3804話
「あ……もうこんな時間ですね」
無詠唱魔法についてレイと話をしていたイボンは、窓の外が夕日によって赤くなっているのを見て、そう言う。
そんなイボンの言葉にレイも窓の外を見て、既に時間が夕方になっていたことに気が付く。
昼食後、この部屋にやってきてからレイはずっとイボンと無詠唱魔法についての話をしていたのだが、集中しすぎていたせいで時間の経過に気が付いていなかったらしい。
「取りあえず今日はこの辺で終わりにするか。……また相談に乗ってくれ」
「はい、私でよければ」
レイの言葉に即座にそう返すイボン。
気の弱さから、最初はレイとの会話をする際にも少し戸惑っていた様子だったが、数時間もの間レイと無詠唱魔法について話をした結果、ある程度慣れたのだろう。
今はイボンの口調にレイに対する怯えや恐れといった色はない。
レイとしても、別に自分が何かをした訳でもなかったのに、怯えられたり怖がられたりするのは好ましくなかったので、そういう意味では今の状況は決して悪くはないものだった。
「じゃあ、俺はそろそろ帰る。……セトも待ってるだろうし」
そう言い、レイは部屋を出る。
イボンはそんなレイを部屋の外まで見送ると、再び部屋の中に入って何かを考えながら書類を書き始める。
レイもそうだが、イボンもまた冒険者育成校で働いている以上、上に提出する書類の類はある。
だが、今日は時間が経つのも忘れてレイとの話に熱中してしまった。
その為、やるべき仕事を今からでも始めようとしているのだろう。
「ん? フランシス? ……お前な……」
厩舎の前にはフランシスとセト、そして護衛の冒険者達の姿があった。
護衛の冒険者は、高ランクモンスターのセトを狙って妙なことを考えた者達に対してのものだ。
何しろセトはランクAモンスター……いや、スキルを自由に使いこなすことから希少種のランクS相当のモンスターと認識されている。
そうである以上、セトを狙って妙な考えを抱く者がいないとも限らない。
勿論、セトならそのような者達を相手にしても容易に反撃が出来るのだが、それでもやはり問題はない方がいいということで、冒険者が護衛として雇われている。
だが……そんな護衛の冒険者達であっても、自分達の雇い主のフランシスに対しては、止めることが出来なかったらしい。
もっとも、セトが嫌がっているのなら、相手がフランシスであっても止めたかもしれないが、そのセトが嬉しそうにフランシスに撫でられているのだから、対処のしようがなかった。
「む……レイ? もうイボンとの話は終わったのかしら?」
レイの言葉が終わると、フランシスはセトを撫でる手を止め、残念そうに視線を向ける。
この様子からすると、もしかしたらレイが近付いて来ている気配そのものにも全く気が付いていなかった可能性がある。
それだけ、フランシスはセトを全身全霊で撫でていたのだろう。
……それが褒められることなのかどうかはともかくとして。
「ああ、もう夕方だしな。いつまでもイボンの時間を貰う訳にはいかないし」
「そう。残念だけど分かったわ。……セトちゃん、またね」
「グルルルゥ」
フランシスの言葉に、セトもまた、ばいばいと喉を鳴らす。
セトにしてみれば、フランシスに構って貰ったのはそれだけ嬉しかったのだろう。
フランシスの言葉にまたねと喉を鳴らすと立ち上がってレイの方に向かってくる。
そんなセトの様子に、フランシスはレイに羨ましそうな視線を向ける。
やはりセトにとって、レイが一番の相手なのだと理解してしまったのだ。
レイもフランシスがそんな視線を自分に向けているのは理解していたが、そのような視線を向けられるのは別にこれが初めてという訳でもない。
そんな訳で、レイはセトを撫でつつフランシスに声を掛ける。
「じゃあ、俺とセトはこの辺で失礼する」
「ええ、分かったわ。……あ、そうそう。そう言えばイボンとの話はどうだったの?」
無詠唱魔法という単語を出さないのは、ここに冒険者がいるからだろう。
ここでもし無詠唱魔法という単語を出せば、冒険者達の注意を引くのは間違いない。
だからこそ、今ここでその単語を口にすることはなかったのだろう。
……もっとも、それを言うのならわざわざ冒険者達のいる前でイボンとの話について尋ねるといったことをしなければよかったのだが。
それでも敢えてここで尋ねたのは、やはりフランシスも無詠唱魔法について気になっていたからだろう。
「特に進展らしい進展はないな。ただ、専門家の意見としては俺の方向性で間違ってはいないらしい」
イボンを専門家と称していいものかどうかは、正直なところ微妙だろう。
だが、魔法使いであり、研究者でもあるということを考えれば、そう間違っているとはレイには思えなかった。
「そう。……じゃあ、完成を楽しみにしてるわね」
そう言い、笑みを浮かべるフランシス。
レイとフランシスの会話を聞いていた護衛の冒険者達は、二人が何について話しているのかは分からなかった。
分からなかったが、だからといって『何のことですか?』といったようなことを尋ねたりはしない。
冒険者という仕事をしていれば、こういう時に深入りをするのは自殺行為でしかないと、そう理解している為だ。
勿論、全ての冒険者がその辺りについて弁えている訳ではない。
しかし、今日の護衛の冒険者達はその辺りについてしっかりと理解していたので、話に興味はあったが、聞こえていない振りをする。
そんな冒険者達を一瞥すると、レイはセトと共に厩舎を出る。
「セト、今日は悪かったな。本当なら今日もダンジョンに潜るつもりだったのに」
「グルルルゥ」
レイの言葉に、セトは気にしないでと喉を鳴らす。
ダンジョンに行けなかったのは残念だったが、そういう日もあるというのはガンダルシアの生活の中で十分に理解しているのだ。
だからこそ、セトは特に怒ったりはしていない。
少しだけ残念に思う気持ちはあったが。
「けど……今の状況を考えると、結構上手い具合にあの魔法を使えるようになるかもしれないな」
一応、念の為にここでも無詠唱魔法という単語は出さない。
既に厩舎からはかなり離れているのだが、それでも冒険者育成校の敷地内では誰に聞かれるか分からないからだ。
「グルルゥ」
レイの言葉に、セトはおめでとうと喉を鳴らす。
セトも、レイが昨日から何とかして無詠唱魔法を使えるように頑張っているのは知っている。
だからこそ、無詠唱魔法について進展したと言われれば、喜ぶべきことなのだ。
「ありがとな。……とはいえ、まだ先は長い。今はまず魔力の流れのコントロールをもっと緻密に出来るようにする必要があるし、戦いの中でも冷静に行動して魔力の流れのコントロールを乱さないようにしないとな」
下手に魔力の流れのコントロールを乱すようなことがあれば、それこそ無詠唱魔法が暴走してもおかしくはない。
実際にそうなるかどうかは、レイにも分からなかったが。
それでも、今の状況を思えばその辺を心配になってもおかしくはなかった。
そうして進むこと、暫く……やがて、レイの家が見えてくる。
(学校の近くに家があるってのは、通う方にしてみればラッキーだよな)
ふと、レイは日本にいた時の友人の顔を思い出す。
小学校から歩いて数分の場所に家があった友人であったり、中学校や高校でも歩いてすぐの場所に家があった友人達を。
そのような場所に住んでいると、学校に通うのはかなり楽そうで羨ましく思ったこともある。
「グルルルゥ」
家に到着すると、セトはすぐに喉を鳴らして庭に向かう。
もう少しレイと一緒にいてもよかったのだが、今はレイの邪魔をしない方がいいと判断したのだろう。
レイもそんなセトの心遣いに笑みを浮かべ、家の中に入る。
「お帰りなさい、レイさん」
そんなレイを、ジャニスが出迎える。
「……レイさん? どうしたんですか?」
いつもなら『ただいま』と挨拶をするレイが、特に何かを言う様子もないことに疑問を抱いたのか、ジャニスが不思議そうに尋ねる。
そんなジャニスの声で我に返ったレイは、何でもないと首を横に振る。
「いや、ちょっとな。……以前から不思議に思っていたんだが、いつでも俺が帰ってきた時にジャニスは扉の前で出迎えてくれるけど、それって一体どうなってるんだろうなと思って」
まるで……というより、確実にレイが帰って来るのを察知して、扉の前で待っているように思える。
勿論毎日確実にという訳ではないのだが、それでも大抵はこうしてジャニスが待っていてくれるのだ。
それを不思議に思うなという方が無理だろう。
ジャニスはそんなレイの言葉に、そんな事かと笑みを浮かべる。
「別にそこまで気にするようなことではありませんよ。これはメイドの技能の一つですから」
「……そういうものなのか?」
「はい」
にっこりと笑みを浮かべてそう言うジャニスに、レイもそれ以上は何も言えなくなる。
実際には本当にそれがメイドの技能なのかと言われれば、レイも首を傾げるだろう。
これが例えば料理や掃除といったようなものであれば、そういうものかと納得もするだろうが。
ただ、満面の笑みを浮かべているジャニスを見れば、それに対して反論するようなことが出来なかったのも事実。
そういうものかと、納得するしかない。
「分かった。変なことを聞いて悪かったな」
「いえ、それより今日は……ダンジョンには行かなかったのですか?」
レイのどこを見てそのように思ったのか。
ジャニスはそう尋ねる。
これが普通の冒険者であれば、服に汚れがあったり、あるいは怪我をしていたりといったようにダンジョンに行ったかどうかは分かりやすい。
中にはダンジョンではなく、何らかの依頼を受けたりといったようなことがあってもおかしくはないのだが。
だが、レイの場合は単純に実力が高いということもあってか、ダンジョンに挑戦しても汚れたり怪我をしたりといったことは……絶対にないとは言わないが、基本的には無傷で、汚れらしい汚れもなく帰ってくる。
だというのに、一体何故レイを見て今日はダンジョンに行っていないと判断したのか、疑問に思うのは当然だった。
「ああ、今日はちょっと冒険者育成校の教師に用事があってな。……けど、何でダンジョンに行ってないって分かったんだ? もしかして、それもメイドの技能の一つなのか?」
「いえ、こちらはメイドの嗜みですね」
「……さっきの技能と、どう違うんだ?」
レイとしては、一体何がどうなってそのような言葉を口にしたのかが疑問だった。
もっとも、ジャニスはそんなレイに対して笑みを浮かべるだけだったが。
つまり、これもまた聞いてはいけないことなのだろう。
どうしてもその内容を知りたい訳でもないので、レイはそれ以上突っ込むようなことはしない。
「夕食はいつ食べられる?」
「レイさんが食べたいのであれば、すぐにでも」
「じゃあ……そうだな。もう少ししてから頼む」
夕方ではあるが、まだ少し食事をするには早いのではないかとレイには思えた。
もっとも、レイにしてみれば別に今食べても、腹が減ったら夜食に何か食べればいいだけなのだが。
それこそジャニスに追加で何か作って置いて貰ってもいいし、もしくはミスティリングに入っている何らかの料理を食べてもいい。
それでも今すぐではなく少し後にして欲しいと口にしたのは、無詠唱魔法の訓練をしたかった為だ。
魔力の流れのコントロールもそうだが、具体的にどのような動作で魔法を使えるようにするのかも決める必要があるのだから。
そして、レイにしてみればそういう光景を他人に見られたくはなかった。
「分かりました。では、そのように」
ジャニスはレイが何故そのようなことを口にしたのかは分からない。
だが、そのように言う以上、何らかの理由があるのだろうというのは容易に理解出来た。
あるいは、その辺りの事情について説明を求めないのもメイドらしい行動だと思ったのかもしれないが。
ともあれ、ジャニスはレイに一礼するとすぐにキッチンに戻る。
料理の完成する時間を調整しに行ったのだろう。
そんなジャニスの後ろ姿を見送ると、レイは自分の部屋に戻る。
「あー……何だかんだと疲れたな」
そう言いつつ、ベッドに倒れ込むレイ。
無詠唱魔法の手順の一つになると思われる、特定の動作について考えようと思っていたのだが、部屋に戻ってきたことで気が抜けたらしい。
まだ夕暮れのままの外の景色を窓から見つつ、ゆっくりとして疲れを癒やす。
そうして十分程が経過したところで、レイは無詠唱魔法を使う際の動作について考えるのだった。