3806話
「んー……今日はいい天気だな。これぞ初夏って感じだ」
レイは空を見上げながら、そう呟く。
空にはそれなりに雲が浮かんでいるものの、それは曇天とは呼べない程度の少数でしかない。
そしてどこまでも高く見える青空は、まさに夏といった天気だった。
そんな天気の中、レイはセトと共に冒険者育成校に向かう。
本来なら、今日は朝からダンジョンに潜るつもりだったのだが……朝食の時にフランシスからの使いの者がやってきて、今日は学校に来て欲しいと伝言をされてしまったのだ。
そうなると、教官として雇われているレイとしては、それを無視する訳にもいかない。
そんな訳で、レイは二日続けて教官の仕事をすることになったのだ。
……教官として雇われているのだから、それは何も不思議なことではないのだが。
ただ、レイとしては今日は十二階にある岩の収納を行うつもりだったので、その予定が狂ってしまった形だった。
もっとも、岩の件は別にそこまで急ぐ必要がある訳でもない。
どうしても緊急にやる必要のあることではないのだから。
なので、今日も大人しく教官として仕事をすることになった訳だ。
「おはようございます。レイ教官」
セトと共に歩いていたレイは、その声の聞こえてきた方に視線を向ける。
するとそこには、イステルの姿があった。
二組の頂点にいる少女は、貴族らしい笑みを浮かべてレイに挨拶をする。
「ああ、おはよう。本来なら今日はダンジョンに行くつもりだったんだけど、フランシスに呼ばれてな」
「学園長に……? だとすれば、もしかして……」
レイの言葉を聞いたイステルは何かに気が付いた様子を見せる。
「何か心当たりでもあるのか?」
「えっと……その……これは言ってもいいのかどうか、ちょっと分からないのですが」
「グルゥ」
躊躇してる様子のイステルに、レイの隣を歩いていたセトが、教えてくれないの? と喉を鳴らす。
するとそんなセトの鳴き声を聞いた瞬間、即時にイステルは口を開く。
「実は、近いうちにギルムに行く選抜試験が行われるという話が少し前からあったので」
イステルはフランシスと同様にセト好きの一人だった。
その為、セトが残念そうに喉を鳴らせば、少しでも早く答えなければならないと、そのように思ったのだろう。
(今はいいけど、冒険者としてやっていく上で、これはどうなんだ? ……いや、セト好きは他にもいたし、そう考えればおかしな話ではないのか)
それこそこのガンダルシアでもそうだが、レイの本拠地たるギルムであってもセト好きの冒険者は多くいる。
その筆頭が、若手の中では優秀な人物とされているミレイヌだ。
まだ、それ以外にもレイがベスティアの内乱の時に部下だったヨハンナもいる。
他に冒険者にもセト好きな者は多かった。
そういう意味では、セト好きの冒険者というのはそう珍しいものではないのだろう。
……セト好きだからといって、あっさりと機密を口にするのは問題だったが。
とはいえ、今回の件……選抜試験については別にそこまで機密度が高い情報という訳でもないので、あまり気にする必要はないのだが。
「選抜試験か。……その様子だと、イステルも参加するみたいだな」
「はい、私も冒険者の本場と言われるギルムには行ってみたいので。……私達のパーティは全員が参加します。もっとも、選抜試験に合格するかどうかは分かりませんが」
そう言うイステルだったが、レイは恐らく大丈夫だろうと思っている。
理由としては、やはりイステルは勿論、パーティを組んでいる者達が優秀だからという理由からだった。
何しろ、上位三クラスのトップが揃っているのだから。
ポーターのハルエスは選抜試験に合格するかどうかは微妙なところだったが、レイの権限として推薦すると決めている。
そんな訳で、イステルのパーティは全員がギルムに行くことにほぼ決まっていた。
(とはいえ、そうなるとセグリットがどうなるか、だよな)
冒険者育成校の生徒の中で、レイがイステル達と同様に突出した存在と言うべき人物に、セグリットという生徒がいる。
入学して実力を見せると、瞬く間にクラスを駆け上がっていった俊才。
セグリットがその気なら、恐らく選抜試験に合格はするだろう。
だが問題なのは、セグリットのパーティメンバーの三人の女達だ。
この三人も、相応に優秀なのは間違いない。
だが、瞬く間にクラスを駆け上がったセグリットと比べると、どうしても劣ってしまうのも事実。
天才と秀才……そんな違いか。
だからこそ、その三人は選抜試験に合格するのは難しいだろうとレイには思えた。
そして、だからこそセグリットは自分が選抜試験に合格しても仲間をガンダルシアに置いて、自分だけギルムに行くかと言われると……微妙なところだろうと。
レイが知っているセグリットの性格から考えて、仲間の女達を置いて自分だけギルムに行くという選択はしないだろう。
あるいはセグリットの仲間の女達が頑張って選抜試験に合格すれば、また話は少し違ったかもしれないが。
「話は分かった。けど、人に言っては駄目なこととかは、あまり口にしないようにな。……今回の件はそこまで問題になるような話ではなかったみたいだけど」
「あ、はい。その……気を付けます」
レイにそう言いつつも、イステルは視線をセトに向ける。
もしその辺りの事情について理解していても、セトがいれば恐らく自分がまた口を滑らせることになってしまうかもしれないと……そう思っての行動だった。
レイもそんなイステルの様子に気が付いてはいたものの、ここで自分が何かを言っても効果はないだろうと判断し、それを口にはしない。
そうしてレイとセトとイステルは校舎に向かう。
ただし、レイとセトだけでも目立つのに、そこにイステルもいるのだ。
当然ながら他の生徒達からの強い視線を向けられ続けることになったが。
それでもイステルにしてみれば、レイやセトと一緒に登校するというのは嬉しいことでしかない。
学校に到着するまでの短い間だったが、イステルは間違いなく幸せだったのだ。
「おはよう」
レイは職員室の中に入り、挨拶をする。
そんなレイの挨拶に、職員室の近くにいた他の面々も挨拶を返してくる。
いつもならそうしながらレイは自分の席に向かうのだが、今日は違った。
教官達の席が集まっている場所ではなく、教師達の席が集まっている方に向かって歩き始めたのだ。
それを見た職員室の面々は、一体何が起きたのかといった驚きを抱く。
今までレイがこうして教師達の席の集まっている方に来るということはなかった為だ。
一体何がどうなってこうなったのか、理解出来なかったが。
……ただ、一人だけレイがやって来るのを理解している者がいる。
それどころか、嬉しそうな笑みを浮かべて立ち上がると、自分からレイに近付いていく。
ざわり、と。
そんな教師の姿に、それを見ていた他の教師達がざわめく。
何故なら、それは教師の中でも内気な性格で有名な、イボンだったからだ。
「あ、レイさん。おはようございます」
その言葉にも、話を聞いていた者達は驚く。
イボンの気弱な性格を考えれば、こうしてレイを相手に気軽に挨拶をするようには思えなかったからだ。
勿論、教師の中にもイボンがこのような態度を取る相手もいる。
だがそれは、相応の時間を掛けて親しくなったからこそだ。
昨日まで、レイとイボンの接点はなかった。
だというのに、翌日にはこうして気軽な態度をしてるのだから、それに驚くなという方が無理だった。
教師の中には昨日レイがイボンに話し掛けていたのを覚えている者もいる。
しかし、それでも何故……と疑問に思う者は多かった。
実際には昨日の午後に無詠唱魔法について話したところ、イボンがレイに気を許すようになったのだが。
「それで、どうでした?」
何をどうしたといったことは口にしないイボンだったが、レイにもその言葉の意味は十分に理解出来た。
イボンにしてみれば、この場で無詠唱魔法について口にするのは不味いと、そう判断してのことだろう。
そんなイボンの配慮はレイにとって嬉しいものがあった。
もしここでイボンが迂闊に無詠唱魔法といったことを口にしようものなら、職員室の中でも無詠唱魔法に興味を持つ者は多かっただろう。
「そうだな。候補は取りあえず二つ出来た」
手で銃の形を模すのと、指を鳴らす。
この二つのうち、レイが無詠唱魔法の第一候補として選んだのは後者だ。
前者はどうしても銃口に見立てた指先の向いている方向に魔法を放つということが分かりやすすぎる。
……とはいえ、それはつまり分かりやすいだけに魔法に指向性を与えやすいということを意味してもいた。
指を鳴らすことで魔法を発動する場合、どこにどのように魔法を放つのかをしっかりとイメージする必要があるだろうとレイにも予想出来た。
もっとも、これらはまだあくまでも無詠唱魔法を使えるようになったらという予想の上の行動でしかない。
今のまま……レイが魔力の流れのコントロールや動作に覚え込ませて無詠唱魔法を使えるようになったのなら構わないが、無詠唱魔法を使う上で実際には意味がなくなる可能性というのも十分にあった。
……その辺については、レイもそういうものだと思っているが。
「そうですか。じゃあ、今日の午後にもお話を聞かせて貰えますか?」
「分かったが……今日、そういう時間的な余裕はあるのか? 俺が聞いた話だと、ギルムに行く面子の選抜試験が行われるって話だったけど」
「……あ……で、でも、その……夕方までやる訳じゃないですし」
イボンの様子から、レイはやはり選抜試験は今日行われる予定なのかと納得する。
イステルからそれらしい話は聞いていたものの、それが実際に当たった形だった。
(何でその辺の連絡が俺には来てないんだ? ……まさか……)
レイはイボンの様子をみつつ、ふと昨日の光景を思い浮かべた。
イボンとの話を終えて厩舎に行った時、そこではフランシスがセトを愛でていた。
その時はセト好きのフランシスなのだから、特におかしなことはないだろうと思っていたが、もしそれがレイに選抜試験について知らせに来ていたとしたら……
だというのに、セトと遊ぶのに集中しすぎて選抜試験についてレイに説明するのを忘れていたら。
そして今朝、あるいは昨夜遅くかもしれないが、それに気が付いて今朝慌ててレイの家に今日は教官として学校に来るように言ってきたら。
それは、あくまでも予想でしかない。
予想でしかないのだが、何となく……本当に何となくだが、レイはその予想が正解のように思えた。
後でその辺については聞いてみよう。
そう思いつつ、レイはイボンとの約束を取り付けると教官が集まっている方に向かう。
「その、レイさん。レイさんは彼女とお知り合いだったのですか?」
マティソンが、恐る恐るといった様子で声を掛けてくる。
レイにしてみれば、何故そこまで驚きながら聞いているのか、少し分からなかったが。
「知り合いというか、昨日声を掛けたのを見てただろう?」
正確には、レイが職員室に入ってきた時、マティソンがイボンと話をしていた。
その時はレイもイボンというのは男の魔法使いだとばかり思っていたのだが、マティソンにイボンは誰かと聞いたところ、マティソンの側にいたのがイボンだった。
「そうですけど……それでも、彼女と一日でここまで仲良くなるというのは……ちょっとその、信じられません」
そんなマティソンの言葉を聞いていた他の者達も、それに同意するように頷く。
イボンが非常に気弱な性格をしているのは、それこそ多くの者が知っている。
それだけに、レイがそんなイボンとこうも早く打ち解けるというのは、多くの者にとって驚きだったのだろう。
マティソンだけではなく、離れた場所にいたアルカイデまでもが一体何があったといった表情を浮かべている。
その様子を見る限りでは、アルカイデもまたイボンがどのような人物なのかを知っていたのだろう。
「ちょっと魔法の件で話をしただけだよ。そうしたら仲良くなった感じだ」
「そういうものなのですか?」
「どうだろうな。俺の場合はそうだったというだけで、他の者の場合もそうなるとは限らないけど」
レイは自分がイボンに持ち掛けた話が無詠唱魔法という……普通なら夢物語と思われてもおかしくはないような言葉を口にしたので、イボンはそれに飛び付いたのではないかと、そう思える。
もしもっと違う内容……それこそよくあるような魔法の話についてであれば、そう簡単にイボンと気軽に話せる関係にはならなかっただろう。
そう思いつつ、レイはマティソンとの話を続けるのだった。