3911話
「昨日、あれだけ雨が降ったとは思えないくらいにいい景色だな。台風一過って奴か? ……違うか」
セトの背の上で、レイはそんな風に呟く。
昨日……それこそ夜中まで雨が降っていたにも関わらず、こうして空から見る景色には昨夜の雨の名残はない。
いや、正確には地上を見れば地面に水溜まりがあったり、生えている木が濡れていたりと、その痕跡はそれなりにある。
だが……それでもこうして空から見ると、昨日の土砂降りという表現が相応しい勢いで雨が降っていたとは、到底思えない光景なのは間違いなかった。
「グルルゥ」
レイの言葉に、セトは嬉しそうに喉を鳴らす。
セトから見ても、雨上がりのこの景色は綺麗なものだと思えるのだろう。
「昨日は殆ど進めなかったから、今日はその分頑張りたいな」
殆ど進めなかったというレイだったが、それはあくまでもレイの……セトに乗って移動するのに慣れたレイの基準での話だ。
昨日の午前中だけでセトが飛んだ距離は、それこそ普通に地上を移動した場合、数十日……あるいはもっと時間を掛けて移動する距離だろう。
そういう意味でも、空を飛ぶセトという存在の反則さは明らかだった。
「グルルルゥ!」
今日は頑張るというレイの言葉に、セトは分かったと翼を大きく羽ばたかせる。
翼を素早く羽ばたかせることによって、その速度は一段と上がる。
セトの背に乗っているレイだったが、その速度差は十分に理解出来た。
「うーん……これは凄い。さすがセトだ」
そう言ってセトの首を撫でるレイだったが、当然ながらレイもセトが本気を出せばどれだけの速度を出せるのかというのは知っている。
それでも、レイはセトを褒めたかった。
そしてレイに褒められたセトは、その嬉しさから翼を羽ばたかせる速度を更に上げる。
(セト籠の方は……大丈夫だよな? まぁ、その辺については問題ないか)
セト籠の中が、現在どのようなことになっているのかはレイにも分からない。
とはいえ、それでもセトは速度はともかく、あくまでも普通に飛んでいるだけだ。
恐らくは出発前……早朝の訓練の時にレイがシャドウボクシング――正確はボクシングではないのだが――をした時のように、想像上の敵を出せるように、レイの提案に従い、伝承やお伽噺を聞きながら、それを思い浮かべるという、想像力を鍛える行為を行っているだろう。
(そう考えると、セトを急がせてセト籠を揺らしたというのは少し悪かったな。……もっとも、少し揺れたくらいで動揺して集中力が途切れるなんてことになったら、それはまだ甘いということになるんだろうけど)
例えばレイがまだ日本にいた時、ゲームや漫画を楽しんでいる最中に呼ばれても、それに気が付かないことはあった。
……客観的に見た場合、それは駄目だろう。
だが、集中力ということで考えれば、決して悪いことではない。
そして想像力を強化するのにそのような集中力は必須だろうというのがレイの考えだった。
実際にどうなのかは、レイにも分からない。
ただ、あくまでもレイにはそのように思えるというだけの話だ。
だから、もしかしたら……本当にもしかしたらの話だが、そんなことをしても想像上の相手を生み出すことは出来ないかもしれない。
とはいえ、それが無理でも想像力というのはあって損になるようなものではないのも事実。
「グルルルゥ」
「ん?」
レイがセト籠の中にいる者達について考えてると、不意にセトが喉を鳴らす。
そこには警戒の色といったものはなかったので、敵ではないのだろう。
なら、何か。
そう思ってセトの見ている方に視線を向けると……
「へぇ、凄い大きな川だな」
まだかなり遠くではあるが、そこには川があった。
川と一口に言っても、その大きさは様々だ。
それこそ子供でも跳び越えることが出来るような川から、渡し船が普通に存在するような大きさの川といったように。
そういう意味では、レイ達の視線の先にある川はそれなりの大きさの川ではあった。
そんな川の水面に日の光が反射して輝いている光景は、遠くから見る分には間違いなく綺麗だろう。
「近付かないと綺麗に見えるのは間違いないよな。とはいえ、近くで見るとかなり汚いんだろうけど」
レイが日本にいた時、家からそう離れてない場所には川が流れていた。
それこそレイが小さい時から魚を釣ったり泳いだりといったことをした川。
だが、そんな川も雨の翌日となると上流から流れていた雨水によって水かさは増し、水も泥によって濁っている。
雨の日の翌日の川で遊ぶなというのは、それこそレイが小さい時から両親からずっと言われてきたことだ。
そんな川だが、遠くから見る分には川に日の光が反射して煌めき、かなり綺麗だ。
「遠くから見る分には綺麗だけど、時間的なことを考えると寄るような余裕はないか。安全的な意味でもそうだけど」
村を出てから、まだ数時間程度しか経っていない。
一応ミスティリングから懐中時計を取り出して確認してみるが、やはり九時半を少しすぎたくらいの時間だ。
出来るだけギルムに到着するのを急いでいるというのに、この時間から川の側で休憩をする訳にもいかない。
ましてや、昨日の雨で川の水は増水しているのだから、そのような場所で休むのは自殺行為だろう。
……勿論、レイやニラシスはその辺りの問題は基本的にない。
また、生徒達も冒険者育成校で鍛えられているし、ダンジョンにも潜って冒険者として活動している。
そう考えると、もし何がか……例えば川の水に流されたりしてもどうにか出来るかもしれないが、それでもそのようなことが起きないのならその方がいいのは間違いない。
「よし、それじゃあ……やっぱりあの川はスルーだな」
「グルゥ。……グルルルゥ、グルゥ」
レイの言葉に、セトは分かったと喉を鳴らす。
だが、すぐに残念そうな様子で喉を鳴らした。
この前の、湖のある場所で休憩した時のことを思い出したのだろう。
湖で獲った魚は美味かったし、カニも美味かった。
だからこそ、あの川でも魚やカニを獲りたいと思ったのだろう。
自分が食べても美味かったし、何よりレイや他の者達にも喜んで貰えた。
それはセトにとって嬉しいことだったので、また同じことをしたいと思うのは、そうおかしな話ではない。
「セトの気持ちも分かるけど……そもそも昨日の雨のことを考えると、魚とかカニはそう簡単に獲ったり出来ないんじゃないか?」
それは、レイの経験からの言葉。
もっとも、それはあくまでも日本にいた時の話で、このエルジィンでも同じとは限らないのだが。
「グルゥ」
それでもセトはレイの言葉に残念そうにしながらも納得する。
そのようなやり取りをしている間にも、遠くに見えていた川は次第に近付いてきて……
「うん、やっぱりあの川の側で休憩はしない方がいいな」
近づけば近付く程、川が泥で濁っており、流れる水も早く、量も多い。
また、川岸には昨日の雨で流れてきたのだろう。流木であったり、それ以外にもゴミであったり……レイにとってはあまり好ましくはないが、ゴブリンの死体もある。
ゴブリンの死体は、恐らく雨の翌日で川の状態が決して良くもないのに、何らかの理由……それこそ水を飲もうとしたり、もしくは魚を獲ろうとして川に流されたのだろう。
危険だということを理解出来なかったのか、あるいは理解した上でもそうする必要があったのか。
それはレイにも分からなかったが、ゴブリンのことを思えば、恐らく前者だろうとも思う。
何しろゴブリンは、セトと遭遇してもすぐには逃げない。
何故そう思うのかはレイにも分からなかったが、自分達ならどうにかなると思ってセトに攻撃をし、セトの反撃によって何匹かのゴブリンが死んで、それでようやくセトは自分達にはどうしようもない相手だと判断するのだ。
川の件も同様で、危険だと判断出来ずに何匹かのゴブリンが川に流され、それでようやく本当に危険だと判断した……そんな可能性は十分にあった。
もっとも、だからといってレイには特に気にするようなことでもなかったが。
「セト、川には寄らないから、そのつもりでな」
「グルゥ」
改めて言うと、セトも分かったと喉を鳴らす。
そうして再びセトは翼を羽ばたかせ……ギルムに向かって進むのだった。
夕日がそろそろ落ちる頃、セトはまだ空を飛んでいた。
昼食の時に休んだ以外はずっと飛んでいるセトだったが、そこには疲れというものはない。
(そう言えば、国境の関所を超える時……一度全員を下ろした方がよかったのかもしれないな)
一応、その辺についてはフランシスの方で手を回しているので、わざわざ歩いて国境を越える必要はない。
その辺の手続きはいらないので、そのまま空を飛んで移動すればいいと、そうレイはフランシスから聞かされてはいた。
レイもそれは分かっているが、それでもガンダルシアで冒険者として活動している以上、国境を越えるという機会はそうそうない。
そういう意味では、一度生徒達にはその辺について経験をさせておいた方がいいのではないか。
そうレイには思えたのだ。
とはいえ、午後にはもう国境の関所は通りすぎている。
既に現在レイ達がいるのは、ミレアーナ王国の中だ。
セト籠に乗っている者達には、その実感はないだろうが。
(国境と言えば、以前俺達がグワッシュ国に入る時は盗賊の騒動があったと思うけど……今日はそういうのがなかったな。まぁ、それが普通なんだろうけど)
盗賊と遭遇する機会というのは、そう多くはない。
レイの場合は頻繁に盗賊と遭遇しているが、それはレイがトラブル誘引体質だからこそだろう。
後は、五感の鋭いセトに乗っており、だからこそ本来なら隠れている盗賊を見つけているといった流れか。
それだけに、こうして盗賊と遭遇するようなことがないのは、レイにとっては残念ではあったが、同時にこれが普通でもある。
(盗賊と遭遇すれば、アーヴァイン達にもそういう経験をさせてやれるんだが。……まぁ、本人が好む好まないというのもあるだろうけど)
モンスターとの戦いであれば、それこそガンダルシアのダンジョンで日常的に経験している。
人との戦いも、冒険者育成校では模擬戦が行われている。
だが……それは結局命懸けの戦いであっても相手がモンスターであったり、人との戦いでも命懸けの戦いではないということを意味してもいた。
勿論、冒険者の中には様々な経歴の持ち主がおり、冒険者になる前に人を殺した経験を持つ者もいるだろう。
このエルジィンという世界は、人の命というのは驚く程に軽いのだから。
それはレイがこの世界にやって来てから何度も……それこそ数え切れないくらいに経験していることだ。
その為、生徒の中には盗賊と遭遇しても躊躇なく殺すことが出来る者もいてもおかしくはない。
……あるいは生け捕りにして、犯罪奴隷として売り払うという選択肢もあるのだが、それはそれで難しい。
そもそも生け捕りにしたとして、犯罪奴隷を取り扱っている場所まで盗賊達を連行出来るかという問題があるのだから。
「まぁ、どうするにしろ、結局盗賊を見つけることが出来ないと意味はないんだけどな」
そう言いつつも、レイは自分のトラブル誘引体質を知っているからこそ、ギルムに到着するまでの間に、一度や二度は盗賊と遭遇するだろうなと予想している。
そう思っていたのが……
「グルゥ!」
「噂をすれば何とやら、だな」
セトの鳴き声にセトの見ている方を見ると、本当に……もしかして自分の考えが現実に反映されたのではないかと思えるような展開があった。
一台の馬車が街道から少し離れた場所に倒れており、その馬車を牽いていたと思しき馬は矢が何本も刺さり、既に動くに動けない状態になっている。
そんな馬車の周囲では、冒険者と思しき護衛達が盗賊を相手に戦っているものの……護衛の冒険者が四人に対し、盗賊達は二十人近くいる。
(いや、離れた場所にもいるな)
生えている木々に隠れるように、弓を持った何人かの姿がそこにはあった。
それはつまり、冒険者達の方が……そして冒険者に守られている者が圧倒的にピンチだということを意味している。
「セト、行くぞ。セト籠は……そうだな、少し離れた場所に下ろしてくれ。俺はあの冒険者達の上まで行ったらセトから下りて、冒険者達を助けるから。ニラシスなら状況を見れば、すぐこっちに援護に来るだろうから、好きに行動させてもいい」
「グルゥ!」
レイの言葉に、セトは分かったと喉を鳴らす。
そして素早く冒険者達の上を通り……その瞬間、レイはセトの背の上から飛び降りるのだった。




