3747話
「大体この辺りだったか?」
「グルゥ」
昨日、レイとセトが異変を感じた場所。
それがどこだったのか、正確な場所までは覚えていないものの、それでも恐らくこの辺りなのだろうというのは予想出来た。
レイはそこで周囲の様子を観察するのだが、特に何かがあるといった様子はない。
「グルルゥ」
そんなレイに向け、セトが悪臭用のマジックアイテムを使うように要求してくる。
レイはそんなセトの要求に頷き、ミスティリングから悪臭用のマジックアイテムを新たに取り出し……
「うん?」
不意にその動きを止める。
「グルゥ?」
何故か動きを止めたレイに、セトはどうしたの? と不思議そうな視線を向ける。
もっとも、セトにしてみれば出来るだけ早くマジックアイテムを使って欲しいという思いがあったのだが。
何しろ、十階に下りてきた時に使った悪臭用のマジックアイテムは既に指先くらいまで小さくなっている。
そう遠くないうちにマジックアイテムの効果は切れ、セトは再び十階に広がる悪臭や腐臭に悩まされることになるだろう。
(そう、こっちの小さくなっている悪臭用のマジックアイテムは、俺とセトがこの十階に下りてきた時に使った奴だ。……明らかにおかしい)
レイは小さくなった悪臭用のマジックアイテムに視線を向ける。
昨日この十階に来た時、悪臭用のマジックアイテムはかなりの速度で消耗していった。
結果として、レイが異変に気が付くまでの間に何個か使ったのだ。
だが、今日はこの十階に下りてきた時に一個使っただけでしかない。
これは明らかにおかしかった。
一体何がどうなってそのようなことになったのか。
それはレイにも分からなかったが、それでも何らかの理由があるのは間違いない。
そしてレイは、異変を解決する為に現在この十階にいるのだ。
「これも異変の一環か? それともこれが普通で、昨日のあの急激に小さくなっていったのが異変だったのか。さて、どっちだ?」
疑問を抱くレイだったが、出来れば後者であって欲しいと思う。
もし昨日のが異変の前兆……あるいは異変の始まりを意味しているのだとしたら、今はそのようなことがない……つまり何も問題がない普通の状態であるということを意味しているのだから。
「グルゥ?」
レイの様子を見たセトは、どうするの? とレイに視線を向ける。
セトにしてみれば、理由はどうあれ、出来れば少しでも早く十階から移動したい――勿論転移水晶を使わずに――と思っているのだろう。
そんなセトの気持ちをレイも理解出来るが、だからといってすぐにここから立ち去るといったことは出来ない。
そもそもレイがここに来たのは、異変を解決する為……もしくはそこまでいかなくても、異変の原因を突き止める為だ。
そのどちらもまだ達成されていない以上、レイにはここで帰るという選択肢は存在しない。
勿論、どうしようもない程に危険なら……それこそランクSモンスターが出てくるなり、あるいは異変の影響によってダンジョンが破壊されるといったことになったりするのなら、レイも逃げ帰るかもしれないが。
今のところ特に何もそれらしい異変がない以上、この状況で撤退するつもりはなかった。
「取りあえず十一階に下りる階段の側に行ってみよう」
「グルゥ……」
レイの言葉に、セトは渋々といった様子ではあったが納得する。
出来るだけ転移水晶の側から離れた方がいいと判断しての行動だった。
セトが納得したのでレイ達は十一階の階段のある方に進む。
(ん? でも、ちょっと待った。行方不明になっていた者達は、十階前後で行動してたんだよな? それはつまり十一階で行動していた者もいるが、九階で行動していた者もいるということになる。そうなると少しおかしくないか?)
墓場を歩きつつ、そんな風に考える。
ゾンビやスケルトンといったアンデッドが出てきたりもするが、セトのファイアブレスによってあっさりと燃やしつくされていく。
素材や魔石について集める必要がないのなら、ゾンビやスケルトンは雑魚でしかない。
まさに鎧袖一触という表現が相応しい程、あっさりと敵が倒されていく。
なお、レイが攻撃をしないのは考えごとをしているからというのもあるが、最も大きな理由は手に悪臭用のマジックアイテムを持っているからだろう。
その状態でも片手は使えるので、デスサイズなり黄昏の槍なりを取り出して対処することも可能ではあるのだが、セトにしてみれば戦闘の余波でレイが持っている悪臭用のマジックアイテムが落ちて壊れるといったことが心配なのだろう。
もしそうなれば、レイやセトの周囲に漂っている悪臭を無効化出来ず、再びセトは悪臭や腐臭に耐えなければならなくなる。
それを知っているからこそ、今はとにかくレイに戦闘をさせないようにしてセトが戦っていた。
もっとも、それは出てくるモンスターがゾンビやスケルトンという、アンデッドの中でも弱い個体だからこそ出来ることなのだが。
もし強力なアンデッドが襲ってくれば、セトもレイの持つ悪臭用のマジックアイテムを守る為に自分だけで戦うといったことは難しくなるだろう。
そんな戦いを見ながら、レイはその件についても疑問に思う。
(十階だぞ? なんで出てくるアンデッドがスケルトンとかゾンビとか、ゴーストとか……そういう弱い種類だけなんだ? 普通に考えれば、この階層にはもっと強力なアンデッドが出て来てもいいと思うんだが)
それはレイにとっての純粋な疑問。
この十階に異変があるのを知っているレイだからこそ、今のこの状況は何らかの理由があってこのようなことになっているのではないかと、そう思う。
(そうなると、考えられる可能性としては……もしかしてこの階層でダンジョンに対する何かを企んでいる奴がいるとか? それが具体的にどういうものなのかは分からないが)
レイにしてみれば、一体何を企んでいるのかは分からないものの、とにかくこの状況では何かがあるのかもしれないとは予想出来る。
もっとも、それが具体的に何なのかと言われれば、レイにもこれだと断言するようなことは出来なかったが。
「ともあれ、まずは当初の目的通り十一階に行ってみるしかないな」
この十階に色々と怪しい……怪しすぎるところがあるのは間違いなかったものの、まずは最初に思いついた十一階の階段近くについて調べてみるのを優先させたかった。
この十階で怪しい場所がどこか分かっていれば、その辺りを調べてみてもよかったが。
(あ、でもそうだな。地図で確認すれば何となく怪しい場所は把握出来る……か?)
マティソンから貰った地図には、当然ながら十階についての詳しい情報も載っている。
ただし、この地図で分かるのはあくまでもどこが怪しいのかといったことを把握することだけだ。
実際にその場所に行ってみても、そこに十階の異常に関する何らかの仕掛けなりなんなりがあるとは限らない。
限らないのだが……それでも今は何の手掛かりもない状態であると考えれば、やはりここは虱潰しに調べるといったことをした方がいいのも間違いはなかった。
問題なのは、まだ何一つ手掛かりらしい手掛かりを見つけてないことだろう。
レイとしては、ギルドマスターから自分の強さを見込んで頼まれた今回の探索だ。
また、何よりレイもダンジョンを攻略したいと思っている以上、ダンジョンで異変が起きるのは好ましくない。
そういう意味でも、今回の探索で出来れば異変の解決……そこまで出来ずとも、何らかの手掛かりは見つけたいというのが正直なところだった。
(考えてみれば、この異変の手掛かりを見つける手段はあるのか。なら、そこまでがっかりしなくてもいいのかもしれないな。まずは十一階に下りる階段だが)
そんな風に考えつつ、レイはセトと共に進む。
すると地図に描かれている場所に、しっかりと十一階に下りる為の階段はあった。
「セト、何か感じるか?」
「グルゥ? ……グルルゥ」
レイの言葉に、セトは周囲に何か異変がないかどうかを確認するものの、特に何かそれらしいものは見つけられない。
レイも周囲の様子を探ってみるものの、やはりそこには何もない。
こうなると、本当に周囲には何もない……正確には異変に通じる何かがないのかもしれないと、レイには思える。
「そもそもの話、セトで見つからないのなら俺が見つけられる筈もないんだよな。……セト、どうすればいいと思う?」
「グルゥ?」
まさか自分に聞かれるとは思っていなかったセトは、戸惑ったような声を出す。
こういう時、いつもならレイがどうするのかを決めるのだ。
もしくは、セトが何かを見つけたら、それをレイに教えて……ということもあったりするが、こうしてどうすればいいのかとレイに聞かれるのはセトにとって驚きだった。
「…………グルゥ」
たっぷりと三十秒程考えたセトが、十一階に続く階段を見て喉を鳴らす。
一度十一階に降りてみようと、そう態度で示したのだ。
セトにしてみれば、十一階に何かがあると本気で思っている訳ではない。
だがそれでも、ここには何もそれらしい……怪しい何かがないのだから、より下の階層、十一階になら何かあるのかもしれないと、そう思っての行動だった。
……中には、レイを出来るだけ十階にある転移水晶から離したいという思いがあったのも事実だったが。
「そうか。なら、ちょっと行ってみるか」
レイはセトの提案にあっさりと頷く。
それはこのまま十階にいても特に何かが見つけられそうになかったというのもあるし、それ以上に十一階に興味があったからというのも大きい。
氷の階層と呼ばれている場所だというのは知っているし、レイがマティソンから貰った地図にもそれらしきアドバイスが書かれている。
ただ……氷の階層というのは、一般的な冒険者にとっては脅威だが、レイにしてみれば脅威ではない。
何しろレイのドラゴンローブは簡易的なものではあるがエアコン機能があるし、セトはそのような物がなくても普通に真冬の夜、それも吹雪いている時であっても何の問題もなく外で眠れるのだから。
そんなレイとセトだけに、氷の階層は脅威には思えなかった。
……一般的な冒険者なら、十階に到着したからといって十一階を攻略するのはそう簡単なものではない。
それどころか、どうしても寒さ対策が出来ずに十一階を攻略出来ない者もいるのだ。
そういう意味では、レイは恵まれていた。
レイもそれを自覚しているからこそ、一度十一階を見てみたいと思ったのだ。
セトもレイの言葉に異論はなく、一人と一匹は階段を下りて十一階に向かう。
レイとセトが今日ダンジョンに潜っている者の中では一番進んでいるということもあって、周囲にはレイ達以外に誰の姿もない。
その為、誰か他の冒険者達に遭遇したりするようなこともなく十一階に到着する。
「へぇ……これはまた……」
「グルゥ」
レイの口から出たのは感嘆の声で、それはセトもまた同じだった。
何しろこうして見た限りでは、氷で出来た通路がどこまでも広がっているのだから。
雪が木に付着して凍った樹氷というものがあるのだが、レイの視線の先にある木々は文字通りの意味で氷で出来た木……氷木とでも呼ぶべきものが何本も見える。
レイはドラゴンローブを着ていて、セトはグリフォンだから何の問題もなかったが、もしここにいるのが普通の冒険者なら、今の時点で既に寒くなっていただろう。
この十一階は、最高気温であってもマイナス十度なのだから。
寒い場所はもっと気温が低いのだが、本来なら十一階に下りてきた時点で寒くなっていてもおかしくはない。
実際、ガンダルシアにおいては真夏であっても十一階に挑戦する者達の為に冬用の服が売っていたりするのだから。
「綺麗な光景ではあるが……異変については特に何かがあるようには思えないな」
「グルゥ……」
レイの言葉に、セトは残念そうに喉を鳴らす。
もっとも、残念そうではあるがそこまで本気で残念そうといった様子でもない。
何故なら、セトもこの十一階に本当に何かがあるとは思っていなかった為だ。
それでも十一階に下りることを勧めたのは、もしかしたらという思いがあったのもそうだし、少しでもレイを十階の転移水晶から離しておきたいと思ったからだ。
そういう意味では、セトの目論見は成功してはいるのだろう。
「グルゥ!」
周囲の様子を見ていたセトが、不意に喉を鳴らす。
先程までと違って、多少なりとも警戒を促すような鳴き声。
それを聞いたレイは、それだけでどういう種類の鳴き声なのかを理解し、まだ少し残っていた悪臭用のマジックアイテムをミスティリングに収納し、デスサイズと黄昏の槍を取り出すのだった。