3816話
ギルドでの用事を終えて家に戻ってきたレイは、ジャニスに夕食については少し遅くても構わないと声を掛けてから、庭にやってきていた。
既に夕方近くになっており、太陽も夕日に変わり掛けている。
それでもまだ初夏なので、庭はそこまで暑くはない。
……これが真夏になれば、夕日……いや、西日によって暑く感じるだろう。
もっとも、それはあくまでも一般人ならの話だが。
レイの場合は簡易エアコン機能のあるドラゴンローブを着ているので、それこそ昼の砂漠にいても快適にすごすことが出来る。
そんなレイは、現在セトに寄りかかりながら、左手で地面に置いたデスサイズに触れながら、無詠唱魔法の訓練をしていた。
魔力の流れのコントロールと決められた動作によってファイアボールを放つ……それを目指し、練習していた。
パチン、と指が鳴るものの、当然ながらファイアボールは……いや、どのような魔法だろうと発動しない。
だが、レイの表情に残念そうな色はない。
既に何度か試しているものの、すぐに魔法が発動するとは思っていない為だ。
魔法が発動すればレイにとっても嬉しいのだろうが、それでもそう簡単に魔法が発動するとはレイにも思えなかった。
(炎帝の紅鎧の深炎のように……それでいながら、そこまで魔力を使わずに……)
そう考えつつ試しているのだが、やはり簡単に魔法が発動する様子はない。
一体どうすればいいのか。
そのように思わないでもなかったが、今は考えるよりもただ試してみる方が先だった。
これでレイが理論派の魔法使いであれば、無詠唱魔法のプロセスを考え、その通りにすることで無詠唱魔法を使える……といったようなことになってもおかしくはない。
だが、レイは感覚派だ。
あくまでも自分がどのように魔法を使えばいいのかを考えるのではなく、感覚的に魔法を使えるようにする必要があった。
(何となく……本当に何となくだが、前に進んでいる感じはするんだよな。だとすれば、やっぱりこのまま練習を重ねればいずれは無詠唱魔法を使えるようになる……と思う。なる、といいなぁ)
そんな風に思いつつ、再びパチンと指を鳴らす。
「え?」
その瞬間、自分が目にしたものに思わずレイは声を出す。
それどころか、寄りかかっていたセトの身体から起き上がるように声が出た。
一瞬……本当に一瞬だったが、小さな火の粉が周囲に散ったように思えたのだ。
火打ち石で生み出されるような、そんな小さな火花。
目を大きく見開いてそれを見ていたレイだったが、再びパチンと指を鳴らす。
「……幻覚か?」
だが、先程と同じように指を鳴らしたにも関わらず、火花が生み出されるようなことはなかった。
しかし、そう口にしようともレイの感覚としては間違いなく目の前に生まれた火花は本物だろうという一種の確信があった。
「グルゥ?」
セトがどうしたの? と喉を鳴らす。
庭に寝転がり、浅いとはいえ眠っていたセトだけに、自分に寄りかかっていたレイがいきなり起き上がったので、一体何があったのかと疑問に思ったのだろう。
「いや、ちょっとその……無詠唱魔法、ちょっとだけ使えたかもしれない。とはいえ……うーん、どうなんだろうな」
疑問を口にするレイ。
火花が散ったのは間違いないものの、それを本当に無詠唱魔法としてもいいものかどうか、それが分からなかったのだ。
それを抜きにしても、レイが措定していたのはあくまでもファイアボールであって、火花ではない。
そう考えれば、間違いなく無詠唱魔法としては失敗なのは間違いないが……同時に、初めて無詠唱魔法の片鱗が見えたのも、また事実。
「グルゥ!」
レイの言葉に、セトはおめでとうと喉を鳴らす。
レイと一緒にダンジョンに潜っているセトだ。
無詠唱魔法の訓練を必死になってやっているのは知っている。
……とはいえ、レイが無詠唱魔法の訓練を始めたのはセトを置いて十階を探索していた時なので、最初については知らないのだが。
それでもそれ以外の時は大半をレイと一緒にいたセトなので、レイが一体どれだけ無詠唱魔法の訓練に集中していたのかは理解出来る。
ただし、それはあくまでもレイにとっては苦労したということでしかない。
もし普通の魔法使いが無詠唱魔法を使おうとすれば、それこそ一生という時間があっても足りない。
アンデッドになるなりなんなりして、寿命を伸ばすのは必須だろう。
それだけ難易度が高いのが、無詠唱魔法なのだ。
そんな無詠唱魔法を、必死に訓練したとはいえ、一年どころか一ヶ月……いや、十日も経たずに片鱗とはいえ使って見せた辺り、レイの魔法の才能がどれだけのものかを示していた。
「今の感覚を忘れないようにして……それでいながら……あ、これは不味いな」
無詠唱魔法の糸口を掴むのに苦労していたレイだったが、糸口を掴んでしまえばそこからは早い。
今の感覚を忘れないようにもっとしっかりと意識をしつつ無詠唱魔法を使おうとしたレイだったが、その時の手応え……より正確には間違いなく無詠唱魔法が発動するといった感覚を覚え、それを中断する。
何故なら、今この場でそのような魔法を実際に使ってしまうと、ここでファイアボールが発動すると、そう理解したからだ。
これが例えば普通に魔法を使う場合であれば、魔法を発動させた後でその魔法を待機させることも出来るし、キャンセルして消し去ることも出来るだろう。
だが、無詠唱魔法というのはレイにとっても初めて使う魔法……いや、技術だ。
そうである以上、もしかしたらキャンセルしたり出来ないか、出来てもレイの予想外の結果になる可能性があった。
そうである以上、出来ればここでやりたくはなかった
この家は今はレイが住んでいるものの、それはあくまでも借りているだけでしかないのだから。
レイが冒険者育成校の教官の仕事を辞めれば、この家は返す必要が出てくる。
つまり、借りている家なのだ。
そうである以上、どうしても必要ならともかく、避けられる被害は避けた方がいい。
金に余裕があるので、原状復帰して返すのに必要な代金を支払うのに問題はなかったが、避けられるのにわざわざそのようなことをする必要はない。
「よし、セト。ちょっと学校に行くぞ。訓練場なら魔法の練習をするのに丁度いいし」
こういう時、家が学校の近くにあるというのは便利だった。
「グルゥ!」
分かったと喉を鳴らすセトと共に、レイはジャニスに少し出掛けてくると声を掛けてから家を出るのだった。
冒険者育成校の訓練場までやって来たレイだったが、訓練場に近付くにつれ、声が聞こえてくる。
「あー……これは……まぁ、仕方がないか」
何が行われているのかを理解したレイだったが、他に訓練すべき場所となると、それこそガンダルシアの外くらいしか思い浮かばない。
その為、あまり人がいませんようにと思いながら訓練場に向かう。
するとそこでは、十人ほどの生徒達が模擬戦をしているのが見えた。
「やっぱりか」
基本的に冒険者育成校の授業は午前中で終わり、午後はダンジョンに行くことが推奨されている。
だが、それはあくまでも推奨されているのであって、絶対ではない。
もう少し鍛えなければ、今の階層を攻略するのは難しい。
パーティメンバーが何らかの理由で休んでおり、ダンジョンに挑むのは難しい。
それ以外にも色々な理由でダンジョンに潜れない者達の中には、こうして訓練場で訓練をする者もいる。
勿論ここが冒険者育成校であり、何よりもダンジョンの攻略を重視している以上、連日ダンジョンに潜らずにいれば、成績にも影響してくるのだが。
ともあれ、今ここでこうして訓練場に生徒達がいて、訓練をしているのは間違いのない事実だった。
「離れた場所でいいか」
安全を考えれば、今日はもう訓練をするのを止めて明日にでもそれこそダンジョンで無詠唱魔法の訓練をしてもいいのだが、先程の感覚を忘れないうちに無詠唱魔法を試してみたいという思いの方が強い。
この辺り、レイがあくまでも教師や教官ではなく冒険者なのだということなのだろう。
「あ、レイ教官!? どうしたんですか?」
訓練場にいたうちの一人がレイの姿に気が付き、そう声を掛けてくる。
そうすると他の者達もレイの姿に気が付き、模擬戦を行っていた者達も一度中断してレイに視線を向けてきた。
それだけこの時間にレイがこの訓練場にいるのが珍しいのだろう。
「俺もちょっと訓練をしたくてな。場所を借りるぞ。ああ、お前達から離れた場所で訓練するから、自分達の訓練に集中してくれ。俺の訓練は色々と試す必要がある。危険かもしれないから近付くなよ」
こういう時、訓練場が広いのはレイにとっても悪くない話だった。
生徒達は何かを言いたそうにしていたが、レイはそれを意図的に無視する。
夕方になってもこうして訓練をしている者達だ。
そこにレイがやって来たのなら、レイに訓練をして貰いたいと思うのは当然だろう。
だが、レイにしてみればこの訓練場に来たのはあくまでも自分の訓練をする為だ。
ここ暫く取り組んでいた無詠唱魔法の取っかかりをようやく見つけたのだから、そちらに集中したかった。
そもそもレイの教官としての仕事は、午前中で終わっているのだから。
(あ、訓練をしてる連中は、もしかしたら今日の選抜試験で落ちた奴か?)
セトと共に訓練場の端まで移動しつつ、レイはそんな風に思う。
今日この訓練場で行われた、選抜試験のトーナメント。
その途中で負けたか、あるいは筆記試験で落ちたか……もしくは、書類審査で落ちて筆記試験までいけなかったのか。
ともあれ、そのような者達が悔しさから訓練をしているのではないかと、そう思ったのだ。
もっとも、それはそれでレイにとっても何も問題はない。
この冒険者育成校の設立理由を考えれば、自分の実力不足を悔しく思い、鍛えてその力を伸ばそうと考えるのはおかしな話ではないのだから。
レイに訓練をして欲しいと言いたかった生徒達も、レイの様子を見て諦める。
いつもみる教官としてのレイではなく、冒険者としてのレイの姿を見て、邪魔をしない方がいいと判断したのだろう。
……レイも別に、話し掛けてきたから力を振るうといったようなことをするつもりはなかったが、一度警告した以上はここで自分に向かって近付いて来ても、相手をするつもりはなかった。
「さて……まぁ、取りあえずこのくらい離れていればいいか。時間に余裕はあまりないしな」
既に夕日も沈みそうになっており、もう少しすれば夕方から夜になるだろう。
その頃には家に帰っておきたいレイは、生徒達から十分に離れたところでミスティリングからデスサイズを取り出す。
「セト、大丈夫だとは思うけど、何が起きるか分からない。俺の前に出るようなことはしないで、後ろにいてくれ。そしてもし何か不測の事態があったら、助けてくれ」
「グルゥ!」
レイの言葉に、セトは任せてと喉を鳴らす。
レイはセトを一撫ですると、デスサイズを手に意識を集中する。
先程、庭で行っていた時の感覚を思い出す。
不思議と、その感覚を掴むのは容易だった。
切っ掛けを掴んで一度自転車に乗れるようになれば、少しくらい自転車に乗っていなくても乗り方を忘れるようなことはないのと同じく、一度その感覚を覚えてしまえば同じことを再現するのは難しくないのだろう。
自然と……それこそ不思議な程に、まるでそう出来るのが当然だと思えるかのような自然な動作で指を鳴らす。
パチン、と。
すると次の瞬間、レイの視線の先……そこに生み出そうとしていたファイアボールが姿を現す。
「……成功、か」
呆然とレイが呟く。
やろうと思った瞬間に無詠唱魔法が出来るという確信がレイにはあった。
それは間違いなかったが、それでも実際にこうして無詠唱で魔法が発動すると、本当に自分がやったことなのかが分からなかった。
この無詠唱魔法を使うようにする為に、レイはここ暫くの間ずっと訓練を続けていた。
何しろ手本になるようなものは、実際にレイが十階で戦ったリッチの無詠唱魔法しかない。
後は、日本にいる時に見たアニメや漫画、小説、ゲームといったものか。
そうした中で試行錯誤をしながら、どうにかして無詠唱魔法を使おうとしていたのだ。
それらの苦労が報われた。
そう思うと強い充実感がレイの中に広がる。
最初は呆然と目の前で燃える炎……ファイアボールを見ていたが、それを見ているうちに少しずつだが充実感が満ちてきたらしい。
それを嬉しく思いながら、レイは拳を握り締め……
「やったぞぉっ!」
そう、叫ぶのだった。