3802話
いつものようにセトを入れた模擬戦を行い、午前中の模擬戦を終えたレイは食堂で昼食を食べ、イボンに指定された部屋に向かっていた。
冒険者育成校の校舎は相応に広く、その中には今レイが向かっているように個人に与えられた部屋の類もある。
もっとも、それは別に研究用の部屋とかそういう訳ではなく、授業で使う物を保管しておく為の部屋だ。
(そういう意味だと、教官は冷遇されている……のか?)
少しだけそう考えるレイだったが、すぐにそれを否定する。
何故なら、教師をやっている者達と違って教官には用意するような物というのは殆どないからだ。
模擬戦用の武器は訓練場に保管されている。
敢えて用意する貴重な物となると、模擬戦で怪我をした時に使うポーションの類か。
しかし、冒険者育成校で使うポーションは決してそこまで高価な……例えば、レイが猫店長の店で買うようなポーションの類ではない。
ポーションとして見た場合、安くて使い物にならない物と比べるとそれなりにマシといったところか。
そのようなポーションもまた、訓練場に鍵を掛けられて保管されている。
他には特に何もないので、教官達には教師達のような部屋は用意されていない。
……その辺は、教師と比べて教官は冒険者を雇って仕事をさせているからというのもあるのだろう。
もっとも、この冒険者育成校は出来てから短い。
教師に与えられている部屋や生徒達の使う教室を考えても、まだ空き部屋は多い。
どうしても部屋が必要な場合、フランシスに直訴すれば部屋を用意してくれるかもしれなかったが。
「ここだな」
やがてレイは目的の部屋の前……イボンの部屋に到着する。
特に躊躇する訳でもなく、レイは扉をノックすると……
「はい。……あ、レイさん。その……どうぞ中に入って下さい」
相変わらずの気弱そうな様子で、イボンがレイを部屋の中に招く。
こんなに気弱な性格で、冒険者の生徒を相手にきちんと授業が出来るのか?
そう思わないでもなかったが、こうして実際に教師を続けている以上、その辺は問題ないのだろう。
冒険者の中でも乱暴な冒険者の生徒を相手にした場合、相性が悪いようにレイには思えるのだが。
もっとも、それはあくまでもレイがそのように思っているだけだ。
もしかしたら、上手くやれているのかもしれなかったが。
そんな風に思いながら、レイは部屋の中を見回し……
「へぇ」
部屋の中の様子を見たレイの口から、思わずといった様子でそんな声が出る。
そんなレイの声に何を感じたのか、イボンは慌てた様子で口を開く。
「え? え? あの……何かおかしかったですか?」
気の弱いイボンにしてみれば、この部屋……自分の部屋を見て、このように言われたことが気になったのだろう。
レイは別に何か馬鹿にするとかそういう意図で声を出した訳ではなかったのだが。
だからこそ、何故自分の一声にそこまで過敏に反応するのかが分からない。
それでもイボンが戸惑いと怯えの中間程にあるというのを思えば、一応のフォローはしておいた方がいいだろうと思い直す。
「いや、こういう場所に来るのが初めてだからな。感心していただけだ」
資料……というか、本が多く置かれている。
図書館程ではないにしろ、ちょっとした書店くらいの量は置かれていた。
このエルジィンにおいて、本というのは非常に高価だ。
印刷技術が発展しておらず、基本的には書いて写すしかないのだから。
その為、本を一冊作るにはかなりの時間が必要となり、当然のように高価になる。
……また、運が悪い場合、書き写す時に間違えてしまったものや、くせ字で読みにくいような物もあったりする。
そういう意味でも、本……それもきちんとした本は非常に高価だった。
そんな本が、この部屋の中にはかなりの数がある。
もし金に困っている者がいれば、良からぬことを考えかねなかった。
(いやまぁ、こうしてこれ見よがしに置いてあるってことは、その辺の対策はしっかりとしてるんだろうが)
気弱そうに見える性格だけに、このように本を集めておいて、何の対策もしていないとは思えなかった。
あるいはイボンが対策をするのではなく、フランシスが対策をしているのかもしれないとレイは考える。
そうレイが考えた理由は、やはりギルムにあるマリーナの家だ。
精霊によって守られたあの家は、それこそ悪意を持った者は敷地に入ることすら出来ない。
フランシスは精霊魔法使いとしてマリーナには及ばない。
だが、それでもある程度似たようなことが出来ても、おかしくはないだろうと思える。
「それで、その……私に用件というのは何でしょう?」
レイも何だかんだと読書は好む。
日本にいた時も漫画や小説を楽しんでいたのだから。
そんな訳で部屋の中にある本に興味深い視線を向けていたレイだったが、イボンのその言葉で我に返る。
「ああ、悪い。これだけの本を個人で集めているのは驚きでな。……もしかして金持ちなのか?」
「……用件って、そういうことですか? でも、レイさんなら別にお金には困ってないと思うんですけど」
レイの言葉から、金の貸し借りといったことを思い浮かべたのだろう。
そう口にするイボンに、レイは慌てて首を横に振る。
「いや、そういう訳じゃない。ただ、これだけの本があったのに驚いただけだ。……イボンが言うように、俺は金には困ってないし、そういう理由で話をしたいと言った訳じゃない」
その返答に、ほっとするイボン。
もしそういう理由で自分に声を掛けてきたとしたら、一体どう対応すればいいのか分からなかったのだろう。
「では? ……いえ、その……ちょっと待って下さい。すぐに座る場所を準備しますので」
部屋の中には大量の本が置かれており、机の上にも本が重ねて置かれている。
椅子は一つだけあったが、それはあくまでもイボンが座る為の物らしい。
そもそも、この部屋にイボン以外の誰かが来るというのを想定していないのだろう。
なら、何故午後にこの部屋に来るように言ったのか、レイは分からなかったが。
イボンの性格からして、レイが来るのを理解していれば、前もってある程度は片付けてもおかしくないと、そういう風にも思えたのだが。
そんな風に思っているレイの視線の先で、慌ててイボンは本を片付け、椅子を持ってくる。
……それは椅子を持ってくるのではなく、椅子を発掘するといった表現の方が正しいようにレイには思えたのだが。
ともあれ、そうして用意された椅子を何とか持ち出す。
……幸いだったのは、椅子にも本が積まれていた影響で、椅子に埃が積もるといったことはなかったことか。
本のなかった場所には、微妙に埃が積もっていたりしたが。
それでも座る場所には埃はなかったので、レイは素直に椅子に座る。
イボンもまた、自分の椅子に座ったところで、レイは本題を口にする。
……本来なら世間話から入るべきなのだろうが、イボンの性格を考えると、この方がいいと判断したのだ。
もしここで世間話から始めると、それこそ本題に入るまで結構な時間が掛かるだろうと。
「イボンも職員室にいたのなら、この前ダンジョンで起こったリッチの一件は知ってるよな?」
「え? ええ、まぁ、はい。レイさんが解決したんですよね?」
教師は直接リッチの一件には関わっていなかった筈だが、それでも教官達と同じ職員室にいるのだから情報を知ることは出来るのだろう。
そもそもが冒険者育成校だけに、その辺の情報に詳しくてもおかしくはない。
その辺りの説明をしなくてもいいことに助かったと思いつつ、レイは言葉を続ける。
「そうだ。そして俺が十階で戦ったリッチなんだが、無詠唱で魔法を使っていた」
「……え? そんなこと……」
出来る筈がありません。
そう言おうとしたイボンだったが、レイの様子を見て口を止める。
レイの様子を見ると、とてもではないが冗談を言ってるようには思えなかったからだ。
イボンは気弱な性格をしているが、だからこそ相手がどのように思っているのかを見抜く技術に長けていた。
それは自分が酷い目に遭わない為に身に付けた技術だったが、その技術がレイは嘘を言っていないと言っていたのだ。
勿論、その技術も完璧という訳ではない以上、世の中にはそれを誤魔化す手段を持っている者もいるだろう。
だが、こうして目の前にいるレイを見る限りでは、何か誤魔化しているようには思えない。
それはつまり、本当のことを言ってると理解出来てしまうのだ。
レイの言ってることが本当であれば、リッチが無詠唱で魔法を使ったということを意味していた。
「その、詳しい話を聞かせて貰えますか?」
いつもであれば、イボンは自分から積極的にレイにそのようなことを聞いたりはしない。
だが、今は違う。
リッチが無詠唱で魔法を使ったという内容は、気弱な性格のイボンではなく、魔法使いとしての……それも研究者方面の魔法使いとしてのイボンの琴線に触れるものがあった。
その為、イボンは自分でも気が付かないうちに……それこそ、半ば反射的にレイに尋ねていたのだ。
「分かった」
レイもリッチの無詠唱魔法については別に隠すつもりはない。
それどころか、自分が無詠唱魔法を使えるようになる為に、こうしてイボンに話を持ち込んだ以上、隠すつもりはない。
レイは実際にリッチがどのように無詠唱魔法を使ったか。
それが具体的にどのような魔法だったのか。
その魔法の規模について。
そのような内容について、次々と話していく。
次から次にレイの口から出る内容は、イボンを夢中にさせるには十分なものがあった。
そうして一通りレイから話を聞くと、イボンは大きく口を開ける。
「ふわぁ……凄いですね。本当に無詠唱で魔法を……そんなことは絶対に出来ないと思っていたんですけど」
そう呟くイボンからは、レイに対する怯えの感情はもうない。
無詠唱魔法について話を聴き続けた結果、レイに対する警戒心が解けたのだろう。
勿論、それは完全に警戒心が解けたといった訳ではない。
ただ、それでもレイにしてみれば自分が何かを喋る度にビクつくといった様子を見せないのは助かることだった。
「そうだな。正直なところ、俺も最初に無詠唱で魔法を使ってるのを見た時は驚いたし。……で、これが本題なんだが」
「え?」
レイの言葉に、意表を突かれたように声を上げるイボン。
まさか今までの話が本題ではないとは思えなかったのだろう。
……実際には、今までの話も間違いなく本題ではあったのだが。
「俺が倒したリッチが使っていた、無詠唱魔法。これはどうやれば俺が使えるようになると思う?」
「……ふえええ……」
そんな言葉がイボンの口から漏れる。
それだけレイの口から出た言葉が予想外だったのだろう。
イボンの口から出た声が、声というよりも鳴き声のように思えたレイだったが、その辺については追求しないでおく。
気弱な性格をしているイボンだけに、この件で突っ込むとそちらを気にしすぎて無詠唱魔法の話が出来ないと判断した為だ。
「それで、無詠唱魔法についてだが、何か思い当たるようなことはないか?」
「その……ちょ、ちょっと待って下さい。それだけを聞いてすぐには……」
「そうか? そうなると……まず、無詠唱魔法について話す前に聞きたいのとかは何だ?」
「あう……えっと、その……」
レイの言葉に、イボンは何と答えればいいのか分からない。
実際、無詠唱魔法については色々と思うところがあるし、聞きたいことがある。
だが、一体何から聞けばいいのか、どうやれば無詠唱魔法を使えるようになるのか、全く分からない。
あるいは、リッチが無詠唱魔法を使うところをイボンが直接見ていたのなら、まだ少し話は違っていたのかもしれない。
だが、それを見ていたのはあくまでもレイで、そして残念なことにレイは感覚派の魔法使いなのだ。
そうである以上、レイが口に出来るのはあくまでも感覚的なものだけだった。
……もっとも、その代わりに感覚的に無詠唱魔法はいつか自分も使えるだろうという思いがあったのだが。
「で、では……その、無詠唱魔法を使ったリッチとの戦いについて、出来るだけ詳細に教えて貰えますか?」
結局イボンが口にしたのは、そういう内容だった。
具体的にどこをどうすればいいのか。
それが分からない以上、取りあえず全部聞いてしまおうと。
レイも自分が感覚派の魔法使いであるというのは分かっているので、イボンの言葉に素直に頷いて、先程話した時の大雑把な話ではなく、もっと詳細に戦闘の経緯を話す。
……もっとも、レイがリッチと戦ったのは小屋の中でのことと、外に出てからは最後の最後での話だったのだが。