3693話
「うわぁ……これ、凄いわね」
「本当に。まさかグリフォンがこんなに滑らかな手触りの羽毛や体毛を持ってるとは思わなかった」
「だよな。ちょっとモンスターに対する思いが変わってしまいそうだ」
厩舎の護衛の依頼を受けた三人の冒険者達の声が周囲に響く。
最初にセトに触った男は、恐る恐るといった様子だったものの、セトを撫でた時の手触りにうっとりとし、それを見た他の二人も、取りあえず危険――セトが急に襲い掛かるといったような――はないと判断したのか、自分達の仲間がこうしてうっとりとセトを撫でているのを見て気になったのか、レイに自分達もセトを撫でてもいいのか聞いてきたのだ。
レイにしてみれば、セトの良さを分かってくれる者は多ければ多い程にいい。
ましてや、この三人は厩舎の護衛なのだから、余計にそのような思いは強い。
セトに対する思い入れの有無は、この厩舎の護衛という仕事の上でやる気が大きく変わってくるだろう。
そういう意味でも、この状況はレイにとって悪いものではなかった。
とはいえ、だからといってずっと三人がセトを撫でている光景を見ている訳にもいかない。
「じゃあ、俺はそろそろ校舎に行くから、ここの護衛は任せる。セトを撫でるのに満足したら、厩舎に入れてくれ」
「え? あ、ああ。分かった。その……出来るだけ早くセトを厩舎に入れるようにしておく」
そう言う男にレイは頷き、セトに一声掛けてから校舎に向かう。
まだ授業が始まるまでは少し余裕があり、急いで教室に向かっている生徒達の姿を見ることも出来る。
そんな生徒達を見ながら、レイは職員室に向かう。
途中で何人かの生徒とすれ違ったが、その生徒達の中にはレイを見て恐怖の表情を浮かべる者もいた。
恐らく、昨日放課後に訓練場に来た生徒なのだろう。
レイの放つ殺気によって、知らない間に気絶していた生徒達は多い。
離れた場所にいたにも関わらず、レイの殺気に耐えることが出来なかったのだ。
その殺気を叩き付けられ、恐怖から、あるいは死を実感して気絶した生徒達にしてみれば、レイは恐怖の象徴のように思えてもおかしくはなかった。
勿論、その辺りの感じ方は人それぞれだ。
中にはレイを見ても特に怖がったりせず……それどころか、あのようなことが出来ることに尊敬の視線を向ける者もいた。
そんな生徒達の様子を見つつ、レイは職員室に入る。
まだ時間には余裕があるのだが、既に職員室の中には教師や教官がそれなりに多くいる。ただし……
(やっぱり昨日の連中は誰も来ていないか)
職員室の中を見回したレイは、アルカイデの元取り巻き達……昨日、レイの殺気を受け、気絶した者達の姿が一人もないことに気が付く。
時間にまだ余裕がある以上、もしかしたらまだ来ていないだけという可能性もあるが、恐らくもうここに姿を現すことはないだろうというのがレイの予想だった。
それは結局、アルカイデの取り巻きが一気に減った……つまり、アルカイデの影響力が大きく減じたということを意味してもいた。
もっとも、レイがマティソンの派閥に協力している時点で、アルカイデの影響力は自然と下がっているのだが。
「レイ、マティソンが来たけど、すぐにどこかに行ったって話だけど、知ってるか?」
職員室の中を見ていたレイに気が付いたのだろう。
ニラシスが近付いてきて、そう尋ねる。
別に隠すことでもなかったので、レイは素直に頷く。
「今日、セトを連れてきたんだが、マティソンのパーティもセトと模擬戦をやりたいって、パーティーメンバーを集める為だな」
「え? ……模擬戦、出来るのか?」
そうニラシスが聞いたのは、当然だが自分もセトと模擬戦をやりたいと思ったからだろう。
だが、レイはそんなニラシスの言葉に首を横に振る。
「誰にでもって訳じゃない。マティソンとは前から約束してあったからな。その約束を果たすだけだ」
「え? じゃあ、俺は無理なのか?」
残念そうな、無念そうな、悔しそうな様子で尋ねるニラシスに、レイは頷く。
それを見たニラシスは……いや、ニラシスだけではなく、他の教官の何人かも残念そうな様子を見せる。
セトとの模擬戦というのは、冒険者としてダンジョンに挑んでいる者であれば誰もが体験したいと思う。
何しろ、ランクAモンスター……実際には希少種ということでランクS相当という扱いを受けているのだが、それを知らない者も多い。
とにかくそのような高ランクモンスターと模擬戦を出来るのだ。
模擬戦というのは、当然ながら模擬の戦いであるだけに命の心配はない。
命の心配がなく、高ランクモンスターと向き合えるのだから、ダンジョンを攻略している者としては、是非自分もと思うのはおかしな話ではない。
もっとも、だからといってレイもそう簡単に引き受けるようなことはしないが。
何しろ、マティソンは自分達で作った地図と引き換えにセトと模擬戦出来る権利を得たのだから。
何もしていないのにセトと模擬戦をさせるというのは、マティソンに悪いとレイも思う。
(まぁ、生徒達はセトと模擬戦をやるんだけどな)
そういう意味では、生徒達は恵まれているのは間違いないだろう。
他の教官達にしてみれば、自分はセトと模擬戦が出来ないのに、生徒達だけがセトと模擬戦を出来るというのは、心の底から羨ましい。
「どんな代価を支払えば、セトと模擬戦が出来るんですか?」
教官の中の一人、二十代程の女がレイにそう尋ねる。
女にしてみれば、それこそセトと模擬戦が出来るのならレイと一晩くらい付き合ってもいいとすら思う。
……もっとも、その女も誰とでもベッドを共にしたいと思う訳ではない。
レイが尊敬出来る相手で、顔立ちも整っているからこそ、セトとの模擬戦の代価として抱かれてもいいと思っただけだ。
例えばこれが、自分達に敵意を抱いているアルカイデに抱かれたいかと言われれば、絶対に首を縦に振ることはないだろう。
「どういうと言われても……マティソンからはダンジョンの詳細な地図を貰った。それと同じくらい、俺にとって利益があるようなものならか?」
断言するのではなく、疑問に近い形で言うレイ。
実際、地図と同じような利益がレイにもたらされるのなら、セトとの模擬戦はやっても構わないと思っている。
とはいえ……
「ダンジョンの詳細な地図……それもマティソンさん達の……」
レイにどのような条件ならセトと模擬戦が出来るのかと聞いた女は、レイの説明に何も言えなくなる。
……もっとも、女は飛び抜けた美形という訳ではないが、それでも十分に魅力的な容姿をしている。
人によっては、その女と一晩を共にするのなら十分に価値があると思ってもおかしくはない。
幸か不幸か、女は自分の身体にマティソンの持つ地図程の効果があるとは思っていなかったようだが。
(個人的には、マジックアイテムとかなら可能性はあるんだけどな。……ああ、そう言えば、疾風の短剣も、使ってみないとな。けど、使い捨てである以上……うん。複数あればどうにかなるんだけど)
レイがそんな風に思っていると、やがて時間になってそれぞれが自分の席につく。
そして教官や教師の纏め役の人物から、諸々の注意事項や連絡事項が伝えられる。
……昨日の放課後の件であったり、アルカイデの元取り巻き達が教官を辞めたという話であったり、今日から模擬戦においてセトが参加することになるなど、レイに関係することが多かったが。
なお、そう言いながら纏め役の男の視線が何度もレイに向けられていたのだが、レイはその度に視線を逸らしていた。
マティソンがいない件については、特に触れられることもないまま、朝の会議が終わる。
教師達はそれぞれに自分の授業を行う為、職員室を出ていく。
レイを始めとした教官組も、模擬戦用の訓練場に向かうのだが……
「なぁ、レイ。セトを迎えに行くんだろう? なら、俺も一緒に行ってもいいか?」
ニラシスがそう声を掛けてくる。
「それは構わないけど、ニラシスもセトと会うのは今日が初めてじゃないだろう?」
レイがダンジョンでニラシスと遭遇したのは、冒険者狩りの一件の時だ。
当然ながらその時、レイはセトと共にいた。
冒険者狩りの一件が終わってから、肉屋にも一緒に行っている。
その時にニラシスはセトと接している以上、わざわざセトを迎えに行くのを一緒に行く必要はないのではないかとレイには思えた。
「セトとちゃんと会いたいと思ってな。別にいいだろう?」
「まぁ、構わないけど。……ただ、他は遠慮してくれ」
ニラシスの言葉にレイが頷いた瞬間、他にも何人かが自分も一緒にセトを迎えに行きたいといった様子を見せていたので、レイは即座にそう告げる。
もし希望者が全員行くとなれば、それこそ大きな騒動になりそうだと思ったのが大きい。
実際にはもしそのようなことをしても、そこまで大きな騒動にはならなかったのだが。
職員室にいる教官の中でも、アルカイデやその取り巻き達はレイと一緒に行動したいとは思わない。
だとすれば、レイと一緒に行動したい……厩舎に行きたいと思うのは、それ以外の者達だ。
そしてアルカイデやその取り巻き以外の者でも、全員が是非ともセトを見に行きたいと思う者だけではない。
そもそもの話、訓練場で待っていればセトがいずれやって来るのだから、無理にレイと一緒に行動をする必要もないのだ。
「じゃあ……行くか」
色々な視線を向けられるレイだったが、それらの視線は無視してニラシスと共に職員室を出ていく。
「なぁ、俺が言うのもなんだけど……よかったのか?」
レイに向けられている視線は、当然ながらニラシスにも向けられていた。
……いや、ニラシスの場合は上手いことやったということで嫉妬の視線を向けてくる者も多かった。
ただ、ニラシスもガンダルシアの冒険者としては、それなりに成功している方だ。
その類の視線を向けられることは珍しくはない。
その為、ニラシスはそのような視線を向けられつつも、特に気にした様子もなくレイと共に立ち去る。
レイとニラシスがいなくなった職員室では、そんな二人の様子を羨ましく思う者達がそれぞれ愚痴を言い合うのだった。
「あ……」
ニラシスと共に厩舎の前までやってきたレイ。
そんな二人を見て、厩舎の前にいた三人の冒険者のうち、リーダー格の男……朝、レイと話した男の口から、そんな声が漏れる。
先程この場から立ち去ったばかりのレイが戻ってきたのだから、一体何故? とそんな疑問を抱いてもおかしくはない。
「ん? 何だ、あの三人は」
そしてレイと共にやって来たニラシスは、厩舎の前にいる三人を見てそんな言葉を漏らす。
怪しむというよりは、疑問から出た言葉。
これは冒険者育成校の中にいる者達だったので……そして何より、自分達を見ても慌てて逃げるといったようなことがなかったので、怪しんだりはしなかったのだろう。
「この厩舎にはセトがいる。そうなると、妙なことを考える奴もいるかもしれないだろう? だから、そういう連中からセトを守る……いや、もっと正確にはセトからそういう連中を守るか? とにかくセトに妙なちょっかいを掛けないようにする為に、フランシスが雇った冒険者だ」
「学園長が……? まぁ、レイの件だと考えれば、学園長がそういうことをしてもおかしくはないか」
ニラシスが知っているフランシスという人物は、公明正大という言葉が相応しい人物。
そのようなフランシスが、セトを守る為だけにわざわざ冒険者を雇ったのだから、驚いてしまう。
とはいえ、レイはわざわざフランシスが交渉してまで招聘した人物だ。
そうである以上、便宜を図るのもおかしな話ではない。
何より、セトとの模擬戦はこの学校の生徒……これから冒険者として活動していく者達にしてみれば、間違いなく為になる。
そういう意味では、セトを冒険者育成校に連れてきて厩舎にいさせるというのも、決して単純な贔屓という訳ではない。
「来たばかりで悪いけど、セトを連れていく。早速模擬戦の授業があるからな」
レイにこう言われれば、三人組に否はない。
ギルドで依頼を受けた時も、レイからの指示はきちんと聞くようにと念押しをされているのだから。
これは依頼をしたフランシスからの要望であると同時に、異名持ちのランクA冒険者であるレイと揉めないように……もっと言えば、友好的な関係を築きたい、あるいは維持したいと考えているギルドからの指示でもあった。
何しろ、レイの噂を聞けば……あるいは冒険者育成校での模擬戦について聞けば、レイという存在を敵に回すのが一体どのような意味を持つのかは、容易に想像出来る。
そうならないようにと考えるのは、そうおかしな話ではなかった。