0374話
馬車から降りてきたその人物は、特にこれといった仕草をした訳でもない。本当に、レイへと向かって声を掛けただけだった。
ただそれだけの仕草にも関わらず、周囲に集まっていた村人達の意識を集めてしまう。
エレーナが持つ美しさ、あるいは凛とした雰囲気。それだけでも周囲の者の意識を集めてもおかしくはないが、更に今はそのエレーナから少女から大人へと変貌を遂げつつある女の色気とも言うべきものが放たれており、レイを見かけたその瞬間には綺麗な笑みが口元には浮かんでいた。
その笑みを見た者がいたとしたら、とてもではないがエレーナを姫将軍の異名を持つ人物であるとは分からなかっただろう。あるいは、エレーナが姫将軍であると知っている者が見たとしても別人だと思ったかもしれない。
勿論エレーナが普段笑みを浮かべていないという訳では無い。特に戦場で浮かべる姫将軍としての笑みは敵兵に恐怖と混乱と畏怖を、味方にはその正反対の効果をもたらす。
だが今のエレーナが浮かべている笑みは、同じ笑みでもこれ程までに違いがあるのかと思える程に異なっていた。
「……あ、ああ。久しぶり。アネシスに連絡を送ったのは昨日だったのに、随分と早い到着だったな」
エレーナと幾度となく交流を深めてきたレイにしてもその笑みに一瞬見惚れてしまったのだが、すぐに我に返って声を掛ける。
「うむ。何しろレイと共に迷宮都市に向かうというのは以前から決まっていたことだからな。私としても連絡が来たらすぐに出発できるように用意を整えておいたのだ。そちらの準備はどうなっている? 可能ならなるべく早く出発したいが」
「俺としては特に問題は無い。それこそ今すぐにでも出発できる」
基本的に持ち物のほぼ全てをミスティリングに収納しているレイに、出掛ける準備というものは殆ど必要が無い。
もしあるとすれば、ミスティリングの中に入っていない物を買うといったことだ。だが、このような農村では特に補充すべき物は無い。精々が食料といったところだろう。
「グルルルゥ?」
「キュ!」
そんな風に話しているレイとエレーナの隣では、セトとイエロがお互いの鳴き声で挨拶を交わしている。
自分の背に乗ったイエロの鳴き声に、セトは首を後ろに回して鳴き声を返していた。
種族そのものが違うというのに、何故か意思の疎通は可能なのだ。
(あるいは、2匹とも魔法で生み出されたと考えれば同一種族であると考えられるのか?)
横で繰り広げられている、見ているだけで胸が温かくなるようなやり取りに小さな笑みを浮かべつつも、レイはふと気になったことを尋ねる。
「今回はエレーナ1人なのか?」
「ん? どういうことだ?」
「いや、いつもならアーラ辺りがついてくるだろ? けど馬車から降りたのはエレーナ1人だし」
「うむ。さすがにアーラも騎士団長という立場になった以上、アネシスの街を空ける訳にはいかないのでな。残念ながら今回は向こうに残してきた」
「……護衛騎士団の騎士団長、なんだよな?」
護衛騎士団の騎士団長と言うからには、護衛の対象であるエレーナと行動を共にしなくてもいいのだろうか。そんなレイの疑問だったが、エレーナは躊躇無く頷く。
「私の帰る場所を護衛するという意味もある。それに……まぁ、色々と事情もあってな」
まさか村人達のいる前でレイとの旅行を楽しみたかったとは言えずに、エレーナは言葉を濁す。
「だが、代わりという訳ではないが御者は腕利きを連れてきたぞ。ツーファル、この者が今回私と共に迷宮都市に向かうレイだ。挨拶を」
エレーナに促され、40代から50代程の初老の男が御者台から降りて頭を下げる。
「初めまして、レイ様。私はケレベル公爵家で御者として仕えておりますツーファルと申します。今回はお嬢様とレイ様のお供をさせてもらうことになりました。お二人には快適な旅になるよう力を尽くしますので、よろしくお願いします」
そこまで告げ、優雅に一礼。
その仕草は、御者というよりも1人の執事のようにも見えた。
(さすがケレベル公爵家の御者ってことなんだろうな)
感心したように頷き、レイもまた口を開く。
「こちらこそよろしく頼む。迷宮都市に行くのは初めてだから、俺としても専門の御者がいるのは心強い。それと……セト」
「グルゥ?」
レイの呼び掛けに、イエロとキュウキュウ、グルグルとお互いに鳴きながら会話を交わしていたセトが視線を向ける。
「迷宮都市まで御者をやって貰うことになったツーファルだ」
「グルルゥ」
よろしく、という意味を込めて喉を鳴らすセト。
そんなセトの様子に、ツーファルは驚きに目を見張る。
まさかグリフォンがこうも穏やかに挨拶をしてくるとは思っていなかったのだ。
それでも変に取り乱したりしないところは、さすがにケレベル公爵家に仕える御者といったところなのだろう。
「これは……よろしくお願いします、セト様」
レイの相棒というのを短いやり取りで悟ったのか、セトではなくセト様と呼びながら優雅に一礼し、その後エレーナへと視線を向ける。
「それでお嬢様、これからのご予定はどうなさいます? 私としては今日はここに泊まってもいいと思いますが」
「……いや、進もう。迷宮都市までは普通の馬車でも片道10日程掛かる。マジックアイテムでもある馬車と馬がウォーホースである以上かなり短縮できるだろうが、それでもダンジョンに潜ることを考えると少しでも早く向こうに着きたい。3ヶ月程度は余裕があるが……」
「分かりました。お嬢様はこう言ってますが、レイ様はどうでしょうか?」
「さっきも言ったように構わない。夜になってもマジックテントがあるしな」
「ほう、マジックテントを手に入れていたのか」
レイの言葉に、感心したように頷くエレーナ。
「そんなに驚くことは無いだろ? 戦争の時にエレーナも使ってたじゃないか」
「確かに戦争の時に使ってはいたが、あれは私個人の持ち物ではない。ケレベル公爵家に伝わる物だ」
もっと具体的に言えば、父親から借り受けたものだった。
借り受けた物だけに当然戦争が終われば返す必要があり、既にエレーナの手元には無かった。
「マジックテントがあるのなら野営をしても問題無いな。……私としては……」
最後の言葉を濁すエレーナ。
エレーナとしては、レイとともに馬車の中で一夜を共にしたいとも言いたかったのだが、さすがにそれは恥じらいが先に立ち言葉にすることは出来ずに終わる。
御者のツーファルは、そんなエレーナに小さく笑みを浮かべてから口を開く。
「では、出立する前に用事だけでも済ませていきましょう。お嬢様、手紙を預かってきていると聞いていますが?」
「ん? ああ。そうだったな。……レイ、悪いがこの村でちょっと用事があるので少し待っていてくれ」
「いや、俺も一旦戻ろう。昨日泊めてくれた酒場の店主に挨拶をしておきたいからな」
酒場の店主、という言葉を聞きピクリと反応するエレーナ。
以前は自分の護衛騎士団にいた騎士の顔を思い出したのだろう。そして何よりも、手紙を渡す相手というのもその店主だったのだから。
「そうか。私の用事があるのもその男だ。なら、酒場まで共に行こうか。ツーファル、すぐに戻って来るからお前はここで待っていてくれ」
「かしこまりました。では、行ってらっしゃいませ」
優雅に一礼し、レイとエレーナを送り出すツーファル。
その仕草は、周辺に集まって様子を眺めていた村人達も思わず感嘆の息を吐く程に優雅なものだった。
「ん? おお、戻って来たか……と思ったら、エレーナ様じゃないか。随分と早いな」
酒場の中に入ってきたレイとエレーナを見て、店主の男は驚きに思わず小さく目を見開く。
レイが来たという情報を持たせた鳥を放ったのが昨日の日中だから、確かに翌日の夕方にこの村にエレーナがいるのはおかしなことではない。
だがもしそのような真似をするなら、今朝早くにはアネシスを出なければいけない筈であり、姫将軍という立場上エレーナがそのような真似をするのは難しいと思っていたからだ。
店主が何かを見誤っていたとしたら、恋する乙女の底力という奴だろう。更にはこの時期にレイと共に出掛けるというのは前もって約束してあったのだから、それまでに可能な限りの仕事を片付けるというのは難しく無い。
もっとも、エレーナの代理としてアーラやメーチェンという存在がいるからこその話なのだが。
「取りあえず、待ち合わせの相手が来たんで挨拶にな」
「挨拶って……おい、まさか今から村を出るつもりか?」
「ああ。エレーナの希望でそうなった」
チラリ、と視線を隣に立っているエレーナへと向けるレイ。
だが、エレーナはそんな視線を気にした様子も無く持っていた手紙を酒場の店主へと渡す。
「向こうからの新たな指示だ」
「っ!? ……了解」
短く、簡潔なやり取り。
エレーナも男も、自分達の関係しているものがどれ程のものなのかを知っている為の処置なのだろう。
多少は気になったレイだったが、それでもこのままズルズルとケレベル公爵の陣営に引きずり込まれるかもしれないと思うと、無理に話を聞き出そうとは思わなかった。
(エレーナとの関係を考えると、いずれその辺はどうにかしないといけないんだろうけど……な)
自分は冒険者とは言っても、実質的には中立派の中心人物でもあるラルクス辺境伯ダスカーの手勢と見られているのは承知しており、そんな自分に対してエレーナは貴族派の中心人物でもあるケレベル公爵の令嬢。更には貴族派の象徴でもある姫将軍として周辺諸国にその異名が知られている存在なのだ。
そして中立派と貴族派は派閥的に敵対している。春に起こったベスティア帝国との戦争では国王派に対抗するという意味で共闘することになったが、それとて一時的な物に過ぎないのは明らかだった。
(それに、貴族派の貴族はプライドだけが妙に高い奴が多いしな)
これまでに会ってきた貴族派の貴族の顔が脳裏を過ぎる。直接話した相手はそれ程多くはないが、それでもエレーナのように冒険者を相手にして普通の口調で構わないと言う者は希有であった。
(アーラなんか、最初に会った時はいきなり斬りかかってきたし)
いきなり長剣で斬り付けられた時のことを思い出し、小さく笑みを浮かべる。
そんな風に考えている――ある意味現実逃避――レイだったが、やがて話が終わったのだろう。エレーナが店主と別れてレイの方へと向かって来た。
「エレーナ様、それとレイも。ちょっと……5分程度でいいから待っててくれ。この村に泊まっていかないっていうのなら、せめて弁当くらいは持っていって欲しいからな。何か食べる物を準備してくる」
店主の男の言葉に、朝食として出て来たほぼ肉のみの食事が一瞬脳裏を過ぎった。だが、ソーセージやベーコン、ハムのような保存食なら迷宮都市に到着するまでに少しずつ食えばいいと判断し、あるいは生の肉でもレイの場合はミスティリングがあった。
「ふふっ、あの男も変わらぬな」
そんな男の後ろ姿を見送り、エレーナが小さく呟く。
「元々護衛騎士団だったってのは以前アーラに聞いたが、親しかったのか?」
「そうだな……親しいというよりは、変わり者として有名だった。もっとも、だからこそ騎士団を辞めた後でこの村に住むことになったのだが」
「……」
意味ありげな言葉に、思わず尋ね返そうかとも思ったレイだったがすぐに止める。
今はまだケレベル公爵領の秘密にこれ以上足を突っ込む気は無かったし、それ以前にエレーナ自身がそう簡単に秘密を話すとも思えなかったからだ。
「……ふぅ、取りあえずこれを持っていってくれ。このソーセージは俺の自家製で、結構な自信作なんでな」
そんなところを見計らったかのように、店主の男が店の奥から姿を現す。その手に持っているのは、10kgはあろうかというソーセージの山だった。燻製したままの状態だったらしく、ソーセージとソーセージがずらりと繋がっており、切られていない状態だった。
「自家製だったのか。いや、確かに美味かったけど」
朝食で食べたソーセージの味を思い出して思わず呟く。
「ああ、この村には肉屋なんていないからな。保存食を含めて基本的に自給自足だよ」
「確かにこうして見る限りでは美味しそうなソーセージだな。……レイ、頼む」
「了解」
エレーナの言葉に頷き、繋がったままのソーセージに触れてミスティリングへと収納する。
一瞬で目の前から消えたその様子に多少の驚きを浮かべつつも、特に何を言うでも無く頷く男。
「ではこちらの用件も済んだし、そろそろ出立するとしよう。色々と世話になったな」
「いやいや、こっちも仕事ですしね。エレーナ様も気を付けて。……レイもまたな」
「ああ、世話になった」
短く礼を告げ、レイとエレーナは酒場を出てツーファルと馬車の近くで会話していたセト、イエロと合流して村を旅立つのだった。