0372話
ケレベル公爵の屋敷があるアネシス。ミレアーナ王国第2の都市ともいえるその都市に向け、鷲が飛んでいた。
普通の鷲と違うのは、その大きさだろう。通常の鷲はどんなに大きくても翼を広げても2m前後なのだが、現在アネシスに向かって飛んでいるその鷲は、通常の鷲よりも一回り……いや、二回り程は大きい。
勿論モンスターという訳では無く、魔法を使って品種改良された結果だ。
通常の鷲よりも素早く、そして長期間飛べるように品種改良されており、モンスターではないがゴブリン数匹程度ならどうとでも出来る程の戦闘力を持たされている。
そんな鷲が翼を羽ばたかせながら、足に書簡の入った金属筒を付けて眼下に見えてきたアネシスへと向かって降下していく。
その姿を見た門番は鷲の大きさに驚きつつも、慌てることなく街の中に入ろうとしている旅人や商人、冒険者達へと鷲の邪魔にならないように注意する。
翼を羽ばたかせながら扉を潜った鷲は、そのまま目的地でもあるケレベル公爵の屋敷へと向かうのだった。
ケレベル公爵の屋敷の一室。現在その部屋の中では、エレーナが執務机の上に置かれている書類に目を通していた。
そんなエレーナの前では、20代程の男が身動きすら出来ない程に固まっている。
緊張で……いや、勿論公爵令嬢のエレーナの前に出るのだから、緊張しているのは事実だろう。だがその男の顔に浮かんでいるのは緊張ではない。視線の先に存在しているエレーナ・ケレベルという、まるで芸術品のような美しさを持つ女に圧倒されているのだ。
(……ま、無理も無いわね。春からこっち、エレーナ様は大いに変わられた。これまでもその美しさは他人の目を惹き付けるようなものだったけど、今はそこに艶とも言えるものも加わってるから)
エレーナから少し離れた場所にある執務机で、書類を確認してサインをしながらアーラは内心で呟く。
ベスティア帝国との戦争が終わり……より正確には戦場でレイと別れてからのエレーナは、日に日にその美しさを増していった。
勿論自らの恋心に呆けて貴族としての仕事や、騎士団を率いる者、あるいは貴族派の象徴とも言える姫将軍としての役割を疎かにしている訳では無い。寧ろこれまで以上に仕事は素早く、確実にこなしている。
(この辺も恋する乙女の底力なのかしら?)
自らの主でもあるエレーナと、その想いを寄せられているレイの存在が同時に脳裏を過ぎり小さく笑みを浮かべる。
だが、変わってきているのはエレーナだけではない。アーラにしても、以前と比べると随分と変わってきていた。
何しろ、以前はここまで真面目に書類仕事をやるようなことは無かったのだ。
……もっとも、この辺は恋という感情を知ったエレーナと、護衛騎士団の副団長でもあるメーチェンやエレーナに教育されて書類仕事をやるようになったアーラという明確な違いはあったのだが。
そんな中、書類に目を通していたエレーナが小さく頷いて男へと視線を向ける。
「……問題は無い。このまま進めてくれ」
「は、はい!」
真面目な顔で……いや、真面目な顔をしているからこそ、よりエレーナの凛々しさが増し、男の頬が赤く染まる。
だが、エレーナはそれに気が付いた様子も無く次の書類へと視線を移す。
既に目の前にいる男のことは脳裏から消え去っているのだろう。
そんな状況に目に見えて分かる程に落ち込みつつも、男はエレーナの執務室から出ようと扉へと手を伸ばし……
「っと、済まないね」
扉を開ける直前に廊下側から扉が開けられ、その向こうから声を掛けられた。
そして男は声を掛けられた瞬間に思わず1歩後退り、道を空ける。
扉の向こうにいる人物が穏やかそうな表情を浮かべている30代程の男、即ち自分も所属しているエレーナの護衛騎士団の副団長でもあるメーチェンだったからだ。
「いえ、お気になさらず」
そう声を掛け、メーチェンと入れ違いに執務室を出る。
そして扉を閉め、数歩程歩いたその時……
『何っ、本当か!?』
執務室の中から、エレーナのそんな大声が聞こえてきて思わず足を止める。
男にとって、エレーナとは姫将軍と呼ばれているような相手だ。それだけに、取り乱したかのような大声を発するとは思ってもいなかった。
一瞬、またベスティア帝国が攻めて来たのかとも思ったが、執務室の中から聞こえてきたエレーナの声には驚愕と共に強い喜びの色が混ざっており、その時点でミレアーナ王国やケレベル公爵領にとって不利益になるようなことではないというのは男にも理解出来た為、そのまま執務室の前を立ち去るのだった。
珍しい……非常に珍しい戦場以外でのエレーナの叫び声を聞けた幸運に感謝しつつ。
「落ち着いて下さい、エレーナ様」
エレーナの護衛騎士団の1人が予期せぬ出来事に小さな幸福感を感じて廊下を歩いて行った後、その原因となった執務室の中では、エレーナが笑みを浮かべて早速出掛ける準備をしようとしていた。
そんなエレーナに対し、落ち着かせるように言葉を放つメーチェン。
本来であればエレーナを止めるのはメーチェンの上司でもあるアーラの役目の筈なのだが、当の本人はエレーナの行動を見て自分も早速とばかりに出掛ける用意をしようとしている。
この辺は以前と比べて変わったとは言っても、エレーナ至上主義なところは変わりようがなかったのだろう。
ある意味でアーラの根幹を成すと言ってもいいような部分なのでしょうがないのかもしれないが。
「……すまん、待ちに待っていた報告だったからな。全く、レイめ。確かにあの時は3ヶ月程後だとは言ったが、それにしても待たせすぎではないか?」
自分がどれ程に慌てていたのか気が付いたのだろう。どこか照れを誤魔化すように呟き、執務机の椅子へと座る。
「それでエレーナ様。改めて聞きますが、これからどうしますか? 幸い緊急の仕事というのはありませんし、書類仕事に関しては前々から言っていた通りに私とアーラ団長でどうにか出来ます。もし本当に今からアネシスを発つのだとしたら、全く問題ありませんが」
さらりとメーチェンの口から出た言葉。その言葉を聞いた途端に、思わずアーラは焦りながらも尋ね返す。
「ちょ、ちょっと待って。メーチェン、今私も残るみたいなことを言わなかった?」
その問いに、メーチェンは何の躊躇も無く頷く。
「当然でしょう。何しろ、この護衛騎士団を率いる立場のエレーナ様がいなくなるのですよ? そうなれば、当然次善の責任者として護衛騎士団の団長であるアーラ様が必要になります」
「……え? それだと、もしかして私はエレーナ様と一緒に迷宮都市に行けないの?」
呆然と呟くアーラ。
だが実務能力を買われて騎士団の副長に抜擢されたメーチェンは、情け容赦無く頷く。
「そうなります。……もしかしてエレーナ様と一緒に出かけるつもりだったんですか?」
メーチェンの言葉に、無言で俯くアーラ。
やがて、おずおずと上目遣いの視線をメーチェンへと向ける。
普段の、強気ともいえるアーラを知っている者が見れば恐らくは驚くだろうその表情も、残念ながらメーチェンには通じなかった。
「そんな表情をしても駄目です。もしアーラ騎士団長がエレーナ様と共に出掛けた場合、護衛騎士団は完全に回らなくなると考えて下さい。簡単に言えば開店休業状態になります」
「……それは……」
思わず言葉に詰まるアーラ。
エレーナに心酔している者として、護衛騎士団をそのような状態にするような無様な真似は出来なかった。
アーラの矜持としての問題だけではない。もしそんなことになれば、心酔しているエレーナがプライドだけは高い貴族に侮蔑の目で見られるのだ。
エレーナの親友にして部下にして信望者として、決してそのような真似は出来なかった。
黙り込んだアーラの様子を見て、メーチェンは念を押すように尋ねる。
「ご理解頂けましたか?」
「……だ、だが! まさかエレーナ様を1人で迷宮都市まで行かせる訳にもいかないでしょ!? それこそ、護衛騎士団としての存在意義に関わってくるわ!」
何とかそれだけを告げるが、メーチェンは無情にも首を左右に振る。
「安心して下さい。護衛……というよりも馬車の御者ですが、こちらでツーファル殿を用意しました」
ケレベル公爵家に仕える御者の名前を出されて一瞬言葉に詰まるも、アーラはすぐに言い返す。
「護衛! 私達はエレーナ様の護衛騎士団でしょ!」
「確かに普通なら護衛が必要なのは分かりますが……何しろ、エンシェントドラゴンの魔石を継承したエレーナ様ですよ? 誰が傷を与えることが出来るんです? 更に言えば、春の戦争で深紅の異名を得たレイさんも一緒だとか。レイさんが一緒なら、当然従魔のグリフォンも共にいるでしょう。……さて、改めて聞きますが……護衛、いりますか?」
「……」
再び言葉を詰まらせるアーラ。
言外に化け物扱いされたエレーナだったが、苦笑を浮かべるだけで特に何を言うでも無い。
「分かりましたね? 私達がやるべきことは、いつ何が起きてもいいように護衛騎士団を万全の状態にしておくことです。それと、出来るだけ練度を上げておくこともですね」
そう告げるメーチェンだったが、エレーナを守護する為の護衛騎士団はその名前とは裏腹に極めて攻撃に特化した精鋭部隊である。
自らが先頭で戦って味方の士気を上げつつ指揮をするという戦闘スタイルのエレーナ直属の騎士団なのだから、自然と鍛え抜かれていったのだ。
それについていけない者達は、他の騎士団に移るという選択肢を選ぶことになる。
やがて勝負はもうついたと判断したのだろう。これまで黙って見守っていたエレーナが口を開く。
「アーラ、私としてもお前にはこのアネシスに残って貰いたいと思っていた」
「そんなっ!」
まさかエレーナからそう告げられるとは思ってもいなかったのだろう。信じられないといった風にエレーナへと視線を向けるアーラ。
だが、アーラが続けて何かを言う前にエレーナは言葉を掛ける。
「別に私がお前を信頼していないとか、そういう訳では無いぞ。逆だ。信頼しているからこそ、私の故郷でもあるこのアネシスに残って欲しいのだ」
「エレーナ様、ですがそれでは……」
「私の頼みを聞いて貰えないか?」
じっと自分の瞳を見てくるエレーナに、アーラは否とは言えずにやがて小さく頷く。
「分かり……ました。では、エレーナ様が戻ってくるまでは私がこの地を命に代えても守り抜いてみせます」
決意と共に告げるアーラだったが、それを見ていたメーチェンは声に出さずに小さく溜息を吐く。
(エレーナ様の目的は、確かに迷宮都市にあるダンジョンなのは間違い無いでしょう。ですが、その主目的はやはりレイさんとの逢い引きであるのもまた、間違いが無い筈。恐らくはまぁ……そういうことなんでしょうね)
だが、それを知ってもメーチェンは特に何も言わない。
エレーナがレイと共に迷宮都市へと出掛けるのをどれ程楽しみにしていたのか、そしてその時間を作る為にどれ程仕事をこなしてきたかを知っているからだ。
更には、ケレベル公爵もレイという人物の実力を知り自分達の派閥に引き込めるのならそれも良しと考えているというのもメーチェンは知っていた。
勿論、エレーナがレイに対して何の想いも無ければそのような選択は取らなかっただろう。ケレベル公爵はエレーナに対して強い愛情を抱いているということもあり、レイという存在を引き込むのに無理矢理娘を使うという選択は無かった。
だが、エレーナの気持ちがレイに向いているとすれば話は別だった。何しろ娘がレイに対して好意を抱いているのだから、ある意味では完全に親子の間で利害は一致していたと言えるだろう。
(ある意味では運が良かった……と言えるのでしょうね。もしエレーナ様がレイさんに対してこのような感情を抱いておらず、更にはケレベル公爵がレイさんを取り込もうとしたのなら……いえ、そのような場合は他の手段を使っていたのでしょうが)
そんな風に考えつつ、メーチェンはいつもの凛とした表情はそのままに、微かに笑顔を浮かべているエレーナへと声を掛ける。
「それでエレーナ様、早速メイド達に旅行の準備をさせたいと思いますが構いませんか? 出発に関しては明日になるかと」
「そうだな、さすがに今日そのままという訳にはいかないか。……イエロを先に向かわせるか?」
一瞬そう考えたエレーナだったが、使い魔のイエロとは感覚が繋がっている訳ではない。イエロと接触することでイエロが過去に見たものを見ることは出来るのだが、それはあくまでもイエロが側にいてこそだ。向こうの村に到着してからイエロの記憶を覗いたとしても、時間的に殆ど意味は無いだろう。
「……やめておくか。それよりも、なるべく早く向こうに着くようにした方がいいだろう。幸い仕事については一段落しているし、私がいなくても騎士団長のアーラが居れば問題無いからな」
呟き、レイとの再会に胸を躍らせながらも残っている書類へと目を通すのだった。