3686話
「じゃあ、今日はありがとう」
「気にするな、後処理はそっちがやってくれるんだから、それくらいなら構わない」
「……あら。じゃあ、また今度やって貰おうかしら」
訓練場で、フランシスはレイに向かってそう言ってくる。
その口調は冗談っぽいものだったが、レイを見る目は真剣だ。
レイの放つ本気の殺気を感じる。
これについては実際にフランシスも体験してみたが、かなり強烈な殺気だった。
フランシスも相応に自分の技量には自信があるし、今はもう活動していないが、ランクB冒険者だった過去もある。
そんなフランシスであっても、レイの殺気を感じた瞬間に動けなくなった程だ。
もしレイと敵対した場合、殺気を放たれただけで、それ以上動けなくなり、それはつまり死ぬしかないという事を意味していた。
だが……そんな殺気だからこそ、生徒の冒険者達に体験させる意味があるとも思える。
レイの殺気を感じ、それに慣れることが出来れば冒険者としての大きなメリットとなるだろうことは間違いないのだから。
勿論、それがそう簡単なことでないのは明らかだ。
何しろ実際にレイの殺気を受けた者の多くが気絶してしまったのだから。
寧ろ最初だというのに、何とかレイの殺気に耐えられた生徒達の方が特別なのだろう。
何しろアルカイデの元取り巻き達は、レイの殺気によって全員が気絶したのだから。
それを思えば、立ってはいられなかったものの、それでも気絶しなかったセグリットの仲間の女三人ですら、大したものだった。
「やってもいいが、何度も殺気を受けて気絶したりすると、癖になるぞ」
柔道やレスリングといった格闘技にある絞め技により、気絶することは珍しくない。
だが、何度も絞め技によって気絶をしていると、身体がそれに慣れて気絶しやすくなるのだ。
殺気を放たれるのと絞め技では少し……いや、大分違うものの、それでも気絶という結果は同じだ。
であれば、気絶慣れをして気絶しやすくなってもおかしくはないというのがレイの考えだった。
冒険者として活動する上で、例えば強力なモンスターと遭遇した時にその殺気や迫力、威圧、そんなものを喰らった瞬間気絶するというのは、自殺行為でしかない。
だからこそ、レイの殺気によって気絶しやすくなるというのはこの冒険者育成校の生徒として決して好ましいことではなかった。
「そうね。そうなると、上位のクラスだけにした方がいいかしら。希望者ということになると、今回のような結果になるかもしれないし」
フランシスが、気絶している生徒達に視線を向けてそう呟く。
ただ、倒れた者の中には上位のクラスの生徒もいる。
上位のクラスだからといって、その全ての生徒がレイの殺気に耐えられる訳ではない。
「まぁ、その辺は頑張れとしか言えないな。……ともあれ、用事は終わったようだし、俺はそろそろ帰るよ。この時間からとなると、ダンジョンには行けないな」
ミスティリングから取り出した懐中時計を使って時間を確認すると、既に午後三時をすぎている。
これからダンジョンに行っても、そこまで攻略を進めることは出来ないだろう。
一応、以前約束をしていたダンジョンの地図をマティソンから貰っているので、それを使えばある程度進むことも出来るが……やはり時間には余裕があった方が、レイとしてはやりやすい。
「レイにもダンジョンの攻略を頑張って欲しいとは思うけど、教官としても頑張って貰いたいところで……悩むわね」
「せいぜい悩んでくれ。……ああ、そうだ。今日の殺気の一件ではないが、高ランクモンスターと遭遇した時の為にセトを模擬戦の相手として連れてきたいと思ってるんだが、どうだ?」
「セトを……? まぁ、レイがいるのなら大丈夫だとは思うけど。……本当に大丈夫なのよね?」
「その辺は問題ないと思う」
実際、セトが模擬戦をやるというのは以前にも経験があった。
ベスティア帝国における内乱にレイが関与した時、レイが預かった遊撃隊に所属する者達は、セトとの模擬戦を行っている。
その時の経験から、セトが模擬戦をやっても何の問題もないというのがレイの予想だった。
「レイがそう言うのなら信じるけど……ただ、今回の件も考えると、模擬戦が出来るかどうか一度試してみた方がいいでしょうね」
フランシスにしてみれば、ここでセトに模擬戦をやってもいいとすぐに許可を出す訳にはいかない。
セトが本当に大丈夫なのかどうか……模擬戦を行えるのかどうかを確認する必要は絶対にあった。
「うーん、そうなると……ああ、そう言えばマティソンのパーティが一度セトと模擬戦をしてみたいとか言っていたな。なら試しにセトとマティソンのパーティで模擬戦をさせてみるか? それにどうせなら、その模擬戦を生徒達に見せても、それはそれで授業としてよくないか?」
「なるほど、それはいい考えね。実際に試してみることが出来るのは大きいわ。それにセトがどういう風に戦うのか、私も見てみたいし」
フランシスにとっても、セト……グリフォンというのはそれだけ興味深い存在なのだろう。
普通に生活をしていれば、グリフォンと遭遇するようなことはまずない。
だからこそ、自分の目でもしっかりとセトを見ておきたいと思うのはそうおかしな話ではなかった。
そんなフランシスの考えをレイは理解した訳ではなかったが、セトを見たいというのを断るつもりはなかった。
フランシスがセトを見て、それで可愛らしいと思えば、これから冒険者育成校にセトを連れてくるのが楽になるという狙いもそこにはある。
これからのことを考えると、セトが冒険者育成校に来やすい環境を作っておくのは、決して間違いではないのだから。
「もしセトを見てみたいだけなら、別に明日まで待たなくても、これから俺の家に来るか?」
「それは……どうしようかしら」
フランシスにとって、レイの言葉はかなり意外なものだった。
まさかレイがそういう風に誘ってくるとは思わなかったのだ。
とはいえ、その手の言葉を言われるのはこれが初めてではない。
フランシスもエルフだけあって顔立ちが整っている。
身体は……良く言えばスレンダー、悪く言えば貧弱といったものではあるが、それでもフランシスを口説こうとする者は今まで多くいた。
だからといって、そのような誘いに簡単に乗るつもりはなかったが。
「今くらいの時間なら、ジャニスもセトの相手をしているか、それとも料理の準備をしているかだとは思うし」
「……そ、そうね」
レイに対して何とかそう返しながら、フランシスの頬が急速に赤く染まっていく。
それは羞恥の赤だ。
レイの言葉から、てっきり自分に言い寄っているのだろうと、そう思っていたのだが……それが完全に自分の勘違いであったと理解してしまったのだから。
(助かった)
心の底から、そう思うフランシス。
もしここで何かそれらしいことを言っていれば、それこそここから全速力で逃げ出していただろう。
これ以上ないくらいに独り善がりで自分がレイに口説かれていると思ったのだから。
もっとも、これはフランシスの思い込みだけが理由ではない。
客観的に見て美人と評するに相応しい顔立ちのフランシスに対し、これから自分の家に来るかと誘ったのだから。
普通に考えれば、そういう誘いであると思ってもおかしくはないだろう。
せめてもの救いは、フランシスがそのように勘違いしたことをレイが全く気が付いた様子がなかったことか。
「ん? どうしたんだ?」
「い、いえ。何でもないわ。ただ、仕事がまだ終わってないから、今からレイの家に行くのは難しいなと思って」
そう言い、誤魔化す。
とはいえ、フランシスが口にした言葉は全てが完全に嘘という訳でもない。
実際に部屋にはまだ目を通していない書類がそれなりに残っているのだから。
その書類は絶対に今日中に片付けないといけない訳ではないものの、それでも出来るだけ早く片付けた方がいいのも事実。
「そうか。そうなると、やっぱり明日、セトを見るという方がいいか? もしくは、フランシスの今日の仕事が終わってから俺の家に来てもいいけど」
「そう……ね。じゃあ、夕方くらいにはなると思うけど、レイの家に行かせて貰おうかしら」
ここでフランシスが明日ではなく、実際にレイの家に行ってみるという選択をしたのは、一連のやり取りが大きな理由となったのは間違いない。
それなり以上に負けん気の強いフランシスだけに、ここでレイの家に行かず、明日セトを見るというのは何となく負けた気分になってしまう。
それが嫌だったので、フランシスは今日仕事を終えてからレイの家に行く事にしたのだろう。
今すぐではなく仕事を終わらせてからなのは、書類仕事をやる必要があるというのもあるが、レイの殺気を間近で受けた一件や、自爆した件といった諸々で少し混乱しているので、それを落ち着かせるという意味もあったが。
「分かった。なら、待ってるよ。家の場所は分かるんだよな?」
「当然でしょう。そもそも、誰があの家を用意したと思っているの? それに学校のすぐ近くなんだから、わざわざ迎えに来たりとかもしなくていいわよ」
「分かった。なら、そういうことで」
そうして言葉を交わすと、レイは訓練場から出ていく。
その際、アーヴァインとイステル、ザイードの三人がハルエスに話し掛けているのを横目で見たが、それについてはレイも特に気にしない。
レイにしてみれば、ハルエスがパーティを組めるのならここで自分が何かを言ったりする必要はないと思ったからだ。
……だからこそ、気が付かなかったのだろう。
レイとフランシスが話しているのを、イステルがこっそりと見ていたのを。
そしてレイがいなくなってから、イステルはハルエスから離れて、フランシスに向かって歩き出すのにも、当然気が付かなかった。
「えっと、学園長がですか?」
ジャニスはレイの言葉に驚いた様子を見せる。
当然だろう。まさか学園長のフランシスがこの家に来るというのは、ジャニスにとっては予想外だったのだから。
「ああ。セトを見る為にな、これでセトが問題ないと判断されれば、明日からセトを冒険者育成校に連れていけるようになる」
「それは、おめでとうございます」
「祝われるようなこと……か? まぁ、セトもずっと庭にいるよりは、冒険者育成校に来た方が楽しめるだろうけど」
普通なら、グリフォンのようなモンスターと遭遇したら、多くの者が怖がる。
ただ、セトの場合はレイの従魔であるという話が広まっているので、街中でセトを見ても驚きはするものの、怖がる者は少ない。
もっとも、それはあくまでも少ないであって誰もいないという訳ではないのだが。
また、レイの住んでいる家と冒険者育成校、ギルド、ダンジョンがそれぞれ近い場所にあるというのも、この場合は影響しているのだろう。
セトを一般人の目にはあまり見せないという意味で。
……ただ、レイは普通にセトを連れて街中を歩いていたりするが。
この辺はまだそこまで大きな騒ぎになっていないというのと、何より他の冒険者と一緒になって動くことも多いので、それによって騒動が起きていないという点が大きいのだろう。
それ以上にセトが人懐っこく、多くの者達がセトを見ても驚かずに愛らしいと思うのが影響しているのだろうが。
「そうですね。……では、今日の夕食はいつもより豪華にしますか?」
「そうだな。その辺は任せる。追加の金はいるか?」
食費としてそれなりの金額をジャニスに預けているレイだったが、豪華な食事ということで何か追加の食材を買ってくる必要があり、それを買う為に追加の金が必要かと尋ねるが……
「いえ、問題ありません。まだレイさんから預かった金額にはかなり余裕がありますので」
「……そうか?」
レイとしては、そこまで多くの金額を渡しているという認識はない。
何しろ、レイは稼いでいる金額が普通ではない。
特に盗賊狩りは場合によってはかなりの稼ぎとなる。
そんなレイだけに、金遣いは荒い。
ミスティリングがあるので腐らないとはいえ屋台で大量に購入したり、それこそ食堂で鍋一杯のスープや十人前以上の料理を纏めて購入したり。
他にも、マジックアイテムを集める趣味を持つレイだったが、当然ながらマジックアイテムは高価だ。
……いや、マジックアイテムの中には安い物もある。
例えば、火付け用の、レイの認識だとライターに近いような物であったり、明かり用のマジックアイテムであったりすれば、そこまで高くはない。
勿論、それはあくまでもレイの認識だが。
ともあれ、そのような安いマジックアイテムと違い、レイが欲しているのは基本的に高額だ。
その辺についても、レイの金銭感覚が一般の人と違うのは明らかだろう。
本人はその辺に気が付いていない様子だったが。