3730話
「……え?」
マティソンは、レイの言葉を聞いて動きを止める。
手に持っていた書類が机の上に次々と落ちていくのだが、本人はそれに気が付いているのか、いないのか。
冒険者育成校の職員室にて、マティソンのそんな行動は当然のように周囲の注目を集める。
マティソンは教官の中にある派閥の中でも、アルカイデ達の勢力が落ちた為に、最大派閥を率いる人物となっている。
レイにしてみれば、教官同士の派閥争いなど馬鹿らしいとしか思えない。
思えないのだが、アルカイデの派閥は教官をやりながらも冒険者としてダンジョンを攻略するのを疎ましく思っている為、冒険者として活動する上でアルカイデ達に対抗する必要があり、それで作られた派閥だ。
以前……春になる前は、アルカイデ達の方が貴族の血筋も関係してか、勢力的には勝っていた。
しかし、そこで春になってレイが来たことにより、流れは大きく変わった。
具体的には、アルカイデの取り巻き達がレイに絡み、その結果として醜態を晒した結果教官を辞め……今となってはマティソンの派閥の方が勢力は大きくなっていた。
そんな派閥を率いるマティソンが驚きの声を上げて手にした書類を机の上に落としたのだから、周囲にいる他の教官が……あるいは座学を教える教師達も、一体何があったのかと疑問に思うのはおかしな話ではなかった。
「マティソンさん、どうしたんですか?」
近くにいたマティソンの派閥の教官が、一体どうしたのかといった様子で声を掛ける。
もっともレイが近くにいることから、恐らくレイが何らかの理由でマティソンを驚かせたのだろうというのは容易に想像出来たが。
色々な意味でレイが特別……いや、特殊な存在なのは、当然だが多くの者が知っている。
そもそもグリフォンのセトを従魔にしている時点で普通ではないのだから。
だからこそ、聞いてきた男はマティソンから事情を話されても、驚きはしつつも納得する。
「なるほど、もう十階に……さすがと言うべきか、呆れたと言うべきか、悩みますね」
そんな風に言う男。
そしてその男の言葉やマティソンの説明を聞いた他の者達もレイやマティソンの周囲に集まってくる。
勿論、集まってくるのはマティソンの派閥の者、あるいは中立だがダンジョンの攻略をしている者達だ。
冒険者育成校の教官となっている冒険者は、生徒達に教える必要がある以上は相応の実力者が集まっている。
そんな者達にとっても、レイがガンダルシアに来てからの短時間で十階まで到達したというのは、それだけ驚くべきことだったのだろう。
実際にはレイがガンダルシアに来てから既にそれなりの日数が経っている。
それを考えれば、その時間で十階に到達するのはおかしな話ではないのだが……この場合問題なのは、レイはガンダルシアに来てから教官として働いており、ダンジョンを攻略する余裕は殆どなかったということだろう。
なのに、もう十階まで到達しているのだ。
それに驚くなという方が無理だろう。
「洞窟の階層とか、面倒じゃなかったか?」
教官の一人がそうレイに尋ねる。
ダンジョンを攻略している以上、迷路となっている洞窟の階層は非常に厄介だと思っての言葉だったのだろうが……
「地図があったから、面倒じゃなかったな。出てくるモンスターは少なかったし」
そんなレイの言葉に、話を聞いていた者達は驚きと呆れ、納得……そういった表情を浮かべる。
地図があったからというのは、ダンジョンを攻略する上で非常に楽ではあったが。
「それよりちょっと聞きたいんだが、十階の墓場に漂う腐臭とか悪臭とか、そういうのはどうしてる? 俺はともかく、セトがあの臭いをちょっと苦手にしていてな」
そう尋ねるレイに、話を聞いていた者達全員が『あー』と納得の表情を浮かべる。
十階の墓場における悪臭は、皆にとって共通の問題なのだろう。とはいえ……
「悪臭はするけど、我慢出来ない程じゃないだろ?」
教官の一人がレイに向かってそう言う。
その教官にとっては、十階の墓場は悪臭はするものの、それで行動出来ない程ではないのだろう。
その他にも何人か同じようなことを口にする者がいる。
「お前達の場合は、嗅覚がそこまで鋭くないんだろうな。だから十階でもそこまで問題はないんだと思う。けど……セトは元々の嗅覚が鋭いから、我慢するのも難しいんだよ」
実際には時間を掛ければ十階の悪臭にも慣れるといったことが出来るかもしれない。
しれないが、それでもやはり今の状況を考えると悪臭そのものをどうにかするしかないのも事実。
「そうなると、やっぱりさっさと十一階に下りるのが一番楽だと思いますよ」
マティソンの言葉に、その話を聞いていた者の多くが頷く。
それを見ていたレイは、やはりそれしかないのかとがっかりする。
実際にそれが一番手っ取り早いというのはレイも理解していた。
していたのだが、それでももしかしたら教官達なら何らかの方法で悪臭をどうにか出来るのではないかと、そのように思ったのだ。
もっとも、その淡い期待は見事に外れてしまったのだが。
「例えば……マジックアイテムでそういうのとかないか?」
「どうでしょうね。探せばあるかもしれませんが、私はそういうのを聞いたことがありません」
マティソンがそう言うと、他の者達もその言葉に同意するように頷く。
それを見たレイは、猫店長の店に顔を出してみるか? と思う。
猫店長の店は色々なマジックアイテムを売っている。
中には悪臭を無視出来る……もしくは、周辺の臭いを消すといったようなマジックアイテムが売っている可能性もある。
勿論、それはあくまでもそういう可能性があるというだけで、絶対にあるという訳ではない。
それでも何もしないよりは実際に店に行ってみて、確認してみるのは悪い話ではない。
「そうか。色々と情報助かった。こっちでも悪臭対策のマジックアイテムを探してみるよ、見つからなかったら、十階に転移したら全速力で十一階に向かう」
そう言うレイの言葉が、結局この時点では最善の一手なのは間違いないだろう。
レイもそれは知っていたのだが、転移水晶のある場所から十一階に続く階段まではそれなりの距離がある。
セトが全速力で走っても、ある程度の時間は掛かるだろう。
……これが、例えばセトの足で数分適度の距離なら、十階に転移した後で息を止めて全速力で走り、そのまま一呼吸もなしに十一階まで到着するといったことも出来るのだが。
(もしくは、一呼吸が二呼吸くらいならということで、試してみるか? セトにとってはちょっと苦しいかもしれないが、それでも十階の状況を考えると、やってみて悪いことじゃないだろうし)
レイはそんな風に思いつつ、模擬戦が始まるまでマティソン達と話すのだった。
「グルルルルルゥ!」
セトが鳴き声を上げると同時に、水球が現れて生徒達に放たれる。
水球はそれなりにセトが多用するスキルなので、生徒達も最初こそ対処出来なかったものの、今では水球が放たれた瞬間に対処出来ていた。
密集していた生徒達が一斉に散らばり、同時に水球に向けて矢や短剣といった武器を放つ。
空中で矢や短剣が水球に命中すると、次の瞬間には水球は破裂する。
生徒達相手だからということで、水球の威力は低いものの、それでも空中で水球が破裂するという光景は見物だ。
破裂した水球の水が太陽の光に煌めく光景は、いっそ美しい。
水球と光の加減によるものか、虹も生まれている。
とはいえ、そんな光景を悠長に見ていることが出来るのは、レイが模擬戦に参加していない為だ。
セトと模擬戦を行っている生徒達にしてみれば、美しい光景に目を奪われる余裕はない。
ただひたすらに全滅しないように……それこそセトに攻撃するよりも、まずは模擬戦が終わるまで自分が生き残る方が先決だった。
(それが甘いんだけどな。まぁ、下位クラスだからしょうがないのかもしれないけど)
セトに攻撃をするよりも、まずは自分が生き残ることを優先するというのは、分からないでもない。
だが……そのようなことが出来るのは、あくまでもお互いの実力差がそこまでない時の話だ。
セトと生徒達のように埋め切れない程の実力差があるのなら、セトに攻撃をするよりも自分達が生き残るのを優先するというのは愚策でしかない。
多少無理でも攻撃し、セトが攻撃する時の選択肢の幅を可能な限り狭めるのが、それこそ生き残るコツだった。
実力差のある相手を自由に行動させたりすれば……
「グルルルルゥ!」
「あちゃあ」
セトがサンダーブレスを放ったのを見たレイの口から、そんな声が漏れる。
セトのサンダーブレスはレベル七で、その威力はそれこそ要塞の類でも貫通する程だ。
先程の水球と同様に威力は極限まで落としてはいるだろうが……サンダーブレスがファイアブレスよりも有利な点の一つに、放つのが雷だというのがある。
ファイアブレスの場合に放たれる炎は、見てから回避することも……相応の技量や身体能力が必要とはなるものの、回避出来ない訳ではない。
しかしそれがサンダーブレスとなると、放たれるのは雷だ。
それこそ一瞬光ったと思った瞬間には既にサンダーブレスは放たれている。
つまり、回避するのはかなり難しいのだ。
それを示すように、レイの視線の先に存在する生徒達は放射状に放たれたサンダーブレスによって麻痺し、動かなくなっていた。
こうなるだろうから、セトがサンダーブレスを使ったのを見た時に、先程のような声を出したのだ。
「うわぉ……凄いなこれ。いや、酷いなこれと言った方がいいか?」
レイの隣にきたニラシスが、そんな風に言う。
そんなニラシスに言い返したいレイだったが、実際にサンダーブレスによって一撃で全ての生徒達が動けなくなったのを見れば、その言葉は否定出来なかった。
「敵によっては、こういう攻撃をしてくることもあると、生徒達も理解した筈だ」
レイが何とか言い返せたのは、そんな言葉だった。
とはいえ、その言葉は決して間違っている訳ではない。
この冒険者育成校は、その名の通り冒険者になろうとしている者達の為のものだ。
そしてこのガンダルシアにおいて冒険者というのは、ダンジョンの攻略をする者である。
勿論中にはガンダルシアにいるにも関わらずダンジョンに潜らないという冒険者もいるが、そのような冒険者は少数派……それも極めて少数派だ。
ダンジョンの攻略の合間にダンジョンとは関係のない依頼を受けるということはあるが。
そしてダンジョンに挑めば、いきなり未知のモンスターと遭遇する可能性は十分にあった。
そういう意味では、セトとの模擬戦というのは生徒達にとって大きな経験となる。
……もっとも、セトの強さに心が折られなければの話だが。
動けない生徒達の様子を見つつ、レイは授業が終わるまでの時間をどうするのかと考えるのだった。
「おい、これどうすればいいんだよ!」
セグリットが叫ぶ。
そんなセグリットの言葉に、ザイードは短く指示をする。
「全員、地面から目を離すな」
ザイードの指示に従い、三組の生徒達は地面から視線を逸らさない。
模擬戦が始まった瞬間に地中に沈んだセトがいつ出てきてもいいように構える。
それはつい数日前に四組から三組に上がったばかりのセグリットも変わらない。
「レイさん、あれは一体……」
「セトの持つスキル、地中潜行だな」
マティソンが不思議そうにというか、半ば呆れたように尋ね、レイはそれにあっさりと答える。
レイの言葉に、マティソンだけではなく他の教官達……それこそ、アルカイデやその派閥までもが何も言えなくなる。
地中潜行というスキル名。
そして何より、実際に地中に潜ったのをその目で見ているだけに、セトがどのようなことをしたのかは、分かっている。
分かっているが、だからといってそれに納得しろという方が無理だった。
「その……どうやって地中に潜ってるんですか? 地面を掘って移動しているようには見えませんが」
「スキルによる力だから、具体的にどうやっているのかは分からないな」
「ぎゃあっ!」
レイとマティソンが話している間に、事態は進んだらしい。
一人の生徒の後ろから姿を現したセトは、そのまま背後から前足の一撃を使って吹き飛ばしたのだ。
勿論、その一撃も十分に手加減をしている。
もしセトが本気で前足の一撃を放っていれば、悲鳴を上げるような余裕もないまま、身体が肉片となって一撃で殺されているだろう。
つまり、こうして悲鳴を上げる余裕があるという時点でセトが十分に手加減をしているということの証だった。
そうしてセトと生徒達の戦いが始まるが……またすぐに地中潜行を使われ、生徒達はどうしようもなくなるのだった。