
裏の組織と一口に言っても、千差万別だ。
中にはそれこそギルムの中でも有数の影響力を持つような組織もあるが、同時にレイが以前揉めたダグラスファミリーのように、威勢はいいものの、実力は足りないという組織もある。
もっとも、それはあくまでもギルムという特殊な場所だからの話だ。
レイとトラブルを起こしたダグラスファミリーにしろ、ギルムに進出してくるくらいなのだから、地元ではかなりの力を持っていたのは間違いない。
そういう意味では、ギルムが本当に特殊すぎるのだろう。
「っと」
レイが考えている間に、セトが中庭に着地する。
レイはすぐにセトの背から降りて、自分の方に向かって来た騎士の姿を確認した。
騎士にしてみれば、こうして降りてきたのがレイなのは分かっていても、それでも相手が誰なのかを確認する必要があるのだろう。
領主の館を警備している身としては、当然のことだった。
「レイ、どうしたんだ?」
顔見知りであるだけに、騎士はレイを見ても特に警戒した様子もなく、一体どうしたのかと聞いてくる。
あるいは前もって今日領主の館に来ると連絡をしておけば、騎士もレイが来たことに驚いたりはしなかっただろうが。
レイはニラシス達に今日は会いに来ると言っておいたのだから、その辺りについて前もってダスカーに……もしくはダスカー本人ではなくても、その部下や執事、メイド辺りに言っておけばよかったのだが、それを怠った。
そういう意味では、今回の件はやはりレイが悪いのだろう。
「昨日から領主の館に泊まっているニラシス達の様子を見にな。あいつらは俺の知り合いで、俺がギルムまで連れてきたんだし」
「ああ、そうか。そう言えば暫くの間、客人が泊まるとかいう話を聞いたな。レイの知り合いだったのか」
「そうだ。グワッシュ国にある迷宮都市ガンダルシアの、冒険者育成校の生徒と教官の一行だな。……その様子だと、ニラシス達には会ってないのか?」
「俺はな。ただ、同僚が何人か食堂で会ったとか言ってな」
「上手くやってる感じだったか?」
「話を聞いた限りだと、人当たりとかもいいようだったし。問題はないんじゃないか?」
騎士のその言葉に納得する。
冒険者として活動する上で、人当たりの良さというのは必須事項ではないものの、あった方がいい能力でもある。
少なくても、レイのその辺の能力は決して高いとは言えない。
もっとも、レイも友好的に接してきた相手に対しては、同じような態度で接するのだが。
ただ、小柄な外見からセトを連れていない場合は侮られて、絡まれるということがあるのも事実だったが。
「そうか。なら、安心だな。……そんな訳で、俺はちょっとニラシス達に会いに行きたいんだが、構わないか?」
「構わない。これがレイでなければ断っていたところだが」
レイがダスカーにとって強く信頼されているのは知っているし、基本的に自由に行動してもいいとダスカーからも以前に指示されている。
もっともその時は穢れの一件が理由であったのだが……穢れの件が終わってもその命令は撤回されていない。
これはダスカーがそれだけレイを信じているからなのか、それともただダスカーが命令を撤回するのを忘れているだけなのかは、レイにも分からなかったが。
「とはいえ、レイだけで行動させる訳にはいかないから、メイドを呼ぶけど……構わないよな?」
「ああ、それでいい。もしかしたら、ニラシス達が部屋にいない可能性もあるし。その場合、メイドならどこにいるのかを分かるかもしれないし」
レイの言葉に騎士は頷くと、レイと共に屋敷の中に向かう。
当然ながら、セトはここで待っていることになるのだが……セトにしてみれば、レイと一緒に行動出来ないのは残念だったが、ここにいればいつものように料理人達が来て、料理をご馳走してくれる。
なので、セトは特に不満を漏らさず、その場で大人しく待つのだった。
「ここになります」
騎士が呼んだメイドに案内されたレイは、本当にそれでいいのか? といったような思いを抱く。
実はここにニラシス達がいるというのは何かの間違いではないのかと。
何故なら、この部屋は……
「うわ、本当にいた」
部屋の中……本が大量にある部屋にニラシス達がいたのを見て、レイは思わずそんな声を上げる。
ここは図書館……というのは少し大袈裟なので、図書室と呼ぶべき部屋。
この世界において、本というのは決して安いものではない。
本の種類にもよって大分違ってくるが、高い本になるとそれこそ光金貨数枚といった値段のする物もあるという。
とはいえ、実際にそこまで高価な本というのはそうある訳ではないし、この図書室にそのような高価な本があるのかどうかもレイには分からなかったが。
(いやまぁ、そんなに高価な本なら、さすがにそのまま本棚に入れておいたりはしないよな)
ともあれ、レイは図書室の中に入る。
「レイ? ……ああ、そう言えば今日は様子を見に来るとか言っていたな」
レイの言葉と気配にニラシスが顔を上げ、そう言う。
普通なら図書館では静かにすることが求められるのだが、ここは公的な場所ではない。
あくまでもダスカーが私的に持つ図書室だ。
だからこそ、特に静かにする必要はなかった。
……勿論、他に利用者がいたりする場合には静かにする必要があったが。
「レイ教官?」
ニラシスの言葉で他の生徒達もレイの存在に気が付いたのか、それぞれに驚きの表情を浮かべていた。
「まさかこんな場所にいるとは思わなかったな」
「……別に冒険者だからといって、本を読まない訳じゃないぞ?」
「分かってるよ。ただ、折角ギルムに来たのに外に出なかったのか?」
「いや、夕方までは外に出ていた。……日中でも凄い人数だと思ったよ」
ニラシスが少し疲れた様子で言うと、他の生徒達もそれに同意するように頷く。
「今は増築工事で仕事を求めて大勢やって来てるしな。これが増築工事が始まる前なら……人が少ないって訳じゃないけど、それでも今のギルムよりは大分歩きやすかったりするんだが」
「だろうな。夕方近くになったら、人が多すぎて。それが俺達がここにいる理由だよ」
「あー……うん、なるほど」
ニラシス達が何故図書室にいるのかの理由を察したレイは、メイドにもういいと言ってから自分も椅子に座る。
「それで、一応今日は顔を出すってことでこうして来たんだが……街中で特に何も問題はなかったか?」
「問題というか……喧嘩騒ぎに巻き込まれたのは何度かあったな」
普通の教師……それこそ日本の学校の教師であれば、街中で喧嘩騒ぎに巻き込まれたと言えば、目を吊り上げて怒るだろう。
しかし、それはあくまでも日本の教師ならではの話だ。
ここは日本ではなくエルジィンだし、何よりニラシスは教師ではなく教官……それも本職はあくまでも冒険者だ。
そんなニラシスだけに、喧嘩騒ぎについてはそれこそ特に目くじらを立てたりはしない。
喧嘩騒ぎであっても、それが素手の喧嘩ではなく武器を抜いたといったようなものであれば話は別だが。
「そうか。何度も言うようだが、現在のギルムには多くの者達が集まっている。中には喧嘩っ早い奴とかもいるから、気を付けろよ」
そう言いながらレイの視線が向けられていたのは、イステル。
顔立ちが整っており、美人と称しても決して間違いではないイステルだけに、冒険者に口説かれるようなことは珍しくない。
ここがガンダルシアであれば、イステルがどのような人物なのかを知ってる者も多いので、そのようなことを考える者は多くはないだろう。
だが、ここはギルムだ。
イステルの素性について知っている者は皆無だ。
……もっとも、人には好みがある。
イステルは美人であるものの、年齢的には子供から大人になりかけているといったところだ。
成熟した女……色っぽい女や大人っぽい女を好む者達に言い寄られるということは、まずないだろう。
「何ですか、レイ教官?」
自分を見ているレイの視線に気が付いたのか、イステルが少し照れた様子でそう尋ねる。
イステルにしてみれば、自分の想い人であるレイにこうしてじっと視線を向けられるのはどうしても照れてしまうのだろう。
もっとも、イステルがそのように思っているとは全く気が付かないレイは、すぐに謝るが。
「いや、何でもない。イステルは冒険者に絡まれるようなことがなかったかと思ってな」
「……特にそのようなことはありませんでしたね」
レイに心配……自分だけが特に心配されたことが嬉しかったイステルだったが、それを表情に出さないようにして、そう返す。
だが、レイはそんなイステルの思いに気が付いた様子もなく、問題がなかったというのであればそれでいいかと思い、頷く。
「そうか。なら、よかったな」
「……そうですね」
レイの言葉にそう返すイステルだったが、そこには微かな不満の色がある。
だが、レイはそれに気が付いた様子もなく、ニラシスとの話を続けた。
「なら、今日は大きな問題は特に何も起きなかったということでいいんだよな?」
「そうなるな。とはいえ……街中で喧嘩をしているような者達の姿はそれなりに見つけたけど。ただ、警備兵……警備兵? いや、違うな。冒険者……? とにかく何だか凄い格好の美人が即座に鎮圧していたけど」
ニラシスのその言葉に、アーヴァインやハルエス、ビステロは勿論、寡黙なザイードまでもが頬を赤くする。
「あー……うん」
ニラシスの言葉から、何となく誰の事を言ってるのか予想出来てしまったレイは、何と言えばいいのか迷い、最終的にはそのように誤魔化しておく。
なお、そんな男達をカリフは困った様子で、イステルは冷たい表情で見ていたのだが。
女二人の様子に、レイはそれも仕方がないかと思う。
恐らくだが、ニラシス達が遭遇したのはヴィヘラなのだから。
絶世の美女と呼ぶに相応しいヴィヘラが、踊り子や娼婦の着るような薄衣を身に纏っている。
思春期真っ只中といった生徒達にとっては、刺激が強すぎてもおかしくはない。
「一応、一応注意しておくが……その女は戦闘狂だ。迂闊に口説こうとしたりしたら、それこそ戦いを挑まれるようになるから、気を付けろよ。何しろ以前は他の場所で狂獣と呼ばれていたくらいなんだから」
万が一のことはないと思うが、それでも念の為にレイはそう忠告しておく。
ニラシス達が下手にヴィヘラにちょっかいを出して、その結果として騒動になったら……そう考えたからだ。
もっとも、自分の想い人があのような破廉恥な服装をした相手のことを知っているということや、先程の一件もあってイステルはレイに対しても冷たい視線を向けていたのだが。
そんなイステルを、カリフはどこか同情するように見るのだった。




