3801話
フランシスとの話を終えたレイは、職員室に向かう。
結局精霊魔法の使い手からの少し変わった意見……といったようなものを教えて貰うことは出来なかった。
もっとも、それはフランシスが知った上で何も教えなかったという訳ではなく、無詠唱魔法を使うにはどうすればいいのかということが分からなかったからなのだが。
フランシスにしても、無詠唱魔法の使い方は是非とも知りたいのだ。
自分の使う精霊魔法に応用出来るかもしれないという思いもあるが、それと同等……あるいはそれ以上に、ガンダルシアの冒険者の中にいる魔法使いに広めたいという思いがそこにはある。
フランシスにしてみれば、魔法使いが強くなればダンジョンの攻略が今以上に進むという思いがある。
冒険者全体で見れば、どうしても魔法使いの数は少ないので、ダンジョンの攻略が進むとはいえ、劇的に進むという訳ではないのだろうが。
それでも久遠の牙を始めとしたトップクラスのパーティには魔法使いが入っていることが多い。
そのような者達が無詠唱魔法を使えるようになれば、ダンジョンの攻略はこれまで以上に進むことになるのは間違いなかった。
(もっとも、あくまでも無詠唱魔法を使えるようになればだけどな)
もし無詠唱魔法が簡単に使えるのなら、それこそ今までに使えるような者が出て来ていてもおかしくはないし、そして一人でも二人でも出て来ていれば、何らかの情報が残っていてもおかしくはない。
しかし、そういう情報はない。
いや、もしかしたらあるのかもしれないが、レイが知ることの出来るレベルの情報でないのは事実。
そんな無詠唱魔法だけに、もし使えるようになる手段があっても、実際にそれを使えるようになるかどうかは微妙なところだろう。
このガンダルシアにいる魔法使いではなく、もっと魔法使いとしての才能のある者なら、あるいはどうにかなるかもしれないが。
「到着したか。まずは魔法使い……イボンだったか? そいつと話をしないとな」
フランシスから名前を教えて貰ってはいるが、イボンという名前を言われても、レイはそれが誰なのかは分からない。
これが教官の誰かなら、すぐに誰なのか分かるのだが。
なので、まずはイボンという魔法使いが誰なのかを調べるところから始める必要があった。
もっとも、それ自体はそこまで心配していない。
それこそマティソンにでも聞けば、誰がイボンなのかを教えてくれるのだろうから。
(教官は勿論、教師全員の名前を覚えてるんだし、マティソンって凄い……いや、別にそうでもないのか?)
教官と教師、全て合わせても五十人程だ。
そのくらいの人数であれば、その名前を覚えるのはそう難しいことではない。
日本の高校のクラスでは二クラス分に届くかどうかといった人数なのだから。
もっとも、教師の中には教官と接するのを好まない者もいる。
そのように自分と絡まない相手については話をする機会があまりなかったりするのだが。
実際、レイも教官はともかく教師の名前は分からない者も多い。
今回レイが接触するイボンという魔法使いも、それは同じだった。
「さて」
まだ朝の会議を行うには少し早い時間だったが、職員室の前に到着したレイは扉を開ける。
「レイさん? 今日は早いですね。……というか、ダンジョンはいいんですか?」
タイミング良くと言うべきか、扉の近くで女の教師の一人と話をしていたマティソンが、レイの姿を見て驚きながらそう声を掛けてくる。
「ああ、ダンジョンには行くけど、それは午後からだな」
「では、異変の件についてはもういいのですか?」
「大体はな。そもそも俺が出来るのは、あくまでも異変を起こしたモンスターを倒すだけだ。その後の調査……魔法陣の調査とか、そういうのは俺の仕事じゃない。やるとしたらその調査員の護衛くらいで、それも終わってるしな」
一昨日調査員の護衛はしているので、今のレイには特に何か緊急にやるべきことはない。
そういう意味では、昨日はセトを家において、自分だけで十階に行くというのは不味かったか? と思わないでもないレイだったが、冒険者としての行動を優先するというのはフランシスも承知している。
それを示すように、先程までフランシスと話をしていたレイだったが、昨日の件で特に何かを言われるようなこともなかった。
「そうですか。ならいいんですけど。……それより、夏にギルムに行く人員の選抜がもう始まってますよ」
「ん? ああ、そう言えば……というか、まだ決まってなかったのか」
レイにしてみれば、ギルムに戻るまでもう一ヶ月……三十日あるかどうかだ。
それなのに、まだ決まっていないというのは少し驚きだった。
「レイさんが一緒に行くのに、あまり興味なさそうですね」
「別にそういう訳じゃないけどな」
そう言うものの、レイがやるのはあくまでもセト籠で運ぶくらいだ。
勿論、細々としたサポートの類は必要かもしれないが、その辺については監督役として一緒に来る教官に任せるつもりでいる。
レイにしてみれば、あくまでも里帰りのようなものなのだから。
……そうは思うも、同時に何かトラブルがあった場合は自分が呼び出されるんだろうなとも思う。
そしてトラブルがあるのは、ほぼ確実だろうとも。
何しろ今のギルムは、増築工事の影響で多くの者達が集まっている。
それこそ増築工事の仕事をしている者は、ギルドではなく現場に派遣されたギルド職員からその日の報酬を貰うといったように。
それでも、ギルドは毎日のように忙しいのだが。
そんな場所だけに、ガンダルシアしか知らない者達が行けば、何らかのトラブルに巻き込まれてもおかしくはない。
(特にスラム街に入らないように厳重に言っておかないとな)
ガンダルシアにもスラム街はあるが、ギルムとガンダルシアでは街の規模が違う。
……実際にはガンダルシアは迷宮都市という名称のように、規模としては都市だ。
そしてギルムは、街……正確には準都市といった扱いだったが、その準都市であってもガンダルシアよりもかなり大きい。
ましてや、増築工事が終われば、その大きさは更に増す。
そうなると、当然ながらスラム街も今より広くなるだろう。
ギルムの領主のダスカーも、スラム街についてはそのままにしておくつもりはないのだが、必要悪とでも言うべき場所なのも事実。
実際、落伍者となった者達の居場所としてスラム街は有益だし、裏の組織の拠点としてスラム街があるのも、領主としては助かるのだから。
もしスラム街がなければ、ギルム全体の治安が悪くなり、街中に裏の組織の拠点が出来たりするのだから。
「ギルムに行く件はいいとして……ちょっと聞きたいことがあるんだけど、いいか?」
ギルムに行く面子については、レイも一人無条件で選ぶ権利を与えられている。
そしてレイはその一人をポーターのハルエスにしようと決めていた。
その才能を認めたという訳ではない。
いや、実際に弓の才能に関してはかなりのものなのだが、同じくらいの才能の持ち主はそれこそ数え切れない程にいる。
そんな中でレイがわざわざハルエスを選んだのは、単純にそれなりに付き合いがあるからだ。
ある意味コネ……縁故採用に近い形だったが、実際に今のハルエスはアーヴァインやイステル、ザイードといった、冒険者育成校の中でもトップクラスの実力を持つ者達とパーティを組んでいるので、実力も相応に上がっているのだろう。
だが、それでもポーターである以上は普通の冒険者と比べるとギルム行きの選抜メンバーに選ばれるのは難しいので、レイが推薦することにしたのだ。
「はい、何です?」
「教師の中にイボンという魔法使いがいると聞いたんだが、誰か教えてくれないか? 教官はともかく、教師の方は関わることが少ないから、名前を覚えてないんだよ」
「え?」
レイの言葉にそんな声を上げたのは、聞かれたマティソン……ではない。
レイが職員室に入ってきた時、マティソンと話していた女の教師だ。
女教師と言われて、思い浮かべる姿は人それぞれだろうが、今の声を上げた女はどこか気弱そうな性格をしているようにレイには思えた。
レイが視線を向けると、その女はビクリと反応する。
(あれ? これってもしかして……)
イボンという名前から、レイはてっきり男だと思っていた。
しかし、今の女の反応を見れば、もしかしたら……そのように思っても、おかしくはない。
「その……レイさん、彼女がイボンさんです」
レイの予想を裏付けるように、マティソンが言う。
そんなマティソンの言葉に、再び女……イボンは反応する。
ただし、先程のようにビクリとするのではない。
恐る恐るといった様子ではあったが、レイに向かって小さく頭を下げる。
「この学校で教師をやっている、魔法使いのイボンです」
ぺこりと頭を下げる様子は、小柄なイボンの体格もあって、どこか小動物を思わせる。
(なるほど。この学校で魔法使いなのに教師をしているというのがちょっと疑問だったんだが……この様子を見れば、確かにちょっと冒険者として活動するのは難しいかもしれないな)
勿論、冒険者の中には気弱そうな外見ではあっても、何らかの理由で冒険者として活動している魔法使いもいる。
金が必要であったり、好きな相手と一緒にいたかったり、自分の目的の為であったり、それ以外にも色々と。
だが、レイに向かって頭を下げているイボンは、何らかの理由で冒険者をやる必要がなかったのだろう。
なので、冒険者ではなく教師として生徒達に座学を教えているらしい。
(出来れば冒険者の魔法使いだった方がよかったんだけどな)
そうレイが思ったのは、やはり無詠唱魔法を使いたいと思う……必死になって覚えようとするのは、実際にモンスターと戦うという危険に身を置いている魔法使いだろうと思った為だ。
勿論、冒険者ではない魔法使い……魔法の研究をしている魔法使いであれば、無詠唱魔法について知りたいと強く思ってもおかしくはないのだが。
「その……私に何か?」
「ああ、ちょっと相談に乗って欲しいと思ってな」
「……レイさんが、ですか?」
イボンは意外そうにレイを見る。
イボンにしてみれば、レイは自分と比べものにならない程に凄い魔法使いだ。
それは教官達から流れてきた情報……生徒達との模擬戦についての話を聞いて知っている。
……実際には、模擬戦においてレイは魔法を使ったりはしていないのだが。
それでも生徒全員を相手に模擬戦をして勝利するだけの実力があるという時点で、イボンにしてみれば到底信じられない。
そんな実力者のレイが、魔法使いではあるが典型的な学者型の魔法使いである自分に何の用なのか。
そのように疑問に思うのは、そうおかしな話でもなかった。
「学園長……フランシスに推薦されてな」
「……えっと、私が、ですか?」
恐る恐るといった様子で、もしくは信じられないといった様子で言うイボン。
まさかフランシスが自分の名前を出すとは、思ってもいなかったのだろう。
「そうだ。時間を作ってくれないか?」
「それは……構いませんけど。ただ、もう時間が……」
その言葉に、それもそうかとレイは頷く。
早朝に校舎に来たレイだったが、それからずっとフランシスと話していた。
そうである以上、もう朝の会議まで時間がなく、朝の会議が終わればすぐにでも授業が始まる。
レイの様子から、相談の内容が数分で終わるとは思えないイボンが戸惑うのもおかしな話ではない。
「あー……そうだな。じゃあ、午後からならどうだ?」
冒険者育成校の授業は基本的に午前中で終わる。
なので、午後からは教官は時間が出来る。
本来ならレイは十二階の岩の階層に行って、その岩を数個収納してみるつもりだったのだが……そちらはどうしても今日やらないといけない訳ではない。
また、イボンとの話がいつ終わるのかも分からない。
もし早く終わるのなら、十三階まで行くことは可能だろう。
「分かりました。では、昼食を食べたら……その、どこで話しましょう? レイさんの様子を見る限りでは、あまり人に知られたくない話なんですよね?」
「そうなるな」
無詠唱魔法の練習をしているというのが知られると、学生の中に何人かいる魔法使いは興味を抱くだろう。
また、魔法使いではなくても他の冒険者にその辺りの情報を漏らす生徒もいるかもしれない。
そして冒険者にしてみれば、もし無詠唱魔法を使えたら……と思う者も多いだろう。
そんな訳で、レイは今はまだ無詠唱魔法について誰にも知られたくはなかった。
何しろ今はまだ、実際に出来るかどうかも分かっていないのだから。
「そうなると……資料を置いてある部屋があるから……その、そこでならどうでしょう?」
レイの言葉に少し悩みつつも、そう言うのだった。