3799話
ガンダルシアの近く――あくまでもセトの走る速度でだが――にある林で魔獣術を使った翌日……レイは少し早めに家を出て、冒険者育成校の学園長であるフランシスに会いに来ていた。
フランシスの立場から考えると、本来なら会う為に前もって約束を取り付けておく……いわゆる、アポを取っておく必要がある。
ただ、それはあくまでも普通の場合で、レイはその普通に当て嵌まらず、いつでも会うことが出来る。
……フランシスにとっても、レイが何かをやらかした場合、わざわざ前もって約束を云々というのは避けたいので、その辺は問題なかった。
「で? また何かあったの?」
フランシスがレイを見ると、真っ先にそう尋ねる。
フランシスにしてみれば、ついこの前リッチの件があったばかりだ。
その一件についての報告やら何やらにも、フランシスは関わっている。
本来ならギルドマスターの仕事なのだが、ギルドと冒険者育成校は密接な関係にあるし、リッチの一件を解決したのが冒険者育成校の教官をしているレイであるという件や、領主との繋がりから考えても、フランシスにも相応の忙しさがあるのは間違いなかった。
そんな中で、こうして朝からレイが自分に会いに来たのだ。
一体今度は何があったのかと警戒するのも当然だろう。
そんなフランシスの気持ちを知ってか知らずか、レイはフランシスの言葉に首を横に振る。
「いや、特に何か問題があった訳じゃない」
レイの言葉に安堵の息を吐くフランシス。
そんなフランシスを、レイは少しだけ不満そうに見る。
「俺がいつも問題を起こしてるように思うのは、止めてくれないか?」
「それなら、レイが今までやって来たことを考えて言ったらどう? ……まぁ、その件はともかくとして。それで今日は何の用件?」
あっさりと話を本筋に戻すフランシスに、レイは不満そうに何かを言おうとするものの、すぐに諦める。
今は不満を言うよりもここに来た理由を口にした方が手っ取り早いと、そう思った為だ。
「俺がここに来たのは、リッチの件に関係するのは間違いない」
「……また新しいリッチが現れたとか、そういうことは言わないわよね?」
疑り深そうに尋ねてくるフランシスに、レイは頷く。
「ああ、勿論そういうことは言わない。ただ、ちょっとアドバイスが欲しいんだよ」
「……アドバイス? レイが私から?」
フランシスも自分が相応の実力を持っているという自負はある。
あるのだが、だからといってレイより上かと聞かれれば、即座に首を横に振るだろう。
それだけレイとフランシスの間には大きな実力差があった。
……もっとも、それはあくまでも純粋な強さという点だ。
そしてレイがフランシスに会いに来たのは、その強さとは違う理由だった。
「ああ。ちょっと魔法についてアドバイスが欲しくてな」
「…………アドバイス? レイが私から?」
数秒前と全く同じ言葉を口にするフランシス。
敢えて違うところは、言葉を発する前の沈黙が長くなったくらいか。
それだけ、レイの口から出た言葉が信じられなかったのだろう。
何しろレイが深紅の異名を持つにいたったベスティア帝国との戦争で炎の竜巻を生みだしたのがレイだ。
実際にはデスサイズのスキルとセトのスキル、そしてレイの魔法によって生み出されたのだが。
それによって炎の竜巻はレイの代名詞ともなった。
そんな強力な魔法を使えるレイが魔法について聞いてきたのだから、フランシスがそんな疑問の声を上げるのはおかしな話ではない。
だが、レイはそんなフランシスに対し、素直に頷く。
「ああ、ちょっと今行き詰まる……というか、まだ練習を始めたばかりだから何とも言えないんだが、もしかしたらフランシスは何か知ってるんじゃないかと思って」
「……なるほど。力になれるかどうかは分からないけど、話は聞きましょうか」
正直なところ、フランシスは自分がレイの力になれるとは思わなかった。
そもそもフランシスは魔法使いであるが、それはレイの使うような魔法ではなく精霊魔法の使い手なのだ。
そうである以上、正直なところレイの助けになるとは思えない。
思えないが、それでもレイがこうして話を聞きに来た以上、それに興味を抱くなという方が無理だった。
「助かる、……で、魔法についてななんだが、さっきも言ったようにリッチに関係している。正確には、リッチが使っていた無詠唱の魔法を使えるようになりたい」
「……え? 無詠唱魔法? それはその名の通り詠唱をしないで魔法を使うということ?」
「そうなる。俺が戦ったリッチが、簡単な空間魔法を無詠唱で使っていた。正直なところ、どうやってそういうのが出来るのか、俺には分からない。けど使えるとかなり便利そうだから、昨日から練習してはいるんだが……」
「それはそうでしょうね。私もエルフとしてそれなりに長い時間生きてきたけど、無詠唱魔法なんて使ってる人は見たこともないもの。……というか、本当に無詠唱魔法なんてあるのね」
フランシスはしみじみとそう言う。
魔法使いにとって、魔法を使う前の詠唱というのはどうしても無防備になる。
相応の経験を積んだ者や、才能のある者であれば詠唱をしながらも敵の攻撃を回避したり、中には詠唱しながら攻撃すらする者もいる。
しかし魔法使い全体で見ればそこまで出来る者は決して多くはない。
だからこそ、魔法使いは昔からいかにして詠唱を短く……それでいて、魔法の威力を可能な限り下げないようにするという研究をしてきた。
それでも無詠唱魔法というのは誰も出来た者がいない。
あるいはこの広いエルジィンの中にはいるのかもしれないが、少なくてもフランシスは無詠唱で魔法を使うという者については知らない。
本人が口にしたように、それなりに長く生きており、その上で冒険者育成校を任せられるような人脈を持つフランシスですら聞いたことがなかった。
「レイ、もう一度……念の為に確認するわよ? レイが戦ったリッチというのは、このガンダルシアのダンジョンの十階にいたリッチよね?」
真剣な表情で聞いてくるフランシスに、レイは頷く。
そんなレイの頷きを確認しつつ、フランシスは言葉を続ける。
「それでそのリッチが無詠唱の魔法を使った。……それも空間魔法を。これも間違いないわね?」
ここで敢えて空間魔法と口にしたのは、そもそも空間魔法を使える者が非常に希少だからだろう。
そんなフランシスの言葉に、レイは数秒前と同様に続けて頷く。
「……嘘でしょ、そんなことって本当にあるの……?」
「無詠唱魔法についてなら、実際に俺の目で見ている。もっとも、無詠唱魔法で発動出来る魔法はかなり簡単な魔法だったけどな」
「具体的にはどんな魔法?」
「空間魔法を使った盾で、それも大きさそのものはそこまで大きい訳じゃないし、俺やセトの攻撃を食らうと一撃で破壊される程度の防御力しかなかったが」
「……レイやセトちゃんの攻撃を一度であっても防げるという時点で、十分頑丈だと思うけど。それとも、最初から一撃攻撃を防いだらその時点で魔法が解除されるようになっていたのかもしれないわね」
「多分それはないと思う」
「何故かしら?」
「空間魔法の盾が破壊された時、リッチは驚いていたしな」
「……そう。それならレイの言う通りかもしれないわね」
フランシスも今のレイの説明を聞けば、納得するしかない。
……同時に、リッチが使ったという空間魔法の盾をあっさりと破壊出来るレイの実力に、呆れるのか感心すればいいのか分からなかったが。
なお、そう思う対象はあくまでもレイだけだ。
セトはフランシスにとって、愛でる対象なのだから。
「とにかく、リッチが無詠唱魔法を使ったのは事実だ。それを見たから、俺も無詠唱魔法を使いたいと思って訓練してるんだが……どういう風に訓練をすれば、無詠唱魔法を使えるようになると思う?」
「それを私に聞くの? レイも知ってると思うけど、私が使えるのはあくまでも精霊魔法よ?」
「それでもエルフとして長い時間を生きてるだろう? 何かこう……ヒントになるようなものはないのか?」
レイもフランシスが精霊魔法を使うことは知っている、
それでもこうして朝から会いに来たのは、その辺の理由があったからだ。
……実は最初、レイは同じような理由でマリーナに聞こうかとも思った。
対のオーブを使えば、すぐに連絡が出来るのだから。
また、ギルムには精霊魔法ではなく、レイと同じく魔法を使うエレーナもいる。
そうである以上、フランシスに聞くよりも為になるのは間違いない。
同じ精霊魔法の使い手であっても、フランシスとマリーナでは格が違うというのもあるのだから。
だが、レイとしてはサプライズ的に驚かせたいという思いがあった。
だからこそ、エレーナ達に連絡をするのではなく、こうしてフランシスに相談に来たのだ。
「そう言われてもね。そもそも詠唱を縮めるというのは聞いたことがあるけど、それだってかなりに高難易度なのよ? 下手に詠唱を縮めると魔法の威力が低下……するだけならまだしも、場合によっては暴発するでしょうし。そう考えれば、無詠唱魔法がどれだけとんでもないことなのかは想像出来るでしょう? 私だって、レイが言うのでなければ、無詠唱魔法の存在は信じられないわ」
フランシスの常識からすると、無詠唱魔法というのはそれだけ有り得ないことだった。
それでもこうして一応だが検討してるのは、この話を持ってきたのがレイだったかからだろう。
もしこれが、レイではなくもっと他の人物……例えばその辺のよく知りもしない……あるいは顔を知ってる程度の相手が持ってきた話であれば、フランシスもこうも素直に信じることはなかっただろう。
だが、この話を持ってきたのはレイだ。
それも自分を騙そうといった様子もなく、真剣に自分でも無詠唱魔法を使おうとしている。
そうである以上、レイの言葉を信じないという選択肢はフランシスにはない。
「一応、どういう風にして無詠唱魔法を使おうとしているのか、教えてくれる? 何かアドバイスをするにしろ、レイがどうやって無詠唱魔法を使おうとしてるのかを聞かないと何もアドバイスは出来ないでしょうし」
「今は、魔力の流れのコントロールをしてるところだな。無詠唱魔法を使うには、その名の通り呪文の詠唱を省略する必要がある。だからこそ、魔力の流れを上手く使うことによって、魔法を発動出来るようにしたいと思ってな」
「……なるほど。私もどうやれば無詠唱魔法を使えるのかは分からないけど、方向性は正しいと思うわ。ただ……問題なのは、どうやったら魔力の流れのコントロールだけで魔法を発動出来るかよね。出来そうなの?」
「いや。今のところはまだ駄目そうだな」
その問いに、レイは首を横に振る。
ただ、そこにはあまり悲観的な様子はなかったが。
何しろ、訓練を始めてからまだ一日だけだ。
その一日だけで、魔力の流れのコントロールをしながら敵と戦うことも出来るようになったのだ。
勿論、魔力の流れのコントロールそのものは以前も出来ていた。
だが、今は以前よりも精密なコントロールを行えるようになっている。
……それでもまだ満足出来るレベルではなかったが。
「そうなると、レイが今訓練をしている魔力の流れのコントロールをもっと極めるか、もしくは他の手段にも手を出す必要があるかもしれないわね。勿論、魔力の流れをコントロールするというのは、無詠唱魔法に繋がるかどうかは別として、やっておいて損はないと思うけど」
「他に考えられるとすれば……すぐに思いつくのは……そうだな。ちょっと違うかもしれないけど、パブロフの犬って奴か?」
「それは何?」
聞き覚えのないパブロフの犬という言葉に、不思議そうに首を傾げるフランシス。
レイはそんなフランシスに、簡単に説明する。
……もっとも、レイもパブロフの犬については詳細を知っている訳ではない。あくまでも大雑把な内容を知ってるにすぎないのだが。
「パブロフという人物が実験した内容で、鈴を鳴らしてから犬に餌を与えるという行為を繰り返していると、やがて犬は鈴が鳴っただけで涎を垂らすようになるって現象だな」
「それが無詠唱魔法とどんな関係があるの?」
「例えば何らかの簡単な動作をした時に魔法を使うようにしてみる感じだ。こんな感じで」
そう言い、レイは人差し指と親指を伸ばし、それ以外の指を曲げるという……いわば、鉄砲を模した形にする。
「手をこういう形にしたら、何らかの魔法が発動するように訓練を続けて、条件反射的に魔法を使えるようにする感じだ」
少しだけ得意げに言うレイに、フランシスは微妙な表情を浮かべるのだった。