3905話
「うわぁ……このカニ、美味しいですね」
野営の料理として用意された一つが、カニの塩茹でだ。
昼にセトが獲って泥抜きしてあったカニを塩水で茹でただけの簡単な料理ではあったが……それでも、茹でたカニは十分に美味かった。
意外なことに、昼から夕方までの泥抜きでもしっかりとカニから泥は抜けており、その身は泥臭くない。
あるいは、綺麗な湖に棲息していたカニだし、最初から泥はなかったのかもしれないな。
そう思いながら、レイもまたカニを食べる。
これもまた予想外なことに、カニの足やハサミにはしっかりと身が詰まっており、食べ応えも十分だった。
勿論、カニが――タラバガニや紅ズワイガニと比べて――大きくないので、そういうのを知っているレイにしてみれば、食べ応えという意味ではどうかと思わないでもなかったが。
ただ、皆が喜んでいる中でそのようなことを言うのはどうかと思い、レイもまた黙ってカニを食べる。
「グルルルルゥ!」
そんなレイの横では、セトが嬉しそうにカニを食べていた。
……ただし、カニの身をほじって食べているレイ達とは違い、殻ごと噛み砕きながらだが。
セトのクチバシの頑丈さを思えば、モンスターでも何でもないただのカニの殻程度は容易に噛み砕くことが出来るのだろう。
バリバリと音を立てながら殻ごと噛み砕きながらカニを食べるセト。
レイにしてみれば、そんなセトの行動は慣れたものだ。
そういうこともあるだろうと、特に気にしたりはしない。
だが、セトと接する機会が多くない者達の目には、殻ごとカニを噛み砕くセトの様子は驚くべきものだった。
「えっと、レイ。セトは……その、普段からこんな様子なのか?」
ニラシスの言葉に、レイはセトを見る。
すると視線を向けられたセトは、カニを味わいつつもどうしたの? とレイを見返す。
レイはそんなセトの様子を一瞥して何でもないと首を横に振ってから、ニラシスに向かって口を開く。
「そうだな。セトは大体そんな感じだと思ってもいい。特におかしなところはないだろう?」
あっさりとそう言うレイに、ニラシスは何と言っていいのか分からなくなる。
多分、レイはセトとずっと一緒にいるから、それが普通になってるんだろうな。
そう思いつつ、視線を焚き火に向ける。
正確には、焚き火に掛けられて暖められているスープに。
レイの持つミスティリングに入っているスープは、店で出来たのを鍋ごと購入してるので、どれも熱々だ。
それをわざわざ焚き火で暖めるようなことをしなくても、スープを飲む時だけ鍋を出せばいいのでは?
そうニラシスは思う。
他にもこうして焚き火によってスープが煮詰まるのでは? といった心配もある。
当然ながら、スープというのは出来た時点で一番美味い。
それをわざわざ煮詰めるようなことをすれば、水分が蒸発して塩辛くなったり、スープの具材が煮崩れたりといったようなことになってもおかしくはなかった。
「レイ、スープの方はもういいんじゃないか?」
「ん? ああ……まぁ、そうだな。もうカニは食べ終わったし、スープを飲むか」
違うんだが。
そう言いたいニラシスだったが、料理はレイに任せている以上、ここでは何も反論出来ない。
また、鍋から漂ってくる香りが、食欲を刺激するというのもある。
レイはそれぞれにスープの入った皿を渡す。
「これ……さっきから思ってましたけど、初めての香りですね。一体どのようなスープなのでしょう?」
イステルが渡されたスープの香りに、そう言う。
ただし、初めて嗅ぐ香りではあるが決して嫌な香りではない。
それはイステルの顔に浮かぶ笑みを見れば明らかだ。
「これは……ギルムの店で購入したスープだな。多分知らないと思うけど、ギルムでは最近香辛料の栽培が盛んになっている。そういう香辛料を多く使ったスープだ」
複雑な香りを漂わせるスープは、どこか……そう、本当にどこか少しだけカレーの香りに似ているようにレイには思える。
勿論、それは微かにそのように思うというだけでしかないのだが。
それにレイの知ってるカレー……レトルトカレーにしろ、固形ルーを使って作るカレーにしろ、どちらも粘度のあるカレーだ。
それと比べると、このスープは微かにカレーのような……より正確にはカレーっぽい香りはあるものの、粘度はない。
あるいはレイがスープカレーについて知っていれば、それを思い出したかもしれないが……残念なことに、レイは日本でスープカレーを食べたことはない。
レイの中にあるカレーというのは、やはり一般的な……普通のカレーなのだ。
だからこそ、このスープを前にしてもスープカレーという言葉は思い浮かばない。
「香辛料を? ギルムで? それは……初めて知ったな。でも、香辛料って俺が知ってる限りだと、特定の場所や気候じゃないと育たないって話だけど」
「ニラシスの言ってることは間違いじゃない。とはいえ、ギルムは辺境だぞ? 他の場所では有り得ないことであっても、辺境だから出来るということは多い」
実際には、異世界から転移してきた緑人達の協力があって、ギルムで香辛料が作られるようになったのだが。
ただ、緑人については生誕の塔で暮らしているリザードマン達以上に機密度の高い存在だ。
何しろ、緑人がいれば大抵の場所でなら香辛料を作ることが出来るのだから。
つまり、緑人がいればそれはギルムでなくても問題はないということになる。
もし緑人の一件が多くの者に知られるようなことになれば、それこそ緑人を奪おうと考える者が相応に出てくるだろう。
ダスカーとしては、緑人の秘密をいつまでも守れるとは思っていない。
思ってはいないものの、その一件について他の者に知られるのは可能な限り遅い方がいいと思っている。
その為、緑人について知っている者達にも情報を漏らさないように命じていた。
レイもまた、そんなダスカーの命令――この場合は要請という表現の方が正しいのかもしれないが――によって、緑人についてこの場で口にするようなことはしない。
「辺境って、そういうことも出来るのか。……ダンジョンがあるという意味では、ガンダルシアが恵まれているかもしれないけど、香辛料という点ではギルムの方が向いていそうだな」
ニラシスのその言葉に、生徒達もそれぞれ頷く。
ガンダルシアという迷宮都市に住む者達だ。
当然ながら、ダンジョンという存在について色々と思うところはあるだろう。
例えば、誇りに思うといったように。
正確にはダンジョンそのものを誇りに思うのではなく、ダンジョンを内包した迷宮都市を作ったことに対する誇りという表現の方が正しいのかもしれないが。
「ダンジョンがあれば、階層によっては香辛料の栽培とかも出来るんじゃないか?」
これは、レイの率直な疑問。
例えば、暑い場所でしか栽培出来ない香辛料は、砂漠の階層でどうにか出来るかもしれない。
もしくは、砂漠では暑すぎるということであれば、もっと別の……熱帯の階層を見つけ、そこで育てるという手段もある。
「ダンジョンで農業か。……まぁ、やれそうではあるけど、それはそれでちょっと難しそうだという風にも思えるんだよな」
しみじみと告げるニラシス。
そんなニラシスの様子に、レイもそうだろうなとは思う。
ダンジョンで厄介な点は、いわゆる修復能力だ。
ダンジョンの内部で岩を破壊するなりなんなりした時は便利かもしれないが、それが農業となると、どうなるのか。
上手くいくかもしれないし、失敗するかもしれない。
「試せるだけ試してみたらどうだ? やって駄目だったら、それはそれで経験になるんだろうし」
ダンジョンの持つ修復能力によって、ダンジョンの中に畑を作っても意味はなくなるかもしれない。
だが、成功したらどうなるか。
ダンジョンの広さや階層を思えば、ガンダルシアにとって非常に大きな利益となるだろう。
それこそギルムで作っているような香辛料であったり、そこまでいかなくても普通に麦のような主食となる作物を作れるかもしれない。
「試せるだけ……か。そうだな。なら、ギルムからガンダルシアに戻ったら、試してみるのもいいかもしれないな」
ニラシスの言葉に、レイはだろうなと頷く。
実際にその通りに出来るかどうかは分からない。
分からないが、それでも試すくらいはしてもいいだろうとレイにも思える。
(もっとも、成功すればとんでもない利権になるのは間違いない。そうなると、誰がトップになってやるかだろうな。……普通に考えれば、やっぱりギルドマスターか?)
ダンジョンで農業をやるのだから、当然ながらそれを行うのは冒険者になる筈だった。
そうなると、冒険者達の元締めとでも言うべきギルドマスターが一番その仕事をやるに相応しいだろう。
ただ、レイが知ってる限り、ガンダルシアのギルドマスターがそのような仕事をしたがるかと言われれば、正直微妙なところがあるのも事実。
「けど、レイ教官。もしダンジョンで農業をやるとすると、ずっと誰かがその畑を見張ってないと、モンスターに作物を食べられるのでは?」
アーヴァインの言葉に、レイは衝撃を受けたように驚く。
「……言われてみればそうだな」
ダンジョンの中で問題なのは、ダンジョンの修復能力もそうだが、やはりモンスターだろう。
そんなモンスター達の前に畑があり、そこに野菜があればどうなるか。
それこそ、畑に対する鹿や猪、猿といった害獣以上の被害が畑に出るだろう。
一晩で全ての野菜がなくなっても、おかしくはないだろう感じで。
「モンスターをどうにかしないと、ダンジョンで畑は無理か」
ニラシスがそう口にする。
「そうなるな。何らかの方法でモンスターを畑に寄せ付けないとかすればいいだろうけど……冒険者に頼むとなると、相応の報酬が必要になるだろうし」
畑を耕して種を植えてから野菜を収穫するまで……その間、一日中護衛として冒険者を雇うとなると、一体どれだけの金額が必要になるのか、レイにも分からなかった。
そこまでしてダンジョンに畑を作った場合、その野菜の値段には冒険者の護衛代金を上乗せする必要がある。
(普段の食事で食べるような野菜とかだと、とてもじゃないが値段的に無理だな。香辛料も……どうだろうな。もしかしたら種類によってはどうにかなるかも? もしくは、貴族や王族だけが食べられるような希少な野菜や果実とかなら……まぁ、そこまでしてやる奴がいるとは思えないけど)
そこまでしてでも育て、それでいてきちんと利益になる野菜や果実。
レイにしてみれば、とてもではないがそのようなものを栽培したいとは思わなかった。
「ダンジョンで農業をやるのは難しいというのが判明しただけでも、悪くない結果だったんじゃないか?」
「……もし出来れば、ガンダルシアにとっての大きな産業になると思ったんだがな」
レイの言葉に、ニラシスは大きく息を吐く。
生徒達はそんな二人の教官の姿にどう反応していいのか迷う。
結局のところ、今はまだ冒険者育成校の生徒でしかない為に、ガンダルシアの産業といったようなことを言われても、実感がない。
「レイの力でどうにかならないのか?」
「無理を言うな、無理を。俺がガンダルシアを本拠地とするのならともかく。……ああ、でもフランシスの精霊魔法でならどうにかなる……かも?」
レイが思い浮かべたのは、万能という表現が相応しい精霊魔法の使い手である、マリーナ。
もしマリーナであれば、ダンジョンの階層にもよるだろうが、精霊によって畑を守ることも出来るだろう。
だが、当然ながらマリーナはガンダルシアにはいない。
なら。マリーナの代わりとして思い浮かぶのは、同じ精霊魔法の使い手である、フランシス。
ダークエルフとエルフという違いはあれども、フランシスもかなりの使い手なのは間違いない。
だが……それでも、レイがそうだと断言出来なかったのは、やはりレイから見てもフランシスはマリーナに及ばないと理解しているからだろう。
フランシスも間違いなく相応の使い手ではあったが、レイにしてみればマリーナとフランシスを比べるのは明らかに間違っている。
言ってみれば、天才と秀才を比べるようなことだろう。
もしくは、一流の戦士と呼ぶべき者がいたとして、そのような者とレイを比べるようなものか。
双方共に強者と称するのに相応しい実力の持ち主ではあるが、それでも一流と一口で言ってもそこには歴然とした差がある。
マリーナとフランシスも同様だろうと判断し、これ以上この話題を口にしても意味はないと考え……レイは食事に集中するのだった。




