3619話
アルカイデとその取り巻きがいなくなると、マティソンは気分を変えるようにレイに向かって口を開く。
「さて、じゃあ次の模擬戦の授業は二組となります。時間になったらここに集まってきますが、それまでレイさんはどうしますか? 休憩時間が終わるまで、まだもう少しありますか」
「そう言ってもな。まだもう少しと言っても、そこまで余裕がある訳じゃないんだろう?」
これが例えば、一時間近くあるのなら昼寝くらいはしてもいいし、校舎の中を見て回ってもいい。
だが、具体的にどのくらいの時間で次の授業が始まるのか分からない以上、そのような余裕はない。
レイの認識としては、冒険者育成校は高校というイメージがあるので、休憩は十分くらいという認識だったが。
ただ、それが正解かどうかも分からない。
「そうですね。時間的にはもうそろそろだと思います」
「なら、今から特に何かやったりは出来ないだろう。……けど、そうだな。ほら、これでも食べて休むとしよう」
そう言い、レイはミスティリングから果実を取り出す。
去年の夏に購入した果実だったが、ミスティリングに収納されていたので、採れたてのような瑞々しさを持っている。
「これは……いいのですか?」
「別にそう高いものじゃないし、気にするな」
レイの言葉は合っているが、ある意味では間違っている。
夏が旬のこの果実は、夏に購入しようと思えば安いだろう。
だが、夏以外の季節……旬の季節以外に購入するとなると、相応に高くなる。
いわゆる、需要と供給だ。
そして今は春で、当然ながら夏に旬を迎えるこの果実を購入しようとした場合、秋や冬よりも高くなる。
……あるいは、何らかの方法で早く実らせるといった技術を使って、春にこの果実を収穫出来るようになったとしても、それはそれで値段は高額になる。
勿論、マティソンはダンジョンの中でもトップ層の一人だ。
当然結構な額を稼いでおり、この果実を購入するくらいは出来る。
だが、そのような果実をレイからこうも簡単に渡されるとなると、そう簡単に貰ってもいいのか? と思うのは事実だった。
「ですが、高かったのでは?」
「いや、去年の夏に購入した奴だしな。アイテムボックスの効果は知ってるだろ?」
そう言われると、マティソンも事情を理解する。
レイが言うように、この果実は去年の夏……安い時に購入したものなのだろうと。
「そうでしたか。では、ありがたく」
そう言い、マティソンは果実に齧りつく。
まずは皮の側の果肉の甘さが口の中に広がり、次に種に近い場所にある酸味のある甘さが続く。
最初の一口は甘すぎると思うが、それを酸味のある甘さが緩和してくれるのだ。
……いや、それは緩和という表現は相応しくない。
相乗効果というのが正しいだろう。
強烈な甘みと酸味のある甘み。それが口の中で渾然一体となるのだから。
「美味しいですね」
「旬の時に購入した奴だからな。やっぱり何でも旬の食べ物が美味いんだよ」
「そうですね。もっとも、旬だからといってそればかり食べていると、飽きてきますが」
「だろうな」
それはレイにも経験があった。
とはいえ、エルジィンではなく日本でのことだが。
レイの家は野菜農家をしているのだが、野菜の収穫が始まると当然ながら傷ついていたり、虫食いがあったり、出荷するサイズになっていなかったり……といったように、出荷出来ないものが出てくる。
そうなると、当然ながらそれは自分の家で消費したり、あるいはその野菜を育てていない近所に配ったりするのだが、どうしても割合は自分の家での消費の方が多い。
つまり、特定の野菜を使った料理が大量に出てくるのだ。
……それでも消費しきれない野菜は、最終的に捨てることになるのだが。
あるいは、父親の飼っている鶏の餌になるか。
とにかく、旬になると飽きるというのはレイにとっても非常に納得が出来ることだった。
「けどミスティリング……このアイテムボックスだが、これがあればこの果実みたいに旬の時に大量に買っておいて、後で食べたくなったら食べるとか出来るんだよな」
「羨ましいですね。それに、ダンジョンを潜る際にも非常に便利でしょう?」
真っ先にダンジョンでの利便性について考えるのは、それだけマティソンが教官よりも冒険者を重視しているからだろう。
「そうだな。食料とか飲み物とか、野営道具とか。それ以外にも様々な物を持っていけるし」
レイの場合は、ミスティリングに大量の食料があるし、果実水の類も大量にある。
また、流水の短剣を使えば天上の甘露と呼ぶに相応しい水を生み出すことも出来る。
それだけでも、マティソンにしてみれば羨ましいことだ。
ダンジョンを攻略する場合、ミスティリングのような物がなければ、あるいはエレーナが持っているような簡易版のアイテムボックスがなければ、リュックや荷台を使って必要な物資を運ぶ必要がある。
だからこそ、レイの家にやってきたようなポーターのハルエスのような者達もこの冒険者育成校に通っているのだ。
もっとも、ハルエスの場合はポーター以外に能力を磨いてこなかったのが影響し、パーティが解散した後でどこにも拾って貰えなくなっていたが。
「マティソンのパーティでは、ポーターは専任でいるのか? それとも臨時で雇ってるのか?」
「専任でいますよ。ダンジョンの深い場所に向かうと、ポーターは絶対に必要ですし。ただ、生徒達にしてみれば、ポーターはあまり……」
「ああ、それは聞いている」
浅い階層にしか潜れない生徒達にしてみれば、ポーターというのはそこまで重要な存在ではないのだろう。
勿論、そのポーターが純粋なポーターではなく、ある程度の強さを持っているのなら話は別だが……それでも、やはり本職の戦闘職には敵わない。
だからこそ、酷い者になるとポーターを寄生扱いする者もいる。
マティソンからそう説明されると、レイの表情が不愉快そうに歪む。
「ここは冒険者育成校なんだから、その辺についてもしっかりと教えた方がいいんじゃないか? 何だか話を聞いたところだと、ここの生徒達が冒険者になってから問題が起きるように思えるけど」
「私や他の教官、教師達もその辺については説明してるのですが、それでもやはり実感がないとポーターの重要性は分からないのですよ」
「……一応聞くけど、本当に大丈夫なのか、この学校?」
レイの言葉に、恥ずかしそうな様子を見せるマティソン。
教官をしている身として、生徒の言動を恥ずかしく思ってしまうのだろう。
そうしてレイ達が話をしていると、やがて生徒達が訓練場に姿を現す。
(二組の生徒……つまり、一組よりは下だけど、全体で見れば精鋭なのは間違いないか)
そう思いながら生徒達の様子を見たレイだったが、少しがっかりする。
身体の動かし方から考えると、四組の生徒とそう違いはないと思えたからだ。
いや、それどころかセグリットの方が強さや才能という点では上だろう。
「これが本当に二組の生徒なのか?」
「そうですよ。……レイさんが何を言いたいのかは分かりますが、口には出さないで下さい」
レイが何かを言うよりも前に、それを押さえるようにマティソンがそう言う。
マティソンも、セグリットのような才能に溢れる生徒を見た直後だけに、レイが何を思っているのかは理解しているのだろう。
だからこそ、レイが何かを言うよりも前に黙らせたのだ。
もっとも、レイにそれ以上言わせなかったのは、他にも理由があるが。
「何人か獣人がいるな」
「はい。獣人は五感が普通の人間よりも鋭いですから」
「なるほど、それでか」
五感が鋭いということは、つまり聴覚が鋭いということでもある。
レイとマティソンの会話が聞こえる可能性は十分にあった。
「はい。……勿論、生徒としても十分に才能はあるので、その辺は楽しみにしていて下さい」
それはリップサービスなのか?
そう聞きたくなるのを、レイは我慢した。
獣人達の視線が、自分達に……より正確には自分に向けられていると理解出来た為だ。
もっとも、獣人の身体能力が高いのは事実。
そうなると、普通よりは才能があるのは間違いないだろう。
実際、二組にいるのだからそれは間違いない。
だが……レイから見れば、やはりセグリットを見た後だけに、才能という点では劣ってしまう。
(才能……そう、あれはやっぱり才能だよな)
今はまだ未熟だ。
それは間違いないが、その才能はかなりのものがある。
それこそ今はまだ弱いが、このまま生き残ればいずれは一流を越えた一流、超一流と呼ぶに相応しい実力の持ち主になってもおかしくはないだろう程に。
「その、マティソン教官。そちらがその……深紅のレイ様でしょうか?」
育ちのよさそうな女が、レイに視線を向けながらマティソンに尋ねる。
レイが教官をするというのは、以前から聞いていた。
それで四組の生徒から聞いて、もしかしたら……と、そう思ったのだろう。
四組の生徒から聞いて、それでもレイだと確信出来なかったのは、やはりレイが小柄なのが影響していた。
これでデスサイズを持っていたり、近くにセトがいたりすれば、それをレイだと認識は出来たのだろうが。
「ああ、そうだよ。この人が深紅のレイさん。今日から模擬戦の教官としてこの学校で働いて貰う」
その言葉に、尋ねた女……だけではなく、周囲で話を聞いていた他の面々もレイに向かって驚きと好奇心の……そして中には信じられないといった様子や、好意的な、もしくは侮りの視線を向けてくる。
そんな様々な種類の視線を向けられたレイは、どう反応すればいいのか少しだけ迷う。
迷うが、取りあえず自分に向かって視線を向けている者達を見れば、何か話をしなければならないだろうというのは容易に予想出来た。
「冒険者のレイだ。今日から暫く……具体的にはいつくらいになるかまでは、まだちょっと分からないが、この学校で模擬戦の教官をやる事になった。とはいえ、俺もマティソンと同じく冒険者としての行動に比重を置いているから、ダンジョンの攻略の為に模擬戦の時にいなかったりすることもあるから、それは理解しておいて欲しい」
レイの言葉に、話を聞いていた者達の中でもそれなりの者達が残念そうな様子を見せる。
レイのような有名人を相手に、自分の実力を磨くこれ以上ない機会だと思う者もいるのだろう。
ただし、先程レイに侮りの視線を向けてきた者がいるように、中にはレイの噂が大袈裟すぎると思っているのか、自分ならレイを倒すのは難しくないといった様子を見せている者もいる。
レイもそのような相手には気が付いているのだが、取りあえず今はまだ問題がないので放っておく。
これが自分に絡んでくるようなことがあれば、相応の対処をするつもりではあったが。
幸いなことに、そのような様子はない。
……それが誰にとって幸いなのかは、微妙なところだが。
「その……もしよろしければ、私と模擬戦をして貰えないでしょうか?」
最初にマティソンに声を掛けた女が、そうレイに言う。
その瞳にあるのは、憧れと好意。
レイは目の前の女とは初対面なので、何故自分がそのような視線を向けられるのかは分からない。
分からないが、それでも何となく予想は出来てしまう。
恐らく噂や吟遊詩人の歌で深紅について知り、それで憧れたのだろうと。
(参ったな)
噂だけを聞いて自分に憧れの視線を向けてくる者は、レイにとってそう珍しいことではない。
実際、その憧れから自分のパーティを追放されてでもテイマーになった者も、レイは知っている。
だが……それでも、やはりこうした視線を向けてくる相手には、レイも思うところがあった。
「一応言っておくが、俺に憧れているからといって手抜きをしたりはしないぞ?」
「構いません。……いえ、寧ろ手抜きをされる方が、レイさんの力を実感出来ないという意味で、どうかと思いますから」
その言葉に、レイはマティソンに視線を向ける。
するとその視線を受けたマティソンは、少し考えた後で頷く。
「お願いします、レイさん。彼女は二組の中でも腕利きで、近いうちに一組に上がると言われています。それだけに、レイさんの実力を知りたいのでしょう」
レイのファン云々というのは口にせず、そう告げる。
マティソンにそう言われると、レイもまた即座に断るということは出来なくなる。
(まだ何人か、俺の実力について疑ってる奴がいる以上、ここで俺の実力を見せておいた方がいいのか。……というか、四組の時もそうだったが、他のクラスでも全部同じようにやらないと駄目なのか?)
そう考えると、微妙に面倒な思いがあったが……教官という仕事を引き受けた以上、それは仕方がないと判断するのだった。