3612話
「さて、いよいよ今日からか」
ジャニスに見送られて家を出たレイは、空を見上げる。
そこには五月晴れといった表現が相応しい天気が広がっていた。
まるでレイが教官として活動するのを、喜んでいるかのような……そんな天気。
「グルゥ」
そんなレイを見送ろうとしたのか、セトも庭から喉を鳴らす。
昨日レイがお土産として買ってきた諸々……特に果実入りのジュースは、セトにとっても嬉しかったのか、もっともっとと催促された程だ。
レイにしてみれば、美味いジュースだとは思ったものの、セトがそこまで気に入るとは思わなかった。
結局また今度買ってくるということで、何とかセトを納得させたのだが。
「じゃあ、行ってくる。セトは家の守りを頼んだぞ」
「グルルルゥ!」
レイの言葉に、任せてと喉を鳴らすセト。
自宅警備員……ふとそんなことが思い浮かんだレイだったが、セトのことを思えば取りあえずそれ以上は考えないでおく。
セトを一撫でしてから、冒険者育成校に向かう。
現在の時間は、午前七時程。
日本においては学校に行くなり、会社に行くといった時間だろう。
ただ、このエルジィンにおいては既にそれなりの時間となっている。
その為、冒険者育成校に向かう生徒も既に大半がもう登校しており、道にいる生徒は少ない。
もっとも、レイの借りている家は冒険者育成校からそう離れていない場所にある。
昨日ギルドの帰りにはお土産を買う為にわざわざ遠回りした程だ。
そんな訳で、もしまだ通学中の生徒がいても、それを見つけるのは難しかっただろう。
(いや、でも冒険者育成校はあくまでも未熟な冒険者を鍛える為の学校だったよな? だとすれば、低ランク冒険者なら通える筈だ。そして世の中にはそれなりの年齢の低ランク冒険者もいる筈だ)
何らかの理由で、ある程度年を取ってから冒険者になった者。
あるいは単純に才能がなくてずっと低ランクの者。
他にも色々と理由はあるだろうが、低ランク冒険者でも相応の年の者がいてもおかしくはない。
そのような者達であっても、冒険者育成校に通ってもおかしくはない。
もっとも、そういう者の場合は周囲が若い者ばかりで自分だけが年上となり、やりにくいかもしれないが。
そんな風に考えながら歩いていると、すぐに冒険者育成校に到着する。
正門までやって来ると、そこにはまだそれなりに人の姿があった。
しかし、レイはそんな周囲の様子を物珍しそうに見る。
周囲の生徒達は低ランク冒険者ということもあってか、レイの実力を見抜けるだけの者はいない。
そのような者がおらず、セトがいないレイは、ドラゴンローブの隠蔽の効果もあって、生徒の一人にしか思われない。
……もっとも、レイが教師や教官用の玄関に向かったことに気が付いた者が何人かいたのだが。
そして生徒の中には、親切心から声を掛ける者もおり……
「おい、ちょっといいか? そっちは教師とか教官用の玄関で、生徒はこっちだぞ」
その生徒が親切心から声を掛けてきてくれたのは明らかだった。
その相手に何かを言おうとしたレイだったが……
「あ、お前……」
その相手が見覚えのある人物だったことに驚く。
レイに声を掛けたのは男。
その男の周囲には三人の女がいる。
……そう、それはレイがガンダルシアに向かう途中、馬に乗った貴族達に追われていた四人だった。
「ん? どうかしたか?」
レイに声を掛けた男は、レイのことに気が付いた様子はない。
やはりセトの印象が強かったことと、ドラゴンローブの隠蔽の効果によるものなのだろう。
あるいは、腕の立つ相手だった以上、もしガンダルシアにいるとしても、ダンジョンに潜っているのではないかとでも思っているのかもしれない。
とにかく、レイを見てもその男がレイのことに気が付く様子はなかった。
(それにしても……)
レイは改めて男を見て、少し疑問を抱く。
レイは防具を見る目は決して高くはない。
マジックアイテムや槍といった武器ならともかく、防具についてはあまり触れる機会がない為だ。
しかし、そんなレイの目から見ても男の防具は一流の品……とまではいかないが、一流半といった程度の品だ。
具体的には、ランクDやランクCのようなベテラン扱いの冒険者が着るような金属鎧。
とてもではないが、冒険者育成校に通う低ランク冒険者、あるいは冒険者になったばかりの者が着るような装備ではない。
(もしかして、あの貴族達に追われていたのは、その辺が気に食わなかったからというのもあるのか? 他にも、女目当てという可能性は否定出来ないけど)
男の周囲にいる三人は、以前見た時も思ったが、顔立ちが整っている。
貴族達が少しちょっかいを出したい相手と認識されても、それはおかしくない。
「ん? どうした? ほら、俺達生徒は向こうの玄関だ。遅刻したら怒られるぜ? といっても、俺達も昨日から通ってるから、まだ色々と詳しいことは知らないんだけど。こっちに間違って来たって事は、お前も入学したばかりなんだろう?」
「あー……その、だな。何と言えばいいか」
親切心から言ってきているのは明らかである以上、どう反応すればいいのかレイも困る。
これが例えば、馬鹿にするような感じで言ってきたのなら、レイも外見から侮られることには慣れているので、対処はしやすいのだが。
どうするべきか迷っていると、丁度レイが入ろうとしていた玄関から、こちらも見覚えのある人物が顔を出す。
「あ、レイさん。ここにいたんですか。そろそろ校長室に……えっとこれは?」
最初はレイの姿を見つけて声を掛けたマティソンだったが、レイの側に四人の男女がいるのに気が付くと、少し戸惑った様子を見せる。
雰囲気が悪ければ、喧嘩にでもなっているのかと思ったかもしれないが、特にそのような雰囲気ではない。
「えっと、君は確かセグリット君だったか。どうかしたのかい?」
マティソンがレイと話していた男に声を掛ける。
だが、セグリットと呼ばれた男は少し戸惑った様子でレイとマティソンを見比べていた。
その戸惑った様子の一つには、マティソンが自分を呼び捨てにしたのに、目の前の男にはさんづけで呼んでいたというのがある。
「その、この人が玄関を間違っていたようだったので、生徒用のはあっちだと教えようと思っただけです」
「そうです。特に何か問題になるようなことはしていません」
セグリットの言葉に、近くにいた女が擁護するように言う。
マティソンはそんな二人の言葉を聞いて驚き、次に困ったように笑う。
マティソンは冒険者育成校の教官を任せているだけあり、相応に腕が立つ。
それこそ、レイを見て自分よりも圧倒的な強さを持つと理解出来るくらいには。
だからこそ、レイが教師や教官の使う玄関にいるのを見ても、特に不思議には思わない。
しかし、そのような能力がない者達にしてみれば、小柄なレイは生徒だと認識してもおかしくはないだろうと思い知った為だ。
「その、君達は勘違いしているようだけど、この人……レイさんはこっちの玄関でいいんだ。彼は生徒じゃなくて教官だからね」
「……え?」
マティソンの言葉が理解出来ず、セグリットはレイを見る。
そんなセグリットに、レイは少しだけ申し訳なさそうにしながら口を開く。
「悪いな、そんな訳で俺は生徒じゃなくて教官なんだ。だからこっちの玄関で間違ってない」
「えっとその……それは……その、ごめん。あ、いや。すいませんでした」
レイが教官であるというのが、余程意外だったのだろう。
少し戸惑いつつ、セグリットはレイにそう言う。
「いや、別に謝らなくていい。親切心で声を掛けてくれたんだろうし。それより、ほら。もう他の生徒達も殆どいなくなった。早いところ教室に向かった方がいい」
「あ、はい。その……じゃあ、失礼します」
レイの言葉で、セグリットは周囲に自分達以外の生徒が誰もいないことに気が付いたのだろう。
慌てたようにレイに頭を下げると、他の三人の女達と共に生徒用の玄関に向かう。
「それにしても……まさか、レイさんが生徒に間違われるとは」
セグリット達がいなくなったところで、マティソンが少しだけ面白そうに言う。
マティソンにしてみれば、レイは一目で自分よりも圧倒的に格上の存在だというのが分かる。
まさか、そんなレイを生徒と間違うとは……と。
「俺はこの外見だからな。それで色々と言われることは多いから、特に気にしてないよ。特にあのセグリットだったか? あいつは別に悪意から声を掛けてきた訳じゃなくて、あくまでも俺の為を思って声を掛けてきたんだし。……それより行くぞ」
そう言うレイに、マティソンは大人しく従う。
校舎の中に入って校長室に向かう途中、丁度いい機会だからということでレイはマティソンに尋ねる。
「マティソンは教官をしながらダンジョンを攻略してるって話だったけど、パーティでだよな?」
「そうですね。ソロは……まぁ、そういう人もいるでしょうが、私にはちょっと」
「だろうな」
ダンジョンに限らず、冒険者として活動する上で普通はパーティを組む。
偵察役や戦闘役、防御役、治療役、運搬役……他にも多数の役目をこなす必要がある。
パーティを組んでいれば、その役目をそれぞれに割り振ったりも出来るが、ソロで行動すれば一人でそれら全てをどうにかする必要があった。
レイもかつてはソロだったし、パーティを組んでいる今もガンダルシアにいるのはレイだけである以上、ソロで活動するしかない。
ただ、レイの場合はミスティリングを含めて多数のマジックアイテムを持っているし、ソロで活動はしているものの、従魔のセトもいるので本当の意味でソロという訳ではなかった。
「ちなみに、そのパーティは固定のパーティだよな?」
「ええ、そうですよ。ダンジョンの深い場所に潜る以上、見ず知らずの人達と一緒に行動するのは危険が大きいですし。それに臨時のパーティとなると、実力が分からないというのもありますから」
「だろうな」
これが浅い場所での探索なら、見ず知らずの相手とパーティを組んでも、何かあった時はすぐに対処出来る。
だが、これがダンジョンの深い場所となると、いざという時の対処が難しい。
だからこそ、マティソンは固定のパーティでダンジョンに潜っているのだろう。
(となると、俺がマティソンと一緒に行動するのは無理か)
相手がマティソン一人ならともかく、パーティ……それも固定パーティでの活動となると、レイもそこに自分が入りたいとは言えない。
「レイさんはやっぱりソロで潜るのですか?」
「そうなりそうだな。正確には俺とセトだけでだが。地図のない場所を行動出来る案内人とかが欲しいとは思うけど」
「ああ、なるほど。ギルドで売っている地図は途中までですしね」
レイが何を言いたいのか分かったマティソンだったが、ふと何かに気が付く。
「レイさん。私達のパーティは最前線とまではいきませんが、ギルドで売られている地図の階層よりも先に進んでいます」
「らしいな」
「それで当然ですが私達が行動する上で地図を用意していますが、この地図をレイさんに譲渡しても構いません」
「……売るのではなく、譲渡か?」
「はい。ただ、その代わりいざという時、何かがあった時に助けて欲しいのです」
「なるほど。上手いことを考えたな」
マティソンの提案に、レイは感心する。
マティソン達のパーティにとって、ギルドで売っていない階層の地図というのは、それなりに貴重な物ではあるが、唯一無二という訳でもない。
ダンジョンの攻略を熱心に行っているマティソン達だが、同じようにダンジョンを攻略している者は多数いるのだから。
また、現在ダンジョンの最下層を進んでいるのも、マティソン達ではない。
ガンダルシアにいるパーティの中でダンジョンの攻略を行っている者達の順位を考えると、マティソン達は十位以内に入るかどうかといったくらいだ。
それだけに、マティソン達が持ってる地図は他にも幾つもある。
……それどころか、より詳細な地図を作っているパーティもいるだろう。
そのようなパーティのことを考えれば、マティソン達にとって地図はレイとの取引に使ってもおかしくはなかった。
寧ろ、その地図を使うことによって深紅のレイという、現在このガンダルシアにおける最強の戦力の助力を得られるのだから、それは決して悪い話ではない。
いや、取引のトータルで考えれば、圧倒的なまでのプラスだろう。
レイもマティソンの考えていることは分かったが、それでもギルドで入手出来ない階層の地図を貰えるのは嬉しい。
そんな訳で、レイはマティソンに向かって笑みを浮かべてその取引を受け入れるのだった。