3902話
「レイ教官、本気で言ってるんですか?」
アーヴァインがレイに向かってそう言う。
当然だろう。レイが言ったのは、セト籠に乗る時に鍋も一緒に持って乗ってくれというものだったのだから。
元々、セト籠はこの人数で乗るようには出来ていない。
それでもある程度の余裕があったので、今の人数……アーヴァイン、イステル、ザイード、ハルエス、カリフ、ビステロ、そして教官のニラシスの七人が乗っても、そこまで窮屈という程ではなかった。
だが、そこに鍋……それもそれなりの大きさの鍋を持ち込んで欲しいと言われれば、話は変わってくる。
「ああ、本気で言ってる。一応言っておくが、この中にカニが入ってるのは知ってるな?」
「それは……まぁ。セトがカニを獲るところを見てましたし」
そんなアーヴァインの言葉に、他の生徒達もそれぞれ頷く。
当然だろう。昼食を食べ終えて食後の休憩をしている時、セトはせっせとカニを獲っていたのだから。
この湖の環境がそうするのか、あるいは湖の固有種なのか、とにかく湖に棲息するカニはどれもが結構な大きさがあった。
勿論、それはあくまでもこのような場所にいるカニにしてはの話で、レイが知っているようなタラバガニやズワイガニといったような大きなカニ程ではなかったが。
そんなカニを獲っては、鍋の中に入れていたのだ。
休憩をしていた者達が、一体何をしてるのかと興味深く見るのはそうおかしな話ではない。
「だろう? なら、分かる筈だ。このカニは今日の夕食の具材となる」
そうレイが言うと、その言葉は予想外だったのか、アーヴァインは驚きの表情を浮かべる。
「え? いいんですか?」
「セトもそのつもりだったと思うぞ」
「グルゥ!」
レイの声が聞こえたのか、セトはそうだよと喉を鳴らす。
「で、どうする? お前達が少し窮屈なのを我慢して、この鍋を持っていけば夕食は少し豪華になる」
まぁ、カニがなくても、豪華な料理を出そうと思えば出せるんだが。
そう付け加えたくなるレイだったが、その辺については黙っておく。
もし言えば、それなら鍋の中にいるカニは置いていこうと言われそうな気がした為だ。
「……どうする? 俺は運んでもいいと思うけど」
アーヴァインの言葉に、話を聞いていた他の生徒達もそれぞれ頷く。
これだけの大きさのカニを食べる機会など、滅多にない。
幸いなことに、ここにはカニを食べたことがない者はいても、カニを食べたくないと思う者はいなかった。
世の中にはエビやカニが虫のように思えて、忌避感を覚える者もいるのだが。
結局自分達もカニを食べられるというレイの言葉には勝てず、アーヴァイン達はセト籠の中に鍋を持ち込むのを許容する。
「カニの泥抜きをしてるから、鍋に水が入っている。そこまで多くはないから大丈夫だとは思うけど、こぼさないように気を付けてくれよ」
「レイこそ、セトを激しく動かさないようにしてくれよ」
レイの言葉に、ハルエスがそう返す。
冒険者育成校では一応レイを教官と呼ぶのだから、今は周りにそこまで人目も多くない為だろう。
レイと話す時のように、教官ではないレイと名前で呼んでいた。
そんな風に言われたレイだったが、特に気にした様子もなく頷く。
「そうだな。セトにも言っておこう。盗賊との遭遇とか、そういうのがない限りは問題ないと思う。……モンスターの襲撃くらいなら、歓迎するんだが」
最後をボソリと口にする。
何しろ、レイにしてみれば未知のモンスターとの遭遇は歓迎すべきものなのだから。
ただし、モンスターとの遭遇と一口で言っても、それがゴブリンのようなモンスターであれば決して嬉しいことではなかったが。
もしゴブリンを見つけても、その時は生徒達に訓練ということで倒させよう。
そう思いながら、レイは他の面々にも出発の準備を急がせる。
とはいえ、食事に使った食器は湖で洗って既にミスティリングに収納されているし、串焼き等に使った串も焚き火の中で燃やされている。
魚の骨といった部分も焚き火に放り込まれているので、出発の準備と一口に言っても、焚き火を消すくらいのことしかなかったのだが。
これが野営であれば、使ったテントの片付けといった作業も入ってくるのだろうが、今はあくまでも昼の休憩だ。
やがて準備が終わると、出発することになる。
「夕方くらいになったら、どこか野営をするのにいい場所を見つけて、そこで野営をすると思う。それまではしっかりと飛ぶから、そのつもりでいてくれ」
レイの言葉に、ニラシスと生徒達は仕方がないといった様子でセト籠の中に入っていく。
……勿論、カニの入った鍋はしっかりと持って。
(泥抜きとかって、半日……いや、五時間から六時間くらい? そのくらいで出来るのかどうか分からないけど、何もやらないで食べるよりはマシだろ。もし泥が身体の中に残っていたら……まぁ、その時はその時で仕方がない。我慢して食べるか、もしくは何らかの餌として使うか)
カニを焼いたりすれば、香ばしい香りが漂う。
ダンジョンの中で、もしくはギルムでモンスターを誘き寄せる時に、使えるかもしれない。
(というか、この湖にこういうカニがいたのなら、ダンジョンの湖にもカニがいたりするのか? ……サメはいたんだけどな)
レイがガンダルシアのダンジョンについて想いを馳せていると、やがて最後にニラシスがセト籠に乗り込む。
扉が閉まるセト籠。
セト籠の中がどうなっているのか……具体的には、鍋のせいでかなり狭くなっているのだろうと思いつつ、レイはセトに声を掛ける。
「じゃあ、行くか。今は出来るだけ距離を縮めたいしな」
「グルゥ!」
レイの言葉に、嬉しそうに喉を鳴らすセト。
ただし、その嬉しさの結構な部分は夕食の時に食べるカニに向けられているようにレイには思えたが。
それでセトがやる気になってくれるのなら、レイとしても不満はない。
そんな訳で、レイはセトの背に跨がるのだった。
「うーん……本当にここまで何もないと、少し不安になってくるな」
昼の休憩が終わり、飛び立ってから既に数時間。
セトは優雅に空を飛び、レイはそんなセトの背の上で周囲の様子を眺めつつ、そんな風に呟く。
本来であれば、こうして何もトラブルがないまま移動出来るというのは、歓迎すべきことだ。
あるいは普通のことでもあるだろう。
だが、レイは自分がトラブル誘引体質とでも呼ぶべき存在なのを理解している。
なのに、こうして数時間もの間、何もトラブルがないままで進むというのは少し不安があった。
今はいい。
だが、このまま何もない状態で時間が経過すると、それこそトラブルポイントとでも呼ぶべき数値が溜まって、何か大きなトラブルがあるのではないかと。
……実際には、トラブルに遭遇しなくなってから、まだそんなに時間が経っている訳ではない。
数時間程度の話なのだから、そこまで気にするようなことではないだろう。
あくまでも普通はの話だが。
それでもレイは万が一を考えると、やはり不安に思ってしまうのは仕方のないことでもあった。
(勿論、何もないのならそれが一番だとは思うけど……そういう風に、こっちに都合のいい感じになるとは到底思えないしな)
レイは、決して自分の運が悪いとは思っていない。
いや、客観的に見た場合、相応に運が悪いのでは? と思わないでもなかったが。
ただ、それでも現在の自分の状況を思えば、やはり決して一方的に運が悪いとは思えないのだ。
そもそもの話、日本で事故に遭って死にそうなところでゼパイルに見つかり、エルジィンにやって来た。
事故に遭ったのは運が悪いのかもしれないが、それでもそのまま死ぬようなことはなく、この世界にやって来たのは決して運が悪いとは言えない。
いや、寧ろ剣と魔法の世界にやって来たのだから、幸運だとすら言えるだろう。
(言ってしまえば、悪運は良い……ってことになるのかもしれないな)
そんな風に思いつつ、レイは周囲の様子を確認する。
セトがいる以上、特に問題はないと思う。
思うのだが、それでも万が一を考えれば、警戒しておくのは悪くないことなのは間違いなかった。
「グルルゥ」
そんなレイとは裏腹に、セトは嬉しそうに喉を鳴らす。
一体何がそんなに面白いのかと疑問を抱くレイだったが、セトにしてみればこうしてレイと一緒に自由に空を飛べるというのは、それだけで嬉しいのだろう。
レイはそんなセトを撫でつつ、空を飛んでいるが故の景色を楽しむ。
(景色がいいのは間違いない。それこそ、絶景といった表現が相応しいくらいには、けど……だからといって、ずっと同じような景色を見ていれば飽きるのも事実なんだよな)
セトがこうして飛んでいる以上、ずっと同じ景色を見ているという訳ではない。
そしてレイが考えたように、絶景という表現が相応しいのも事実。
だが……それでも、やはりこうして同じような景色だけを見ていれば飽きやすいのも事実だった。
(何で見たんだったか。世界遺産とかになるような景色であっても、そこで生まれ育った者にしてみれば、それがあるのが当然で、わざわざそれを見に来る観光客がいるのは不思議な気持ちになるとか何とか)
そんな風に思っていると、不意にセトが喉を鳴らす。
「グルルゥ?」
その鳴き声に、警戒の色はない。
いや、寧ろ戸惑いの色すらある。
「セト? ……えっと……」
最初はセトの見ている方に視線を向けたレイだったが、生憎とレイはセトと比べると五感が鈍い。
その為、セトが一体何を見てるのか分からず、疑問を抱く。
ただ……それはあくまでもセトと比べればの話であって、常人とは比べものにならないくらいに五感が鋭いのも事実。
やがてセトが飛び続けると、レイにも一体セトが何を思って先程のように喉を鳴らしたのかを理解する。
「あー……あれは、戦争? いや、そこまで大袈裟じゃないか?」
そう、レイの視線の先では、大勢の者達が戦いを行っていた。
人数にしてみれば、敵味方合わせても百人にも満たないだろう。
また、何より殺気の類がなく、地面に倒れている者はいるが、血を流している――致命傷的な意味で――者もいないように思える。
もっとも、レイにしてみればまだようやく判別がつくようになってきたといった距離なので、ただ見えていないだけという可能性もあるが。
ただ、それでも遠くから見る限り、殺し合いをしているようには見えなかった。
「グルルゥ?」
どうするの? とセトが喉を鳴らす。
そんなセトの様子に、レイはどうするべきかを考える。
例えばこれが、盗賊……あるいは一方的に人数の多い方が少ない方を虐殺しているといったようなことでもあれば、レイも介入しようとしたかもしれない。
しかし戦っている者同士は同じような規模で、何より双方共に殺したり殺されたりといったようなことにはなっていないように思える。
「となると、模擬戦……か? いや、正確には演習とかそんな感じか」
こうしてレイが考えている間も、セトは翼を羽ばたかせ続けて進んでいる。
そうなると、当然だがレイにも現場の様子がしっかりと分かるようになってきたのだ。
だからこそ、余計に血が殆ど流れていない戦場であるというのが理解出来た。
「演習とかなら、別にわざわざ関わる必要はないんだが……あ、でもそうだな。アーヴァイン達なら勉強になるか」
レイも自分が一応教官だという思いはある。
そして教官である割に、それなりの頻度で教官としての仕事を休み、ダンジョンに行っているという負い目も。
レイが教官の仕事を引き受ける時、仕事を休んでダンジョンに行ってもいいという条件があったのは事実だし、そういう意味では本来ならレイがそこまで気にする必要がないのも事実。
だが、それでもレイはレイなりに、生徒達のことを考えているのも間違いはないのだ。
そうである以上、演習であってもそれを見せるのは悪いことではないだろうと思えた。
冒険者であっても、場合によっては傭兵と同じように戦争に参加することはある。
それは、レイが実際に経験したことだ。
もっとも、ベスティア帝国との戦争については、元々レイが大きく関わっていたから、逃れようがなかったというのが正しいが。
いや、あるいは関与しないようにと思えばそういうことも出来たかもしれない。
だが、後々のことを考えると、それは止めておいた方がいいのも事実であり、レイは戦争に参加したのを後悔はしていない。
戦争のおかげで、深紅の異名を手に入れたという一面もあるのは間違いないのだから。
また、回りに回ってヴィヘラとの関係についても、ベスティア帝国との戦争があったのが関係しているのも間違いない。
「ともあれ、どうするべきかは地上に降りてから考えるか」
そう言い、レイはセトに地上に降りるように指示を出すのだった。




