0389話
「いや、兄貴。俺達別に死んでませんから」
「うるせえな。いいところなんだから黙ってろよ」
女とレイ、エレーナの会話に唐突に割り込んできたその声は、レイ達が入って来た扉の外からだった。
その声と共に食堂へと入ってきたのは、巨大な……レイにしてみればまるで壁とでも表現出来そうな体格を持つ男だ。
レイよりも身長の高いエレーナと踊り子風の女、そんな2人の女よりも更に巨体であり、身長にして2mは優に超えているだろう。
ただでさえ大きいその体格に青で染められた鎧を身につけ、巨大な……それこそ柄から剣先まで2mはあろうかという剣が収まった鞘を背負っている。
エレーナのように腰に鞘をぶら下げていないのは、単純にその大剣の長さ故だろう。純粋に武器としての間合いを考えれば、レイのデスサイズと同レベルの代物だ。
そうなれば当然武器の重さも相応の物になり、普通の者なら持ち上げるのにも一苦労するのだろうが、食堂の中に入ってきた男程の体格があれば問題無く振り回せるのだろう。
「ボ、ボスク様!?」
食堂で働いていると思われる1人の娘が思わず口に出し、すると次の瞬間には食堂の中にいた客がざわめきに包まれる。
「お、おい。ボスク様って……もしかしてシルワ家の!?」
「なんだってこのエグジルを治めている3家のうちの1家の当主がこんな場所に」
「いや、それはさっきボスク様が自分で言ってただろ。弟分が云々って」
「……ってことは、もしかしてさっきあの女が伸したのって……っていうか、あそこで積み重ねられてるのも」
「だろうな」
「うわっ、マジかよ。シルワ家の手勢だったのか!? あの女も絡まれたからって、相手が悪かったな」
「そうでもないだろ。見ろよ、あの様子を。それにさっきボスク様が狂獣云々って言ってただろ? 聞いたことが無いか戦闘狂の狂獣って」
「いや、俺は知らないぞ」
「まぁ、知る人ぞ知るって名前だから無理も無いか」
そんな風に周囲の客達の騒いでいる声が聞こえて来る中、事態は一種の均衡を保っていた。
レイとエレーナにしてみれば、女にしろ、ボスクと呼ばれた男にしろ、戦う必要は無い相手だ。そもそも、この食堂にやってきたのは食欲をそそるような香ばしい匂いがあったからであって、戦う為に来た訳ではないのだから。
女にしてみれば、ただでさえレイとエレーナという極上の獲物が存在していたところに、更に別の獲物が現れたのだ。出来れば全員と戦いたいが、それも難しい。ならば誰と戦うか……と品定めをしているところか。
ボスクにしてみれば弟分の仇とばかりに姿を現したのだから、女はともかくとしてレイと戦う必要はない。だが、その時……不意にボスクの視線がレイとエレーナへと向けられる。
本人にしてみれば、自分がこれから戦う相手との邪魔をするんじゃないかと思っての一瞥。しかしその姿を一目見ると、思わずその動きを止める。一見すると魔法使いにしか見えない男……いや、少年。フードの下からは赤い髪が生えているのが見える。そして何よりも、レイの隣にいるエレーナ。ボスクの視線の先にいるのは攻撃的な美貌を持つ美女だったが、今ボスクの視線の先にいるのもその女に負けない程の美貌を持つ女だった。
そこまで来れば、前日に弟分の1人から聞いた報告が脳裏を過ぎる。
(深紅に姫将軍? 何だってこんな早々に……いや、待て。その割りには店の前にグリフォンの姿は無かったぞ?)
この時のボスクが不運だったとすれば、セトが予想以上に頭が良かったことが挙げられるだろう。
自分の姿を見たエグジルの住人の多くが脅えているのを知ったセトは、自分の背中に乗っていたイエロと共に人目に付かないように裏路地へと隠れていたのだ。更には、ランクAモンスターとしての能力を無駄に発揮して気配を極力消していた為、ボスクはセトの存在に気が付く事は無かった。
慌てて扉から外へと顔を出して周囲見回すボスクだが、グリフォンであるセトの姿は見つからない。恐らくは厩舎にいるのだろうと判断し、安堵の息を吐く。
幾ら自分の力に自信があるボスクでも、さすがにグリフォンを相手にするような真似は避けたかったのだ。
「で、俺はそっちの色っぽい姉ちゃんとやり合うつもりで来たんだが……そっちの2人はどうする? 俺とやり合うか?」
「いや、そのつもりはないな。私達は食事をしに来ただけだ。好き好んで戦う趣味は無い」
「そっちの坊主はどうだい? 俺とやり合う気はあるか?」
ボスクにしてみれば確かに実家が公爵家であるエレーナも厄介だったが、より直接的な脅威はやはりグリフォンを従えているレイだ。特にその異名を付けられる原因になった大規模魔法をエグジルの中で使われたりしようものなら、どれだけの被害が出るのか分からないのだから。
それ故の問いだったが……
「いや。俺も仕掛けられたならまだしも、自分から攻撃をするつもりはないな」
レイの口から出たその言葉に、ボスクは内心で思わず安堵の息を吐く。
「そうか、ならこの場は俺に譲って貰えるな? ……そっちもそれでいいだろ? 俺を相手にしながらこっちの2人も相手にするってのが無理だってのは分かるな?」
そんなボスクの言葉に、女は数秒程悩み……やがてレイへと向かって艶めかしい程に艶のある視線を向ける。
「しょうがないわね。今日は君とやり合うのは諦めるとしようかしら。幸い、私は好きな料理は最後までとっておく主義だし」
「おいおい、それは何だ? 俺は前菜でしかないって言いたいのか?」
女の言葉に、ボスクが不愉快そうに眉を顰めて尋ねる。
ボスクにしても、この場で全員とやり合って無事に済むとは思ってはいない。だが、それでもこの場にいるレイ、エレーナ、女の3人のうちの1人となら互角にやり合えるという自負を持っているのだ。それだけに自分が前菜扱いと聞かされれば、不愉快になるのも当然だった。
だが、女はそんなボスクに笑みを浮かべて小さく肩を竦める。
その際に相変わらずの巨大な乳房が揺れて周囲の男の視線を釘付けにするが、女はそれを気にした様子も無く食堂の外へと向かう。
「さ、行きましょうか。まさかこんな場所で戦いを始める訳にもいかないでしょ?」
「……いいだろう。そこまで舐められちゃ俺としてもこのまま引き下がる訳にはいかねえからな。付いて来い、いい場所がある」
ボスクがそう告げ、女がその後に続き、レイの隣まで来た時。
「じゃ、また今度私とあったらたっぷりとやり合いましょうね。これはお礼の先払い」
そう告げ、素早くレイの頬へと唇を触れさせる。
それだけの、本当に軽いキスだったが、そのキスが起こした結果は激烈だった。
「っ!?」
エレーナの手が素早く腰の連接剣へと伸び……だが、この場所が食堂であることに気が付いたその一瞬で女はエレーナとレイから距離を取る。
「うふふ。やっぱり貴方達はメインディッシュに相応しいわ。また会いましょう。ああ、忘れてたわ。私の名前はヴィヘラっていうの。よろしくね」
パチリ、とウィンクをして食堂を先に出ていたボスクの後を付いていく。
これから戦闘をするというのに、全く気後れした様子も緊張した様子も無い。
その様子に感心しながら、レイは自分の後ろにいる存在から発せられる怒気に溜息を吐きながら振り向く。
「エレーナ、そう怒るな。別に実際に俺があのヴィヘラって女とどうにかなった訳じゃないだろ?」
「それはそうだが、お前も隙がありすぎる。だからこそ、あのような女に簡単に懐に入られるんだ」
「いや、俺の油断とかも多少はあったかもしれないが、ヴィヘラとか言ったか? あの女は十分に凄腕だ。エレーナも、それくらいは当然感じ取ってただろ?」
そんなレイの言葉に、不満そうにしつつも不承不承頷くエレーナ。
エレーナにしてみれば露出狂かと思わん程の服装をしていた女だったが、確かにその強さは明らかだったのだ。戦って負けはしないだろうが、それなりに苦戦するだろうと思える程には。
「……それは否定しない」
そう呟き、ジトッとした視線をレイへと向ける。
「だからと言って、迂闊に唇を許すとは何事だ」
「いや、唇は別に許してないぞ。……寧ろ、キスされたんだから唇を許されたっていうのか?」
「……ほう。レイ、随分と嬉しそうだな。もしかして、あのヴィヘラとかいう女が言っていた一晩云々というのが気になっているのか?」
ずいっとばかりに1歩を踏み出すエレーナ。その身体から滲み出る迫力は、まさに姫将軍と呼ばれるに相応しいものがあった。
(いや、こんな場面でそんな迫力を出してどうするんだって話だが)
内心で呟きつつ、まずは話題を逸らす為に食堂の中を見回す。
先程のヴィヘラの騒動から始まり、レイとエレーナに対する挑発、あるいは挑戦。そのすぐ後にはこのエグジルを治めている3つの家の1つシルワ家の当主でもあるボスク・シルワの登場、そしてあわや三つ巴になりかねないといった風に、まさに混乱の一時だった。
それだけに、食堂の中にいる客達の多くはこの場に唯一残されたレイとエレーナへと視線を向けていたのだが……さすがに今のようなやり取りには巻き込まれたくないと思ったのだろう。レイが視線を巡らせると、全員がそっと視線を逸らして食事、あるいは友人との会話を再開する。
そんな様子を眺めつつ、これで話を誤魔化せたと思った訳でも無いだろうが食堂のウエイトレスへと声を掛ける。
「あの空いている席は使ってもいいか?」
「え? あ、はい。勿論です。どうぞ」
正直な話、ウエイトレスとしては遠慮して欲しかったのだが、それをレイとエレーナに向かって言える訳もなく大人しく席へと案内することになるのだった。
エグジルの街中にある公園。普段であればそこには近所の住民や、あるいは冒険者達が寛いでいる場所だが、今は公園のどこにもそんな者はいなかった。
いるのは、夏の日差しが降り注ぐ中で踊っているかのようにくっつき、離れ、再びくっつきとしている2つの人影とその周囲にいる複数の人影のみ。
「はあああぁぁっ!」
空気そのものを砕くかのような威力で振り下ろされるボスクのクレイモア。
その、破壊を象徴しているかのような巨大な刃を、ヴィヘラは軽やかに動きながら回避する。
勿論回避するだけでは終わらない。巨大な武器であるだけに、ボスクが攻撃を外したときの隙も当然大きい。その隙を突き左右の手甲から鉤爪を作り出しては素早く振るう。
だが、ボスクもまた一流の戦士であるのは間違いが無く、素早く振るわれる鉤爪の一撃を紙一重で回避し、あるいはクレイモアの柄の部分で受け止める。
鎧を着ているというのに受けるのはクレイモアの柄だけなのは、最初に攻撃を受けた時にミスリルと火炎鉱石を使って作られている鎧をあっさりと鉤爪で斬り裂かれたからだろう。
本来であれば魔法防御と火炎防御に特化しているボスクの鎧だが、ヴィヘラの鉤爪の一撃は防ぐことが出来なかった。
それでも斬り裂かれたのが肩の部分であったからこそ被害は無かったのだ。もしこれが胴体を斬り裂かれていたとしたら、ボスクが圧倒的に不利になっていた筈だ。
「へぇ、さすがにこのエグジルを治めている家の1つ、シルワ家の当主。まさか私とこうもやり合えるとは思っていなかったわ。ちょっとした幸運ね」
「お褒め頂きどうもってな。こっちとしても狂獣とか呼ばれている女がこれ程の実力を持っているってのは正直予想外だったよ。ほら、次行くぜぇっ!」
大きく叫ぶと地を蹴り、クレイモアを振りかぶりながら間合いを詰めていく。
「はあああああぁぁぁっ!」
雄叫びとも言えるような声と共に振り下ろされるその巨大な刃。だがヴィヘラはそれを全く気にした様子も無く、逆にボスクとの距離を縮めて間合いをゼロにする。
それは普通のクレイモアのような大剣を使う者との戦いであれば正解の選択肢だっただろう。何しろ刀身の根本というのは武器が大きければ大きい程に取り回しがしにくいし、何よりもクレイモアを含めて剣の中で最も斬れ味が高いのはその先端なのだから。
「ふっ、甘いわね」
口元に蠱惑的な笑みを浮かべつつ、振り下ろされたクレイモアの刀身の根本を右の手甲で殴りつけて強引に軌道を逸らし、がら空きになった胴体に向かって素早く回転しながら足甲に覆われた足で蹴りを……
「どっちがだ!」
叩き込む寸前、ボスクはクレイモアを振り下ろした遠心力をも利用して強引にその場で身体を半回転させ、その結果ヴィヘラの足は一瞬前までボスクの肉体のあった場所を通り過ぎていく。
その場に留まり続けるのは体格の問題で不利だと判断したのだろう。ヴィヘラは邪魔だとばかりに振るわれたボスクの拳を回避し、それどころか振るわれた拳を足場にして、その勢いを利用しながら空中を跳んで距離を取る。
「すげぇ……」
ボスクの弟分、即ちヴィヘラに言い寄って返り討ちにされた男の声が響く中、周囲に人が集まってきて時間切れの引き分けとなるまでの20分程、ヴィヘラとボスクの演舞にも似た戦いは続くのだった。